10月5日
そこから数日は、あっという間に過ぎていった。
いつもの檻の中で、男女がそれぞれの生活をこなす。
落ち着かなかった私も、不思議とあの記憶が夢だったと受け入れ始めていた。
いや、確かに違和感はあった。正夢の類を思わせる出来事も含め、正確には受け入れようと努力していたようにさえ思う。
檻の外でも、何もなかったかのように世界は回っていた。
朝から電車に揺られ、やりたくもない仕事をこなす。
ほどほどに上司を持ち上げ、ほどほどに後輩たちを盛り上げる。
すっかり身についたこのほどほどにこなす技術が、あの記憶を夢として受け入れるのにも一役買っていたかもしれない。
ほどほどに出世した私は、この日とある新企画の会議に参加していた。
「…では、そのように進めていきましょう」
無事に会議が終わった。企画の方針も決まった。
あとは部長がマスコットなどと言い出さなければ…
「ひとつ提案があるんだが…」
私の悪い予感は的中した。
新企画を社外にも大々的に打って出るための、マスコットキャラクターを作ってはどうかと言うのだ。
理解できなくはないが、なぜ仕事を増やすのか…
「デザインは公募するとして、名前は何がいいだろう」
見覚えのある展開に、心臓が脈を早める。背中を冷たい何かが伝うのがわかる。
私は本能的に、この場にいる1番若いスタッフの方を見る。
「部長、本日10月5日にスタートした企画で、おしゃれと育児を合わせて楽しむことにかけて、トウゴウ君はどうでしょうか」
若いスタッフの提案に、全身に入った力が一気に抜けていく。視界が霞む。その後の会議の記憶はなく、座っているのがやっとだった。
トウゴウ君。
聞き覚えがある、いや、はっきりと“覚えている”。
その無理矢理なネーミングが、部長の琴線に触れてしまう。温度差はありながらも、新企画はそのままスタートした。
なぜ“覚えている”なのか。
これまで正夢の類と目を瞑ってきたことが、一気に頭を駆け巡る。
あの書類の誤字も、あの電車のおじさんも、あの公園のカップルも。
どれもはっきりと“覚えている”。
タイムスリップ…?
追いつかない頭を必死に整理しながら、電車に揺られ檻の中へと帰ってくる。
「お帰りなさい」
どこから出てきたか分からない声に、その主を探すこともなくただいま、と返す。
吸い込まれるように自分の部屋へと向かい、スーツを着替えリビングに戻る。
テーブルに着くと夕飯が出される。
今日の献立はゴーヤーチャンプルー。
豆腐とゴーヤーでトウゴウ君。
このくだらない記憶もそのまま“覚えている”。
味のしない食事を済ませ、後処理を食洗機に任せてシャワーを浴びる。
夢ではなかった…
途端に身体が震え、立っていられなくなる。
妻が、死んでしまう?
洗ったのかも分からない髪と身体を、タオルで乱暴に拭う。
リビングに戻ると、妻はソファでテレビを見ていた。
「あのさ…」
振り返る妻の顔は、記憶にある冷たくなった妻によく似ていた。
「いや、なんでもない、おやすみ」
妻の返事を背中で受けながら、部屋へと戻る。
ベッドに倒れ込み、スマホを握りしめる。
正解なんてあるか分からないネットに、タイムスリップの7文字を入力する。
最近流行りの漫画、都市伝説、個人作家の小説…
もちろんどれも私が望む情報ではない。
正確には望む情報なんてそもそも存在しないのだろう。
それでも、藁にすがる思いでページを進めていく。
気付くとまた、眠りについていた。
起きるや否や、スマホを確認する。
『10月5日 23:58』
表示された情報の信頼性に、ありもしない疑念を抱きながら、意味もなく日付が変わる瞬間を待つ。
『10月6日 00:01』
特に何も変わらない。
リビングに向かうと、夕飯の後片付けを終えた食洗機が、洗った食器を見ろとばかりに口を開けている。
妻の姿は確認できないが、廊下には寝室からの明かりが漏れていた。
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