10月9日


「おはよう」


見慣れたはずの、檻のようにさえ感じていたリビングに、私の声が通り抜ける。

おはよう、と返す妻の姿をこの目で確認し、テーブルに着く。出されたコーヒーに口をつけ、新聞に目をやる。

『10月9日』

そう書かれた新聞の向こうに、見慣れた服装で妻が腰掛ける。


「今日は早く仕事が終わりそうだから、夕飯を食べにいかないか?」


妻は少し戸惑った様子を見せながらも、次第に笑顔になる。いいよ、という返事に続けて妻が話し始める。


「あたし、本当に不倫なんてしないから、安心して」


何度聞いても笑いが出てしまう。私の様子から、妻は身に覚えのない不倫を疑われていると思っていたようだ。

分かってるよ、と返し、コーヒーを飲み干す。


「ごちそうさま」


そう言って、私は自室に帰り、着替えを済ませる。


「行ってきます」


姿の見えない妻の、行ってらっしゃい、を聞き届け、見慣れた通勤路を行く。

土曜の朝ということもあり、電車は比較的混んでいない。

私は4両目の空いた席に腰を下ろす。


今日は何の話をしようか。

仕事も手につかないが、やりなれた仕事なら問題はない。

ゆっくりと進む時計を気にしながら、定時の放送と共に会社を後にする。

足早に待ち合わせのレストランに向かい、最愛の人を探す。


「お待たせ」


さっき着いたところよ、とお決まりの台詞をもらい、メニューに目をやる。

適当に注文を済ませ、妻との時間を確保する。


「昔動物園に行ったときのこと、覚えてる?」


つい先日まで、妻との会話が億劫だった男の姿は、そこにはない。


知っているはずの話を、妻はまるで初めて聞いたかのように楽しむ。それに釣られ、私も自然と口が回る。お酒のせいではない、心からこの時間を楽しんでいた。


楽しい時間はあっという間に過ぎ、0時を前にラストオーダーの時間。会計を済ませ、私はプリンセスと共にかぼちゃの馬車へ乗り込む。彼女の手を握り、今日という日を、その手の温もりを噛み締める。

そのプリンセスは決して、ガラスの靴を落としてなどくれない。それでもいい、こんな幸せも悪くない。


家に着くと順番にシャワーを浴び、同じベッドへ横になる。嗅ぎ慣れた甘い香りが、私に一刻の安らぎを与えてくれた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る