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第1話


 ぬかるみに足をとられる。思わず転びそうになるが、辛うじて踏みとどまった。


「何やっとうとや」


 前方の闇の中から声がする。提灯を向けると、ぼんやりと父の姿が浮かんで見えた。急いで父の元へと向かおうと、強く地面を蹴る。泥が顔に飛び散った。


「お前がおらんと前が見えんったい」


 父はぐっしょりと汗をかいていた。それも当然だろう。一日降り続いた雨で地面は歩くのもままならない悪路となっていたし、そんな道を十貫もの重荷を背負って歩いているのだ。代わったところで、小さな身体では満足に動くこともできないだろう。

 ふと、冷気とともに臭気が鼻を突いた。泥の腐ったような臭いだった。


「もう少しやけん、頑張れ」


 父はそう言うと、私を前にと押しやる。私は提灯を前方に出し、道を進んだ。

 星の見えない嫌な夜だった。こんな夜に出歩くのは好きではない。森を歩くとなるとなおさらだ。提灯の頼りない灯りの外側には重みを感じさせる暗闇が広がっている。夜の静寂に耳が痛んだ。闇がこちらを睨んでいる……涎を垂らして提灯の灯りが消えるのを今か今かと待ち構えている、そんな気がした。思わず身震いをしてしまう。


「怖いか」と、父は言った。その声はわずかに上ずっているように聞こえた。


「いんや。寒いだけや」


 そう言って、鼻をすするふりをする。


「大丈夫なんか」 


 ばあばが言った。


「大丈夫や」

 そう言うと、あとはただ黙々と歩き続けた。


 やがて木々を抜けると、目の前に大きな沼が現れた。この山にこんな沼があるとは知らなかった。父は沼を迂回するように歩く。木の桟橋があり、そこには一艘の小舟が繋がれていた。

 木々に挟まれるような形で、古びた社があった。父は社に徳利を献上し、手を合わせる。私も、婆も同様に手を合わせた。


「ここで待っとけ」


 父は婆を舟に乗せると、自らも乗り込んだ。櫂で底をつくと、小舟は動いた。私はぼんやりと遠ざかる提灯の灯りを眺めていた。闇の中に一人残されたというのに不思議と恐怖は感じなかった。


 しばらくして、どぼんと音がした。音は一度きりで、あとは何も聞こえなかった。やがて小舟が戻ってきた。乗っているのは父一人だった。父は何も言わず、小舟を桟橋に着けると、縄で結び始めた。私は手伝ったが、何を聞くこともなかった。私たちは元来た道を戻った。私は最後に振り返り、沼を見た。揺らめきもない沼の無表情がただただ恐ろしかった。


 ●


 慣習に倣い、父の葬儀は自宅で執り行われた。喪主の私は次々と来る来賓たちの挨拶に追われ、息つく暇もなかった。彼らは口をそろえて、「お父さんはきっと安心して旅立ったと思いますよ」と言ってくれた。こういう場においての決まり文句なのだろうが、客観的に見るとそう思えるのかもしれない。実際、私は父の跡継ぎとしては完璧とはとても言えまいが、上々ではあるように思う。


 私の家は古くから続く酒造家である。昔ながらの酒蔵を用い、機械に頼らない手仕事にこだわった酒造りは評判が良く全国的に名を知られている。伝統を疎かにせず、なおかつ自らの価値観を混ぜ合わせた父の酒は多くの人から評価された。我が家の名を知らしめたのは父の功績といってもよかった。



 父から店を譲り受けた当時の私は、過大な自尊に満ち溢れていた。大学で最新の酒造を学んだこともあり、父を越える自信があった。手造りにこだわる父を古い人間とさえ思っていた。しかし私には父の味を再現することができなかった。父はいわゆる背中で語る職人気質の人間だったので、現役中には私に何一つとして教授してくれなかった。もちろん私も指をくわえて眺めていたわけではなく、一番近くで勉強してきたつもりだった。しかし、私は何一つとして学んでいなかったのだ。


