第六章 怨讐の死闘

 その告発に対し、当初、青田雄二という男は「無言」という形で榊原に応じた。だがそれは観念したとかそういうものではなく、あくまで榊原の出方を伺っていると言った方が良いのかもしれなかった。そして、それがまたこの一見地味でずっと事件の表舞台に出てこなかった青田雄二という男の底知れぬ闇と悪意を如実に示しているようにも見えた。

 榊原もそれを感じたのか、青田を前にして真剣な表情を浮かべる。そして、想定外の犯人指名に他の関係者たちが呆然としている中、この両者による推理の『死闘』の幕が切って落とされたのである。

「……僕が犯人、ですか」

 告発からしばらくして、青田はかけている眼鏡をずり上げながら、場違いなほど静かで、そして底冷えするほど暗くて冷たい声で初めてそんな言葉を発する。関係者たちは元より、普段から榊原にくっついて様々な犯罪者を見てきた瑞穂もその態度と口調には思わずゾッとするようなものを感じた。そのたった一言だけで、瑞穂はこの青田雄二という男がどんなタイプの犯人なのかを理解する事となった。

 この男は、今まで見てきたような「まともな」犯人ではない。いや、犯人である時点で「まとも」ではないのだろうが、それでも今まで見てきた犯人たちはどこか人間らしさというか、感情めいたものがあった。同情できる動機、あるいはやむを得ない事情で犯罪に手を染めってしまった犯人も多くいた。

 だが……この男にはそれがない。普通の犯人なら犯人と告発された時点で何かしらの反応をするはずなのだが、この男はそんな人として当たり前の反応さえしない。その時点で間違いなく、この男は犯人としてではなく人間としても「異常」である。まるで人間としての感情を全てなくしてしまった……それこそあの榊原でさえ滅多にお目にかかった事がないという「怪物」「サイコパス」と呼ばれる類の犯罪者のような臭いがした。例えるなら、かつて事務所の資料で読んだ事がある『シリアルストーカー事件』の犯人が一番近いだろうか。とにかく、素人の瑞穂にも目の前の男が「やばい」相手だという事はよくわかった。

 だとするなら、ここから先の推理勝負は一筋縄でいくはずがない。瑞穂は反射的に榊原の方を見やる。しかし、榊原はそんな青田に対して全く動じる様子もなく、覚悟を決めたように青田の正面に対峙し、不敵な表情で勝負の口火を切った。

「不服ですか?」

「……当然でしょう。何をどうしたら僕が犯人という事になるんですか? 全く理解ができないのですが」

 青田は声を荒げるわけでもなく、冷たく静かでありながらどこまでも単調な声で榊原に反論する。それがまた、この男の異常さに拍車をかけていた。

「理解できない、とは?」

「先程の前提に立つなら、犯人は二階堂亮馬と知り合いという事になりますが、何をどうしたら僕が彼と知り合いになってしまうのでしょうか? まずは、その点を説明して頂きたいものですね」

 淡々と反論する青田に対し、榊原も真正面から再反論しにかかった。

「あなたと二階堂亮馬は知り合いではないと?」

「当然です。疑うならそちらの探検サークルとやらの方々にも聞いてください」

 榊原が黙って見やると、サークルメンバーは「そんな人は知らない」と言わんばかりに全員が顔を青ざめさせながらも首を振った。

「しかし、以前の話では、あなたと二階堂亮馬はかつて甲子園の準々決勝でエースピッチャーとして投げ合ったはずでは?」

 榊原の問いかけに、青田は即座に切り返す。

「それこそ前に話した通りです。確かに、僕はかつて二階堂亮馬と甲子園の準決勝で投げ合った事があります。それを否定するつもりはありません。しかし、逆に言えば僕と彼の関係はその試合中のものだけで、それ以外の場面で個人的に会ったりした事などありません。それは『知り合い』という関係とは言えないと僕は思いますがね」

 感情を表に出さないままぬけぬけとそんな事を言う青田に対し、しかし榊原は焦る事なく冷静に論破しにかかった。

「それはどうでしょうね。あなたと二階堂亮馬が甲子園で投げ合った際にそれだけの関係に過ぎなかったという話は事実なのかもしれません。しかし、全くの赤の他人というならともかく、面識があったというならその後何らかのつながりができた可能性が全くないとはこの場で言い切れないはずです」

「だから、僕はあの試合の後で個人的に彼と会った事など……」

「それはあくまであなたの自己申告に過ぎません。あなたがいくら会った事がないと言っても、当の二階堂亮馬が死んでいる以上、その証言は全く信憑性に欠けるんですよ」

「でも、それを証明するのは僕ではない。あなたにその証明ができるのかと聞いているんですけどね」

 青田は激昂すらしない。ただ淡々と他人事のように反論する。だからこそ、榊原も気を引き締めて青田をねじ伏せにかかった。

「これはあくまで私の推測ですが、二階堂亮馬があなたに接触したのは『この廃墟の管理者であるあなたの許可を得る事で、合法的にこの廃墟での撮影をするため』だったと思われます。言うまでもなく廃墟に勝手に入るのは違法行為です。これまでに何度もトラブルを起こしているとはいえ、就職も近い身ですから彼らはできるだけその手のトラブルを避けようとしていたはずです。そして、有名な廃墟の管理をしていたのがかつての顔見知りだったとすれば、二階堂がその伝手を頼ろうとするのは自然な話でしょう。管理者のお墨付きがあるとすれば、堂々と動画撮影などもできますからね」

「……」

「では、この推理が正しかったとして二階堂はどうやってあなたに接触したのか。さっきあなた自身が言ったように、この事件があるまであなたが本当に二階堂亮馬と繋がりがなかったとすれば、当然電話で連絡を取り合うなどという事はできなかったはずです。実際、二階堂亮馬の携帯電話にあなたや正体不明の番号にかけたような痕跡は確認できなかったので、連絡に携帯を使った可能性はまずないでしょう」

「……ひねくれた考えですね。素直に『最初から連絡を取るような関係ではなかった』とは考えないんですね」

 青田はそんなふうに言うが、榊原は動じない。

「となると、直接会って交渉したとしか考えられません。そして直接会ったのなら、その痕跡をたどる事は不可能ではないと思います」

 そこで榊原は青田を正面から見据えながら告げる。

「例えば、あなたと二階堂亮馬のここ最近の携帯電話の位置情報を確認する、とか」

「……」

「電源の入った携帯電話は所持しているだけで大まかな位置情報が記録されます。あなたと二階堂亮馬が事件前に会っていたとすれば、同一時間帯に二人の携帯電話の位置情報が一致する場面が存在するはずです。これだけの交渉となると、出会ったのは一度や二度とは思えない。位置情報の一致が複数回確認できれば、あなたたち二人が実際に出会っていた事の証明になります」

「……携帯電話の位置情報は大まかな基地局の受信エリアの範囲までしか絞れないはず。たまたま同一の基地局のエリア内にいた可能性は否定できないはずでは?」

 青田のささやかな反論に、榊原は即座に応えた。

「仮にそうだとしても、同一時間に同一基地局のエリアにいた事までは絞れます。後はこの情報を元に警察が目撃証言なり防犯カメラの確認なりをすればいい。そこで二人が一緒にいる姿が映っていれば決定的ですね。結果が出るまで待ってみますか?」

「……」

 それを聞いてさすがに青田も少し黙り込んだが、やがて口調を変えずにこう応じた。

「……まぁ、いいでしょう。そこまで言うなら、仮に僕と二階堂亮馬が知り合いだったと仮定しましょう」

「認めるわけですか?」

「仮定するだけです。そうしないと話が先に進まないようですので」

 青田は冷たくそう言って先に進める。

「しかし、だとしても僕が犯人だと立証する証拠はどこにもないはずです。今の論理では彼と知り合いだった人間は全て犯罪者扱いされてしまいます。その中で僕が犯人だとなぜ断定できるのか。その根拠をお聞かせください」

