第45話
「いちいち重苦しい。お前が僕に依存していたことは知ってたけど、もう……面倒になった。だってなぁ、その事務所にいても絶対僕は成り上がれないし」
私は悠々と語る兄さんの声に、半ば意識が朦朧としながら聞いていた。
「まあ、多少お前には期待してたけど、他の連中は並以下。お前個人で昇れる距離なんてタカがしれてる。いずれ沈む事務所に僕の出世の目はない。分かるだろ? 大手のプロデューサーの席と、お前……どっちを選ぶかなんて明白だ」
「……に、兄さん……」
「これから僕は、お前よりも断然優れているアイドルたちを押し上げて上に行く。いずれ【スターキャッスル】のトップになり、その名を聞かない者がいないほどの高みへと上がる。だから…………さよならだ、八ノ神夕羽」
兄さんとまだ細いながらも繋がっていたと思っていた糸が、プツンと音を立てて切れた。
同時に通話も切れ、ただただ私の呼吸音だけが室内に響き渡る。
どんどん早まる呼吸。それが辛くて、苦しくて、気づけば床に前のめりに倒れていた。
「――夕羽っ!」
意識が遠のく直後に聞こえたのは姉さんの声だった。
それから私は、事務所のソファの上で目を覚ますと、姉さんたちが不安そうに見つめていた。
レッスン室で何があったのか、姉さんはスマホを握って倒れていた私を見て察したのか、みんなもしばらくは兄さんの話題を口にしなかった。
仕事も、レッスンも、私は休んで自宅で療養していた。何もやる気が出なかったのだ。
それでも時間は過ぎていく。空宮さんたちは、日々のレッスンに追われ、何度もオーディションを受けては失敗を繰り返している。
姉さんが毎日様子を見に来るが、その度に私は八つ当たりをしてしまう。姉さんだって私と同じように傷ついたはずなのに、この時の私は世界で一番自分が不幸だと思い、殻に閉じこもって泣いていた。
そんなある日のことだ。姉さんが意を決したかのような表情で部屋の中に入ってきた。
「あんたの人生よ。どう決断するのも、あんたの自由。何を選ぶにしても、あたしはあんたを尊重するわ」
「…………」
「でもね、何かを選ぶ前に、一つだけお願いを聞いてほしいのよ」
そう言って姉さんは、一つのUSBメモリを見せてきた。
「ここに入っているデータだけは見て決めてちょうだい」
もう言うことはないようで、そのままメモリを机の上に置いて静かに部屋から出て行った。
それでもしばらくは、私は呆然としたまま時間を過ごし、気づけば外は真っ暗で時刻は深夜二時を回っていた。
昨日から何も食べておらず、さすがに空腹だと立ち上がった時、不意に机の上のメモリが目に入った。
何気なく手に取り、パソコンに繋げて、そこに記録されているデータを確認する。
どうやら動画のようだ。そして映し出された光景は、自分がよく知る事務所。
そこでは横森さんが、普段のようにパソコン作業をしている。そこへふらりと姿を見せる社長は、こっそりとキッチン棚にあるスナック菓子を手に取り、そこを見られて横森さんに注意されていた。
場面は移り変わり、今度はレッスン室で、そこでは空宮さんと月丘さんが一緒にダンスレッスンをしている。脇目も振らずに踊っている姿が、少し前の自分と重なった。
また場面が切り替わり、今度も事務所内。そこでは社長たちだけでなく、空宮さんたち全員がのんびり寛いでいる。
……ここには日常があった。そう、いつもなら、そこには自分もいたはず。
レッスンは辛いけれど、ともに高みを目指そうとする仲間がいて、それを支えてくれる人たちがいて……。
時には失敗することもあるが、成功した時は、みんなで喜びの声を上げた。
それが今まで自分が過ごしてきた日々だった。
映像が暗転し、終わったのかと思ったが……。
「――聞こえてるかな、夕羽ちゃん。私、月丘姫香だよ」
月丘……さん?
