麦酒の街 コットペル
────コットペル、それはアイラの集落から30キロメートルほどの距離にある街。
ほとんど休憩なしで歩き続けたからか、日が落ちる少し前にこの街へたどり着くことが出来た。途中、何度か街道を行く馬車の御者に『なんだこいつは』という目で見られながらも、やっとここまで来た。
最初の頃は適宜、魔法による巻き戻しで体力の回復を図ったが、道のりが半分を超えたあたりからはそれもやめた。
コットペルに近づくにつれて目にする機会が増える広大な農耕地帯には、イネ科の植物がきちっと整理された区画に収まって育てられている。これは麦酒の生産地であることを多分に予感させた。
何かもう一つアレンジとして付け足して、麦酒をより美味しく楽しむことが出来る調味料があるとすれば、それは『喉の渇き』だ。これの右に出るものは無い。
「はぁ…はぁ…ついたあ…」両手を置いた膝が笑っていた。
コットペルはとても美しい街だった。街のすぐ脇を流れる清流が街の中へも引かれ、その綺麗な水は街に暮らす人々に寄り添っていた。
「まずは酒場を探さないとな。おっと、その前に格好だけでも整えておこう」
汗と砂埃でギトギトになった衣服の巻き戻しが終わり、街を歩いてみたが、酒場は意外と簡単に見つかった。何軒も軒を連ねていて嫌でも目に入るほどだ。
そのうちのひとつ、ジョッキからもこもこの泡が溢れている絵が描かれた木製の看板を掲げている店に入ることを決めた。ドアを開けると、上の方に取り付けられた小さな金属製の管楽器たちが俺の入店を店内に知らせた。
「────いらっしゃい」
「どうも」俺は軽く会釈をしてからカウンターの端へ腰掛けた。
「お客さん、変わった格好だな。異国の人かい?」と恰幅の良い男はカウンターの向こう側から言った。
店内をぐるりと見渡すと、時間が早いこともあって客は誰もいなかった。
「ああ、日本ってとこから来た」
「ニホン?知らないねえ」
このやり取りは二回目。それでも、わざわざ同じ轍を辿るのは、例えば『極東の国から来た』などと適当なことを言ってしまうと、何か質問された時に答えられないからだ。
「もう無くなってしまった、とても小さな島国でね。おかげで帰るところもない根無し草だよ」
我ながらいい受け答えだったと思う。しかし、ちょっとキザすぎたか。
「そうかい、ここへはいつ来たんだい?」と店主。
「さっき着いたところだよ、アイラから歩いてね」
「アイラか。確かあそこじゃ、この時期になると村をあげてお祭りを執り行うんじゃなかったかなあ」
「ああ、ちょうど俺が訪ねた時がそれだったよ。そこで麦酒をわけてもらって、この街へ脚が向いたという感じだ」
「ははは、なるほど!ペルズブラッドはあの村へも卸しているからなあ!」
「ペルズブラッド?」
「なんだ?お客さん、名前も知らずに飲んでたのかい?麦酒はコットペルに巡る血潮なのさ。なくてはこの街はやがて死んでしまうだろうってんでついた酒の名だよ」
どうやらこちらの世界でも酒には銘柄というものがあるらしい。
「───ま、何にせよコットペルはいい所だよ。ゆっくりしていくといい。これは勘定に入れないから安心しな」と言って店主はカウンターに麦酒が注がれたジョッキを置いた。
心がじんわりと暖かくなる。こういう体験があるから酒場はいい。
「ありがたくいただくよ」と一言断りを入れ、ジョッキのハンドルへ手をかける。
なみなみ注がれた麦酒の泡がジョッキの上で左右に踊っている。美女が尻をこちらに向けて挑発している時のような気分になってくる。こっちは乾いているんだ、我慢出来るはずがない。
大口を開けてがぶりと食らいつくように一口目を口内に流し込む。
誘惑の泡と共に尊い琥珀色の液体が渾然一体となって流れ込んでくる。冷たい。荒くなった鼻息はフルーティな香りを鼻腔から体外へ。喉を刺激する強い発泡の余韻が心地よい。
「────カハ……ッ」
うまい、うますぎる。胃の中が冷たい。もっとそこへ沢山この液体を送り込んでやる、もっともっとだ。
「ははは、うまそうに飲むねえ」店主は嬉しそうに笑っていた。
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あれから何時間が経っただろう。カウンターに現れた常連客と見られる男達と肩を並べて俺は酒を飲んでいた。
カウンターの上には上質なチーズやナッツ、それからソーセージなどが豪勢に広げられていて、最高の夜がそこにあった。ただし、あることに気がつくまでは。
それは、夜も更けてカウンター組の一人が席を立った時だった。
「────まいどあり、1880
どうやら豊穣の神、グレン様とやらは通貨の単位にもなっているらしい。
─────おや。
おやおやおやおや。
焦りを悟られぬよう、自分の衣服のポケットを極めてゆっくりと満遍なく捜索したが財布はなかった。そもそも財布があった所でこの世界に流通する通貨を持っているはずがないことはこの時、気が動転して失念してしまっていた。
あまりの焦燥感に一瞬にして脂ぎった汗が吹き出し、カラカラになった喉に一口麦酒を流し込んだが、先程よりも美味しくは感じない。
カウンター組が一人帰ると、堰を切ったように他の男達も会計をする流れになった。バーの営業時間が終わる頃になるとよく見かける光景だ。
テーブル席の客はとっくにおらず、カウンターの隅で顔を青くしている俺だけになってしまった。
「マスター、その、さっきよく探したんだが、どうも財布が見つからないんだ。どこかへ落としてしまったみたいで……」震えた声で正直に打ち明けた。
大丈夫だ、焦ることは無い。この人情味溢れる店主のことだ、きっと『それじゃあ飲んだ分うちで働いて返してもらうしかないな』とでも言ってくれるに違いない。
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