始 動

 ……この毛織の黒ズボン。丁度だったはずなのに……胴回りが少し緩いな。

 立ち襟の白シャツのボタンを喉元まで留め、膝下まである革のブーツを履く。胴が詰まったシャツの上から太めの革のベルトを通し、銀の二重ふたえの輪に端をくぐらせ、緩く閉めた。ベルトには護身用の短剣を収めた革製の鞘と、ケスしか登録していない〈鳩〉が下がっている。

 明けて新年。心機一転――と、言いたい所だが、昨年末からの事件を引きずったままだ。

「……本当に、行かれるんですか?」

 私の後ろで、ガルさんが渋々広げた濃紺の上着は、ヘヴンリ家の正装だ。襟、袖、裾には、銀糸で刺した柊の刺繍。柊は国を守る者の象徴。そして銀は、ヘヴンリ家の〈想像能力者〉だけに許された色だ。

 この刺繍はガルさんが刺してくれた。筆で描いたかのような繊細さ。『想像』で生み出したものより遥かに価値がある――と、私は思っている。

 ガルさんのようになりたくて、家事の指南は一通り受けたが、自らの手で、ここまでうまくは作れない。

「顔を出さない訳にはいかないよ。大丈夫。今日は様子見。話を訊いてくるだけだから」と、上着に袖を通し、鏡の前で身を整えた。

 私の部屋は、元は客人用だった〈離れ〉にある。〈母屋〉とは渡り廊下で繋がっている。いかにも貴族の住まい、という〈母屋〉と違い、趣のある田舎屋風の造りだ。気取りのない、のんびりとした雰囲気が心地良い。子供の頃からのお気に入りだ。

 居間を挟んだ真向かいにはケスの部屋がある。以前はガルさんがその部屋のぬしだったが、私が〈想像師〉になってからは〈守護者〉であるケスに譲られた。

 外套を羽織って部屋を出ると、ケスは居間の長椅子に腰掛け、革の脚絆きゃはんの留め具を締め直していた。左部だけの革の胸当てを付け、腰のベルトには私と同じものが下がっている。

 厚手の生地だが伸縮性があり、腕や肩の部分にも少し余裕を持たせてあるのに、きちんと留めた白シャツのボタンと、後ろにきゅっと結んだ髪が、彼を窮屈そうに見せている。

 ケスは私と目が合うと、意外そうな顔をした。

「あれ……姫様、俺と同じだ……髪――」

「……? ……ああ、いつも結んでたから……」

 己の重さから解き放たれた私の髪は、くせ毛であったことを思い出し、やや波打っている。ガルさんが大きく咳払いをする。髪のことに触れるな、と、ケスに言っているのだろう。私は何も気にしてないのに。

「ケス、姫様の体調に気を掛けろ。おかしいと思ったら、無理矢理にでも連れて帰ってこい」

「……はっ、はい……!」

 ガラの悪い連中に囲まれても動じないケスが、蛇に睨まれた蛙の如く、ガルさんの前では、その圧に押されて固まっている。この光景、ケスには悪いが、私はちょっと楽しんでいる。

 彼がとても――可愛らしく見えるからだ。


 外に出たのは久しぶりだ。陽の眩しさに目を細める。ケスは隣を歩きながら、外套を羽織った。その革は変色し、裾に向かうにつれて、色は濃さを増している。

「それ……私の血か……?」

「え……ああ、そうです。洗っても落ちなかったみたいで――」

「着てて気持ち悪くないか? ガルさんに仕立て直してもらえばいいのに。頼みにくいなら私から話すよ」

「いえ、ガルさんにも、これでいいって言ってあるんです。これはその……自分への戒めとして持っていようと思って」

「戒めって……言ったろう? ケスは悪くないんだ」

 ケスは黙って首を傾けていたが、何かを思いついたようだ。

「じゃあ、こうしましょう。姫様を真似まねて、〈お守り〉にします」

「……! 血染めの外套を?」――予想外の答えに、思わず声がうわずった。

「姫様の〈お守り〉が俺の歯なんだから、姫様の血が俺の〈お守り〉でも構わないでしょう?」

 そう、首に下がるこの牙は――ケスの犬歯だ。

 獣人族は幼少期と思春期の二回、歯の生え変わりがある。これは二回目の時に彼にねだり、四本揃ったところで、ガルさんの手を借りて首飾りに仕立てたもの。だから、ケスの言い分に、素直に納得してしまった。

