運命の人は、銀の瞳で憤怒する。
羽馬風琴
終 焉
死は誰にでも、等しく訪れる――そう、今、まさに、私に訪れようとしていた。
ほんの数分前から、私は死を待っている。
昨夜からの〈数十年ぶりの記録的大雪〉で、街はどこもかしこも埋まりまくっていた。
たとえ街から道路が消え、交通網が遮断されても、社会人たるもの会社へ向かい、仕事をこなし、そして、帰宅せねばならない。
朝は徒歩でなんとか出社し、無駄に疲れた体のままで迎えた夕方の会議は地獄だった。
四ヶ月前に別畑から移動してきた部長のせいで、意見を言い合い、企画案を練り上げる〈創造的会議〉から一転。それはいつの間にか、〈何も決まることのない会議〉へと変貌していた。
彼はすべての提案を否定し、そして、自分の意見を全く言わない――たぶん、自分の考えなんて、これっぽっちも持っていない――理解不能の男だ。
だらだらと時間だけが過ぎ、部長から開放されたのは、夜の八時を回った頃だ。
明日の朝から会議の続きをする、と宣言し、帰宅の途に就く部長の背中を見送りながら、この雪で遭難すれば良いのに――と、心のなかで毒突いた。
公共交通は夜になっても麻痺していた。朝と同様、徒歩で帰ることを選んだ。たとえ復旧していても、今夜は一人で歩きたかった。心がもうヘトヘトだった。誰の声も聞きたくなかった。
あの男が上司になってから、私が担当する企画案に限ってケチをつけられ、何度も手直しをさせた挙句、結局、最初の案を渋々ながらに採用する――それが日常となってしまった。
どうしてこんな目に遭っているのか――飲みを断ったからか。可愛げも、愛想もない顔が気にくわないか。仕事はこなしてる。なのに――いや、そう思っているのは私だけか……。
嫌がらせとしか思えないこの状況は、一体いつまで続くのか――本当に嫌がらせか? 単に私に、能力がないだけじゃないのか。そうだ、自分が――無能なだけだ。
苦笑いをする。たった一人の、どうでもいい男のせいで、世界中から「お前はいらない」と拒絶されている気分だ。
……こんな日は、最高に楽しかったのにな。
雪が降れば、そこはいつもの通学路ではない――目の前にあるのは、広大な雪原。私は孤高の探検家。友である狼を旅の道連れに、誰の足跡もない、未開の地を突き進んでゆく――
想像力豊かな子供だった私も、大人を何年か続けて気がつけば、現実主義で面白みのない、冷めた人間に成り果てていた。狼の姿も、とうの昔に見失った。
……子供の頃の私が、今の私を見たら……さぞかしがっかりだろうな。『小さな私』の夢、何ひとつ叶えてやれなかったな…………あ、忘れてた。今日は……私の誕生日だ……。
はぁ、と、ため息が出た。疲れた心がさらに深く落ち込んでいく。独り身で、おめでたくもない年齢になっている私にとって、誕生日はもはや、精神的圧力でしかない。
……『人並』を手にすることができない劣等感は、歳を重ねるごとに増すばかりだな……。
冬季限定の煌びやかなイルミネーションに背を向け、人通りの少ない裏通りを選んで歩く。家に着くのは
……会社近くのホテルに泊まればよかった。ああ、でも、こんな日は、どこも満室か……。
新たな降雪が
足先から前方へと伸びる長く薄い影が、徐々に濃さを増す。
自動車のライト、それも大型車だ。慌てて傘を閉じ、道の端に寄る。除雪された雪が堆く積み上げられ、道幅を狭めているが、通り抜けるには問題ない。
突然、タイヤが横滑りし、轍から外れた。徐行もせず、車はこちらに寄ってくる。
……え、嘘……私に気づいてないの?
