第44話

「…………え? 今、何て言ったの、姉さん?」


 レッスン終わり、事務所で酷使した身体を休めながら、社長と横森さんと談笑していた時、姉さんが物凄い形相で事務所に戻ってきた。


 確か今日は、ドライバー兼マネージャー業をしている兄さんこと原賀馬玄の営業の手伝いに出かけていたはず。

 一人で戻ってきた姉さんもに、「兄さんはどうしたの?」と聞くが、姉さんはそのまま佇み顔を俯かせたまま固まっていた。


 それを見ていた社長たちもまた不思議に思って、姉さんの体調が悪いのかと心配に声をかけたが、それでも姉さんは動かない。

 いや、よく見れば固く握られた拳が細かく震え、歯を食いしばっている様子も、私には伝わってきた。


 姉さん……怒ってる?


 そう思っていると、事務所の扉が開き、そこから空宮さんと月岡さんが入ってきた直後である。


「――――アイツが…………原賀が裏切ったわ!」


 事務所内に響き渡る姉さんの声。

 それは皆の時を凍らせるのに十分な声量と衝撃が含まれていた。


 アイツ……? 原賀って……兄さんのことよね? 裏切った? え? ど、どういう……こと?


 私がいまだに姉さんが口にした言葉の真意に戸惑っていた時、最初に口火を切ったのは社長だった。


「……説明してくれるかな、十羽ちゃん」


 普段の姉さんは、よく人をからかったりする。冗談で人を困らせることが好きなのだ。そしてそれは社長たちも知っていた。

 しかし今の姉さんの態度が、明らかに冗談や酔狂で発した言葉ではないことを悟っているようだ。


 そこから姉さんが、静寂を切り裂くように語り始める。

 兄さんが、他事務所の【スターキャッスル】という会社に引き抜かれ、今までスパイ活動をしていたこと。そして――。


「夕羽のオーディションを裏から手を回して……ダメにしてたのよ」


 まるでガツンと頭を殴られたような衝撃が走る。


 まさか、そんな……。


 だって、これまでオーディションに合格した時は、姉さんと一緒に兄さんはあんなにも喜んでくれたのだ。

 レッスンで疲れ果てた時も、私や他の子たちのことを想って差し入れをしてくれたり、対人関係が得意ではない私にアドバイスもくれた。


 それだけではなく、ドライバー兼マネージャーとして彼は、立派に私たちを支えてくれていたはず。

 加えて、私にとっては一番近い異性であり、姉さんと同じような家族意識さえ持っていた。ううん、もしかしたらそれ以上の感情でさえ……。


 ちょっと調子の良いところがあるけれど、昔から優しく、面倒見の良いあの人が、私を……私たちを裏切るなんてあるわけがない。だから……。


「な、何かの間違いよ、姉さん。た、多分いつも姉さんがからかうから、たまには仕返ししたとかそういうことに決まってるわよ」

「……夕羽」

「そうよ、きっとそうよ。まあ最も、今回ばかりは冗談にしてはやり過ぎだから、あとで私が叱っておくわ」

「……聞きなさい、夕羽」

「姉さんも姉さんよ。兄さんの冗談くらい見抜けないなんて、それでよく親友なんてできるわね。私だったらすぐに――」

「夕羽っ!」

「っ!?」

「…………受け入れなさい。アイツは……」

「……嫌」

「いい? アイツは……アタシたちを……」

「嫌っ! それ以上聞きたくないっ!」

「あんたを見捨てたのよっ!」

「嫌ぁぁぁぁぁぁっ!」


 私は我慢できずに、事務所から飛び出した。途中、横森さんや月丘さんが私を呼ぶ声がしたが、気づけば私は地下のレッスン室へと飛び込んでいたのである。

 そのまま奥の壁に背を向けて座り込み小さくなった。


「……嘘よ……嘘……兄さんが…………いなくなったなんて……そんなこと有り得ない」


 そう自分に言い聞かせるように呟く。


「そ、そうよ! 兄さんに直接確かめれば……っ」


 そう判断し、スマホを操作して兄さんの番号にかけた。

 するとすぐに応答してくれたので、「に、兄さん!」と思わず声を張り上げてしまった。


「……はぁ。何だ、今度はお前かい、夕羽」


 呆れたような、悪い言い方をするなら鬱陶しそうな声音。これまで聴いたことのない響きが耳朶を打った。


「に、兄さん? は、話があるのだけれど……」

「ん? 声が震えてるぞ? ……ああ、もしかして十羽にもう聞いたのか?」

「き、聞いたって…………な、何を?」

「あん? まだ聞いてないのか? ったく、二度手間は時間の無駄なんだけどな」


 何だ……この相手は本当に兄さんなの? 


 兄さんなら、もっと優しい対応をしてくれる。聞いていると勇気が湧いてくるような、そんな私の大好きな響き。


「いいか、同じことは言わないぞ」

「に、兄さん……?」

「僕はもうそっちには戻らない」

「……嘘……嘘よね? だって兄さんは……ずっと一緒で……っ」

「はぁぁぁ……そういうところが、お前たちのウザいところなんだよなぁ」

ウザい? 今……ウザいって言われたの?

「僕は【スターキャッスル】のプロデューサーの座を約束されてるんだ。分かるか? もう泥船のような芸能事務所じゃなく、大手のアイドル事務所のプロデューサーだぞ。将来を約束されたエリートだ。だからもう……お別れだ、夕羽」

「っ……ま、待って! ちょっと待って兄さん! 一体……一体何がどうなってるの! 何でこんなことに!? わ、私に非があったなら謝るから! だからそんなこと言わないでよ!」


 私はまだ兄さんを信じて、全霊をかけて言葉を投げかけた。

 だが……。


「相変わらずだな、お前は」

「え?」

「夕羽……お前――――重いんだよ」


 その瞬間、心が悲鳴を上げると同時に砕かれたような感触があった。




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