 無表情の青田が淡々と告げたその言葉は、その実、榊原に対する真っ向からの挑戦状だった。だが、それに対して榊原ははっきり答える。

「根拠は最後の被害者……ホームレスの谷藤松蔵の死に様です」

「ホームレス、ですか」

 そう言われても青田は何の感情も示さない。が、榊原はそんな青田の反応を無視してこちらも自分のペースで推理を進めた。

「この一連の犯行の中で、谷藤松蔵の立ち位置は他の三人の被害者とは明らかに違います。谷藤は日頃からこのホテルに住み着いており、区役所からの再三の立ち退き要請が行われても懲りずに戻ってくる事が多かった。また、警察が調べた限りでも、谷藤と他の三人の被害者の間に接点らしいものは確認できない。となれば、彼が二階堂たちと一緒に殺害された理由は、順当に考えて『事件を目撃してしまったが故の口封じ』と考えるのが筋でしょう」

 それについては事前の捜査の段階で警察も推測していた話であり、実際に新庄たちも榊原の言葉に深く頷いている。

「谷藤は先日ここからの立ち退きを強要されて実際に追い出されたにもかかわらず、懲りずにこのホテルに再び舞い戻ってきてしまった。それは彼の遺体が発見された二階の一室に谷藤のものと思われる私物が放置されていた事からも明白です。あの部屋はおそらく谷藤の居住スペースだったのでしょう。だが、その矢先にこのホテルで今回の殺人事件が発生してしまい、そして恐らく、ホテル内の騒ぎに気付いた谷藤は様子を見に部屋の外に出て……そして、犯人による犯行の様子を目撃してしまった。一方の犯人側も谷藤が自身の犯行を目撃してしまった事に気付き、目撃者を消すために谷藤を襲撃。谷藤は慌てて逃走を図ったものの、自身の部屋に逃げ込んだところで追いつかれてその場で殺害された……そう考えるのが妥当でしょうね。遺体の手にあった防御創も、この推理を補強する材料となりえます」

「だから何だというのですか?」

 青田は無感動に尋ね返す。が、榊原はひるむことなく話を続行する。

「その谷藤の殺害状況なのですがね、現場写真を確認したところ、ちょっと妙な事がありました。先述した通り、彼は部屋に逃げ込んだところで殺害されています。ところが、どういうわけかその遺体の右手には、彼が愛読していたというナンプレの雑誌が握られていたのです」

「ナンプレの雑誌?」

 この情報は捜査関係者以外には公開されていない。よって、その事を今知った大室たちが戸惑ったような声を出す。

「谷藤と付き合いがあったホームレス仲間の話では、彼は以前、雑誌の回収場所で拾ったナンプレの雑誌を気に入り、暇なときにナンプレの問題を解いていたといいます。問題は、なぜ彼は死の間際にそんなものを掴んだのか、という点です」

「何で、と言われても……」

 話を聞いていた大室が困ったような表情を浮かべる。

「ポイントは、彼が雑誌を握っていたのが右手だったという事です。通常、このような咄嗟の事態が起こった場合、人間は普段使い慣れている手……すなわち利き腕を反射的に使うものです。どういう理由かはわかりませんが、谷藤は犯人に追いかけられて現場の部屋に逃げ込むと、犯人が襲い掛かる直前に問題のナンプレの雑誌を右手でつかんだ」

「確かにそうなるでしょうけど……それが何だっていうんですか? 何の問題もない気がしますが……」

 大室の問いかけに対し、榊原ははっきりと答えた。

「いいえ、彼のこの行動には極めて不自然な部分があります。なぜなら、私の推測が正しければ、彼は右利きではなく左利きだからです」

「え?」

 突然そんな事を言われて、当の青田以外のその場にいた誰もが驚いた表情を浮かべる。が、そんな中でも青田は榊原の言葉を黙って聞き続けていた。

「証拠はこれです」

 そう言いながら榊原が取り出したのは、一枚の書類だった。

「これは今回の事件の数年前、谷藤がコンビニで万引きをして逮捕された際に高円寺署の取調室で谷藤自身によって書かれた供述調書です。しかし、この際万引きの内容はどうでもいい。大切なのは内容ではなく書かれている文字そのものです」

「文字、ですか?」

 大室がますます首をひねる。

「この供述調書、見ればわかるようにかなり筆跡が乱れて、こう言っては何ですがお世辞にもうまい字とは言い難いものです。しかし、問題はそこではなくここに書かれた文字のいくつかにこすれたような跡があるという事実です」

 そう言われても、その場の人々は何が何だかわからず困惑気味の表情を浮かべているが、それに最初に気付いたのは瑞穂だった。

「あっ、そっか……」

「どうやらわかったようだね」

「はい。言われてみれば、推理小説なんかでも結構よく出てくる話ですよね」

 瑞穂の言葉に榊原は軽く頷き、改めてその事実について他の人々に説明した。

「見ればわかりますが、一般的に調書は横書きで書かれるもので、横書きの文章は左から右へと書かれるのが普通です。一方、文字のこすれた跡は、ボールペンなどで文章を書いた際に、まだ文字のインクが乾いていない段階で文字を書く人間の手や袖口などが文字に接触する事で発生します。しかし、このような文章形態で仮に右手で文字を書いたとした場合、こうした文字のこすれはほとんど発生しないはずなのです。ここまでのこすれが発生するのは、左手で文字を書き、腕が右側に移動するがゆえに書いた直後に手や袖の部分が文字の上を通過する場合だけです」

 これについては実際にやってみた方が早いだろうし、おそらく左利きの人間が文字を書く際に苦労する事の筆頭として挙げられる事ではないだろうか。右手で文字を書いた際にも全くこすれが発生しないという事はないが、ここまで大量のこすれが状態的に発生しているとなれば、書いた人間が左利きだと考えるしかないのも事実だった。

「しかし、それはあくまで客観的証拠に過ぎませんよね?」

 青田は静かかつ無感情に反証するが、榊原は即座に切り返す。

「確かにそうです。しかし、左利きの可能性が発覚すれば、あとは調べるのは簡単です。知り合いのホームレスに聞いてみるもよし、この調書を書いた際にそれを見ている担当捜査員に話を聞いてみるもよし、あるいはもっと単純に被害者の私物の指紋を調べてみるもよし。左利きなら、私物に付着する指紋も必然的に左手のものが多くなるはずですからね」

 今度は、反論はなかった。青田はジッと榊原を見やり、無言で先を促す。榊原もそれに応じ、一際声を張り上げた。

「そして、谷藤が左利きだとすれば、彼の持っていた雑誌の意味も大きく変わってくるのです。何度も言うように、彼は右手に雑誌を持って事切れていました。ですが、彼が左利きだとすれば咄嗟の状況で右手に雑誌を持つという行動がおかしいのはすでに証明した通りです。では、それにもかかわらずなぜ彼は右手で雑誌を掴んだのか? 答えは簡単です。それは『利き手である左手にはすでに何か掴んでいたがゆえに、残る右手で雑誌を持たざるを得なかった』というものです。では、彼が利き手である左手に握っていた物とは何だったのか? もう一方の右手に握っていたのが雑誌であり、なおかつ現場から発見された遺留品のリストを見比べれば、それはおのずと予想がつきます」

 その瞬間、新庄が呻くように呟いた。

「ボールペン、ですか……」

「その通り」

 それを聞いて、瑞穂の頭にはリストの中にあった一本のボールペンの文字が躍っていた。

「そもそもこの雑誌はナンプレの雑誌です。という事は、谷藤は普段からこの雑誌に書き込みをしていたはずで、そのために何らかの筆記具が必要だったのは自明とも言えます。問題のボールペンはクリップ付きのものでしたから、おそらく普段からペンそのものを雑誌にクリップで挟んでおくくらいの事はしていたのではないでしょうか。そして彼は、犯人の襲撃を受けてこの部屋に逃げ込むと、右手で雑誌を取ってその雑誌に挟んでおいたボールペンを利き腕である左手で取った……そう考えれば彼の行動に説明がつくのではないでしょうか」

