第二章 捜査会議

 事件発生から三日後の十二月十八日土曜日、東京都品川区品川駅近くの裏町。そこにある三階建ての古びたビルの二階にある『榊原探偵事務所』で、事務所の主である元警視庁捜査一課警部補の私立探偵・榊原恵一さかきばらけいいちは事務机備え付けの椅子に座ってぼんやりと本を読んでいた。

 年齢は四十代半ばに差し掛かろうと言ったくらいだろうか。くたびれたスーツにネクタイというどこかの窓際サラリーマンのような風貌をしており、一見するとどこかパッとしないさえない中年男性に見えない事もない。だがその実態は、かつて警視庁刑事部捜査一課内に存在した伝説の捜査班のブレーンを勤め上げ、諸事情で警察を辞職した後も探偵として犯罪史に残る数々の難事件を推理力一本で解決に導いてきた推理の天才であり、探偵の本分たる論理と推理に特化してすべてを暴き出すそのスタイルから、関係者から「真の探偵」……もしくは「論理の怪物」など呼ばれている傑物である。実際、穏やかそうな表情に反して、その視線の奥からは底知れぬ何かを放っており、一度正面から向き合えば彼がただ者ではない事は充分に理解できるはずだった。

 さて、そんな事務所の入口にある別の事務机ではスーツ姿の若い女性が書類整理をしていた。彼女の名前は深町瑞穂ふかまちみずほ。今年の春に都立立山高校から東城大学法学部に進学した大学一年生であり、同時にこの事務所のアルバイト事務員でもあった。彼女が高校一年生の時に立山高校で起こったある殺人事件を榊原が解決し、その事件の関係者だった瑞穂は榊原の推理に心酔して勝手に弟子入りを志願。以来、瑞穂はこの事務所に「自称弟子」として入り浸るようになり、最初は複雑な顔をしていた榊原もそのうちちゃんと弟子として扱うようになったのか事件の調査に一緒に連れて行く事も多くなり、何だかんだでいいコンビになっていた。で、大学進学と同時に彼女はこの事務所に正式にアルバイトとして雇われる事となり、今では「自称弟子」から正式な所員に格上げとなっていた。

 この事務所には他にもう一人真木川女子大学の宮下亜由美みやしたあゆみという事務員もいるのだが、今年四年生になる彼女は何かと忙しい事が多くて最近あまり顔を出せなくなっており(確か今は教育実習に行っているはずである)、ここ最近は二人だけで事務所で過ごす事が多くなっていた。

「先生、資料の整理、終わりましたよ」

「あぁ、ご苦労さん」

 整理していたファイルを棚に戻すと、瑞穂は入口前の机の椅子に腰かけて大きく伸びをした。

「あー、暇ですねぇ」

「探偵に仕事がないのはいい事だと思うがね」

「そりゃそうですけど……それより先生、あの事件、何か続報はないんですか?」

 瑞穂のその問いに対し、榊原は少し真剣な表情になって答えた。

「今の所、テレビや新聞では新しい情報はない。やはり気になるかね?」

「そりゃまぁ……。三年前に関わった事件ですし、その時にあのホテルにも行っていますから。そこでまた事件が起こったってなれば、気にもなります」

 瑞穂が言っているのは、三日前に高円寺の「ホテル・ミラージュ」で起こった大量殺人事件の事だった。

 ……先述した通り、「ホテル・ミラージュ」で三年前の火災と同時並行して、昨今では『業火の殺人者』事件と呼ばれる殺人事件が発生している。この事件の犯人は火災から一週間程度で犯行を暴かれて逮捕されたのだが、実の所、この殺人事件を解決に導き、壮絶な論理の一騎打ちの末に真犯人を自供に追い込んだのが、他ならぬこの榊原恵一だったのである。もちろん、世間一般には表向き警察が解決した事になっているが、警察や事件関係者の中ではその際に榊原が犯人を追い詰めた推理劇は今でも語り草になっているらしい。というより、その推理の場には当時高校一年生だった瑞穂もいて、その時の榊原と犯人との対決は今でも瑞穂の記憶に鮮明に残り続けている。

