第8話~於慶~


 六角を出立した浅井の一行は、順調に浅井の本拠地である小谷城に向かっておりました。


 その一行の駕篭のひとつには、六角義賢の家臣である、平井定武の娘が乗っておりました。


 駕篭の揺れに身を任せながら、娘はこれから嫁ぐ浅井家での日々に、不安と期待の想いでいっぱいになっておりました。



 どれくらい揺られていた事でしょう。



 駕篭はその歩みを止めると、静かにその場におろされました。



「まだ半分も進んではいないはず……」



 娘は駕篭の横に下がった簾の隙間から、そっと外を覗き込もうとしました。

 するとその瞬間、その簾が捲し上げられると、外にはひとりの、背の高き若き武将が立っておりました。



「お初にお目にかかる、浅井……新九郎だ」



 長政は、六角義賢から授かった賢政の名を名乗る事に一瞬の躊躇う素振りを見せると、以前の名を名乗りました。



「あなた様が新九郎様……お初にお目にかかります。平井の家より参りました、名は……」


「すまぬ!」


 平井の娘は、突如言葉を遮られ唖然とした表情をすると、その場で固まってしまいました。


「申し訳ない、そなたとは夫婦にはなれぬ。ここから今すぐ、六角に戻って欲しい」


「それは一体……どういう事にございますか」


 娘はいきなりの、本来ならば夫になるはずだった、浅井長政からの思いがけない言葉に、狼狽えずにはいられませんでした。



「そなたに問題があるわけではない。我々はもうこのまま、浅井から六角に戻る事はないのだ」



「それはつまり………」



 事態を瞬時に飲み込んだ平井の娘は、一気に顔を青ざめさせました。


 浅井と六角が、これから戦になる


 平井の娘は全てを理解すると、今度は駕篭の中で深々と頭を下げました。



「新九郎様の評判は、幼き頃より耳に届いておりました。その奥方になれる事、嬉しく思うておりました……」


「すまぬ、許して欲しい……」



 長政はその場に跪くと、娘に対して自らも頭を下げました。


「許すも何も、この戦乱の世では致し方ない事。では、今すぐ六角に戻る事に致しましょう。新九郎様のご武運をお祈り致しております」


「裏切り者に労う言葉をかけるとは、嫁に出来ず、つくづく残念じゃ」


 長政は微笑みながら立ち上がると、馬に颯爽と跨がりました。



「そなたを六角に無事送り届ける様、全て手筈は整っておる、安心せよ」



 長政はそう言うと、その場から去って行きました。



 平井の娘は、その後ろ姿を目に焼き付けるかの様に、いつまでも駕篭の中から目で追い続けたのでした。





 *



「おかえりなさいませ!」



 小谷城に到着した、長政の一行をまず出迎えたのは、長政の姉である於慶(おけい)でした。



 小野殿は、大人の女性になった我が娘との再会に涙を浮かべると、強く抱きしめました。



「苦労をかけましたね……」


「苦労は母上様こそにございます。本当に人質としての六角でのご苦労、私には計りかねまする」


「ところで、久政様は?長政を、浅井の跡取りを早く見て頂きたいもの」


「それが………父上はまた山菜を採りに朝から出かけられたまま、未だに戻って来られぬのです」



「殿は相変わらずか……まぁよい、長政、姉上の於慶じゃ」



 小野殿に姉を紹介された長政は、少し緊張しながらも背筋を伸ばし、ハキハキとした口調で挨拶をしました。



「姉上、お初にお目にかかります。長政にございます」


「これはこれは、立派な浅井の跡継ぎの顔をされておる。母上、これからが楽しみでありますなぁ」



 於慶がにこにこと長政の顔を優しく見つめると、長政は照れくさそうに顔を赤らめ、俯いてしまいました。




「よく戻られた」



 突如、部屋に入ってきたのは尼僧姿の蔵屋でありました。


 談笑していた皆々は、すぐ様その場にひれ伏しました。


 この方が、浅井蔵屋様か……



 浅井嫡流である蔵屋の纏う空気に飲み込まれそうになりながら、長政は伏してすぐ、目の前にある畳の香りを感じながら、緊張で動けずにいました。


 蔵屋はその姿に、優しく微笑むと顔を上げる様に長政を促しました。



「長政、これをそなたに」



 長政の前には、蔵屋から差し出された茶色の数珠がひとつ、畳の上に置かれておりました。



「これは………」


「これは、久政殿の母である千代鶴様の数珠。つまり、そなたの大母様の物じゃ。これをそなたに持っていて欲しいのだ」


「そんな大事な物を……よろしいのでしょうか」


「千代鶴様が、これからのそなたを守ってくれるであろう」


「有り難き幸せ、大事にいつも肌身離さず身につけておく様に致しまする」



 長政は数珠を手に取ると、手のひらの上でこれから起こる色々な重みも感じながら、深く深く見つめ続けたのでした。





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