消 せ な い 傷 痕
あのまま、ケスが来てくれなかったら、どうなっていたのだろう。
一、男に、想像もしたくないほどのひどい目に遭わされる。二、
寝間着の上から右の脇腹を触った。腹部にわずかな痒みを感じるが、包帯もなにもない。すでに傷は塞がっているようだ。
……やけに、だるいな……身体も熱い……〈蘇生の法〉の副作用だな……。
あれだけ血を流したのだ。血液増殖が行われたのだろう。採取した血液細胞を『解読』したあと、必要量まで『複写』し、体内に戻す。切られた皮膚も同様の手順だ。これらの『複写』した細胞は、自分本来の細胞と入れ変わるまでの代用品に過ぎない。新陳代謝が急激に促進されるため、体温が上がるのだ。
首にはめられた細い硝子の輪。これが『複写』した細胞を維持し、代謝を促している。細胞が入れ替われば、その役目を終えて消失する。
〈蘇生の法〉は、医学知識のある〈想像能力者〉――〈解読師〉と〈複写師〉が行う創傷治療に特化した高度な技術だ。確立されてから日が浅く、会得者はまだまだ少ない。専用の設備も必要だ。
……私はとても運が良いい。助かったのは、これのおかげだな……。
胸元に手をやる。指先に何も引っ掛からない。左の手首にも重さを感じず、心臓が跳ねた。
……ない。どこにいった……? あ……! 治療の時に外されたんだ。まさか、捨てられた? どうしよう。大切なものなのに――
コンコン――と、ノックのあとに、カチャリと扉が開いた。彼は少し頭を下げ、部屋に入る。手には〈人造革〉の氷枕。この季節、氷枕と言っても中身は雪だ。
首元まで伸びた少し癖のある黒髪を、後ろに緩く一つにまとめている。長めの前髪の間から覗く目と、目が合った。
それは銀色ではなく、いつも通りの濃緑色の瞳だ。その目が丸くなる。
「……あ、えっと……おはよう、ケス」
「…………お……はよう、ございます……姫様……」
しどろもどろの挨拶を私に返すと、ケスはすとん、と床に膝をついた。驚いて体を起こそうとしたが、体中に鈍痛が走り、力が入らない。どうやら落馬のおまけのようだ。
「……ああ、よかった……! 目が覚めたんですね……」
「うん……。窓から入る光がまぶしくて……天に召されたのかと思った」
「そんな冗談、やめてください。こちらは生きた心地がしなかったんですから」
いつもとは違う強い語気に、本当に心配をかけたのだと猛省した。今の言葉にどう返そうかと迷っていたが、ゆっくりと立ち上がるケスの表情は柔らかい。
「誕生日、おめでとうございます」
「……誕生日……? そうだ、誕生日だったね」
「当日は言えなかったから……目が覚めたら、俺、言おうと思って……今、言うことができて、その……本当によかった」
「……うん、ありがとう。私も聞けて、嬉しい」――胸の奥が、じん、と暖かくなる。
ケスはベッドの脇に立つと、右手で私の前髪を梳き、そっと額に触れた。その手はひんやりとして気持ちがよかった。
「熱、まだ下がりませんね。枕変えますから」と、私の頭をゆっくりと持ち上げる。
ふと、彼の胸元に目がいった。生成りの麻シャツ。前合わせの襟から覗くのは、4本の牙を革紐で繋げた首飾りだ。
「あった、〈お守り〉……! よかった……失くしたかと思った」
「治療の前に俺が預かったんです。血で汚れていたので、新しい紐に取り替えておきました」
紐はケスの髪を結んでいるものと同じ、紫草で染めた革紐だ。
「つけてくれないか。いつもあるものがないと、落ち着かない」と、重い左手を差し出した。
「…………これ……何のご利益もありませんでしたね」
ケスは首飾りをはずすと、私の左手首につけ替えた。整えられた獣人特有の黒い爪――紐を丁寧に結ぶその指先は、冷めた声とは裏腹に、とても優しい。