「きっと夕羽ちゃんの心の痛みは、私には全部分からないと思う。……だからそれがとても悔しい」
いつも明るく皆を元気にさせる月丘さんの、今にも消えそうなほど震える声。本当に悔しくてやるせないといった気持ちが伝わってくる。
「本当は今すぐにでも駆け付けたいけど……」
何度か月丘さんや横森さんなど、いろんな人たちが実際に家の前まで来てくれた。しかし私は会うつもりはなく門前払いをしていたのである。
「でも、夕羽ちゃん……これだけは忘れないで。私たちは友達で仲間で……そして、ライバルだって思ってる!」
今度は力強い声音だ。
「あはは、オーディションで結果を残してる夕羽と、まだ半人前以下の私なんかじゃ、ライバル発言なんて失礼かもだけど……。でも、待ってて。いつか夕羽ちゃんと同じ舞台に立てるように私も頑張るから!」
「……月丘さん」
「だからその……夕羽ちゃんには、できれば私の一歩前を歩いていてほしいなぁ……とか思うのです、はい」
自分の憧れだからと、彼女は言う。
「はいはい、いつまで話してんのよ、長いわよ姫香」
「ちょ、タマモちゃん! いきなり入ってきちゃダメだよぉ!」
「うるさいわね。……おほん、聞いてるかしら、夕羽」
今度は空宮さんだ。
「アタシとしてはアンタがアイドルを辞めようがどうだっていいわ。だって選ぶのは個人の自由だしね。それにライバルが勝手に脱落していくなら、こっちとしては楽だし」
相変わらず厳しいことをズケズケ言ってくれる。
「けどね……それだと一つ問題があるのよねぇ」
……問題?
「今のところ、悔しいけれどアイドルとしての格はアンタの方が上よ。つまり認めたくはないけれど、アタシは明白な敗北感を味わっているってこと」
彼女は何が言いたいのだろうか……?
「もしこのままアンタが辞めれば、完全なる勝ち逃げよね? もう一生勝てない存在になりかねない。そんなの――このアタシのプライドが許さないのよ」
そう、空宮さんという人は、事務所内でも一番アイドルとしての心構えが逞しい。それは間違いなく私よりも、だ。
「だからさっさと戻ってきて、前を歩きなさい。そして辞めるなら、アタシに抜かれたその時に辞めなさい」
本当に彼女らしい気持ちのぶつけ方である。
これはきっと……二人からのエールなのだろう。同じ道を歩む者たちだからこその言葉。
「夕羽ちゃん、社長よぉ。あなたが今、どれほどの苦しさを味わっているか分からないわぁ。けれど忘れないでね。あなたは決して一人じゃないってことを」
……社長。
「そうですよ! 辛かったら、悲しかったら、痛かったら、いつでも私たちを頼ってくださいね!」
……横森さん。
「…………夕羽、聞いてる?」
今度は姉さんの声が聞こえてきた。
「あんたは確かに辛い思いをしてる。アイツに叩き潰されようとしてる。けどね……あんたがいる場所は、まだ最低でも、最悪でもないの。だって――あんたには、こんなにも優しい場所があるんだから。だからね、さっさと戻ってきなさい、バカ妹」
姉さんの言葉を聞いた直後、胸が締め付けられる思いとともに、両目からとめどなく涙が流れ出てきた。
みんなが私の名を呼ぶ。彼女たちだって、同じように裏切られたにもかかわらず、それでも私のためを想い言葉をかけてくれる。
それが――――嬉しかった。
私はまだ一人じゃない。見捨てられていない。
そう思えることができたのである。
この人たちがいるなら、私はまだ立って進むことができるかもしれない。
そして私は、その足で風呂場へと向かい、久しく洗っていなかった身体を丁寧に整えていく。
外出用の服を着込み、玄関口へと立つ。
そして深呼吸をして、若干震える手で扉を開けた。
眩いほどに射してくる日差しに目を細める。
ああ、こんなふうに太陽の下に出るのはいつぶりだろうか。
そんな温もりに懐かしさを覚えていると、すぐ近くに人の気配を感じた。
「……! ……姉さん」
「ようやくね。ずいぶんと遅かったわね、我が妹よ?」
「……姉さん、私……やりたいことができたの」
「あら、偶然ね。実はあたしもなのよ」
互いに顔を見合わせ、軽く頬を緩めるが、すぐに互いにキリッとした表情を浮かべる。
「私は、誰もが認めるトップアイドルになるわ。そして、兄さん……あの男を見返す!」
「私は、あんたをトップアイドルになるように支える。そして、アイツに後悔させてやる!」
それが私の……いいや、私たちが掲げた夢になった。
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