風 前 の 灯 火
……怖い。怖い。怖い。
今、俺が抱きかかえているのは、恐怖の固まりだ。
何故だ……? こうならないために、俺がいるんじゃなかったのか!
くそっ……くそっ!
いや、落ち着け。雪で冷やされていたんだ。その分、出血は抑えられてるはずだ。
駿足のタルバなら、あと少しでヴィルランファ邸に辿り着く。
王室付きの治療師が、最上級の治療をしてくれる。大丈夫、大丈夫だ、間に合う――
……? ……!
ぬるい血の匂いが、下から沸き上がる。腿や膝が湿り出し、心臓が跳ね上がった。止血が間に合っていない――そう気づいた途端、体が震え始めた。
「……私の体、冷たいんだね。ごめん、寒いだろ……?」
……俺のことなんて、どうだっていいんだ……!
寒い……? 本当だ。凍えるほどに寒い。カナンの体の冷たさのせいじゃない。この腕から、彼女の命が今にも抜け落ちそうで――姿が消えてしまいそうで、怖くてたまらない。
「
カナンは言うことを聞いて、目を閉じた。それでいい。無駄な体力は使わないでくれ。今は休んで、元通り元気になって、閉じたその目をまた開いて、その瞳――〈リトイスの瞳〉に、俺を映して欲しい。
カナンの現状を記した〈鳩〉はもう届いたはずだ。到着すれば、すぐに治療してもらえる――まだか? まだ灯りが見えない! 代わり映えのない森の風景が流れていく。俺は本当に前に進んでいるのか? ――苦しい……息がうまく出来ない。
カナンは? カナンは息をしているのか? 彼女の体温が、さらに遠くに感じる。
……怖い……怖い!
犬の遠吠えがはっきりと聞こえた。ロベの声だ。走りながらそれにタルバが応える。顔を上げると、目の前に灯りが見えた。
「もう少しだ、タルバ。頼む、もっと急いでくれ……!」
俺の気持ちを理解したのか、なけなしであろう力を振り絞り、タルバは速度を上げた。
「お待ちしておりました!」
門を抜け、ヴィルランファ邸の玄関前に着くと、屋敷の使用人たちが俺たちを待っていた。
「犬は私どもがお預かりします。〈治療の間〉へ、お早く」
タルバは疲労困憊、立っているのがやっとだ。大きな体をふらつかせ、それでも屋敷のなかにまでついてこようとする。
「お前はここで待つんだ。心配するな。お前の主人は、きっと良くなる」
タルバに、自分にも言い聞かせ、血で染まった外套を脱ぎ捨てると、案内役の使用人のあとを追った。平時は使うことのない昇降機。使用人が引き戸を開けたと同時に駆け込む。
二階へ上がり、扉が開かれ、ふと、廊下の窓の外に目をやった。二体の巨人――〈
「――先ほど、救援信号が上がりまして――向こうも大騒ぎなんです。滅多にないことで――湖の近くで〈
そう説明されても、俺は上の空だ。カナンの呼吸が浅い。軽く感じる体に反して、じっとりとした布の重さが腕に伝わる。
案内された〈治療の間〉に駆け込むと、治療師たちの視線が集まった。カナンを見るなり「ああ、これはいけない」と慌て、寝台へ寝かすよう指示を出した。
「すぐに〈蘇生の法〉を行います。貴方は外に出ていて下さい」
外に出ろ、と言われ、頭に血が上った。
「また姫様から離れろと言うのですか! 私が獣人族だから――あの時……俺が傍を離れなければ、こんなことには……!」
大声を出す俺に、「君」と、声を掛けたのは、治療師の
「落ち着いて。治療に関係なき者は、たとえ国王陛下であっても外に出て頂きます。これは規則なのです。……わかりますね?」
この言葉を聞いて、頭からすっと熱がひいた。寝台に寝かされたカナンが目に入った。衣服が脱がされ、裸だ。床には切り裂かれた俺のシャツ――元が何色だったか、わからないくらいに赤黒く染まっている。彼女は裸のはずなのに肌の色が見えない。鮮やかな赤を、べっとりと
