第2話

 酒造は既にシステム化していたため、代変わりしてもかつての私のように店を傾かせることはなかった。私は相談役に収まり、悠々自適な引退生活を送った。これまで仕事に費やしてきた時間の全てが自由に使えることは、私には喜びよりも恐怖であった。趣味というものを持たない私は、時間の使い方というものが皆目わからず、とにかくやれることをやり始めた。読書に耽り、旅行に興じ、近ごろは碁なども打ち始めた。しかし、どれにも熱中することはできず、途方に暮れるしかなかった。


 ある晩のことだった。私は妻と晩酌を共にしていた。酒に弱い妻に合わせてちびりちびりと飲むこの時間が私は好きだった。ほろ酔いの中で、思い出たちが浮かんだ傍から消えて行く。互いにもう何度聞いたか分からないよもやま話が、とても新鮮に感じられた。

 酒を飲みながらの話では、父がよく話題に出て来た。分家の娘である妻は、本家の当主である父に対して、小さな頃からどこか近寄りがたいところがあったらしく、嫁いでからも緊張がとれなかったらしい。私にとって父は厳しくはあったが、同時にユーモアに富んだ人でもあったため、近寄りがたいなどと思ったこともなかった。そのため、妻が知らない父の一面を話してやると、とても喜んだ。


 その日も、父の滑稽な失敗話を聞かせていた。楽しそうに笑っていた妻は、酔いが回ったのか、すぐに床についてしまった。その後も一人で飲み続けていたが、ふと、父から聞いた話を思い出した。酒にめっぽう強く、めったに酔うことのない父が珍しく酔っていた晩のこと。どうしてその話になったのかは覚えていない。気づいたら父は語り始めていた。小鉢のつまみをぼんやりと見つめる目は焦点が定まっていなかった。机の上ではない、どこか遠くを見ているかのように。



 ……恐ろしい話だった。父は祖母――私にとっては曾祖母を沼に捨てた。全てを語り終えると、父はハッと顔を上げる。みるみる父の酔いは覚めていった。「そういう夢を見た」と、父は誤魔化したが、その反応を見ればそれが幼少期に刻まれた楔であることは明らかだった。全てが本当にあったこととは思わないが、似たような体験をしたのは確かなようだ。決して私に弱みを見せることなどなかった父が、叱責に怯える子供のような顔になったことを覚えている。


 私は父の話の真偽について調べ始めた。

 幼い父は山に入り、そこにある沼に曾祖母を捨てた。


 私の住む村は山に囲まれている。私の家も山裾にあるが、周囲の山々は代々我が家が所有している。特に目ぼしい資源があるわけでも、山菜が採れるわけでもないから、ろくに手もつけていない。時折木々を間引くために業者を入れているだけだ。小さな頃などはよく入っていたが、大人になってからは足を踏み入れてはいない。だから、沼が本当にあるのかも、私には分からなかった。


 曾祖母を捨てたと言うが、この土地に姥捨ての風習があったとは聞いたことがない。この辺りの土地は豊かな土壌に恵まれており、祖父の代に飢饉などはなかったはずだ。試しに図書館で調べてみたが、やはりそのような話は残っていなかった。では、父が私に語ってくれた曾祖母の話は何だったのか。


 父は本当に曾祖母を殺したのだろうか。一体、何のために? 口減らしをしなければならない事情があったのか。それとも、何らかの揉め事が……。いずれにしてもただ事ではない。私はとりつかれたように村について調べ始めた。


 そこで分かったことだが、村では昔、水神を祀っていたそうだ。現在にも村の端に神社はあるが、それは建て直されたものらしい。古い社がどこにあったのかをはっきりと示す文献はなかったが、どうやら我が家の山中にある可能性が高いようだ。父が見たという古い社の話もそれを裏付ける。この目で確かめてみたいが、今さら山中に分け入って探索するには、私はいささかくたびれ過ぎていた。調査はそこで打ち切りにし、また茫漠たる日々の中に溶けて行った。



