守 護 者

 ……あいつら、八つ裂きにしてやればよかった!

 誰もいない稽古場。天井からぶら下がる砂袋を、力任せに何度も殴った。顔も憶えていない男どもを、心のなかで殴っている。

 ……シメオンの言葉を気にして、カナンから離れて、危険に晒して……!

 今殴っているのは、あの日の俺自身だ。

 彼女の裸体が頭から離れない。欲情している訳じゃない。蒼い顔。血に染まる肌。下手に動かせば、ぷつりと魂が切り離されてしまいそうな、重さのない体。日を追うごとに鮮明になる記憶。ほんの束の間、彼女のいない世界が垣間見えた――体が震える。

 〈神の末裔〉と謂われるヘヴンリ家――その子女なら、身代金は破格だろう。おまけに自身の事情も相まって、〈想像師〉になる以前から、カナンは標的にされてきた。

 標的は子供、そのお付きの〈守護者〉もガキとくれば、賊どもは『簡単に金になる、おいしい獲物』と思っただろう。

 俺が襲われる一因なのなら、襲われない一因になればいいだけの話だ。手を出してきた連中に、俺は容赦をしなかった。ガキだと舐めたことを後悔させた。

 カナンの目の前だ。命までは取らないが、他への見せしめに、それなりの責任はとってもらった

 ――まあ、警備隊に引き渡した時点で、やつらの運命はすでに決まっているのだが――

 ここ数年、荒っぽい連中は姿を見せなくなった。俺はいつのまにか平穏な日々に慣らされていた。今回は、たまたま運が良かっただけだ。命が助かっても、運が悪ければ、別のものが奪われていた。けがされて――もし、そうなっていたら……?

 吐き気がした。あの日の自分の考慮のなさを、再び恥じた――


「何故、離れた」

 責めるような、抑揚のない低い声。ゴアさんの真青の瞳が俺を睨みつける。カナンをヘヴンリ邸に連れ帰ってすぐに、俺は稽古場に呼び出された。

 ゴアさんは俺と同じ――獣人族だ。俺が身につけた武術はすべて、ゴアさんから教わった。俺の師匠と言える人だ。俺は経緯を話した。

ひい様が命を落としても、お前はそんな理由で納得できるのか? ――いいか、姫様を守るためなら命令なんて無視しろ。立場や体裁なんて糞食らえだ。そういうものが気になるなら、ばれないように立ち回れ。今回だって、どうにでもなったはずだ」

 何も言い返せなかった。あの時、自分の私情で離れた。カナンから突き放されたような気がして、子供のように拗ねたのだ。愚かな俺は――自分の役目を忘れたのだ。

「……いや、きつく言い過ぎた……。自分が出来なかったことを棚に上げて……。だがな、私が失敗したこと、お前には経験させたくないんだ」

 ゴアさんは、ヘヴンリ家に仕える最古参だ。今は執事のようなことをしているが、かつては次期当主を警護する〈守護者〉だった。

 俺と同じように、獣人という理由で任から外されていた時、警護対象を亡くした。

『もし、あの時、私が傍にいれば……命だけでも、お救いすることができたかもしれない』――そう話してくれたことがある。ゴアさんは今も、後悔のなかにいる。

「姫様を守るのは、姫様のご意思と関係なく、ヘヴンリ家の騒動に巻き込んでしまったスピノザ様の贖罪だ。それをお前に押し付けて申し訳ないと、スピノザ様は思っておいでだ」

「……! いえ、この役目は俺が望んだことです。今回のことは……俺が浅はかでした」

「姫様は人一倍、体裁を気にされる。だが、お前はそれを考えるな。スピノザ様のお立場は考えなくていい。姫様が無事ならそれで良い――スピノザ様はそう仰っている。――それにしても……年月が経つというのに、どうやらまだ、諦めておられないようだな」

「やはり、ゴアさんも……〈本家〉だと……?」

「姫様が〈想像師〉になられてからは、その気配もなかったからな。正直、私も油断していた」

「あの……スピノザ様のご様子は?」

「ああ、少々滅入っておられる。また姫様が戻ってしまうのではと危惧されて……。お身体に障らなければ良いが……」

 ――戻る。この時は、この言葉に胸がざわりとした――


 他の部屋とは違う。扉には重厚な鉄製の縁飾り、そして、犬の首の彫像――犬は〈想像能力者〉から厄災を遠ざける守護の象徴だ――その口が咥える鉄の輪を打ち付けると、扉の向こうから、弱々しい声が返ってきた。