「そして、その直後に犯人の襲撃を受け、相手の攻撃を手で防御する過程で左手のボールペンだけが吹っ飛ばされてしまった。しかし、暗闇の中での犯行だったため犯人側もボールペンが吹っ飛んだことに気付かず、現場にそのまま放置される事となった……。なるほど、確かにそれならあり得ますね」

 新庄が深く頷く。

「さて、ここで話は最初に戻ります。すなわち、『谷藤は雑誌を手にとって何をしようとしていたのか』という点です。しかし、当時の事情がこうしてわかれば、その目的は容易に推察する事ができます。利き腕でボールペンを持ってもう片方の手には雑誌……これは明らかに、谷藤が雑誌に何かを書き残そうとしていた構図に他なりません。そして、犯人に襲撃されているこの状況下で谷藤が書き残そうとするものなど一つしかありえないのです」

「つまり、谷藤さんは雑誌にダイイングメッセージを残そうとしていたって事ですか?」

 瑞穂の言葉に、榊原は頷いた。

「そう言う事だ。この目的以外に谷藤がこのような行動をする理由は想定できない」

 だが、その言葉に対して青田は否定的な言葉を返した。

「……だから何だと言うんですか? 被害者がダイイングメッセージを残そうとしていた? なるほど、確かにそれは今まで明らかになっていなかった新事実なのかもしれません。しかし、実際問題としてその雑誌にそのメッセージとやらは残されていたんでしょうか?」

 その問いに対し、榊原以外の誰もが新庄ら警察関係者の方を見やるが、新庄は悔しそうな表情で首を振った。

「……そんなものが雑誌に書かれていたのなら、わざわざ榊原さんに捜査協力を依頼するまでもなく、我々だけでも充分に事件は解決できます。問題の雑誌は鑑識によって徹底的に調べられていますが、事件に結びつきそうな記述はどこからも見つかっていません」

 確かに、そんな簡単な話なら警察は問答無用でメッセージの人物を逮捕しているはずである。そうなっていない時点で雑誌に何も書かれていないのは自明の話であるし、第一捜査時点で問題の雑誌に何もなかった事は榊原自身も聞いていたはずだった。どうやら、谷藤が雑誌に何か書き込む前に犯人が襲撃を加え、結局何も書き込めないまま殺害されてしまったようである。それを……つまり谷藤が何もできないまま死んだ事を確信していたからこそ、犯人も谷藤が持っていた雑誌を無理に処分するような事はしなかったのだろう。

「つまり、あなたのこれまでの推理は全くの無駄だったというわけです。肝心のメッセージが残っていなかった以上、僕が犯人だと断定する事はできないはずですが」

 だが、青田の反論に対し、榊原は全く動じることなく応じた。

「それはどうでしょうかね」

「……どういう意味でしょうか?」

「確かに、問題の雑誌にはダイイングメッセージは残されていませんでした。しかし、文字に残さずとも、ダイイングメッセージが完成する事はあり得るんです。今回の事件、雑誌への書き込みがなかったからと言って犯人があの雑誌を放置したままにしたのは致命的なミステイクだったと私は判断しています」

「御託は結構です。何も書かれていない雑誌がなぜ僕が犯人である事を証明するのか、その辺りの事をしっかり説明して頂きたいのですがね」

 全く感情がこもらない青田からの挑戦を、榊原は真正面から受け止めた。

「では、はっきり言いましょう。私が着目したのは『谷藤が雑誌に何を書き残したのか』ではありません。『谷藤がダイイングメッセージを残そうとする行動を起こした』という事実自体が、誰が犯人なのかを示す明確な根拠になっているのです」

「……意味がわかりません」

 青田はそう言うが、榊原は気にする事なく先を続ける。

「では、逆に聞きますがね。谷藤は雑誌を手に取って何らかのダイイングメッセージを残そうとしていましたが、ならば具体的に、犯人がすぐそこに迫っているという切羽詰まった状況の中で彼は何を書き残すつもりだったのでしょうか? もちろん、ひねった暗号だのなんだのを考案する時間的余裕などは一切なかったはずです」

 榊原の逆質問に青田は答えない。それを見て、榊原は唐突に瑞穂に話を振った。

「瑞穂ちゃんはどう思うね?」

「え、私ですか? ええっと……」

 皆が注目する中、瑞穂は必死に考えて、やがて極めて常識的な回答を返した。

「えっと……普通だったら犯人の名前とかを書き残すと思いますが……あれ?」

 と、そこまで言って不意に瑞穂は言葉を止めた。何かに気付いたようである。

「どうやら、わかったようだね」

「は、はい。もしかして、さっきの推理の逆説ですか?」

 瑞穂の言葉に、他の面々は何のことかわからずポカンとしている。代表して大室が瑞穂に尋ねた。

「あの……何の話ですか?」

「えっと、さっき先生は犯人の正体を特定する推理をする過程で『被害者のうち椎木好次郎と竹倉未可子は犯人の事を知らなかった。だから犯人から逃げている中でダイイングメッセージを残そうとする行動をとらず、犯人もその可能性がないからこそこんないたぶるような殺害方法を採る事ができた』というような論理を構築していました。これを簡単に言うなら『被害者が犯人の正体を知らなければ、被害者はダイイングメッセージを残す事はできない』という命題になりますけど……逆に言い換えると『被害者がダイイングメッセージを残そうとしたという事は、被害者は犯人の正体を知っていた』という命題につながるんじゃないでしょうか?」

「え……あっ……」

 そこまで言われて大室をはじめとする探検サークルのメンバーもようやく何かに気付いたようだった。

「そう……被害者の谷藤松蔵はダイイングメッセージを残そうとしていた。状況的に考えてその内容はおそらく犯人の名前、もしくは犯人の正体に直結する何かです。そうでなければ危険を冒してまでダイイングメッセージを残す意味がありませんからね。しかし、その行動は『現場にたまたま居合わせて口封じ目的で殺害された谷藤が、どういうわけか犯人の正体を知っている』という前提条件が成立していないと発生しないものなのです。つまり……犯人は『事件に巻き込まれたに過ぎない存在のはずの谷藤がその正体を知っている人間』という事になります。果たして、事件関係者の中にそのような人間は存在するのでしょうか? 少なくとも警察の捜査では、早応大探検サークルのメンバーに谷藤と面識があった人物は誰一人確認できていません」

 だからこそあの時、榊原はこの点についてしつこいくらいに念押ししたのだろう。そして、榊原は青田を睨みながら告げる。

「そもそもホームレスである谷藤は人付き合いがなきに等しく、仲間のホームレスとの付き合いもあまりなかったようです。そんな谷藤が知っている人間はそう多くありません。そして、事件の関係者の中に、そんな谷藤が確実にその正体や名前を知っている人間が存在しました」

「……」

「もう言うまでもありませんね。この廃墟となったホテルの管理を担当していた区役所の職員で、管理のために仕事で何度かこの建物に訪れた事があり、なおかつ事件発生前からここを塒(ねぐら)にしていたホームレスの退去勧告などを定期的に行っていて追い出したホームレスに確実に顔を覚えられていたはずの人物……青田雄二、あなたですよ」

 それが、数ある容疑者の中から榊原が青田を疑った理由だった。

「ここまでの推理から、犯人の条件は『被害者の一人である二階堂亮馬と顔見知りで会った事』と『谷藤松蔵とも顔見知りであった事』の二点に絞られます。事件関係者の中でこの二つの条件に合致している人物……それはあなたしかいないんです。いかがですか?」

 だが、そこまで言われても青田の表情は変わらなかった。冷ややかな目を榊原に向けて反論を仕掛ける。

「……無意味ですね。ダイイングメッセージ云々の話が仮に事実だったとしても、実際に雑誌に何も書かれていない以上、そのホームレスが本当に犯人の名前を書こうとしていたのかどうかはわからないはず。もしかしたら犯人の特徴とか、別の事を書こうとしていたのかもしれません。その可能性がある以上、谷藤が犯人の正体を知っていたという推理は机上の空論に過ぎず、すなわち僕を犯人と断定する根拠にはならないはずです」