「あ、なるほど、確かに。それじゃあ、がんを掛けてあげるよ。ほら、止まって」

 足を止め、ケスの返事も確かめないまま手を伸ばし、彼の外套の脇腹辺りを軽く掴むと、こうべを垂れて目を閉じた。

「ケスが無事でありますように……」

 そして、いつまでも私の傍にいてくれますように――と、個人的な願いも、こっそりとそれに忍ばせた。

「でも、外套だと冬限定だね。春からの〈お守り〉はどうする――」

 そう言いながら、ぱっと顔を上げると、ぽかんとしたケスの顔があった。その顔を見た途端、急に恥ずかしさが込み上げ、慌てて手を離した。

「あ、ごめん。また子供染みたこと……」

「いや、いいんです。……いいお守りになりました」

 そう言うと、さっと横を向き、歩き出した。人間とは違う、先の尖ったケスの耳は、寒さのせいなのか、真っ赤になっていた。


 犬舎に近づくにつれ、甘える犬の鳴き声も近くなる。タルバの声だ。

 柵の前を右往左往している姿が見えた。向こうも私の姿に気づくと、声はさらに大きくなり、今にも柵を飛び越えそうな――ああ、飛び越えてしまった。

 ふさふさの大きな尻尾を振りながら、こちらに向かって走ってくる。目の前まで来ると、黒い鼻先を私の脇の下にねじ込み、いつものように眉間を撫でてくれと目で懇願する。

「だめだよ、タルバ。柵を飛び越えちゃいけないと前にも教えたろう?」

 言葉では叱りながらも、私の顔はゆるゆるに緩んでいた。

「お前にも心配を掛けた。ごめんね」

 タルバの気持ちに応えて眉間を撫でてやると、冬毛の尻尾をゆったりと振り、気持ち良さそうに目を閉じた。

 一方のロベは犬舎からこちらを――タルバを見ていた。決まりを破り、外に出たタルバを鋭い目で睨んでいる。その気配を感じ取ったのか、タルバの耳がぴくりと動き、尻尾が徐々に下を向いた。その様子も、微笑ましく思う。

「ふふ、怒られることがわかってるのに……タルバは懲りないね」

 タルバより少し年上のロベは、子供っぽさがなかなか抜けない彼の教育係といったところだ。私ならつい甘やかしてしまうところを、彼女は見逃さず、きちんと指導してくれる。そんなロベを、タルバは臆しながらも慕っているようだ。

 二頭のやり取りを、シスゲは大あくびで眺めている。元はゴアさんの犬だったが、今はガルさんの買い出しを手伝っている。警護職を引退した『おじいさん』だが、ガルさんと大荷物が乗った橇を、たった一頭で余裕で引っ張っている。犬としてはまだまだ現役だ。

 彼らの寿命は『前』の世界のイヌに比べ、倍以上ある。いつまでも元気で、長く傍にいてほしいと願っている。

「姫様、まだ我慢して下さい。今日は俺と一緒に、ロベに乗ってもらいます」

 言葉の意味がわかるのか、タルバがはっと顔を上げ、ケスに恨めしそうな眼差しを向けた。

「そんな目で見るな。お前の主人は、まだ身体の調子が良くないんだ。安心しろ。置いていかないよ。お前も一緒だから」

 ケスは手際よく、二頭の首元や脇に革具を通し、鞍や鐙を付けた。伏せたロベの背に私が、続いてケスが股がり、彼が鎧でとん、と合図を出すと、ロベはゆっくりと立ち上がった。

「なんで、そんな前……寄りかかって下さい。楽にして」

 私は背筋を伸ばし、ふらつかないようにお腹にぐっと力を入れ、鞍に付いた持ち手をぎゅっと握った。

「え、あ、ううん。いいよ、これで。ケス、重いだろ?」

 そう返した途端、ロベがすっと腰を落とした。

「わ……!」

 体が後ろに倒れると、私の背中はすとん、と、ケスの腕のなかに、きれいに収まった。

「ほら、この方が楽でしょう? 背中も寒くないし……俺、ちゃんと支えてますから、このまま眠っても構いませんよ」と、さらりと言ってのける。

「う、うん……ありがとう」

 この状況で眠れるほど、私は強者つわものではない。『前』と『今』、二人分の鼓動が一気に駆け出し、思わず、あの日の場面も蘇った。

 ――この腕のなかにいたのだ。それも……素肌の胸に、頬まで寄せて……。緊急事態とはいえ、私もよく平然と、あんな――

 駄目だ。いい加減、気持ちを切り替えないと――このままでは、仕事に支障が出る。

 今日、ビルランファ邸に顔を出すのは私が襲われた一件――は、関係がない。

 私にとって、もっと重大な事件が、同日同時刻に起こっていたのだ――


 事件から四日後。

 硝子の首輪が消失したのを見計らって、ふらつく体を慣らそうと部屋を歩き回っていた。ふと、机の隅に目が止まる。それは隠すように、本の陰に置かれていた。私宛の書簡だ。

 ベッドに腰掛け、開封し、目を通す。一通目は私の事件について。大方の賊が捕まった報告だ。首謀者は今のところ不明。そして二通目。その内容に衝撃を受け、思わず声を上げた。

