第11話~市~
暫くの時が流れて
六角義治が、六角の重臣である後藤賢豊とその息子を暗殺したという話が転がりこんできました。
これが後の観音寺騒動です。
その話を聞いて長政は驚愕しました。長政の中での義治はとても温厚で、暗殺等到底出来る男ではなかったからです。
「歳月は人を変えるもの」
気づくと背後には、母である小野殿が立っておりました。
「母上、いらっしゃったのですか……」
長政は、心を見透かされるのを防ぐかの様に視線をおもむろに外すと、小野殿の前へと座りました。
「六角はこれからもっと、大変な事になるであろう」
小野殿は静かにそう言うと、自分も長政の前へと座りました。
「あの心優しき義治が、六角の重臣達を暗殺する等……わたくしにはとても信じられませぬ」
「お前は本当に、義治殿と仲が良かった、ゆえに庇いたい気持ちもわかるが……重臣の暗殺は如何なものか。六角はもはや終わり」
小野殿は淡々とそう言うと、目の前に近江の地図を広げました。
「長政……浅井はもっと強くならねばならぬ。そしてそれには、同盟が不可欠」
「それは確かにそうではありますが……つまり、この六角家の騒動を逆手に取れと?」
「六角は今が狙い目よ、それに義治殿は、義賢殿に比べると、長政に対して甘い」
「母上………それは、あまり気分が良いものではありませぬ……」
長政は少し辛そうな表情をすると、小野殿の瞳をじっと見つめました。
「すまぬ、そなたの気持ちを軽んじた発言であったな………しかし、そなたを宿し人質として観音寺城へ向かった、この母の気持ちも察して欲しい」
小野殿はゆっくりと立ち上がると、縁側へと歩みを進めました。
庭には綺麗な季節の花々が咲き誇り、揚羽蝶が甘い蜜を求めてふわふわと浮遊していて、血生臭い戦国の世とは無縁な世界を構築しておりました。
「長政、ところで織田信長殿を知っているだろうか」
長政は突然の質問に、驚きを隠せずにいながらも先ほど目の前に出された近江の地図に目をやりました。
織田信長は破竹の勢いで、誰が見ても敵に回したくない、そんな相手でありました。
そして、その織田が次に欲するであろう土地は、浅井であろう事も一目瞭然でありました。
「これを見てもわかるであろう。織田の狙いは浅井、先手を打っておかねばならぬ」
「しかし母上、織田はかなりの変わり者と聞きまする。浅井からの同盟話等を聞く男でありましょうか」
すると小野殿は再び近江の地図の前に座り込むと、懐から小刀を取り出し、地図の上にグサリと突き刺しました。
「は、母上………」
あまりに突飛な行動に、長政は唖然としながらも、小野殿の動向を見守りました。
『六角はしばし、荒波に揉まれる小舟の様にゆらゆらと、動きが不安定となるだろう。そして織田、ここを浅井は押さえておかねばならぬ』
「織田を………」
長政は刀で分断された、近江の北と南に目を配らせながら、小野殿と次の言葉を待ちました。
「織田信長の元に、市という娘がいると聞く。その娘との縁組みを進めようと思っておる」
「なるほど、それは名案。ただ、それでは父上が恐らく黙ってはおりますまい。朝倉との不戦の条件を飲んで頂けるならば、わたくしとしては特に何も申す事はございませぬ」
その頃になると、竹生島に幽閉されていた久政も小谷城に戻っており、城下の小さな庵で隠居生活を送っておりました。
長政の言葉に何度も頷いた小野殿は、「先の先を読んでこそ当主」と満足気に微笑むと、もう次の瞬間には姿を消しておりました。
「たまに、母上の事が怖くなる」
長政はそう呟くと、小さくため息をついたのでした。
*
「お呼びでございますか、兄上」
長身で艶やかな黒髪、殿方であらば一瞬で腑抜けになってしまう、そんな美貌を持つ姫の名は、市と言いました。
市は、織田信長と斎藤道三の娘、帰蝶との間に生まれた女子でありましたが、帰蝶が産み落としてすぐ他界した事もあり、信長によって秘密裏に、尾張の鳳来寺で、隠され育てられておりました。
そんな市も年頃となると、信長の元へ呼び寄せられ、年齢も少しばかり上に偽ると、信長の妹として公にされたのでありました。
「市、お前の輿入れ先が決まった」
信長は、市にそう告げると目の前に置かれていた柿を荒々しく掴んで丸齧りし、口の中に残った皮を、無造作にその場に吐き出しました。
すると、横についていた小姓が立ち上がり、その吐き捨てられた柿の皮を、素手で片付け始めました。
「これを使いなさい」
市はその様子を見かねたのか、懐から一枚の紙を取り出し、小姓へと手渡そうとしました。
「お市様……も、勿体ない事にございます」
小姓が慌てふためいていると、市は気にする事はないと、押し付ける様に再度その紙を手渡し、にっこりと微笑みました。
「市、浅井に行ってもそのままでいてくれたらいい。浅井の殿はきっと、お前に骨抜きになる」
「浅井………市は、浅井家に嫁ぐのですか!?」
「あぁ、浅井の土地は京への通り道。織田が天下統一をするにあたり、ここはどうしても欲しいのだ」
「浅井家へ……かしこまりました。喜んで市は、浅井に参りましょう」
市は、あどけない少女の顔をして、まだ見ぬ未来の夫の姿を思い描きながら、目を閉じたのでした。
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