「……」

「それに、百歩譲って谷藤が犯人の名前を書こうとしていた事が事実だったとしても、それでも僕だけが犯人扱いされるのは心外です。もしかしたらあなた方が知らないだけで、谷藤が何らかの理由……例えば以前道を歩いている時に偶然出会ったとかで、犯人の正体を知っていたかもしれないじゃないですか。単に僕がこのホテルの管理をしていて谷藤に顔を知られていたからと言って、それだけで犯人扱いされるというのは乱暴すぎると思いますがね」

 今の榊原の推理は青田にとってかなり致命的な論理だったはずなのだが、青田は即座にその推理の穴を見つけて的確に反論してきた。その頭の回転の速さに瑞穂は不気味ささえ覚えたが、青田はさらに無感情のまま反論を重ねていく。

「あともう一つ。さっきあなたは被害者たちが逃げている時にダイイングメッセージを残さなかったという理由で僕を犯人扱いしましたけど、仮にあなたの言う事が正しいなら、ダイイングメッセージは残せなくても、彼らは逃げている途中で携帯電話を自由に使えた事になります。だったら普通は逃げながらでも警察なりに通報して助けを求めるはずです。まぁ、今回はどういうわけか通報しなかったみたいですけど、それはあくまでも結果論に過ぎない。現実問題として、犯行途中に通報されて助けを呼ばれるリスクを背負ってまでこんな面倒臭い犯行をする度胸は僕にはありませんよ。警察を呼ばれたら身の破滅なわけですからね。僕だって安定職である公務員という身分は惜しいですし」

「……」

「あなたが事件を解決できているというのなら、それこそすべての疑問に説明をつける事ができるはず。ならば、その辺りをどう考えているのか、ぜひともこの場でわかりやすく説明してもらいたいところですね」

 それは青田から榊原への真っ向からの挑戦だった。榊原の推理の穴を指摘する事で推理自体の信頼度を下げ、そこからさらに付け入る隙を広げていって最後には榊原の推理その物を完全否定する……それが青田の選んだ「戦術」のようだった。

 だが、榊原がこんな小手先のやり方で屈服するような人間でない事は瑞穂が一番よくわかっている。何よりこの疑問は、推理の時点ですでに瑞穂自身が言及したものだ。自分でもおかしいと思った事を榊原が考えていないわけがない。必ず何か対策をしているはずである。

 そして案の定、榊原は青田の挑戦を真っ向から迎え撃った。

「その件ですか。それならすでに解決済みですよ。何なら、そちらから先に説明しましょうか」

 青田は一瞬ピクリと目元を動かしたが、無言のまま榊原に先を促した。

「確かに普通の人間なら殺人鬼に襲われているこの状況では警察に通報するでしょうし、実際に彼らも最初は外部への通報を試みたと思います。しかし、結果としてこのとき彼らは通報しなかった。いや……正確には通報『できなかった』んです」

「……ダイイングメッセージを残せなかったという主張の次は、通報できなかった、ですか。実に都合のいい話ですね」

 青田は表情を一切崩さずにそんな事を言う。だが、榊原も一切推理を緩める事はない。

「あの状況で携帯電話を使って外部に通報する可能性があるのは、暗闇のホテル内を逃げ回っていた椎木好次郎と竹倉未可子の二人。しかし、先程証明した通り竹倉未可子は事件直前に幽霊に変装していた可能性が高く、そうなると変装のために荷物類と一緒に携帯電話を一度どこかに置いていた可能性があります。演技中に幽霊から携帯電話の音が聞こえたらすべてが台無しになってしまいますからね。ならば、その時に犯人が彼女の携帯電話を盗む機会はあったはずです」

「竹倉未可子の携帯電話は事件前の時点で犯人に盗まれていたって事ですか?」

 瑞穂の言葉に榊原は頷く。

「あぁ。そうなると、犯人としては残る椎木好次郎の携帯電話さえ何らかの手段で封じてしまえば、この状況下でも外部への通報を阻止する事ができる。そして、相手にする携帯電話が一機だけなら、その携帯電話からの通話を外的手段で封じる手段が一つだけ存在する」

 そして榊原はその答えを告げる。

「そう……対象となる携帯電話に何度も立て続けに電話をかけ続けて、相手に通報の隙を与えないという手段が」

「っ!」

 他の人々が一斉に息を飲んだ。そんな彼らに榊原は解説を加えた。

「いつでもどこでもかけられる事が売りの携帯電話ですが、厳密に言えば相手からの着信を受けている状態では自身から電話をかける事はできません。これは着信が入った時点で通話以外の機能を操作する事ができなくなるためですが、犯人は意図的にその状態を作り出す事で、椎木好次郎が外部に通報する事を封じ込んでしまったんです」

「そんな事が……」

 背後で村田が絶句している。それだけ予想外の方法だったのだろう。

「で、でも、それってかなりギリギリの方法じゃないですか? いくら切れ目がないように連続して電話をかけ続けても、着信と着信の間のわずかな時間にボタンの速押しをされる可能性はゼロじゃないわけですし」

 だが、瑞穂の意見に対して榊原は首を振った。

「いや、その可能性はほとんど限りなくゼロに近かったはずだ。何しろ、椎木の携帯電話には通報以前の話としてもう一つ大きな問題があったからだ」

「問題って……」

「映像Bを見ればはっきりわかる。あの時、椎木の携帯電話はマナーモードが解除されていた。となれば、椎木の携帯に電話をかけたら大音量の着信音が鳴り響いたはずで、それはすなわちあの時の椎木の携帯が椎木の位置を犯人に教える目印になってしまっていた可能性があるという事だ」

「あ……」

 瑞穂は何も言えなくなる。確かに、映像Bの中で椎木の携帯は着信音を鳴り響かせていた。あの時点で椎木が携帯のマナーモードを設定していなかった事は明らかであり、しかもその後で改めて設定をしたような様子もなかった。つまり、椎木からしてみれば犯人からの追跡を逃れるためにも、通報よりも先に携帯電話のマナーモードを設定する必要性があったというわけである。

「しかしそのマナーモードへの設定も、犯人からの立て続けの着信で難しくなっている状態だ。先程と同じ理屈で、相手からの着信があるとき携帯電話は通話以外の一切の操作ができなくなってしまうからな。しかも椎木はその状況下で音を目印にやってくる犯人から暗闇の中を逃げ続けなければならず、とてもではないが携帯の操作に集中できない状態になっている。こうなると、椎木にとって携帯は通報するための道具ではなく、自身を破滅へ導く時限爆弾にしかならない。だとすると、椎木が採るであろう行動は……」

「まさか……」

「あぁ。椎木は携帯による通報を諦めて自ら携帯電話を捨ててしまった可能性がある。それが犯人の思惑通りだとわかっていても、自身の生存率を少しでも上げるためにそんな危険物を所持しておくわけにもいかなかっただろうからな。そして、椎木の携帯を封じる事さえできれば、もう外部に連絡される心配はない。後はゆっくり追い詰めていくだけの話だ」

 だが、そこまで言われても青田は何の感情も見せずに反論した。

「おもしろい話ですが、所詮はただの憶測です。それが実際に行われたという証拠はあるんですか?」

 青田の反論に、榊原は即座に反論する。

「椎木や竹倉未可子の携帯に残されていた通信履歴が証拠です。事件当夜の午後十時半頃からの約十分間、竹倉未可子の携帯から立て続けに椎木の携帯に着信があった記録が残っています。今までは二階堂亮馬殺害後に残った二人がバラバラに逃げ、合流するために竹倉未可子が椎木の携帯に連絡を取ったと思われていましたが……実際は、犯人が事件前に盗んだ竹倉未可子の携帯を使い、外部への連絡を封じるために椎木の携帯へ立て続けに電話をかけていた痕跡だったわけです。同時にこれは、事件当時、竹倉未可子の携帯が犯人に奪われていた証拠にもなります。そうでなければあの状況下で二人がこんな不自然な携帯の使い方をするはずがありません」

