第3話

 その晩。


 親戚一同が私の屋敷に集まった。座敷に布団が敷かれ、洋一は横になっている。簡単な処置を施してはいたが、医者には診てもらっていなかった。私たちは洋一を取り囲んで座り、無言で見下ろしている。妻は洋一の胸に手を当て、その顔をぼんやりと見つめていた。彼女は取り乱したりすることなく、全てを受け入れているようだった。この場で状況がつかめずにいるのは私だけのようだ。


「洋ちゃんはもう無理だ」


 ぽつりと叔父が言った。


「無理、とは?」


「もう長くはない」


「何を言っているんだ。だから病院に……」


「あなたが殴ったことがバレてしまう」


「そんな醜聞が広がれば、傷がつきます」


「ただでさえ、今危ないところなんです」


 彼らは亡霊のように白い顔で口々に言う。


 意味が分からなかった。頭部への衝撃は、血が出ない方がむしろ危険だと、何かで読んだ気がする。それで言うなら洋一は血を流している。病院にさえ連れて行けばまだ助かるのではないか。しかし、親戚たちにその意思はないようだった。もう助からないと決めつけている。


「待ってるんですよ、次が来るのを」


「こうなってたんです。初めから」


「まあ、連れて行こ。向こうで考えればいい」


 話はそれで終わりだった。

 誰が持ってきたのか、親戚たちは担架を座敷に運び込むと、その上に洋一を寝かせた。


「ま、待ってくれ!」

 私は慌てて止めた。「どこに連れて行く気なんですか?」


「裏ですよ」

 さも当然のことのように、叔父は言った。「裏の山です。水神様の元へと連れて行きます」


「昔あったという社のことか?」


「そうです」


 彼らは語り始めた。滔々と、まるで幼子に語り聞かせるように。



 かつて、裏の山には水神を祀る社が置かれていた。社といっても小さな祠のようなもので、とても神社などと呼べるようなものではなく、当然神主などもいない。誰が祀ったかもわからないような代物ではあったが、しかし村ではとても大事にされていた。土地が豊かなのも、我が家が栄えているのも、水神様のおかげだと誰もが信じていた。


 ある年のことだった。その年は凶作で、村は飢えていた。我が家は蓄えがあったことから、村に分け与え、誰も餓死することはなかった。しかし、それから数年、村では不作が続いた。次第に、我が家を妬む者が増え始めた。村が不作にも関わらず、我が家が栄えているのは、水神様の恩恵を独り占めにしているからだ、と。村人たちは社を村に移すように求めた。ご先祖様たちはそれに同意し、村に神社が建てられ、そこに水神様は移された。本当にそれで村の不作が解決したのかは分からないが、恐らくは改善したのだろう。


 だが、社が移ってからも、我が家では人知れず水神を祀り続けて来た。当然、その信仰は本家を主体に行われていたはずだが、父の代でそれは途絶えた。少なくとも、私は何も教えられていない。曾祖母のことがあったからだろう。きっと、父は自分の代で奇妙な伝統を廃すことに決めたのだ。


 しかし、本家が手を引いても、分家の者たちで信仰は続けられてきた。妻もまた、分家の出だ。彼女の態度を見るに、私が知らぬことも全て教わっていたのだろう。この場においては、本家だけが仲間外れというわけだ。


「水神様が生贄をご所望なのです」


 妻は言った。


「人身御供だと……? このご時世に……本気で言っているのか?」


「この家が傾いた時、水神様に一族の者を差し出すのです。そうすることで、我が家は繁栄を続けて来た」


「馬鹿な……」


「義父さんの代では、誰も献上しませんでした」

 消え入りそうな声で、妻は言った。「こうなることは分かっていた……。私の代で……こうなることは……」


「家が傾く……」


 ハッとする。私が店を引き継いだ時、店の業績は危険な状態になっていた。親戚たちを叱った父の剣幕……。もしやあの時も、この者たちは誰かを生贄にしようとしていたのでは? 父が私だけに向けた、あの焦燥のこもった眼差し……。