「これも外しますね」と、カナンの首から首飾りが外された。
「……あ、それは……私が預かります」と、首飾りを受け取り、〈治療の間〉から出た。
『これは〈お守り〉にする』
嬉しそうに笑う、幼い頃の彼女の顔が頭に浮かんだ。
「何が〈お守り〉だ……。こんなもの……何の役にも立たない……!」
タルバ同様、俺も立っているのがやっとだ。カナンを運んできただけなのに、体が鉛のように重い。急に足の力が抜け、閉じた扉の前でへたり込んだ。
「あの」
ふいに声をかけられ、はっと顔を上げた。ここまで案内してくれた使用人だ。
「カナン様の治療には、まだ時間が掛かるでしょう。その間に湯浴みをされて、着替えられたら
「……えっ」
言われてみればひどい格好だ。裸の上半身には乾いた血が張り付き、腰から下の衣服も、同じく血で染まっている。けれど――
「……あ、あの、でも……ここから……どうしても……離れたくなくて……」
うまく言葉が出てこない。まるで子供の受け答えだ。
「わかりました。では、着替えと……あと、体を拭くものも何枚かお持ちしましょう」と、彼は、それらをすぐに取りに行ってくれた。礼を言って受け取り、扉向かいの窓の下枠に着替えを置いて、体を拭いた。拭き取った赤黒い汚れが、俺の胸を締め付ける。
窓からは広い園庭が見え、その向こうに、今抜けてきた暗い森が広がる。さらにその奥――夜空に上がった〈閃光弾〉がパッ、と弾け、弾下を昼間のように照らす。
「……なんだ……? 何が起こって……」
目を凝らしてみたが、ここからでは何もわからない。
「そうだ……俺、『おめでとう』って……まだ、言ってなかったな……今日が、終わってしまう……。早く起きて下さい…………姫様……」
〈閃光弾〉がゆっくりと光を失っていく様子を見ながら、俺は無意識につぶやいていた。
しゃがみ込み、ただぼんやりと、〈治療の間〉の扉を眺めていた。
首に掛けた〈お守り〉を、ずっと指先で触っている。眠る時でさえ、カナンはこれを手放さない。それなのに――なんてご利益のない〈お守り〉だ。
人の気配に目を向けた。その体格の良さは、羽織った外套の上からでもよくわかる。
「あ、あの。まだ治療中ですので、そんなに急がれても」
外套のフードを目深にかぶったままで、案内役の使用人を追い越し、大股でずんずんと俺に向かって来る。この人物には見覚えがあった。
……あれ? ガルさんだ。なんでこんなところにいるんだろ……。
冴えない頭のまま、のろりと立ち上がった。なめし革の長靴のつま先が視界に入った刹那、左頬にドカン!、と、ガルさんの鉄拳が入り、体が床に叩き付けられた。
「何て様だ!」
強い痛みが急激に脳内に流れ込み、
「
「出血量が多くて……その……意識も今はありません。〈蘇生の法〉を施してもらっている最中です……」
合わせる顔がない――ガルさんも冷静ではないのだろう。拳がわなわなと震えている。
「襲った奴らは何者だ? 目的は何だ! 姫様をこんな目に合わせて――まさか……〈本家〉か? まだ諦めてないのか……? くそっ、何故だ! お前が付いていながら……!」
俺の胸倉を掴んで問い詰めるが、何も答えられなかった。
「そんなに怒らないであげてよ」
いつの間にか、俺たちの近くまで来ていた高貴な男が声を掛けた。
「これは……殿下。お見苦しいところを……」
皆、『殿下』と呼ばれる男に恭しく頭を下げたが、そんな気にはなれなかった。何故こんな事になったのか、俺の方が問い詰めたかった。口を開けば、怒りに任せて何を言い出すか自分でもわらない。だから、高貴な男を睨むことしかできなかった。
「これ、獣人! 頭を下げぬか!」と、声を荒げた付き人に、「そんな言い方はよせ」と、高貴な男が厳しくたしなめる。付き人は分が悪そうに高貴な男の後ろに引き下がった。