「じゃあ、二人は別れて逃げていなかったって事ですか?」

 瑞穂の問いかけに榊原は肯定の意を示した。

「映像Cの内容を見るにその可能性が高い。実際は椎木が殺害されるまで二人一緒に逃げていたんだろう。どう考えても別れて逃げるよりそちらの方が安全だからな」

 と、そこで青田がさらに再反論した。

「しかし、それだけ怪しい着信履歴が残る事を犯人が見逃すとは思えません。にもかかわらずそんなあからさまな履歴が残っているというのは、どこか不自然ではありませんか?」

 だが、榊原も負けていない。間髪入れずに言葉を切り返す。

「いくら端末の記録を消しても、警察が電話会社に照会すれば不自然な着信の事実はすぐに明るみに出てしまいます。下手に履歴を消して逆に警察に着目されるよりはましだと判断したのでしょう。とはいえ、犯人が少しでもこのカラクリの事実を隠したかったのは間違いなさそうです。だからこそ、犯人は事件後にそれぞれの遺体にそれぞれの携帯を戻し、犯行当時二人がずっと携帯を持ち続けたかのように偽造したと考えるべきです」

「……所持品から見つかった携帯は犯人が戻したものだったと?」

「少なくとも、椎木好次郎と竹倉未可子についてはそうだったというのが私の見解です」

 両者が睨み合う。青田の表情には全く変化はない。だが、追い詰められていないはずがない。表面上は変化がなくとも、確実に何かが変わっているはずだと瑞穂は思いながら両者の対決を見守り続けた。

「……確かにおもしろい推理です。ですが、所詮は『よくできた妄想』に過ぎません。そして、妄想で人を有罪にする事はできない。これは社会の常識というものです」

「何が言いたいのでしょうか?」

「トリックはともかく、それを僕がやったという根拠はないというだけの話です。先程からあなたは『可能性』の話しかしていません。それだけで僕を追い詰める事はできないと思いますけどね」

 緊迫した空気の中、榊原はさらに青田に己の推理を畳みかけていく。

「いいでしょう。ならば次の推理に移るまでです」

「懲りない人ですね。僕は荒唐無稽なあなたの推理にもうくたびれてきました。早く終わらせてほしいものです」

 そう言いながら、青田は冷たい視線を榊原に向けている。が、榊原はその視線をはねのけるようにさらなる推理をぶつけにかかった。

「もちろん、これだけであなたを犯人として追い詰める事ができるとは私も思っていません。ここまでの推理は今まで事件の外にいたあなたを容疑者として引きずり込むためのものです。そこからあなたを犯人と断定するための証拠は他にあります」

「……それができるなら、ぜひとも聞かせて頂きたいものですね」

 青田の挑戦に榊原は即座に乗った。

「一般的にこのような計画殺人事件の場合、一から十まで犯人の計画通り事が進むというケースは非常に稀です。殺人を起こせば、その過程で必ず犯人にとって想定外の事……偶然による何らかの事象やアクシデントが発生するものです。もっとも、そうした偶然やアクシデントの事まで想定して対策を立てている犯人を相手にすると捜査はかなり難しくなるのですが、それはすなわち、そうした殺人実行時に起こる犯人にとって想定外の部分に、犯人を追い詰めるための決定的な証拠が内包されている事が多いという事でもあるのです。要するに、警察や我々事件を捜査する側にとってそうした偶然やアクシデントは犯人に対する攻め所であり、逆に犯人にとっては致命的なウィークポイントになるという事ですね。ゆえに、私はこのような事件を調べる際、犯人にとっての想定外が何だったのかを考えるようにしています」

 そう前置きして、榊原は具体的な推理に入る。

「では、今回の事件における犯人にとっての『想定外』とは何なのか? 考えられる事象は二つ。一つは、先程から何度も言っているように、本来事件に関係がなかったはずの谷藤松蔵に犯行現場を見られてしまい、口封じのために殺害せざるを得なかった事。犯人にとってこの殺人は想定外のもので、それゆえにその対処に何か致命的なミスが発生していた可能性は捨てきれません。実際、犯人は谷藤の持っていた雑誌の処理の判断をミスし、谷藤が犯人の正体を知っていたというかなり致命的な証拠を捜査側に提供する事になっていますしね」

 そして榊原は二本目の指を立てる。

「そして二つ目は、逃走中の竹倉未可子のバッグの中でカメラの録画スイッチが勝手に入ってしまい、犯行時の音声が一部残る事になってしまったという点です。要するに先程流した中で、映像Cと映像Dの存在は犯人にとって完全に想定外の代物だった事になるのです。それは犯行後、犯人がバッグの中のカメラを確認する事なく現場を立ち去った事からも確実です。ならば、この映像CとDの中に犯人を特定する致命的な証拠が残っている可能性があります」

「あるわけありませんよ。そんなものがあれば、警察は僕をすぐに逮捕していたはずですよね」

 青田は平坦な声で反論する。しかし、榊原は即座にそれを否定した。

「いいえ。気付かれなかっただけで、あなたは致命的な証拠を残しています。今からそれを証明しましょう」

 そして、榊原はいよいよ青田を追い詰めにかかった。

「鍵を握るのは、事件当時の被害者四人の『殺害の順番』です。司法解剖でも特定できなかったこの殺害の順番を、残された映像を見ればある程度まで特定する事が可能となるのです」

「……」

 青田はもう言葉で反応しない。ただ黙って榊原の推理を聞いている。

「まず、最初に殺害されたのが二階堂亮馬である事は間違いないと考えてもいいでしょう。彼はあなたの正体を知っていますからダイイングメッセージを残されないためにも真っ先に殺さねばならないし、殺害場所も幽霊騒動のあった九階。例のドッキリ撮影直後に殺害されたと考えるのが妥当ですし、何より映像Cの椎木好次郎と竹倉未可子の会話から、彼が二人よりも前に殺害されたのは自明です。また、残り二人のうち椎木好次郎が竹倉未可子よりも先に殺害されたという事もほぼ間違いないと判断します。竹倉未可子が殺された映像Dに椎木の声は残っていませんし、椎木の遺体は五階で見つかっています。暗闇であの階段を上り下りするのが至難の業である以上、逃走中の椎木を五階で殺害し、その後一階まで逃げてきた竹倉未可子を殺害したと考えるのが筋でしょう。ここまでは問題なく特定が可能です」

 そこまで言ってから、榊原は問題点を提起する。

「問題は、ホームレスの谷藤松蔵が一体どの段階で殺害されたのかというこの一点です。初っ端という事は考えられません。まだ犯行を行っていない状況で谷藤に何か見られても殺害に発展するはずがありませんし、何より二階堂亮馬殺害までは犯人も第二のカメラマンとして被害者たちと同行していたはず。谷藤を殺害する時間的余裕はありません。従って考えられる可能性は、二階堂殺害から椎木殺害までの間、椎木殺害から竹倉殺害までの間、竹倉殺害後の三パターンに絞られます」

 一体榊原が何を言おうとしており、そしてこの話がどのように青田を追い詰める証拠に繋がっていくのか他の面々には何もわからない。ただ黙って、榊原とそれに対峙している青田の様子を、固唾をのんで見守っているだけである。

「では、実際の所はどうなのか? それを特定するヒントは残された四つの映像が撮影された時間にあります。カメラの記録によれば、映像Aが撮影されたのは事件当日の午後九時五十分頃、映像Bが午後十時十二分頃、映像Cが午後十時四十六分頃、映像Dが午後十一時二分頃となっています。問題はその時間の関係です」