牙と牙の間に、白く濁った石英の珠をあしらった首飾り。子供の頃、彼にねだり、譲ってもらった。これを〈お守り〉にすると言った時の、ケスの困惑した顔が浮かぶ――後生大事に身につけてる今も、変わり者だと思ってるかもしれないけれど――
「ご利益はあるよ。ちゃんと実績がある。ケスに助けられて、こうして生きてる。〈お守り〉の役目は十分に果たしてる。私のお気に入りだ」
「厄災を遠去けることが〈お守り〉の役目です――俺はそれができなかった……」
彼はうつむき、唇を噛んだ。
「……ケスは何も悪くないよ。待つように言ったのは私なんだ。嫌な思いをさせて、ごめん」
思いがけない言葉だったのか、彼はさらに申し訳なさそうな顔をした。
「いえ、そんなことは……。――橇を襲った奴ら、何人かはその場で拘束されたそうです。誘拐目的で襲ったと――」
「……目的は誘拐じゃない。私の……首だ。結構なお金が掛けられてるらしい」
「首……? 賊と話したんですか? やはり狙いは姫様か……! 雇い主は?」
「そこまで聞く余裕はなくて……。それより、他に――王族の方々に被害はなかったのか?」
「はい……姫様以外は、どなたも――」
「そう。よかった。私だけで済んで――」
「よくない!」
ケスの大きな声に、毛布の中で飛び上がった。
「……すいません。でも……わざわざ、こんな目に遭って……。一人で橇から下りるなんて、馬鹿なこと――俺が傍にいないのがわかってて……なんでこんな無茶をしたんですか?」
まるで幼い子供を叱っているような口調だ。私の気持ちはしゅんとする。
「うん、本当にね……大馬鹿だと思う。でも……私の巻き添えで、王族を危険に晒す訳にはいかないよ……守ってもらう資格もないし……」
「姫様……それは……」
「祖父様の立場が悪くなることはしたくない……それならいっそ離れた方がいいって、焦ってしまって……。でも、自分の弱さをわかってなかった。〈能力者〉の誘拐なら、命までは取られないだろうと、甘く見て……自分の立場も忘れて……油断してたんだ。タルバの感覚で橇馬に乗ったのも失敗だった。思ったより足が遅いんだもの。おまけに〈鳩〉も持ってなくて……」
「〈鳩〉を受け取った時、後悔しました。押し切って、ついて行けばよかったと――」
「私も。言うことなんか聞くんじゃなかった、って――ふふっ、橇馬で走ってる時ね、悪態ついてた。『あの、くそ執事!』って」
ケスはぽかんとしたあと、少しだけ笑顔を見せた。
「姫様は弱くてもいいんです。その為の俺なのに……。次、待ってろと言われても、俺、こっそりついて行きます。いいですね?」
真剣な眼差しで見下ろされ、どきりとする。慌てて、うんうん、と頷き返した。
よく見ると――冴えない顔色をしている。疲れた顔だ。目の下に隈もある。あれからどのくらい日が経っているのか。それに――
「その頬……どうした? 腫れてないか……?」
「これは……。ガルさんに入れられた気合の痕です」と、左頬を摩りながら、ばつが悪そうに答えた顔が、少しゆがんだ。
「痛むのか? ケスには容赦なしだな……」
噂をすれば影。ノックのあと、静かにガルさん――ガルドア・ギガネスが部屋に入ってきた。寝間着の替えを棚の上に置き、私に向けた目と合った。
「…………姫様……? ひ……ひいさまぁぁ!」
背も、筋肉も、ケスに劣らぬ逞しい体が迫ってくる。ほっとしたを通り越し、いきなり泣き出したガルさんの顔は、あっという間に涙でぐちゃぐちゃになった。
「ガルさん……あの……ごめんなさい。誕生日の料理、無駄にして……あ、あと、上着……逃げる時に、置いてきてしまって――」
