第97話
「空宮さん? どうしたんだ? もう名前決まったのか?」
「……違うわよ」
では一体何のために声をかけてきたのか分からず小首を傾げていると、空宮もまたどこか言い難そうに、目を少しばかり泳がせている。
「…………礼を言うわ」
「え? ……礼?」
「あの子…………小稲のことよ」
「ああ……」
なるほど。それで合点がいった。律儀な彼女のことだ。自分のことではなくとも、大切な親友が立ち直ったことに感謝しているようだ。
「気にしなくていいって。ドライバーとしてやるべきことをやっただけだしな」
「……ドライバーの仕事じゃないと思うけど」
ジト目で見つめられ、思わず目を逸らしてしまう。確かに彼女の言う通りだからだ。
「まあいいわ。……あの子ね、自分を過小評価し過ぎるきらいがあるのよ」
それは何となく分かる。小稲は守られる側にずっといたからか、自分に自信が持てないのだろう。それにいつも傍にいたのは、頼りになる自分よりも年上の少女。その少女は元々芸能界で子役をしていた経験もあり、才能も有って努力家で、小稲にとって眩しい存在だったろう。
そんな価値の高い存在が近くにいたものだから、常に自分と比べて評価を下につけていてもおかしくはない。
「けどね、あの子はきっと将来……凄いアイドルになるわ」
「それは……経験則か?」
子役時に色々なアイドルとも接してきたことで、その人物評は確かなものなのかもしれない。
「この世界に絶対はないけど、あの子はそこに立てるだけの資質はあるはずよ」
六道は芸能界に詳しくはないから定かではないが、単純に実力があるだけでは通じない世界だということだけは何となくわかる。
それこそコネクションや権力などの俗物的な力が必要になるだろう。簡単にいえば、大物に気に入られれば、それほど才能がなくともテレビなどで露出を得ることができるということだ。
しかし空宮が言うには、そんなコネなどなくとも、小稲ならば実力だけで成り上がれるだけの素質を持っているとのこと。
(確かに小稲は自分に自信がなくて、そのせいで失敗しないように無難な立ち位置で振る舞ってるけど、そういえばあの子が失敗したところを見たことが無いな)
レッスンでも本番でも、ミスらしいミスをして足を引っ張っているところを見たことがない。ミスというならば、月丘や空宮の方が多いくらいだ。
全力全開で自分のすべてを出すパフォーマンスをしているわけではないから、その分ミスする確率も低いとはいえど、それでも思い返せば小稲の異才が際立つ。
ダンスレッスンでも、一度そのダンスを見ればある程度は完璧に近い形で踊ることができていた。歌にしても音がズレたりせずにミスらしいミスはない。少なくとも六道がこの事務所に来てから今日まで、小稲のミスを目にした覚えはなかった。
「小稲が自分に自信を持ったら、絶対にとんでもないアイドルになるわ。それこそかつて伝説を築いた星町聖子のようにね」
星町聖子――アイドルに興味がなかった六道でも知っている、十年以上前に活躍した人物である。
彼女の歌は聴く者すべてを虜にし、ダンスをすれば日本中の多くが真似をするほどの絶大な人気を誇ったアイドルだ。
デビューシングルから引退するまで、そのすべてにおいてオリコンチャートで一位を獲得する偉業を達成し、野外で行われた『最後のライブ』と呼ばれたイベントでは、三十万人が集まったという恐ろしいまでの記録を残している。
ただ、そんな絶頂期において、彼女はそのライブで突然引退を発表し、同時に結婚をするというファンにとっては戦慄する言葉を放ち舞台を降りたのだった。
多くの者たちに衝撃を与えながらも、彼女はファンの人たちに祝福された。それはきっと彼女がそれだけ大勢の者たちに笑顔と夢を与えたからだと六道は思う。
「もしそうなったら俺も同じ事務所で働いている立場としては鼻が高いな」
アイドル界ではもちろん多くの者たちが第二の星町聖子を育てようと必死だが、いまだそこまでの域に達しているアイドルは出現していない。
「だからあの子には、アタシの背ばっかり追いかけてほしくないのよ」
「なるほど。それでああやって突き放したわけだ。けどもう少し言葉を選べたんじゃないか?」
「っ……しょうがないでしょ。ああいう言い方しかできないもん」
もん、とは可愛らしく答えたものだが、空宮もやはり言い過ぎたとは思っているらしい。
「だ、だからアンタには感謝してるのよ。お蔭で、少しは前向きになってくれたから」
「……けど、負けるつもりもないんだろ?」
「フン、当然よ! アタシだって誰をも魅了するアイドルを目指してるもの! 小稲にも、いいえ、誰にも負けるつもりはないわ!」
相変わらずの自信家だ。いや、彼女の場合はそう自分に言い聞かせて気持ちを昂らせているように見える。
芸能界の難しさを理解している彼女だからこそ、そういう気概もまた必要なのだと理解しているのだろう。
そこで前々から気になっていたことを聞こうと思った。
「そういえば空宮って子役をやってたんだよな?」
「ええ、そうよ。それが何?」
「それなのに何でアイドルになろうって思ったんだ? 結構人気だったんだろ?」
「それは……」
その質問で彼女の表情に陰りが生まれる。これはまさかまた何かしらの地雷を踏んでしまったかと後悔していると――。
「――――――失礼致します」
直後に事務所の入り口から声が聞こえた。見ると、そこには燕尾服を来た老齢の男性が立っていたので、それに気づいた横森が慌てて近づいていく。
ここに客なんて珍しいなと思っていたが、傍にいる空宮の表情が強張っていることに気づく。具合でも悪いのかと心配になるが、そこへ客の男性がこちらに向かって歩いてきて、空宮の前で止まった。
「お久しぶりです、お嬢様」
明らかに空宮に対して放たれた言葉。
まるで執事然としたその男性の登場に誰もが黙って見守っていると、空宮はキッとした目つきを宿して口を開く。
「何の用なの、
どうやら矢引という名の男性は、そのまま無表情のまま静かに答える。
「奥様からの伝言をお伝えに参りました」
その言葉に、空宮の喉がゴクリとなる。そして静けさを破るように矢引が言う。
「そろそろ遊ぶのを止めて家に戻れとのことでございます」
空宮にとって爆撃のような言葉が放たれたのであった。
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