「時間の関係……何を言いたいのか僕にはわかりかねますね」

 青田は言葉を挟むが、榊原は遮るように先に進む。

「より詳しく言うなら、ポイントは四つの映像の時間の間隔です。具体的には、AとBの間は約二十分、BとCの間は約三十分、CとDの間は約十五分となっています。また、それぞれの撮影場所はAが一階、Bが九階、Cはわかりかねますが、Dは一階です。そして、これらの情報から我々はいくつかの事実を読み取る事ができるのです」

 そして、榊原はその「情報」を列挙していく。

「例えば……映像AとBの間隔は先述したように約二十分。この間に被害者たちは一階から九階まで移動しています。九階到達後に竹倉未可子が幽霊に扮するための準備時間があったでしょうが、それを踏まえても一階から九階に到達するまでに約十五分の時間がかかってしまう事がわかるんです。まぁ、明かりもなく、どこが崩落しているかもわからない瓦礫だらけの夜の階段を移動する以上それくらいの時間はかかるだろうと私も思いますし、何より先日実際に階段を登ってみたところ、昼間にもかかわらず九階まで十分前後はかかりました。夜ともなればそれ以上はかかるでしょうから、この数字は充分に信用できるものだと私は考えます」

 ですが、と榊原はさらに続けた。

「だとするなら、さらに新たな情報が明らかになります。それはすなわち『犯人が映像Cと映像Dの間で谷藤松蔵を殺害する事は絶対に不可能である』という点です」

「……」

「映像Cの時点で二人が何階にいたのかはわかりませんが、その後で椎木好次郎が五階で殺害されたのは疑いようのない事実です。鑑識によれば四体の遺体に動かされたような形跡はなく、全員が発見場所で殺害されたという事らしいですからね。つまり、映像CとDの間に五階で椎木好次郎を殺害した犯人は、その後映像Dが始まる時間までに五階から一階まで移動しなければならないわけですが……問題は、このCとDの間が約十五分しかないという事です」

「あっ」

 瑞穂はそこまで言われて何かに気付いたようだった。榊原は小さく頷きながら推理を続ける。

「一階から九階までかかる時間が約十五分となれば、五階から一階までは半分の七~八分、下手をすれば十分程度はかかります。一方、暗闇を逃げる人一人を殺害するとなれば一分というわけにはいかないでしょうから、五階での椎木好次郎殺害に五分程度かかったと見積もりましょう。すると、映像Cが途絶えてから椎木好次郎を殺害し、その後一階に降りてそこまで逃げた竹倉未可子を殺害するまでに、リミットとなる十五分を使い切ってしまうんです。その間に二階で谷藤松蔵を殺害する時間的余裕はありません。しかも状況的に谷藤は現場の部屋に逃げ込んだところで殺害されていて、という事は、犯人は逃げ惑う谷藤を追いかけて殺害した事になりますから、そうなるとますます時間が足りなくなるのは自明です。つまり、椎木殺害から竹倉殺害までの間に谷藤が殺害された可能性はないとみていいでしょう」

「なら、殺害されたのはBとCの間という事ですか?」

 明日子が遠慮がちに尋ねるが、榊原は首を振った。

「いいえ、それならそれで事件の状況がおかしい事になってしまいます。映像BとCの間は三十分程度ありますが、そもそも谷藤が殺害されたのは犯行を目撃したが故の口封じだったはずです。椎木が殺害されたのが五階である以上、つまり映像Cの段階で椎木たち二人は五階以上のところまでしか逃げ切れていなかった事になる。あの段階でそれ以下の階まで逃げていたなら、せっかくそこまで逃げていたにもかかわらず椎木がわざわざ上の階の五階に逃げて殺害されたという意味のわからない話になってしまうからです。しかしそうなると、仮にこの時間帯で谷藤が殺されたという事になれば、二階にいた谷藤がわざわざ上階である九階まで足を運んで映像Bの時間帯に第一の事件である犯行を目撃してしまい、それを犯人に見つかって二階まで逃げたところで殺害され、犯人はその後五階まで引き返して映像Cの時間帯の後に椎木好次郎を殺害したというこれまた苦しい話になってしまうのです。このやり方では犯人はホテルの階段を何度も上り下りしなければならない上に、本来の標的ではなかった谷藤を優先してしまった結果、その間に肝心の標的二人がどの階に逃げたのかさえわからなくなってしまう危険性さえある。なにより、またしても時間が足りません。三十分とは言いましたが、竹倉未可子が幽霊の格好をせずに死んでいた以上、映像B撮影後に竹倉未可子が着替えをして元の格好に戻るまで犯人は犯行を控えていた事になります。まぁ、竹倉が幽霊姿のままでは映像Bのトリックが一発でばれてしまうのでこれは当然ですが……この着替えに五分、さらにその後の二階堂殺害に五分かかったとして、そこで犯行を目撃した谷藤を追いかけて他の二人をほったらかしにして九階から二階まで降り、逃げ惑う谷藤を殺害したとすればそこでさらに十分から十五分。その後完全に見失ってしまった二人を探しつつ五階まで戻ったとなれば、余裕でリミットの三十分を超えてしまうのです。しかもこの間、先程証明したように通報を防ぐために犯人は椎木の携帯に電話をかけ続けている状態で、その状況下で谷藤を殺害する事など物理的にも不可能です。何より、当の谷藤がわざわざ九階まで様子を見に行く理由が全くわかりません。以上の理論より、谷藤が映像BとCの間に殺害されたという可能性はないと判断します」

 そして榊原は告げる。

「となれば結論は一つ。谷藤松蔵が殺害されたのは全てが終わった後……映像Dに記録されているように、竹倉未可子が一階で殺害された後だったという事になります。一階なら二階に住んでいた谷藤が物音などに気付いて何事かと様子を見に来ても不思議はありませんし、何より他のケースと違って時間制限が存在しません。竹倉未可子を殺害した瞬間を、様子を見に来た谷藤に見られ、その後谷藤を追いかけて二階の部屋で殺害したと考えれば時間的な辻褄は合います」

 瑞穂は一瞬榊原の論理に納得しそうになったが、それに待ったをかけたのは新庄だった。

「待ってください! 水を差すようでなんですが……その可能性はないと断言できます」

「なぜだね?」

「凶器のナイフです。映像Dによれば、犯人は竹倉未可子を殺害した際に凶器のナイフを彼女の傍の床に投げ捨てていて、実際にそのナイフはそこから見つかっています。つまり、凶器のナイフは竹倉未可子を殺害した直後に捨てられその後犯行には使用されていない事になるんです。だとすれば、竹倉未可子殺害後に谷藤松蔵を殺害したという推理は成立しなくなるのではないですか?」

 その指摘に他の面々はざわめいた。一応、榊原に代わって瑞穂が反論してみる。

「凶器が複数あったと考えたらどうですか? 何しろ三人も殺すつもりだったんですから、不測の事態に備えて予備の凶器を用意していたとしても無理はありません。大学生三人を殺害したのは現場で発見された一本目のナイフで、谷藤松蔵を殺害したのは予備で用意しておいた別のナイフだったとしたら……」

 だが、瑞穂のその推理は新庄に否定される。

「あり得ません。谷藤を含めた四人の遺体の傷口は竹倉未可子の傍で見つかったナイフのものと一致していますし、何より問題のナイフには谷口のものも含めた四人分の血液が付着していたんです。四人を殺害したナイフがこのナイフである事に疑いはありません」

「じゃあ、一度ナイフを投げ捨てた後で谷藤さんに見つかって、もう一度拾って殺しに行ったとか……」

「ナイフには大量の血が付着していて、発見当時ナイフの周囲の地面にはナイフから垂れた血で血痕によるナイフの『型』が描かれている状態でした。もし一度投げ捨てたナイフを再び拾い上げたなら、この血でできた『型』の形も崩れているはず。それがなかった以上、ナイフは一度投げ捨てられてから発見時まで一切移動しなかった事が証明されます」