 それだけに、あの事件の舞台となったホテルで再び発生した大量殺人事件について、榊原も瑞穂も無関心ではいられなかった。とはいえ、発生場所が同じとはいえ基本的には前回の事件とは無関係な事件であり、依頼もないのに一応世間的には一介の探偵に過ぎない(功績から考えればその評価は適当とは言えないが)榊原が勝手に介入するというのも何か違う話である(無論、ちゃんと依頼があれば話は別だが)。

 それに、元刑事である榊原は別に警察の捜査能力を過小評価するつもりもなく、普通の事件であるなら自分が介入せずとも警察の捜査で解決できるだろうと考えていた。もちろん、今までの実績から警察から事件解決のアドバイザーを依頼される事もあるが、榊原に警察から依頼がなされるのは警察だけでは解決不可能と判断された難事件ばかりであり、警察にとって榊原は事件解決の目途がつかなくなった場合の「最終手段」という扱いになっているようだった。もっとも、そうして警察から最終手段的に持ち込まれる難事件を解決できる時点で榊原の探偵の実力が本物である事は間違いなく、実際に警察関係者の中でも榊原を信頼している人間は多いという。

 そんなわけで、榊原としても今回の事件については情報こそ集めてはいるものの、現段階では積極的に介入せずに静観しているというのが実情だった。

「……そう言えば先生、あの事件の時、私もスーツを着て調査に同行していたのを思い出しました」

「そうだったっけね?」

「そうですよ。おかげで放課後に部室でスーツに着替える事になって、その姿を見た友達とか先生とかに心配される羽目になったのを覚えています。高校在学中にスーツを着る体験をした女子高生っていうのもあまりいないと思いますけど」

「まぁ、今となってはいい思い出だがね。もっとも、事件そのものはいい思い出とは言えないが」

「……あの犯人、確か死刑判決を受けたんですよね」

「あぁ。さすがに状況が状況だったからね。今も東京拘置所でその時を待っているはずだが……」

 と、そんな事を話していた時だった。不意に事務所のドアがノックされ、二人は顔を見合わせた。

「アポイントメントは?」

「ありません。というか、そんなのあったら真っ先に知らせています」

「まぁ、そうだね。……どうぞ!」

 榊原が声をかけると、ドアが開いて来客が姿を見せた。

「失礼します」

 入って来たのは、今まさに高円寺署で事件の指揮を執っている刑事……捜査一課第三係の新庄だった。ちなみに、榊原と新庄はこれまでに何度も事件の捜査で一緒になっており、かなり親しい関係だった。

「新庄か……わざわざここに来たという事は、また何か事件絡みか?」

「はい。僭越ですが、榊原さんの知恵をお借りしたいと思いまして」

「まぁ、それは別に構わないがね。その事件というのはもしかして……」

「お察しの通り、『ホテル・ミラージュ』の一件です。榊原さんとしても無関心ではいられないはずですが」

「……否定はしない」

 ひとまず、榊原は新庄に来客用のソファを勧め、自身もテーブルを挟んだ反対側のソファに腰かけた。瑞穂は隣の給湯室でお茶を入れると二人の前に出し、自身は榊原の後ろに控える。

「事件の概要はご存知ですか?」

 座って早々、新庄はすぐにそんな事を尋ねた。

「知ってはいるが、テレビや新聞で流れている最低限の情報だけだ。詳しい事までは知らない。だが、お前がここに来たという事は……何か厄介事でも起こったか?」

「ご説明します」

 そう言うと、新庄は事件翌日に高円寺署で開かれた捜査会議で出た情報を改めて話し始めたのだった……。


 十二月十六日木曜日、『ホテル・ミラージュ』で起こった大量殺人事件は最寄りの高円寺署に捜査本部が設置される事となり、夕方に開かれた初めての捜査会議では、事件の規模ゆえに多数の捜査員が会議室に集結していた。そんな中、新庄の司会で事件の情報が改めて刑事たちに共有された。

「昨日正午頃、杉並区高円寺××の廃ホテル『ホテル・ミラージュ』の解体のための視察に訪れた解体業者『村田組』の社員十五名、及び同行していた杉並区役所職員の青田雄二あおたゆうじ氏と高円寺署地域課の武光信哉たけみつのぶや巡査部長がホテル内に倒れている女性の遺体を発見。その後の高円寺署の捜索により新たに三体の遺体が発見されました。被害者のうち三名は所持していた学生証から身元が判明。全員、早応大学の三年生で、法学部政治学科の二階堂亮馬、医学部薬学科の椎木好次郎、文学部日本文学科の竹倉未可子の三名です」