「〈装甲傀儡〉が破損……? 腕ががれた……たった一頭に……? そんなはずは……」

 今までの記録資料を参考にし、〈装甲傀儡〉の強度は十二分に持たせてある。爪や牙で装甲に傷を負わされることは多々あるが、ここまで破壊されたことはない。

 ……そうか。足止めされた時の……。こんな力を持つ〈外獣〉は初めてだ。記録にもなかった。……新種か……? ここ二百年は、その確認はなかったはずだ……。とにかく、破壊された〈傀儡〉の様子を見て……性能強化はすぐにでも行わないと――

「姫様!」

 いつの間にか、ガルさんが目の前に立っていた。書簡はさっと奪われた。

「このこと、隠してたのか……? どうして教えてくれなかった! ……すぐに出掛ける!」

「馬鹿なこと仰らないでください……こんなものは、あと回しです。スピノザ様も仰っていたでしょう。さあ、横になって。身体を休めることに専念して下さい!」

 書簡を取り戻そうと、途中まで伸ばした手を引っ込めた。ガルさんに立ち向かう度胸は、私にもない。毛布のなかに退散し、目を閉じたものの、眠れず、幼かった日のことを思い返した。

『……〈外獣〉と、戦うの……? やっぱり……殺してしまうの……?』

 国を守るという理由があっても、外の世界の異形の生き物だとしても、命を奪うことには抵抗がある。不安に駆られた幼い私の質問に、祖父様は首を振る。

『いいや。戦う訳じゃない。殺しもしない。そうしないために〈装甲傀儡〉があるんだよ。〈外獣〉を傷つけないこともまた、国を守ることだからね……。カナンは将来、それに関わっていく。大切な、大切な役目だよ――』

 〈装甲傀儡〉は国防の要。その装甲を壊せる〈外獣〉の出現は脅威だ。〈装甲傀儡〉が『想像』される以前には、たった一頭が、村を丸ごと潰してしまった事例もある。

 今回の〈外獣〉。過去を再現する存在にしてはいけない。

 私の、大切な役目だ――


 この森をひとりで走った――薄暗い森のなかを、慣れない橇馬に乗り、男たちが迫る恐怖を背中で感じながら。

 あの日の出来事が嘘のようだ。背中が暖かい。

 安堵感が体を包み、背中から気持ち良く力が抜けていく。自分で体を支えられず、瞼も重くなる。私はどうやら、自分が思うよりも強者だったようだ。

 ……眠い……。ケス、重たいかな……でも、今日だけは……甘えて――

 

 * * * * *

 

 預けられた背中が徐々に重くなり、カナンの首は、かくん、と力なく下を向いた。

 ……眠ってる。やっぱり……まだ調子が悪いんだ。無理をして……。

 今日の外出、ガルさん同様、俺も反対だった。けれど、カナンは頑として聞かない。

 無理をさせているのは二通目の書簡だ。自分の事件のことは、もう頭にない。書簡をガルさんに取り上げられ、身体を休めろ、と小言を言われたようだが、心は休まらなかっただろう。

 知れば無理をする。だから、あえて話さなかったのに――結局、こうなってしまった。

 頃合いを見て、カナンの腰に左腕をそっと回し、体を支えた。

「……本当、重いな」と、口をついて出た。カナンが聞けば、勘違いをされそうだ。

 血で染まった彼女の体は驚くほど軽く、空っぽの箱を抱えているようだった。あの頼りなさを思えば、この重さは心地良い。

 ……もっと俺に、甘えてくれていいのに。

 カナンは自分のこととなると、どこか遠慮勝ちだ。

 俺にはそんな態度を取らなくていい。湯たんぽ代わり、枕代わり、盾代わりはお易い御用だ――そう思いながらも、支える腕に戸惑いを憶える。

 カナンが誕生日を迎えるたび、体に触れることに、俺は躊躇するようになっていった。子供の頃は、当たり前のように手を引いていたのに。

 許されるなら、この体を両の腕で支えたい。強く、力を込めて――俺は慌ててかぶりを振る。

 個人的な感情は仕舞え。俺は――あくまでも、カナンの〈守護者〉なんだ。

「ありがとうございます。大事にしますよ、この〈お守り〉」

 俺はそっと囁いた。もちろん、眠りに落ちたカナンからの返事はなかった。

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