 瑞穂は言葉に詰まる。が、そんな瑞穂に代わって榊原が静かに答えた。

「だが、先程まで述べた理論が間違っているとも思えない。ならば可能性は一つだ。新庄の言う『竹倉未可子殺害直後に犯人が竹倉の遺体の傍にナイフを捨てた』という前提条件が間違っているという場合だ」

「間違っていると言われても……実際にナイフは遺体の傍から見つかっていますし……」

「見つかっているだけで、そのナイフがいつ遺体の傍に置かれたかはわかっていない。別に谷藤を殺した後に置いたとしても問題はないはずだ」

「いえ、ナイフを置いたのは間違いなく竹倉殺害直後です。実際、映像Dにナイフを投げ捨てる音が記録されていて……」

 そこまで言って、新庄はふと言葉を止めた。

「まさか……」

「気付いたか。確かに、映像Dには竹倉未可子殺害直後に『カランという何かを床に放り投げたような金属音』は記録されていた。金属音であるという点と、実際に遺体の傍から凶器のナイフが見つかっていたからこそ、その音の正体を凶器のナイフと考えてしまったのも無理はない話だが……実際の所、それが音の正体が本当に凶器のナイフだったのかは明確に立証されていない。何しろ、問題の映像に記録されているのは音だけで、肝心のナイフ自体は一切映っていないわけだからな」

 榊原はそう言ってから改めて青田に向き直る。

「論理的に考えて、谷藤が殺害されたのは竹倉未可子殺害後。しかし、凶器のナイフは竹倉未可子殺害直後に捨てられていて、実際に竹倉の遺体の傍で発見された凶器には谷藤を含めた全員分の血が付着していた。一見すると矛盾ですが、ならば発想を逆転すればいい。すなわち『竹倉殺害直後に凶器が捨てられた』という前提自体が間違っていて、ナイフは谷藤殺害後に置かれたという可能性です。おそらく、実際は谷藤殺害後、犯人は一階から外に逃げる直前に竹倉の遺体の傍に放り投げる事なく直接遺体の傍の床にナイフをゆっくり置いてその場を去ったんでしょう。だからこそナイフを遺棄する音はカメラに記録されなかったし、カメラもバッグの中にあったから多少の小音は記録されなかった。実際、実験してみたところ金属音や大声などは記録できても、足音などの小さな音まではバッグの中のカメラに記録できないようでしたしね」

「……」

「あるいはいっそ、カメラのバッテリーが切れた竹倉未可子殺害の十分後以降に犯人が戻って来て、改めて竹倉未可子の傍にナイフを捨てた可能性もあります。まぁ、どちらの可能性でもこの際変わりはないでしょうがね」

 そして、榊原はさらに声を張り上げる。

「以上より、谷藤が竹倉殺害後に殺害された事、そして映像Dに残されていた金属音が凶器のナイフのものではなかった事は立証されました。ならば、次の問題は明白です。すなわち……映像Dに記録されているこの『金属音』は何なのか? 状況と音の性質から見て、何か金属製の物品が床に落ちて発せられた事は間違いなさそうですがね」

「何と言われても……」

 その場の誰もが当惑する。

「はっきりしているのは、この金属音は犯人の意に反して発せられたものであるという事です。ナイフを投げ捨てた音に偽造するためだったという推理は成り立ちません。そんな事をする意味がありませんし、何より犯人はバッグの中でカメラの録画スイッチが入っている事を知らないはずですからね。すなわち、この金属音は明らかに犯人にとっての『第三のアクシデント』であり、すなわちこの金属音の正体こそが、犯人のウィークポイントになっている可能性があるのです」

 と、ここで唐突に榊原は圷の方に視線を向けた。

「圷さん、事件を捜査した時、鑑識は竹倉未可子殺害現場周辺の遺留品を押収しているはずですよね?」

「あぁ。もちろんだ」

「その押収品リストをこの場に提示して頂けますか?」

 圷は何か意味があるのだと思ったのかすぐに持っていたノートパソコンを操作し、正面のスクリーンにリストを表示した。

「問題の物体は音から考えて金属製。ただし、凶器のナイフではありません。また、被害者のバッグの中に入っていた物は除外しても構わないでしょう。その条件で、遺留品の中で金属音の正体の可能性があるものはありますか?」

 榊原の言葉に、圷は可能性があるものをピックアップしていく。

「被害者の所持品の中にそれらしいものはないな。強いていうなら懐中電灯だろうが、これはバッグの中に入っていたから関係ないだろう。あとはその辺に転がっていた空き缶数個に……同じく放置されていた鉄パイプといったところか」

「それらの遺留品ですが、指紋は?」

「一応検出されているが、何しろここは事件前からホームレスだの良からぬ奴らだのが出入りしていた場所だ。正直、誰の指紋かもわからなかったし、前科者にも該当者はいなかった。もちろん、被害者の竹倉未可子の指紋も付着していない」

「では次に、事件の捜査の際、鑑識は事件と関係ない指紋を排除するために第一発見者の指紋を採取した上で、検出された指紋との比較検証作業を行っていますよね?」

「あぁ。第一発見者は現場に手を触れているから、それを排除する必要があるからな」

「当然、その中には第一発見者の一人である青田雄二の指紋もあったはずです。その指紋は今挙げた遺留品から検出されていますか?」

 榊原の問いに、圷は首を振った。

「そんなものがあったらさすがに本人に話を聞いている。何しろ遺体発見時、竹倉未可子に近づいたのは武光巡査部長だけで、青田は遺体の傍に近づいていないんだからな。それをしていない時点で結果はわかるだろう」

「なるほど。では、今挙げた遺留品の中で被害者の血痕などが付着しているものはありましたか?」

「ん? あぁ、空き缶も鉄パイプも、全てに何らかの形で血痕が付着していたよ。まぁ、現場はかなり派手に血が飛び散っていたし、近くにあったから無理もないが……」

 話を聞くうちにその場にいる人間の表情がだんだん重苦しいものになっていく。正直、ここまでの話を聞く限り、現場に残された遺留品の中に該当しそうなものがあるとは瑞穂には思えなかった。

 だが、榊原は逆にそれで何か確証を得たような表情を浮かべ、こう言葉を返した。

「結構です。ならば、可能性はかなり絞られたと考えます」

「可能性?」

「えぇ。今の情報を聞いた限り、残されていた空き缶や鉄パイプが問題の金属音の正体だったとは考えにくい。つまり、現場に残されていた遺留品に金属音の正体はなく、すなわち犯人がわざわざ現場からその金属音の正体を持ち去ったと考えるしかありません。では、なぜ持ち去ったか……それは、その金属音の正体こそが、犯人の正体を明確に示す証拠になりかねない事を犯人自身がよくわかっていたからです」

 つまり、さっきから榊原が言っているようにその金属音の正体を突き止める事が犯人を特定する何よりもの証拠になるという事だ。

「さて、この金属音の正体の出自として考えられる可能性は二つ。一つはそれが被害者の竹倉未可子の持ち物で、犯行時に何らかの理由でその所持品が落下し、それを犯人が持ち去ったというもの。もう一つはその金属音の正体が犯人の持ち物で、犯行時に被害者の抵抗で地面に落ちたというものです。後者なら犯人が持ち去ったのも当然ですし、前者の場合なら犯人にはその被害者の所持品をわざわざ持ち去らなければならない理由があったわけです。その上で、です」

 と、ここで榊原の視線がまっすぐに青田へ向いた。

「青田さん、つかぬ事を聞きますが、あなたは近視ですね?」

「……見ればわかるでしょう。こうして眼鏡をかけているわけですから」

「その眼鏡、見た所メタルフレームの眼鏡ですね。ステンレス製ですか?」

「……何が言いたいんですか?」

「いえ、メタルフレームの眼鏡という事は当然ながら金属製。それが落ちたら、確実に金属音が響くだろうと思いましてね」

 その言葉に、誰もがハッとしたように青田の顔を見やった。当の青田は表向き動じる事無く、黙って榊原の言葉を聞いている。

「この犯行を行った場合、大量の返り血を浴びる事はあらかじめ予測できるので、実際の犯行の際には普段着などではなくすぐに処分できる服を着ていたのでしょう。ただ、そんなあなたでも普段からかけている眼鏡だけは替えが効かない。そして恐らく、竹倉未可子を殺害した際に彼女の抵抗でかけていた眼鏡が弾き飛ばされ、地面に落ちてしまったのでしょう。そして、その際に問題の金属音が鳴った」