 あの時、私が生贄の候補だったのではないだろうか。

 そして、今……。


「洋一を……生贄にすると言うのか……?」


「家の存続のためです」

 きっぱりと妻は言った。彼女はとうの昔に覚悟を決めているらしかった。「ご先祖さまから受け継いだこの家を、私たちの代で終わりにするわけにはいかないのです」


「よく言った」


 親戚たちは同時に肯く。


「洋一の子はいくつになった?」


「まだ五歳ですが……大丈夫です。きっと立派に跡を継いでくれるでしょう」


 何かを言うべきではあった。組み敷いてでも彼らを止めなければ。しかし、この場の異様な雰囲気に私は飲まれていた。過去に縛られた者たち。先祖から受け継いだものを、次代に渡すことだけを考える者たち……。私の言葉が彼らに通じないことは明らかだった。


 彼らは私を無視して話を続ける。すぐに段取りがついたらしい。若い二人が担架を外へと運び出した。私も慌てて後を追いかける。後ろから、懐中電灯を持った叔父がついて来る。彼らは家の裏手から山の中に入った。



 先頭の叔父が照らす懐中電灯の光を頼りに、私たちは歩いた。誰も言葉を発する者はいなかった。足音の他は、木々の葉が揺れる音や、時折、鳥の羽ばたく音が聞こえるだけだった。彼らはまるで自分たちの庭であるかのように歩いていた。道筋を完全に把握しているらしく、叔父の歩みには迷いはなかった。恐らく、私の知らないところで彼らは何度も山中に入っていたのだろう。山道は舗装などされてはいないが、よく見れば踏み分けられた草が見えた。彼らにだけ分かる道があるのだ。どこをどう歩いているのか分からないのは、私だけのようだった。一度きつい上り坂があったが、それ以外は平坦な道が続いていた。老体でも問題の無いルートが用意されているのだろうか。


 何十分か、あるいは何時間か……。時間の感覚はとうに無くなっていた。私はずっと父のことを考えていた。父もこの道を通ったのだろうか。もしも父がこの場にいたら、一体どうしただろう。やはり叔父たちの行動を止めるだろうか。彼らの行動は異常だ。いくら伝統だろうが、人の命を犠牲にしていいはずがない。伝統だろうが……。


 ――そうやって続いてきた伝統を、お前は破棄するというのか。

 ――伝統が何だって言うんです? いずれ誰も見向きをしてくれなくなる!


 ――僕はね、あなたのお酒を一度だってうまいと思ったことはないんですよ。


 あれは、本心だったのだろうか。

 本心なのだろう。目を見れば分かる。蔑みのこもった冷たい目。

 で、あれば。

 ……大したものでもないのかもしれない。



 唐突に、眼前に沼が現れた。思わず、私は立ち止まる。大きな沼を月が照らしていた。何から何まで、父の話の通りだった。木々に挟まれるように、社があった。古くはあったが、しっかりと手入れされている。担架を橋の上に置くと、彼らは社の前へと向かった。叔父は徳利を献上すると、手を合わせる。私たちも倣った。


「んん……」


 担架の上で、洋一が唸り声を上げた。


「おい」


 叔父が言うと、若い二人は無言で洋一の口を布で縛った。


 舟があった。

 彼らが管理しているのだろうか。舟は年季を感じさせたが、こちらも手入れされているらしい。三人の男が乗っても、びくともしなかった。


「いいんですね」


 洋一を運んでいた二人は、叔父を見る。叔父は肯く。それから、三人で私を見た。

 私は洋一を見る。彼は起きていた。虚ろな目で私を見ていた。まだ夢うつつと言ったところで、状況を飲み込めていないらしい。その時、私には、洋一がまるで知らない人のように見えていた。一人息子に対して何の情も湧かずにいる自分が、不思議だった。


 私が何も言わずにいると、舟は橋を離れてしまった。叔父と私は橋の上から、舟を見送った。


「大丈夫です。これで全て上手くいきます」と、叔父が言った。


 私は答えなかった。

 ただ、空の月を見上げていた。月の光がやけに眩しく感じられた。あの月はずっと見ていたのだろうか。これまでも。そして、これからも。

 

 どぼんと音がした。

 音は一度きりで、後には何も聞こえなかった。

 

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