 報告する刑事が合図をすると、正面のスクリーンの三人の写真が次々と映し出される。全員、今どきの大学生らしい派手な格好で、特に二階堂亮馬は髪を金髪に染めてかなり目立つ格好だった。

「それぞれの経歴ですが、二階堂亮馬は埼玉県熊谷市出身で、熊谷第一高校から早応大学に進学。高校時代は同校野球部に所属し、三年の時には夏の甲子園にも出場していますが準決勝で敗退し、しかもその甲子園で肘を故障して野球生命を絶たれ、以降は大学も一般入試で突破。現在は野球に関わらない生活を送っています。椎木好次郎は千葉県習志野市出身で、千葉中央高校から早応大学に進学。高校時代は卓球部所属で三年の時に県大会上位にまでは行っていますが、競技自体はそれ以上続ける気がなかったらしく、大学入学後も別のサークルに入っています。最後に竹倉未可子は神奈川県小田原市出身で、西小田原高校から早応大学に進学。高校時代は吹奏楽部に所属しトランペットをやっていたそうで、大学入学後も地元の有志による演奏会などに出演していたそうです」

 と、そこで別の刑事が立ち上がってさらなる報告を行った。

「残る被害者一名はホームレスと見られていましたが、今朝になって指紋が警視庁のデータベースと一致し、身元が判明しています」

 その言葉と同時に、スクリーンに最後のホームレスの顔写真と本名が映し出された。

谷藤松蔵たにふじまつぞう

 最後の一人の身元に捜査員たちがざわめく中、報告していた刑事がさらに補足説明を行う。

「谷藤は六年前にコンビニでの万引きで逮捕され、この時は執行猶予判決を受けましたが、三年前にも別のコンビニでも万引きを繰り返したため懲役一年の実刑判決。典型的な『刑務所の飯で冬を越そうとした』というタイプの犯行でした。指紋はその時に採取されています。近隣のホームレスの話では仲間内では『マッサン』と呼ばれていて、一年ほど前からあのホテルを根城にするようになったという事です。近々取り壊し予定の話が出て他のホームレスはあのホテルから撤収していましたが、谷藤だけは残り続けていたのだとか」

 続いて、鑑識の圷から検視の報告がなされる。

「えー、死亡推定時刻は四人とも遺体発見の四日前……すなわち十二月十一日頃かと思われます。具体的な時間は発見まで時間が経過していたため幅がありますが、おそらく当日の深夜から翌日早朝にかけて。死因は四人全員刃物で刺された事による出血性ショック死。凶器のナイフは一階のフロント前で発見された竹倉未可子の遺体付近に転がっており、このナイフから四人全員の血痕が検出されています。それぞれの傷口と刃物の形状も一致し、これが凶器と考えて間違いありません。なお、それぞれの詳しい所見については手元に配布した資料を参照してください」

 その言葉に捜査員たちがあらかじめ配布されていた資料を見やる。四人の被害者のうち、一階で発見された竹倉未可子は胸部に刺創があり、正面から胸を一突きされショック死したと推定されていた。二階で発見されたホームレスの谷藤松蔵は両手に防御創と思しきいくつもの傷跡があり、その上で正面から心臓を一突きされて即死。五階で発見された椎木好次郎は右脇腹に刺創があり、正面もしくは右側から肝臓を刺された事による出血性ショック死。九階で発見された二階堂亮馬は同じく右脇腹を背中側から刺されており、背後から肝臓を刺された事による出血死と判定されていた。

「具体的に殺された順番はわかりますか?」

 新庄の問いに、ここでは圷も敬語で応じる。

「そこまではさすがにわかりかねます。死亡から数日経過していますので。ただ、全員が同日中に殺された事は間違いないでしょう」

「つまり……別々の日に別々に殺されたというわけではなく、これは同一犯による大量殺人と断定して問題ないという事だな」

 捜査本部長の高円寺署署長の言葉に刑事たちの表情が引き締まる。もちろん、同時刻に同時多発的に四件の殺人が起こったという可能性がないとは言わないが、被害者三人が同じ大学の学生である事を考えても、その可能性は考慮しなくても良さそうだった。