「……」

「当然、眼鏡はすぐに拾ったのでしょうね。しかし、さっき圷警部が言ったように現場周辺には派手に血が飛び散っていた。それは周囲にあった空き缶や鉄パイプにまで血が付着していた事からも明らかでしょう。となれば、地面に落ちた眼鏡にも血が付着してしまった可能性が極めて高いと考えます」

「……」

「他の物ならともかく、いくら血痕という致命的な証拠が残っていたとしても眼鏡を捨てるわけにはいきません。後々疑われた時の事を考えるといきなりコンタクトレンズに替えるなどという目立つ事をするわけにもいかなかった。従って、あなたが今かけている眼鏡は、かなりの確率で事件当時にかけていたものと同一の物と推測できます。もちろん犯行後に血痕は拭いたはずですが……だとしても、その眼鏡からはルミノール反応が検出されるはずです」

 皆が息を飲む。青田にとってもこれはかなりの致命傷だったはずだ。だが、青田はなおも淡白に反論する。

「……取るに足らない妄想です。いくら金属製とはいえ、眼鏡を落としてあんな音が出るかどうかはわかりません」

 しかし、榊原も負けじと反撃する。

「えぇ。ですので、金属音の正体の候補はもう一つあると考えています」

「……」

「私の推理が正しければ、被害者たち……というよリーダー格である二階堂亮馬は不法侵入ではなく管理者であるあなたに正式に許可を求めてこの廃墟に入ろうとした事になります。という事は、あなたは事件当時、この廃墟に入るために市役所が保管している鍵を使ったはずです。いくら不法侵入できる状況だったとはいえ、彼らが正式な許可を得て入ったと思っている以上、表向き鍵は使わざるを得なかったはずですからね」

「……」

「その鍵はポケットにでもしまっていたのでしょう。そして、竹倉未可子殺害時に被害者の反撃でその鍵が地面に落ちてしまった。……あとは眼鏡の時の推理と変わりありません。というより、落としたのが本当に鍵だったとすれば、眼鏡以上に扱いに困ったはず。市役所が保管する鍵を勝手に捨てる事など絶対にできないでしょうし、勝手に持ち出して合い鍵を作るというのも後で持ち出しがばれた時の事を考えるとかなり難しいでしょうからね」

 そこまで言われても青田の表情は変わらない。だが、反論もない。それを追い詰められている証拠と判断し、榊原はさらに推理をぶつけていく。

「正直、音の正体が眼鏡なのか鍵なのかまでは現段階では絞り切れていません。ですが、状況的にそのどちらかである事までは確実だと私は考えています。ですから、それをはっきりさせるためにあなたが今かけている眼鏡と、あなたが管理しているこの廃墟に入るための鍵のルミノール検査をしてみましょう。そのいずれかから血痕が検出されたら……それはあなたが事件当日にこの現場にいた犯人であるという何よりもの決定的証拠になると考えます。違うというのなら、血痕がそんなものに付着している理由を説明してほしいものです」

「……」

「さらにもう一つ。これまでの推理が正しかった場合、現場からは竹倉未可子が『幽霊』に変装するために使った衣服とカツラが消えている事になります。まぁ、竹倉未可子が幽霊だった事を隠したかった犯人からすればこれらの物品を放置するわけにもいかないはずなのでほぼ間違いなく持ち帰って処分したのでしょうが、そうなるとその持ち去られた衣服とカツラの痕跡があなたの自宅なりに残っている可能性があります」

「……」

「特に問題なのはカツラです。ちょっとトートバッグに入れておいただけでもこれだけ抜け落ちた人工毛髪が残るんです。本体そのものは処分できたとしても、処分の過程で抜け落ちたであろう人工毛髪一本一本をすべて処理できているとは思えません。もし、そうした人工毛髪が一本でもあなたの部屋から見つかり、それが被害者のトートバッグに残されていた繊維の成分と一致すれば……あなたが事件当夜に竹倉未可子のバッグから幽霊に変装するためのカツラを持ち去ったという何よりもの証拠になるはずです」

「……」

「それに、先程も言ったように、四人もの人間を刃物で刺し殺したとなれば着ていた衣服に大量の返り血が付着する事は避けられません。その衣服は犯行後に変装用の衣装と同様に処分したのでしょうが、返り血が大量に付着した状態でホテルから帰るわけにはいかないので、犯行後にホテルの敷地内のどこかで予備の服に着替えたはずです。もちろん、着替えを持って被害者たちに同行すれば即座に怪しまれてしまうので、おそらく犯行前にあらかじめ着替えをホテル内に隠すくらいの事はしていたはずですがね。いずれにせよ、そんな血だらけの服をそのまま処分するわけにもいかない。ゴミに出すにしても血痕の洗い流しくらいはしておく必要があります。となれば、あなたの自宅の風呂場辺りから血液を洗い流した痕跡が発見されるはずです」

「……」

「私が考えただけでもこれだけ思いつくくらいです。警察があなたに的を絞って本気で調べれば、これ以外にも証拠はたくさん出てくるでしょう。いずれにせよ、これであなたが犯人であるという事は充分に立証できたと考えます。さて……これでもまだ罪を認めませんか! それとも、無謀とわかっていながらまだ反論を続けるつもりですか!」

「……」

「いかがですか!」

 榊原の言葉が鋭く響き、その場を一瞬の静寂が支配する。が、青田はジッと黙って榊原を冷めた目で見つめ続けていた。

「……」

 返事はない。それを見た榊原は小さく首を振りながら、さらなる追求を加えようとした。

 ……が、その時だった。


 パンッ


 突然、静まり返ったロビーにそんな音が響き渡った。何事かと皆が音源を探すと、それは青田が自身の両手を打ち合わせた音だった。

 何のつもりかと全員の視線が集まる中、青田は無表情のまま何度か同じ動作を……まるで拍手のようにゆっくりと手を打ち合わせる行為を繰り返した。


 パンッ……パンッ……パンッ……パンッ……


 誰も何も言わない中、青田はその異常な動作を続ける。そして、何回かその動作を繰り返した後、不意に両手をだらりと下ろして、その感情のない暗く濁った眼で榊原を見据えながらぼそりと告げた。


「ここまで……ですか」


「っ!」

 その言葉に、誰もが鋭く息を飲む。が、榊原は険しい表情を崩さないまま尋ねた。

「……それは、認めるという事ですか? この事件の犯人があなたであると」

「そう言う事になりますね。さすがは、三年前にここで起こった事件を解決した探偵さんです。僕なら勝てると思ったのですが……さすがにそこまで甘くはありませんか。殺人というのは難しいものですね。やってみないとわからないものです。……いい勉強になりました。次にやるときは参考にさせて頂きましょう」

 それが何らかの感情……例えば怒り、諦め、もしくは自嘲と言った表情を浮かべながら言っているならまだわかるのだが、この男はこのセリフを無表情のまま、何の抑揚もつけずに機械のように言っているのであり、それがなおさらこの男の不気味さを強調する事に成功していた。そして、彼は相変わらず何の感情も浮かべないまま抑揚なく単調に、そしてどこか他人事のように宣告する。


「僕の負けです。事件解決、誠におめでとうございます」


 その言葉に、瑞穂を始めその場の大半の人間の背筋が凍る。それは、瑞穂が今まで見た事がないほど……それこそ瑞穂と榊原が出会うきっかけとなった「あの犯人」を超えるほど凄みのある敗北宣言だった……。

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