第7話~筋書き通り~



「全て、筋書き通り」



 小野殿は、皆が寝静まった暗闇の中で一人、硯で静かに墨を磨っていました。


 ほどよく墨がすれた頃、傍らに置いていた小刀を右手に持った小野殿は、自分の左手の人差し指にその刃先を押し当てました。


「うっ……」


 小野殿が顔を少し歪めると、じんわりと赤色の血液が、指の腹に溢れ出てきました。


 そして次にその血液を、硯の中へと落とし込み始めました。




 ぽたり………


 ぽたり………


 ぽたり……




 墨の中へと血の雫は落ちていき、闇の世界に赤色の強き想いは一筋の弧を描いて、溶け込んでいったのでした。





 *



 その日、賢政が出立の仕度をしていると、部屋の中へ義治が賑やかにやってきました。


 気心しれた間柄のふたりには、改まった挨拶等は不要で、義治はどさりと賢政の前に座り込むと、早速、里帰りの準備の進み具合を尋ねてきました。



「賢政、そなたと平井の娘との婚儀に出席出来ぬのが一番残念でしかたがないが、また此方に戻った際、改めて宴をしようではないか。あぁその日が楽しみだ、急かすわけではないが、出来るだけ早く此方に戻ってきてくれよ?」



 義治が笑顔で賢政にそう語りかけると、賢政は手にしていた書物を一旦傍らに置き、義治の前へ自分の身体を向けると、義治の顔を真剣な顔つきで見つめ始めました。



「な、なんだ改まって………」



 義治は少し戸惑いの表情を浮かべながら、真正面に向き合った賢政の顔を自分も見つめ返しました。



「義治、お前とは生まれた時からこの観音寺城で共に育ってきた」


「あぁ……賢政、そなたの事は血を分けた兄弟同然、いやそれ以上に想うておる」


「それは無論、この私もだ。こんな事を申してはいけないのかもしれないが、父君である義賢様とそなたが争う日がもしこれから来たとしても、迷う事なくそなたにつく、それくらいに大事に想うておる。それは生涯変わりはしない、どうか信じて欲しい」



「あはははは、それは頼もしい。まぁそんな日は訪れはしないさ、自分の力量は自分が一番わかっておる。父上を私は生涯越える事は出来ぬ」



 少し憂いを帯びた表情をした義治は、そう言うとそっと賢政に向けていた視線を外しました。



 その姿を、賢政もまた憂いを帯びた瞳で見つめ続けていましたが、おもむろに傍らに置いた書物を取り上げると、間に挟んでいたひとつの文を取り出しました。



「これを……義治、そなたに」


「文を……??」



 義治はそれを受け取ると、早速開こうとしました。



「待て、それは今は読んではならぬ」



 賢政が右手を差し出し、まさに文を開こうとする義治の動きを制すると、義治はいぶかしげに賢政の顔を見つめました。



「どういう事だ賢政、文を渡しておきながら読むななど…」



「今は理由は言えぬ……ただ、この文はその時が来た時に、そなたに読んでもらいたいのだ」


「その……時?それは今ではないのか」


「今ではない」


「では、それはいつなのだ?」


「だから、それは今は言えぬのだ」




 堂々巡りな会話を暫し繰り返した後、義治は大きくため息をつくと、その文を懐の中へと黙ってしまい込みました。




「わかった……利発なお前の事だ。これが生きる時が、これからきっと来るのであろう。その日が来るまでは、決して読まずにいよう」



「有り難う義治、私はお前が一番大事なのだ」



「そんな言葉は、嫁となる平井の娘に言ってやれ」



 義治は照れくさそうに微笑みながらそう言って立ち上がると「ではまた戻る日を楽しみにしている」と言葉を残し、部屋を出て行ったのでした。




「これで良いのですね?母上」



 部屋で賢政がひとりになると、気配もなく忍び装束に身を包んだ小野殿がそこに立っていました。



「えぇ、全て筋書き通り、我が子ながら天晴れ」


「義治だけは裏切らないと……それだけはどうか約束して下さい」


「わかっておる。義治殿がちゃんと術を受け入れたらばだが」


「義治は純粋すぎる男、私との約束を反古にしたりは致しませぬ」


「その純粋さが仇にならねばよいが。どちらにせよ、浅井は変わらねばならぬ、今から忙しくなるぞ長政」



「長政……?母上、我が子の名も忘れたのですか??」



「六角がつけた賢政の名など、母は最初から認めてなどおらぬ。そなたはこれから浅井に戻り、長政と名乗る事になる。この名は、竹生島の大弁財天様から頂きし名、大事にされよ」



「竹生島の………」



 浅井長政は、これから起こる色々に困惑しながらも、毘沙門天の如く、熱き炎が身体の中を駆け巡るのを感じずにはいられませんでした。



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