「被害者のうち三名は同一の大学の学生だが、これについて何か情報は?」

 それについては、直接調べを進めていた竹村が立ち上がって報告した。

「遺体となって見つかった大学生三人組ですが、大学に問い合わせたところ、同校の探検サークルのメンバーだった事がわかりました」

「探検サークル?」

 聞きなれない言葉に署長が首をかしげる。

「探検サークルとは言っていますが、実質的にはオカルト研究会と言った方が良いかもしれません。名前通り色々な場所を探検する事を主目的とするサークルですが、その場所というのが洞窟や森などではなく、廃墟や心霊スポットなどいわくつきの場所が多かったそうで、そういう場所を探検してスリルを味わう事を目的としていたようです。中には無許可でそういう場所に入っている事もあり、トラブルになる事も多かったとか。おそらく今回も、そうした廃墟探検活動目的で現場のホテルに侵入したと考えるのが妥当でしょう」

「……何とも一癖も二癖もありそうなサークルだな。それに、恨みを持っている人間も多そうだ」

 新庄がそう感想を漏らすのを聞いてから、竹村は先を進めた。

「メンバーは被害者三名を含めて七名。男性四名、女性三名。四年生はおらず、死亡した三人が三年生で、残る四人のうち二人が二年生、二人が一年生です。ちなみに、死亡した二階堂亮馬が部長、椎木好次郎が副部長をしていました」

 そして、竹村の合図でその残るメンバー四人の名前と顔写真が映し出された。


『早応大学経済学部経営学科二年 福倉哀奈ふくくらあいな

『早応大学文学部日本文学科二年 ロバート・カーン』

『早応大学理学部生命工学科一年 吉永明日子よしながあすこ

『早応大学文学部英文学科一年  大室貴政おおむろたかまさ


「目下の所、彼らが事件の重要参考人という事になります」

 と、本部長がすかさず皆が気になったであろう部分を指摘した。

「メンバーに外国人がいるのか?」

「はい。二年のロバート・カーンはアメリカからの留学生です。日本語は非常に堪能で、アメリカ人ではありますがコミュニケーションに支障はありません」

「彼らに話は?」

「私と杉山君の二人で今朝一番で聞きに行きました。それによると、彼らは被害者たちが問題のホテルに興味を持っていた事は知っていましたが、実際に出向いた事までは全く知らなかったようです。もちろん、三人がそこで死亡していた事も」

「事件以降、彼らは当然サークルに顔を出していないはずだが、この点は?」

「それについては、近々三年生三人だけでどこかの怪奇スポットに泊りがけで探検に行くような話をしていたので、それに行ったのかと気にしていなかったようです」

「……それぞれがどのような証言をしたのか聞きたいのだが」

 本部長の言葉に対し、竹村は頷くと彼ら彼女らの証言について語り始めたのだった……。


 ……被害者たちのサークルメンバー四人に対する事情聴取は、彼らが通う早応大学の部室棟にある空き部屋で行われた。もちろん、被害者たちの痕跡が残っている探検サークルの部室は現在鑑識による捜査が行われており、その合間を縫って残るメンバーからの事情聴取が行われる事になったのだった。質問自体は竹村が行い、隣で典子が記録をとるという役割分担である。

 最初に部屋に呼ばれたのは、経済学部二年の福倉哀奈だった。女性としてはかなり身長が高く、一言で言うならスタイルのいいモデル体型の美女と表現するのが一番だろうか。実際、調べてみると昨年大学の文化祭で行われたミスコンに出場した経歴もあるらしい。それだけに、なぜ彼女のような人間があまりメジャーではないこのようなサークルに所属しているのか、いささか不思議ではあった。

「名前と所属を」

「……福倉哀奈。経済学部経営学科の二年生よ」

 彼女……哀奈は何かに挑むようにそう答えた。どことなく気が強そうな性格で、竹村は一筋縄ではいきそうにないと密かに思った。

「すでに聞いているとは思いますが、君が所属する探検サークルのメンバー三人が他殺体で発見されました。その件について関係者から話を聞いているところです。彼らについて知っている事を話してもらえませんか?」