「ケス、君が怒るのも無理ないよ……今回のことは僕に責任がある。でも――僕だって教えて欲しいんだ……! 何で、こんなことに――」
高貴な男は涙目で、俺の顔をじっと見つめた。
その時、〈治療の間〉の扉が開いた。長が顔を出し、そのあとから、寝台に横たわるカナンが運び出された。肩まで毛布が掛けられ、首には細い硝子の首輪がつけられている。
高貴な男は、長の挨拶を遮り、カナンの現状について尋ねた。
「もう大丈夫です。出血もひどく、大きな傷でしたが、幸い内蔵の損傷はありません。〈蘇生の法〉で、血液量は最低限まで『複写』できました。あとはご自身の力での回復の方が、お身体への負担も少ないと思います。皮膚の繋ぎ合わせもうまくいきましたから、傷痕は残らないでしょう。今はまだ〈法〉の副作用でお熱が高いので、くれぐれも安静に」
傷痕は残らない――と聞いて、ガルさんは、ほっとしたようだったが、カナンの変化に気づくと、絞り出す様な声でつぶやいた。
「姫様……髪が……」
刺客にやられたのか、長かった黒髪の大半が、首の付根あたりで乱雑に切られていた。俺は髪のことなんて、どうでもよかった。
肌は蜜蝋で作ってあるかのように透き通り、血色がない。それでも、カナンの胸は規則正しく動いている。ここに来た時の浅い呼吸ではない。空気を深く吸い込み、肺に送り、そして吐き出す――タルバの脇腹にもたれ、木陰で昼寝する――彼女のいつもの息づかいだ。
カナンが生きている――
涙がこぼれた。大声で泣くでもなく、しゃくり上げるでもなく、人前だというのに、ただ涙だけが
窓から差し込む薄陽が、冬の遅い夜明けを気づかせる。
カナンの肌に、わずかに赤みが戻ってきた。ガルさんとも相談し、ヘヴンリ邸へ連れ帰ることにした。
毛布に
外套は、気を利かせた使用人が洗っておいてくれた。血が落ち切らないまま暖炉の前で急いで乾かしたのだろう。革は少し強付き、元の明るい黄土色から、茶褐色に染め上がっていた。犬舎から犬たちを連れてきたガルさんは、俺を見るなり顔を曇らせた。
「……血の染みは落ちないからな。新しく仕立ててやる」
その言葉に、首を横に振った。
「いいえ、これは……このままで構いません」
ガルさんは「そうか」と小声でつぶやくと、自分の犬――シスゲに股がった。その後ろに俺が乗るロベ、そして、主人が乗らない空っぽの鞍をつけたタルバが順に並び、ヴィルランファ邸をあとにした。
「ケス……どう思う? やはり……〈本家〉からの刺客だと思うか?」
ガルさんが、振り向きながら問う。
「……金目当ての誘拐なら、ここまでのことはしないでしょう。それに……王家の
俺の答えに、ガルさんはふう、と、ため息をもらした。
「お前もそう思うか。スピノザ様、お可哀想に。心労がお身体に障らなければ良いが……」
いつの間にか、後ろにいたタルバが、横並びで歩いていた。耳を伏せ、鼻を鳴らし、上目遣いでこちらを見ている。いつもの重さを感じない、空気だけを乗せた背中が心細いのだ。
「大丈夫だよ。ほら。眠ってるだけだから」
外套の前を
「お前も、今のタルバと同じ顔をしていたぞ」
「……はっ?」
「扉の前で膝を抱えて、姫様を待っていたお前の顔だよ。……いいか、ケス。気合いを入れ直せ。これで終わりとは到底思えん。私はもう、こんな思いはしたくない。お前は、姫様の〈お守り〉だろう? 役目を果たせ。まぁ……帰ったら、お前も休め。まずは風呂だな」
「……はい」
俺だって、こんなことは二度とご免だ! 血まみれの――あんな姿は、もう見たくない。
カナンは腕のなかで、穏やかな寝息をたてている。俺は命の重みを、強く噛み締めていた。
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