「お入り」

 扉を開けると、すうっと爽やかな香油の香りで鼻の奥が満たされた。窓から陽が差し込んでいるのに、部屋の中央に置かれたベッドの周りだけは仄暗く感じ、重い空気が漂う。

 そのベッドに体を横たえ、天井を見ていた目がゆっくりと俺に向けられる。その瞳は、カナンと同じ色をしている。スピノザ・ヘヴンリ――ヘヴンリ総本家現当主。

「失礼します。姫様が目を覚まされました」と、告げた途端、空気が一気に軽くなった。

「そうか……! よかった……カナンの顔が見たい。ゴア、頼めるかな」

 自身でゆっくりと半身を起こすと、ゴアさんが手際よく背中を支え、立てさせた膝の下に腕を入れ、細い体をすっと抱きかかえると、車椅子に座らせた。そして、スピノザ様の白い髪に櫛を入れ、身なりを整え終わると、膝掛けを掛けた。

「カナンはどんな様子かな? 怯えていないかい?」

「お変わりありません。さっそくガルさんから、小言を言われてました……」

 先ほどの場面を思い出し、思わず苦笑いをする。

「ガルドアも心配していたからね、また、昔に戻ってしまうかと……」

「大丈夫です。笑顔も見せておいでですから」

「そうか……そうか」

 スピノザ様は先ほどとは打って変わって、安堵したのか穏やかな表情を見せた。


 * * * * *


 入室の許可を求めるケスの声。それに応えるガルさんの手を借り、重い体を起こそうとしたところで扉が開いた。その陰から車輪が現れる。木製の車椅子――祖父様だ。優しい顔でこちらに目を向けた。

「ああ、いいよ、いいよ。そのまま横になっておいで」

 その言葉に甘え、再び体を横たえた。ゴアさんが車椅子をベッドの脇に止めると、祖父様は私をじっと見つめ、そして、ほっとした様子を見せた。

「よかった……変わりないね。顔を見て、安心したよ」

「祖父様、申し訳ありません。ご心配をお掛けしました」

「お前が謝ることなど何も――痛かったろう……怖かったろう……」

 祖父様は言葉に詰まり、顔を曇らせた。私と同じ色の瞳に、憂いが見える。

「……私こそ、すまない……本当にすまない。またお前を、こんな目に遭わせてしまった……がまた動き出すとは……今更……何を始めるつもりだ……!」

 胸がきゅうっと締め付けられる。祖父様が『あれ』と表す人物は、ただ一人だ。

「い、いいえ、祖父様。まだそうと決まった訳では……それに今回のことは、私の慢心が招いたこと。どうか、お気になさらず――」

「……あれは……またカナンを苦しめるつもりか……そんなに私が憎いか……!」

 頭が徐々に下がり、ベッドの端に突っ伏すと、肩が小刻みに震え出した。最近はお身体の調子も良かったのに――年齢以上の深い老い。またひとつ、心労の種を増やしてしまった。

「駄目です。ご無理をされては――お身体に障ります。私はもう平気ですから。ゴアさん――」

 ゴアさんは私の声に頷いた。祖父様に手を貸して椅子に深く座らせると、床に落ちた膝掛けを掛け直した。顔を上げた祖父様の目は、少し赤い。

「カナン……仕事のことも何も考えなくていいから。今はゆっくりとお休み……」

 祖父様は部屋に入ってきた時同様、優しい顔でそう言い残すと、ゴアさんに車椅子を押され、部屋をあとにした。私はその姿に胸が痛んだ。

「祖父様のことを考えて……良かれと思ってやったことが、裏目に出てしまった。ケス……私は祖父様に悲しい思いをさせたくないんだ。祖父様は――『彼がやった』ということに、深く傷つくはずだ……それだけは絶対に……彼の手にだけは、掛かる訳にはいかないんだ……」

 話を聞いていたガルさんは、「姫様……」とつぶやき、涙ぐむ。

「〈本家〉の思い通りになんか――させません。そのための俺なんですから」

 ケスの強い眼差しに、私は安堵する。

「うん。そうだね……」


 今回みたいなことは、初めてじゃない。子供の頃の方が、その頻度は多かった。

 王都への道中、その帰り道、ルドフィスの森のなか。

 金目的か、それとも私の命か。ケスにはわかっても、幼い私に、その違いはわからない。

 ただただ――怖かった。

 ケスがいなければ、自分の役目も何もかも投げ捨てて、逃げ出していた。

 この命も、とうになかったかもしれない。

 ……逃げ出す、か。ふふ、どこに逃げるんだろ。ここ以外、私はどこにも当てがないのに――


 十五年も経った――どれだけ経っても、私の存在は、疎ましいままなのだろう。

 私の死は――〈本家〉に何をもたらすのだろうか。

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