「それなんだけど、本当なの? 部長たちがあのホテルで殺されたって。何かの間違いじゃないの?」

 先手を打つようにそんな事を聞く彼女に対し、竹村は淡々と事務的に答えた。

「残念ながら事実です。そうでなければ我々が君たちを尋問するような事はしません」

「そうだけど……何で未可子がそんな事に……」

 その言葉に、竹村は早速違和感を抱いた。

「未可子、というのは被害者の竹倉未可子さんの事ですね?」

「えぇ」

「三年生の彼女を二年生の君が呼び捨てするというのは少し違和感がありますが……」

「あぁ、その事。だって、私と可奈子は西小田原高校時代からの同い年の友達だし」

「ん?」

 訝しげな表情を浮かべる竹村に、哀奈は自虐気味に言った。

「私、ここに入る時に一浪しているのよ。未可子は現役合格したから、同い年でも学年が違うってわけ。部活も同じ吹奏楽部で、あの子はトランペット、私はフルートだったわ」

「なるほど、ね」

 確かにそういう事はあるのかもしれないと竹村は納得した。

「つまり、君と竹倉未可子さんは仲が良かった、と?」

「そうなるわね。学年は違ったけど、普段からタメだったし」

「あなたがこのサークルに入ったのも彼女の影響ですか?」

「まぁね。顔見知りがいる方が良かったし、探検とかにも興味があったから。でも私、テニスサークルも兼部してるから、こっちはあくまで息抜きって感じかな」

「では、何か最近、竹倉さんの様子に変わった事はありませんでしたか?」

 哀奈は少し真剣な表情で思い出していたが、やがて残念そうに首を振った。

「悪いけど、心当たりはないわ」

「確かですか?」

「えぇ。別に普段通りだった気がするけど。強いていうなら、最近、お気に入りの腕時計をどこかに置き忘れたとか言ってたくらいね」

「腕時計、ですか」

「えぇ。でも、すぐに別の時計を買ったみたいだし、大した問題じゃなかったみたいだけど」

「つまり、その腕時計はまだ見つかっていない?」

「さぁ。でも、新しいのを買ったって事は見つからなかったって事じゃないの?」

「どこでなくしたか心当たりは?」

「どこかの駅で手洗いをした時に置き忘れたかもしれないって言っていたけど、それ以上はわからないわ」

 どうもすっきりしない話である。

「事件に事について聞きましょう。現場となった『ホテル・ミラージュ』について何かご存知ですか?」

「都内の有名な廃墟だって事をよく部長たちが話していたし、実際に行ってみたいって何度か話しているのも聞いた事がある。あと、三年生の三人だけで就活前にどこかの廃墟探検に行く計画を立てていたのも聞いていたわ。でも、それが『ホテル・ミラージュ』の事だったっていうのは初耳だし、ここ最近来ないのもその廃墟探検に行っていたからだってずっと思った。まさか……まさかこんな事になっていたなんて……」

 哀奈は少し顔を歪めるが、竹村としては心を鬼にして質問を続けなければならない。

「竹倉さんはその三年生だけの『廃墟探検』について何か言っていませんでしたか?」

 哀奈は再び首を振る。

「何も。何か聞いてもおもしろそうに『内緒』って言うだけで、それ以上は私も突っ込まなかったから」

「未可子さん以外の二階堂さんや椎木さんとはどのような関係でしたか?」

「どのようなって……別に、普通に部活の部長と副部長ってだけの関係。部活以外での個人的な付き合いはなかったわよ」

「そうですか……。ところで、事件当日、あなたはどこで何をしていましたか?」

 竹村の問いかけに、哀奈は眉をひそめる。

「アリバイって事?」

「関係者には全員聞いている事です。ご協力を」

 そう言いつつも有無を言わさぬ聞き方だった。とはいえ、事が殺人事件だけにそれを聞かれるのは予想していたのか、哀奈はそれ以上抵抗するそぶりは見せなかった。

「具体的にいつの話なのよ?」

 竹村が被害者たちの死亡推定時刻を伝えると、哀奈はため息をついて肩をすくめた。

「生憎だけど、その時間なら普通にアパートの部屋で寝ていたわね。一人暮らしだから証人はいないわ」

「アリバイはない、と」

「残念だけどね。でも、普通その時間だったらアリバイがないのが普通じゃない? 学習塾とかでアルバイトをしていた、とかなら話は別だけど」

「ちなみに、君はバイトをしているのですか?」

「……アパートの近くのコンビニで少し。でも、事件の日はシフトを外れていたから意味ないわね」

 そう言ってから、哀奈はさらにこう付け加えた。

「ちなみに、未可子も私と一緒のコンビニでバイトしてたわよ」

「本当ですか?」

「えぇ。というか、未可子が元々バイトしていたコンビニに、あの子のツテで私も雇ってもらったって流れかな。ただ、最近は互いに忙しくて、一緒のシフトに入れない事も多くなってたけどね」