 私の酒は父の酒とは雲泥であった。大学で身に着けた知識も、国内外の蔵元を訪ね歩いた経験も、何一つとして役に立たなかった。私の絶望は日に日に増し、失敗に失敗を重ねる苦悩はついに売り上げの悪化という最悪の形で白日に現れた。親族たちは私に無能の烙印を押し、経営から外す決断をした。彼らは酒蔵に染みついた古い体制を、私と一緒に排するつもりだった。最新の機械を導入し、より効率的な生産を可能とする酒造を目指した。伝統的な酒造が失われることには断固反対だったが、しかし無能の若輩の意見など聞く者はおらず、不本意ながら彼らに同意するしかなかった。そこに立ちふさがったのは、父であった。


 父の剣幕はすさまじかった。あまり多くを語らぬ父が、あれほど怒りを見せたのを私は初めて見た。嘉永の時代から受け継がれてきたこの技術を絶やすことは文化の損失であり、ひいては我が家の存在意義を奪うことに他ならない……云々。功労者の父の言葉を無下にできる者はいなかった。父の強い反対のおかげで伝統は守られた。しかしこれは猶予である。父の亡きあと、彼らは再び伝統の破棄を画策するはずで、その日はそう遠くはない。父にもそれが分かっていたはずだ。親族たちを怒鳴りつけ、私を一瞥した父の目は焦燥が浮かんで見えた。


 私は何をやっているのか。父は私に期待していたからこそ店を譲ってくれたのではなかったか。私は自分が恥ずかしくなった。このままで終わっていいはずがない。父を失望させたままで終わらせていいはずがない。私は一から酒造を勉強し直した。父の後を追いかけることをやめ、自分の酒を追求した。


 まず麹を見直すことから始めた。酒造りにおいては、昔から「一に麹、二に酒母、三にもろみ」と言われているように、最も大事なのはこの麹だ。この出来が酒質を決めると言っても過言ではない。簡略化していた麹づくりを、もう一度人の手によって時間をかけて行うことにした。蒸米を手に取り随時硬さを確認することを義務付け、また水分量も詳しくチェックさせた。種付け後も何度も慎重に手入れを繰り返させる。とにかく人の手によって機械には決してできない繊細で緻密な作業を行った。酒母造りも効率のいい速醸をやめ、昔ながらの手間のかかる山廃に戻した。時間をかければいいものができるとは思わないが、我が家における酒にはやはりそれが一番ではないかと思ったのだ。しかし手作業にこだわるだけでなく、必要な部分は機械を導入した。伝統と機械の融合が、私の考える道だった。


 私の酒はすぐに評判になった。辛くも味わい深い、どこか懐かしい味……人々はそう評した。しだいに経営は回復し、やがて右肩上がりを始めた。親族たちはかつて父に向けていたものと同じ眼差しを私に向けるようになった。ある晩、父と晩食を共にした私は、父に大吟醸を振舞った。父は一言、「うまい」と言った。その一言には、言葉以上にたくさんのものが詰まっていた。そして、言葉以上の価値があった。私は天を見上げ、静かに息を吐いた。その晩ほど酒が美味かった夜はない。父が死んだのはそんな矢先のことだった。



「お待ちしておりました、叔母さん」


 ふと、私の意識は自宅に戻る。玄関では、息子の洋一が受付を担当していた。まだまだ子供だと思っていたが、喪服に身を包んだ彼の姿は普段よりも大人にみえた。知らないうちに成長していたんだなと思う。息子は私と同じく大学で酒造を学び、最新の知識を身に着けている。数年前から酒造を手伝ってくれていた。彼はかつての私のように情熱に目を輝かせていた。我が店は近ごろ海外展開も進めているが、その全権を担うのは彼であった。どうやら洋一には私にはない経営の才能、未来を見通す鋭い目があるようで、順調に利益を伸ばしていた。たくましく成長した息子を見て、思う。あるいは、今度のことは良い機会かもしれない。


 〇


 父の葬儀を終えた後、集まった親族に対して私は息子に経営を譲るつもりだと話した。彼らは一様に驚いた顔を見せ、留意するように言って来た。しかし私の決意は固かった。私のような古い経営者が新しい時代にいつまでも居座っているべきではない、時代にあった経営者が必要である——。私の言葉を聞き、彼らも承知してくれた。私は息子の顔を見た。そこには微かな当惑と、期待に燃える若者がいた。


「後は僕にお任せください。必ずこの店をもっと大きくしてみせます」


「期待している」


 肩の荷が下りたように感じた。


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