新 世 界
………………月が見える。雪、止んだな……。どのくらい時間が経ったんだろ……。
私、座ってる。裏道で寝転んでたはずだけど……ああ、木に
大きな木だな……立派な木の根……。 ……? こんな木、近くにあったっけ?
さっ、寒っ! あれ、コートは? 上着も着てない。……いっ、痛っ、ぃ、いたたた……。
すっごい、痛い……痛いって、どこが……? 頭、じゃない……え? お腹?
なんだろ……脇腹あたり、やけにしっとりして……ズボンも冷た……濡れてる?
それに錆臭い……錆臭い? …………! なっ、なにこれ!
血……? 私の血なの? シャツ、真っ赤だ……。
え、どうなってるの……? ……打ったのは頭だった……なんで、お腹……?
……刺されたの? いつよ? 気絶してるあいだに? 嘘……なんで?
あれ? そもそも、私、生きてる……? 頭んなか、クエスチョンマークでいっぱいだよ!
……? 首に何か下がってる。なんだったっけ、これ。
……わからない。でも……これはとても………………そう、とても大切なものだ。
膝を曲げることもできず、腕もだらりと垂れ下がっている。
ゆっくりと首を左右に動かし、目に入ってきたのは、どこまでも続く、色のない冬の森の風景。生き物の気配は感じられない。
いや、人の気配がある。二人……三人か。一人は足を引きずっているようだ。
殺気むき出しで、私を捜している。まだ、距離はあるが――今夜は満月。闇が勝る森のなかとはいえ、雪上の足跡を追われれば、見つかるのは時間の問題だ。
……飛ばした〈鳩〉は、彼に届いたはずだ――必ず、迎えに来てくれる。
……彼……? 彼、って……誰?
ぎゅっ、ぎゅっ、と、雪を踏む音が、だんだんと距離を詰める。自分の荒い息を抑えられない。応戦は無理だ。短剣の
……ここで……死ぬのか……? 嫌だ! まだ死にたくない!
……不思議だ。私……こんなにも……『生きたい』って思ってる。どうして……?
さくさくさく……。人間のものじゃない――聞き慣れた四つ足の――犬の、軽快な足音が紛れ込む。間違いない。タルバの足音だ。こちらへ向かってくる。
……よかった……来てくれた……。
指笛を鳴らせる程に、もう息は吐けない。かといって〈閃光弾〉を打てば、追手にも居場所を知られてしまう。そうであっても、このまま彼を待つ自信はなかった。強い痛み。血も失い過ぎた。気絶寸前だ。
わずかな力を振り絞り、細かく震える右手を持ち上げ、腕を伸ばし、人差指で空を指した。腕が重い。指先に集めた光。小さく凝縮させ、丸い形にまとめていく。
「…………誰よりも先に、私を、見つけろ――」
願いとともに打ち上げた光の玉は、チリリと飛び散った。突然、犬の咆哮と男の悲鳴が上がり、残った二人分の足音は、乱れながらも遠ざかっていく。
「
……〈彼〉の、声……?
カナン……? あぁ……私の名前だ。カナン――カナン・ヘヴンリ。
返事は無理だよ。もう、ギリギリの意識だ。
私を名前で呼ぶなんて――よっぽど気持ちが切羽詰まってるんだな。
こんなことでもなければ、私のことを『カナン』とは呼ばない。
私は……いつだって……名前で呼んで欲しいのにな……。
薄い意識のなか、ふと、大きな生き物の気配を近くに感じた。
重い瞼を開くと、真っ先に視界に入ってきたのは、心配そうにピスピス鳴らす犬の――タルバの濡れた鼻先だった。口からはうっすらと血の匂いがする。
「……大丈夫だ。……生きてるよ」
まだ声が出せたことに自分が驚いた。頭はぼんやりとしている。目の前にある鼻先を撫でてやりたいのに、腕はもう上がらなかった。
「喋らないで」
若い男の声。よく知った声だ。でも――いつもと違って、どこか弱々しい。声の主はタルバの広い背中から滑り降り、私に駆け寄る。彼は……そうだ――ケスだ。
私の傍で足を止めた。動く気配がない。少し顔を上げた私と目が合った途端、外套や革の胸当てを、そして、その下の長袖のシャツを、ボタンを外す間も惜しいのか乱暴に脱ぎ始めた。
どんな
「……ケス……? ……何してる。……風邪引くぞ……?」
「だから、黙って!」
ケスは脱いだシャツを、血が流れる脇腹に押し当て、両袖を背中に回し、きつく縛った。
「ぐっ」
「我慢して。止血です」
シャツを包帯替わりにすると、素肌のままの胸に私を抱き寄せ、その上から外套を羽織り、体を包み込んだ。
芯まで冷えた体に、ケスの肌の熱が伝わる――温かく、心地良い。さっきまで『死にたくない』と震えていた心が和らいでいく。弱っていく自分の心音とは裏腹に、ケスのそれは、速度を上げていく。
ケスは私の現状を何かに向かって事細かく話している。と、目の端に、鳩の形を模した二つの光が飛び去っていくのが見えた。
軽々と私を抱きかかえ、伏せるタルバの背に股がった。手綱を引いて立ち上がらせ、
ケスが体を支えているせいか、それほど揺れは感じない。タルバの首輪に掛けたランタンが、外套の隙間から私の様子をうかがう彼の顔を照らしている。
「……ケス、怒ってるんだね。瞳の色が銀色だ……」――ひどい声だ。かすれてる。
「……怒っていません。怖いんです……」
「怖い? ケスにも……怖いものがあるのか……?」
強面に囲まれても動じない彼が怖いものって? まさか、森の暗闇が怖いとか、お化けが恐いとか――ぼんやりとした頭で考えるうちに、彼が恐れる唯一の人物を思い出し、思わず、吹き出してしまった。
「私は今、怖くないよ、何も。さっきまであんなに怖かったのに。なんでかな……」
ケスの体が、小刻みに震えている。
「……私の体、冷たいんだね。ごめん、寒いだろ……?」
「姫様、もう黙って。お願いです」
唇も、声まで震えている。ケスの顔はまるで、大人に怒られてしょげる子供のようだ。大の男がそんな顔をするなんて。
「わかった。静かにするよ……」
どのみち、意識を持たせるのは限界だった。手足の指先から、まるで命がゆっくりと漏れ出ているような感覚。それなのに――
ケスが傍にいる――たったそれだけのことで、ひとつも不安を感じなかった。
……私、どうなってるんだろ。
非現実的なこの状況を、すんなり、普通に受け入れている。
さっきまで会社で企画会議して、一人で歩いて帰って、それから――
あれ? どっちが本当の私なんだっけ? あっちが私? こっちが私?
次に目が覚めた時、私はどっちの世界にいるの?
……っていうか、目は……覚めるのかな?
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