10月10日③
「子供が生まれたらさ、あたし達の間でそれぞれと手を繋ぐの。その子を2人で引っ張り上げたりしてさ」
彼女は楽しそうに話す。
「でもね、そしたらあたし達は手を繋げないのよ」
だから、と言いながら私の手をとる。
「今のうちにしっかり手を繋いでいようよ」
目を開くとあの天井だった。
シミひとつない、つまらない天井。
懐かしい夢だった。結婚してすぐの、あの頃の思い出。
慌てて起き上がり、妻を探す。
いない、どこにもいない。
自然と涙が溢れてくる。
待ってくれ、行かないでくれ。
気がつくと家を飛び出していた。
当てもなく妻を探す様は、まるで檻を飛び出した動物のようだった。
目にいっぱいの涙を浮かべ、思い当たる場所を片っ端から走る。
日曜の昼間、パジャマにサンダルで走り回る男に、あたりの人々は奇異の目を向ける。
そんなものはどうでも良かった。
周りにどう思われようと、妻に生きて欲しい一心だった。
いない、どこにもいない。
なにが最後くらい笑顔の夫で、だ。
何も守れなかった。愛する妻も、平穏も、あの時の約束も。
息ができない、脚も動かない、もう何も考えられない。
もうすぐ妻はこの世を去ってしまう。
それだけは理解している。
道端で母親が息子の手を強く握っている。
私を危ない動物を見る目で睨みつける。
そうか、手だったんだ。
妻がこの世を去った日も、初めて外食をした日も、何度も過ごした10月9日も、彼女の手を握っていた。
あの時の約束を守ることが、彼女との平穏を繋ぎ止める正解だったんだ。
気付くと涙も出なくなっていた。
もう走れない。約束も守ってやれない。妻に会えない。
泣き叫びたいのに、妻の名を呼びたいのに声も出ない。
情けない。
もう一度手を握れば…
そんな保証はない。何度もチャンスはもらえない。
それでも、考えずにはいられなかった。
あぁ、私は妻を愛しているんだ。
遅すぎる実感に、表情が崩れていく。
動かないはずの脚が、ゆっくりと歩き出す。
涙を溜めた目に、乾いた笑みを浮かべた動物が、ゆらゆらと自分の檻を目指す。
そういえばスマホも持ってきていない。
今頃警察からの連絡が来ているだろう。
妻のところへ駆けつけてやることもできなかった。
とめどなく溢れる後悔に、またしても視界が霞む。
しばらく歩いたところで、誰かの声が聞こえた。
その声の主は、霞む視界の中でも分かるほど、真っ直ぐ私に向かってくる。
「こんな格好で、どこに行ってたの?」
怒ったような、困惑したような、それでいてとても優しい、聞き馴染みのある声。
私は慌てて目を擦り、声の主を確認する。
「…泣いてるの?」
自然と手が彼女の頭、頬、肩を撫で、知らせてくる。
生きている、妻が生きている。
私は彼女を強く抱きしめ、声を上げて泣いた。
「痛いよ…」
妻の呟きも意に介さず、強く、噛み締めるように抱きしめた。
「…帰ろう」
言葉と共に差し出された手を、私は強く握った。
現実を確かめるように、2度と離れないように。
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