追い抜き様、ドアミラーで鞄が引っ張られ、バランスを崩した体が後ろに倒れていく。この積雪なら転んでも、雪まみれになるだけで済む――はずだった。
ゴン! ――鈍い音が頭のなかに響き、目の奥で光が飛び散った。何か固いものが、雪のなかに隠れていた。それが何なのか、見当もつかない。
それほどでもなかった頭の痛みが、だんだんと強くなる。まるで割れるような――いや、本当に割れたのかもしれない。手足の血の気が引き始めた。体を起こそうにも力が入らない――首から下が、まったく動かない。
どきりとする――体が痺れ出し、痛みがゆっくりと遠ざかる。雪の冷たさも感じない。自動車は停車せず、雪面に反射するテールランプの赤い光も消えていった。
「……ちょっと、これ……マジで私、やばいんじゃないの……?」
遭難したのは――私の方だった。
死は誰にでも、等しく訪れる――でも、等しく訪れないものもある。
それは〈運命の人〉だ。これまでの孤独の苦悩をゼロにし、そして、プラスの方向へ共に歩んでくれる――たったひとりの人。
いつかは出会える、と、乙女のように信じていたけれど、私の〈運命の人〉は、方向音痴で道に迷ったのか、移動手段を持たない遠方の人なのか、どれだけ待っても、〈彼〉が私のもとを訪ねて来ることはなかった。私自身、〈彼〉へと続く道を、見つけることはできなかった。
そして今――私は死に向かっている。
黒い空から落ちてくる〈ぼたん雪〉は、街灯に照らされ、まるでイナゴの大群だ。容赦なく私に降り積もり、命の
後悔のない人生なんてあるはずもない。けれど、後悔だらけの人生を、一体どこからやり直せば後悔が消えるのか、それすら、わからない。でも、死を前にして思いついたのは――
「私……〈彼〉と、恋がしてみたかったな……」
言葉にした途端、涙が溢れ出し、耳を伝い流れ落ちてゆく。温かかった。
振り返れば、甘い恋などなかった。誰かと比べられ、常に選ばれなかった。誰からも必要とされなかった。それだけで――自分の人生が空っぽなものに思えた。
最期の後悔がそれか、と、私のことを笑える人が羨ましい。きっと、幸せなのだろう。
この世界のどこかで――私と会えないことで――〈彼〉もまた、さみしい思いをしているのだろうか――案外、私と会えなくても、他の誰かと、幸せに暮らしているのかも――むっとする自分を笑った。馬鹿だな――会ったこともない相手に、焼き餅を焼くなんて。
会えるものなら、会ってみたかった――ああ、そうか。〈彼〉は私の世界にいないのだ――いや、私が〈彼〉の世界にいないのかも――同じ空の下にいない――だから、会えない。
ここではない、どこか。遮光ガラスの壁を挟んだ向こう側。限りなく近い、別次元の世界。
ガラス越しに、すれ違ったこともあるのかもしれない。
たった一枚のことで〈彼〉には会えない――たった、一枚のことなのに。
そのガラスの壁を越えることができなければ、〈彼〉には触れることも、話すこともできない。お互いの存在すら、知らないままだ。
ああ、もう――死はすぐそこだ。
タイミングが悪かった。別の日ならもっと――この命に、しがみついていたかもしれない。
自分が感じている以上に、自分の世界に疲れていたのだ。もう、〈彼〉に会う機会もないのだと悟った瞬間、明日に何かを見出す気力を失った。
急に何もかもが――つまらなくなった。
ふと、右手がかすかに動くことに気がついた。指をゆっくりと動かし、拳を握った。
「このげんこつで……ガラスの壁をぶち壊せたら……そしたら……〈彼〉に会えるのかな。フフフ……ま、死んじゃう私にはもう、関係ないか……」
作った握り拳を僅かに持ち上げ、そして、すとん、と、雪面に落とした。
ぱりん――と、遠くで何かが割れたような音が聞こえた。
それを最後に、私の世界から一切の音が消えた。心臓の音も聞こえてこない。
降る雪が、きらきらと輝いて、とてもまぶしくて、まぶしすぎて、目を閉じた。
そして、心のなかで、私の世界に「さよなら」を告げた。
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