四. 世を見る力

 兄二人と、一番上の姉を相次いで失った慶広。


 通常であれば、悲しむか、あるいは自分が家督を継げるという事実に喜ぶところだが、彼は微動だにしないかのように、感情を押し殺していた。


 そして、冷静に「世の中」を見ることに勤めたのだった。


 永禄の当時。まだ中央では三好氏が権力を握っており、尾張の織田信長が、駿河の今川義元を桶狭間の戦いで破って、ようやく頭角を現したところ。


 東に目を転じれば関東では北条氏、武田氏、上杉氏の三つ巴の戦いが続き、奥州に伊達氏、中国に毛利氏、四国に長宗我部ちょうそかべ氏、九州に島津氏、大友氏、龍造寺りゅうぞうじ氏が台頭してきたが、まだ絶対的な権力は持っていなかった。


 世はまさに「群雄割拠」を呈しており、誰が覇者、つまり天下人になるのかわからない有り様。


 そんな中、中央からは遠く離れているこの蝦夷地は、「天下」とは全く関係ないどころか、こんな辺境の地にわざわざ攻めてくる戦国大名もいない。その上、こちらから攻めるには、広大な津軽海峡を越えないといけない。


 完全に隔絶された世界ながらも、蠣崎氏を唯一苦しめていたのは、安東氏だった。


 立場的には、安東氏の「被官」、つまり家臣扱いのため、何かあれば安東氏から指令が飛んでくる。


 それが出陣の催促でも、年貢代わりとなる魚介類を収めることでも、蠣崎氏は逆らえないのだ。


 その上、当時の安東氏を率いていた安東舜季ちかすえという男は、文武に秀で、秋田郡・檜山郡・由利郡などを版図に収めて羽後(出羽北半)最大の大名となっており、彼は、「斗星(北斗七星)の北天に在るにさも似たり」と評されたほどの名将でもあった。


 父・季広は、残った三男・慶広を殊の外、大事に扱ってくれたが、権力は依然として保持しており、おまけに質実剛健な彼は、衰えを見せず、長く当主の座を譲ろうとしなかった。


 だが、慶広は不満一つ漏らさずに、冷静に中央や近隣の情勢を見て、父に献言をするのだった。


「父上。安東氏にいつまでも従っていては、蠣崎は決して大きくはなれません」

 ある時、父に対し、彼が放った一言がそれだった。


 大館の大広間で、他の家臣たちが集う中、彼は進言するのだった。

「それはわかるが、いかにすると言うのだ」


「簡単なことです。婚姻です」

「婚姻だと?」


「はい」

 あくまでも冷静に、世の中のことを捕らえている、「天才丸」はこの婚姻の力が絶大なことを、先例から知っていた。


 奥州最大の戦国大名にして、守護大名の流れを組む、伊達氏。その伊達氏は、周辺諸国の大名との婚姻によって、勢力を拡大している。


 つまり、同じように、

「我が蠣崎も、伊達氏と同じように、奥州の周辺大名と婚姻をなさればよろしいでしょう。幸い、父上には大勢の娘がいます」

 と持ちかける。そして、事実、蠣崎季広には大勢の子供がいた。

 確認できるだけでも、男子13人、女子13人。合計26人もの子供がいた。


 戦国時代は、子孫の数が物を言う時代である。


「面白い」

 父の破顔する表情を確認した慶広は、早速、婚姻の算段をつけるべく、奔走した。


 蠣崎氏を大きくするための、計略を練る。そう。これも一種の計略だった。

 蠣崎氏の家臣はもちろん、主家筋の安東氏にもまるで「媚びる」かのように女子を嫁がせ、その一方では密かに奥州の各大名の元に使者を送り、婚姻政策を推し進めた。


 一番遠いところでは、伊達氏の家臣、喜庭きにわ氏に嫁いだ娘もいる。

 自害した長女の文、既に家臣の下国しもぐに師季もろすえに嫁いでいた次女を除く、計11人の女子が次々に婚姻。


 蠣崎氏の力はいつの間にか大きくなっていた。


 だが、慶広も、そして父の季広もやはり苦々しく思っていた。

 安東氏に対して、である。


 度々、兵役を命じてきており、それに対し、立場の弱い蠣崎氏は断れないどころか、蝦夷地から海を渡らないといけない兵役によって、自然と財力、国力を削がれるからだ。


 何とかしたい、と常々思いながらも、慶広はどうにも決定的な活路を見いだせずにいた。


 そんな時だ。


 慶広が、常々、中央の情報を探るために「派遣」して、一種の情報屋のようになっていた、蠣崎氏の御用商人が、京都から大変な情報を持ってきたのは。


 本能寺の変だった。


 天正十年(1582年)6月2日。京都、本能寺において、時の権力者、織田信長が家臣の明智光秀に討たれる。

 これは、「天下に最も近い」織田信長が倒れ、「決まりかけた」戦国時代の流れを根本から一変させるものだった。


 時流を、京都からの情報によって、常に掴んでいた慶広は、織田信長にも密かに使者を送っていたのだが。


「父上。信長公が討たれた今、世の中は大いに動きますぞ」

 父の季広の前で、生き生きとした表情を浮かべ、慶広は告げていた。


 そして、そんな息子の姿を見て、年老いた季広は、ようやく決意することになる。

「楽しそうだな、慶広」

「ええ、それはもう」


「決めた。わしは、そなたに家督を譲る」

「えっ」


 これまで散々延期になっていた、というよりもずっと権力を握り続けていた、あの父が突然、家督を譲ったことに、慶広自身が、一番驚いていた。


 何しろ、この時、慶広はすでに35歳の壮年。父の季広はもう76歳の高齢になっていた。

 戦国時代は、今と違って、結婚、出産、成長、死亡までのサイクルが速いし、寿命も当然短い。


 慶広は、もう自分が家督を継ぐことはない、と諦め、父を支え、蠣崎氏を大きくすることだけを考えていたからだ。

「誠にございますか? されど何故、今さら」

 目を丸くする慶広に、季広は、しわくちゃの頬を緩ませて、笑いながら言うのだった。


「天才丸。やはりわしの目に狂いはなかったということじゃ」

 こうして、蠣崎慶広は、戦国時代としては、異例中の異例とも言える、35歳で家督を継ぐことになったのだ。

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