 まぁ、それは仕方がない話ではあろう。

「もういい? 未可子のお葬式にも出たいし、早く帰りたいんだけど」

「お葬式に出席されるつもりですか?」

「えぇ。言った通り仲が良かったし」

「最後にもう一つ。谷藤松蔵という名前に心当たりは?」

「谷藤……誰?」

「松蔵です。谷藤松蔵」

「……正直に言うけど、まったく聞き覚えがないわね。その人が何か?」

「いえ、知らないなら結構です。ありがとうございました」

 哀奈は少し訝しげな顔をしていたが、やがて首を振って立ち上がり、部屋を出て行ったのだった……。


 次に話を聞いたのは、同じく二年生の留学生、ロバート・カーンだった。金髪の大柄なアメリカ人だったが、その表情は見た目に反して深く沈んでいた。

「ロバート・カーン、デス。文学部日本文学科の二年生デス」

 やや語尾のアクセントに不自然な点が少しあったが、それでもほとんど完璧な日本語だった。

「日本語がお上手ですね」

「ハイ。日本に来たくて、頑張って勉強しまシタ。それがこんなことになるなんて……残念デス」

「日本へはいつ?」

「大学に入学した時デス。それまではロサンゼルスに住んでいまシタ」

「なぜこのサークルに入部したんですか?」

 竹村の問いに対し、ロバートは少しだけ表情を明るくして答えた。

「私、ジャパニーズ・ホラーが大好きデス。『リング』や『ほの暗い水の底から』とか最高デス。日本に来たのも、それが理由デス。だから、ホラーについて語れる人がいるこのサークルに入りまシタ」

「ホラー、ですか」

 思わぬ話に竹村も一瞬目を白黒させる。漫画やアニメが好きで日本に来る外国人は多いと思うが、ジャパニーズ・ホラーが好きで日本に来る外国人というのは珍しいのではないだろうか。一体『リング』や『ほの暗い水の底から』の何が彼の琴線に触れたのかはさっぱり理解できなかったし、正直それが今回の事件に関係あるとは思わないので、竹村はこの点については突っ込まない事にした。

「……事件の話に移りますが、亡くなった三人の事は当然ご存知でしたよね?」

 その言葉に、ロバートは再び沈んだような表情をする。

「もちろんデス。仲良くしていまシタ。一緒に旅行にも行った事がありマス」

「旅行、ですか」

「イエス」

 そう言うと、ロバートは一枚の写真を取り出した。

「夏にみんなで京都に行った時の写真デス。私の宝物デス」

「拝見します」

 竹村はそう断って写真を見やる。それは清水寺の舞台を背景に撮影された部員七人の集合写真で、ロバートはその写真の一番端にいたが、背が一番高い事もあってかなり目立っていた。何しろ、隣に写っている竹倉未可子とは三十センチ以上も身長差があるのである。未可子の隣にははにかんだ笑顔の哀奈がおり、この写真で見る限り未可子と哀奈はかなり仲がよさそうだった。