 もちろん店のことは気になってはいたものの、私がでしゃばると洋一は面白くないだろうと思い、距離を置いていた。それがいけなかったのかもしれない。


 ある日のことだった。親戚の一人が家に来て、店の現状を話してくれた。


 洋一の提唱する新たなシステムは思ったほどの効果を上げず、逆に質を落とした。焦った洋一は金をかけ、新酵母の開発を行うも、これも思った成果が上がらない。海外展開は大手メーカーとの競合に勝てず、頭打ち。ついには伝統を廃し、全ての工程を機械化、大量生産に踏み切るつもりだという。私は憤った。すぐにその場で洋一に連絡を取り、後日店に出向いた。


 洋一は笑顔で私を迎えてくれた。醸造所を案内してくれ、新しい挑戦、そして店の行く末について嬉々として話してくれた。店はこれからもっと拡大していくだろう。今は結果が出ていないが、見える形で表れていないだけ。何も心配することはない。私たちは社長室に入り、テーブルを挟んでソファに腰掛けた。そして、洋一は新商品だという日本酒を振る舞ってくれた。


 一口飲み、私はふうと息を吐いた。


「どうです? 評価も上々なんですよ」と、洋一は言った。


 舌に残るいやに辛い後味は……自惚れに自己愛、客の事を軽んじた独りよがり。かつての私の酒と、まるで同じじゃないか。


「これが美味いと感じるのか、お前は」


 私がそう言うと、洋一の笑顔が固まった。ソファから立ち上がり、私に背中を向ける。


 よかった、と思った。

 感じたのは失望ではなく、安堵。致命的ではなかった。彼の研鑽は無駄ではなく、確実に腕はある。これなら、いくらでも立て直すことはできる。私がそうだったように。


 しかし、私の言葉は洋一には届かなかった。


 説得はしだいに口論となった。


「お父さんは古いんです。いつまでも昔のやり方で上手くいくと思ってる。そりゃ、あなたの時代にはそれが正解だったのかもしれない。しかし今の時代にはそんなものは通用しないんですよ。日々世界は進歩している。その波に負けないように僕らも進歩し続けなきゃいけないんだ」


「受け継いできた大切なものなんだ。私はそれを父から譲り受け、父もまた祖父から譲り受けた。そうやって続いてきた伝統を、お前は破棄するというのか」


「伝統が何だって言うんです? いずれ誰も見向きをしてくれなくなる!」


 吐き捨てるように、洋一は言った。


「そんなことはないだろう」


「あなたは分かっていない。カビの生えた古臭い酒なんて誰が飲みたいと思うのか」


「何だと? もう一度言ってみろ」


 つい、カッとなってしまった。私の顔を見て、嘲るように洋一は笑った。


「僕はね、あなたのお酒を一度だってうまいと思ったことはないんですよ」


 全身に、どす黒い血が流れるのを感じた。アルコールが身体にいきわたるように、負の感情が私を支配した。



 我に返ると、洋一は床に倒れていた。その頭からは血が流れ、カーペットを染めている。私はガラスの灰皿を床に落とした。呆然と洋一を見下ろす。声をかけることができなかった。話す方法を忘れてしまったのか、口から言葉が出て来ない。すると、背後で小さな唸り声が聞こえた。ハッとして振り返ると、叔父が立っていた。


「い、医者を……呼んでくれ……」


 何とか言葉を絞り出す。自分の声ではないようだった。叔父は私の言葉が聞こえなかったかのように、ジッと洋一を見つめている。ようやく、私も冷静を取り戻した。慌てて携帯電話を取り出し、番号を押す。すると、叔父が私の手を押さえた。


「何をするんです……?」


 見ると、能面のような無表情がそこにあった。


「こうなっちまうんだよ、結局。こうなっちまうんだ」


 最初から分かっていたかのように、叔父は言った。


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