「そんなこと、どうでもいいのです! 上着など、ガルがいくらでも仕立て直します……! 姫様……丸一日眠ったままで、このまま目を覚まさなかったらどうしようかと……ガルはもう心配で、心配で……!」
顔を両手で覆い、おいおいと泣いている彼女は――ヘヴンリ家の有能な家政婦であり、私の世話係兼教育係であり、そして、ケスの武術稽古の手合わせの相手でもある。
家政婦服の袖から伸びる、立派すぎる筋肉をつけた右腕と、ケスの左頬を交互に見ながら、ガルさんの鉄拳を受け、吹っ飛んでいくケスの姿を想像し、身震いした。彼女は私が何を想像したのか察したようだ。
「殴られて当然です! 姫様に怪我をさせるなど、〈守護者〉として、恥ずべき失態です!」
ケスはしゅんとなり、黙ってうなだれている。
「姫様も姫様です! どういう理由であれ、一人であのような……姫様は〈想像師〉の前に女なのです! そういう危うさもあるのですから、自覚して頂かないと――」
「うん。わかってる。今回のことで実感した……」
「何かされたんですか!」と、大声を出したのは、ケスだ。
「あ、いや……男がそんなことを言い出して……髪を掴んで離さないから、髪を切って逃げたんだ。思いもしなかったから、怖かったよ……」
そう言った途端、ケスの顔から表情が消え、瞳の色が変わった。
「ケス……?」
「……すいません、俺……頭を冷やしてきます」
踵を返し、ケスは扉に向かって歩いていく。拳が震えている。
「頭が冷えたら、スピノザ様にお声掛けしてくれ。姫様がお目覚めになったと」
「……はい」と、素っ気なく返事をすると、ケスは部屋から出て行った。
「自分に怒っているのですよ、あれは。姫様をこんな目に遭わせたことに責任を感じているのです。あの日、ケスは泣いていましたよ」
「泣く? ケスが……?」
「姫様の命が助かったとわかって、人目もはばからず、声も上げず、ただ涙を流して……あんな弱々しい姿、ガルはもう見たくはありません。今の姫様の、こんな姿もです。スピノザ様も心配しておいでです」
「ごめんなさい……」
私のことで心を痛めてくれる人たちがいる。申し訳ない気持ちで胸が一杯になった。同時に、不謹慎にもそのことに、喜びも覚えている。
……『前』とは違う。私を必要としてくれる人たちが、この世界にはいるんだ。
「さ、一度、着替えましょうか。お手伝いしますよ」
ガルさんは、まだ力の入らない私の体を起こし、支える。寝間着の前ボタンが外され、腹部があらわになると、左脇腹からへそへと続く、大きな傷痕が目に入った。肉が盛り上がり、血が固まったかのような、赤黒い色をしている。
「さすが王室付きの治療師だ。傷痕がもうわからない。それに引き換え、こっちの傷痕は十年以上も経つのに……主張が激しいな……」
「一度、相談されたらいかがです? 〈蘇生の法〉も、以前より良くなっているのでしょう?」
「うん……でも、これは……難しいだろうな……」
この傷痕が、そう簡単に消せないことは、私自身がよくわかっている。血とも、皮膚とも呼べない組織が、正常な皮膚に根のように深く食い込んでいる。
……まるで糸だな。きつく絡まって、
切除するにも範囲が広すぎる。異常な組織を少しでも取り残せば、〈法〉を施しても結果は同じだろう。それなら――
「下手にいじるくらいなら、このままで……。日常生活には何の問題もないんだ。わざわざ、痛い思いはしたくないんだ……」
――五歳の頃に付けられた傷痕。
私は思い出せない。その日の出来事も。これを残していった犯人の顔も。
『前』の記憶は取り戻したのに。おかしな話だ。
御家騒動のとばっちりを受けた。私はまだ――その渦中から、抜け出せていないのか。
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