「夏に部員全員で京都に行ったんですか?」

「そうデス」

「京都ではどこを訪れたんですか?」

「観光地巡りをシテ、その後、街の北の方にある廃墟の探検をしまシタ。もちろん、持主から許可はもらっていマス」

「廃墟、ですか」

「イエス。『京北総合病院』という廃病院の廃墟デス」

「その廃墟探検の際に何かトラブルはありませんでしたか?」

「トラブル、デスか?」

 ロバートは少し考え込んだが、やがてこんな事を言った。

「そうデスね。探検している時に、自分たち以外に人の気配がすると二階堂サンが言い始めて、少し騒ぎになったのは覚えていマス」

「人の気配?」

「イエス。デスが、その後廃墟中を探し回っても結局人はいなかったノデ、二階堂サンの勘違いだと思いマス」

「それ以外に旅行中に何かトラブルは?」

「……ノー、何もなかったと思いマスね」

 それ以上は旅行について尋ねても何も出てこなかったので、竹村は一度この切り口からの追及を打ち切った。

「事件の起こった『ホテル・ミラージュ』については何かご存知ですか?」

「日本の有名な廃墟だという事は知っていマス。私もいつか行ってみたいと思っていまシタ」

「彼らがここに行くつもりだった事は知っていましたか?」

 その問いに対してはロバートは首を振った。

「ノー。知っていたら、一緒に行きたいと言っていたと思いマス。さっきも言ったように、私、この廃墟に興味がありマスから」

「事件前に、被害者たち三人に普段と変わった事は?」

「変わった事……そう言えば、椎木サンが最近彼女と別れたという話を聞いたと思いマス」

「失恋、という事ですか?」

「イエス。十二月の初めに少し暗そうな顔をしていたので、話しかけたらそう言っていまシタ。デートで大喧嘩して、その場で別れ話になったと言っていまシタ。携帯の番号も消して、二度と顔も見たくないとまで言っていたので、かなり深刻だと思いまシタ」

「その相手は?」

「ソーリー、そこまではわかりまセン」

 些細ではあるが少し気になる情報ではあった。

「では、君のアリバイを確認しても構いませんか?」

「アリバイ、デスか。時間はいつデスか?」

 竹村が時間を伝えると、ロバートは少し考え込んでいたが、やがて少しオーバー気味に首を振った。

「ソーリー、その時間はアパートの部屋で次の日の課題をしていまシタ。アリバイはありまセンネ」

 やはり時間が時間だけに、明確なアリバイがあるという人間はなかなかいないらしい。とはいえ、犯行時刻から考えてこれは充分に予想できたことなので、竹村もいちいちがっかりしたりはしなかった。むしろ、こんな深夜にしっかりとしたアリバイがある方が特殊なのである。

「では、最後に一つ。谷藤松蔵という名前に心当たりは?」

「マツゾー・タニフジ? ……ソーリー、ちょっと思いつきまセンネ」

 ロバートはそう言って首を振り、ひとまずそれで質問は終わったのだった。


 三人目は一年生の吉永明日子だった。どこかおとなしそうな外見をした女性で、小さくペコリと頭を下げると、無言のまま椅子に腰かけた。

「お名前を聞かせてもらえますか?」

「……理学部生命工学科一年の吉永明日子です」

 彼女……明日子は素直に自己紹介をする。あまり気が強そうなタイプではなさそうなので、その点は注意する必要がありそうだった。

「今回の事件について、いくつかお聞きしたい事があります。まず、事件の事を聞いてどう思われましたか?」

「本当に……驚いています。まさか、先輩たちがこんな事件に巻き込まれていたなんて……」

「亡くなった三人とはどのようなご関係で?」

「どうって……普通にサークルの先輩後輩っていう関係です。サークルの雰囲気も良かったし、先輩方は私が知らない事も丁寧に教えてくれました。だから……とてもショックです」

「……君がこのサークルに入った理由は?」

 正直、こう言っては偏見かもしれないが、あまり探検サークルにいそうもないタイプである。だが、彼女の答えは意外なものだった。

「私、昔から登山が趣味なんです。それで、探検サークルにも興味があって」

「登山、ですか」

「はい。高校でも山岳サークルに入っていて、夏山ですけど富士山とかアルプス山系に登った経験もあります。ここでも登山系のサークルと兼部していて、半々くらいの頻度で顔を出しているんです」

 どうやらかなり本格的な専門知識を持っている人間のようだった。

「私はあまり登山には詳しくありませんが、兼部しながらできるものなんですか?」

「もちろん本格的な冬山登山とかをする山岳部もありますし、そういう部活は兼部なんかしている余裕はないと思いますけど、私が所属している登山サークルはそこまで本格的じゃなくて、あまり難易度の高くない山への登山を中心に活動する趣味系のサークルなんです。ただ、趣味サークルとはいっても山を舐めたら大変な事になるのはわかっているので、登山計画とか準備とかはしっかりして登っていますけど。探検サークルに入ったのも、登山とは別の視点から色々な知識を得られるかもしれないと思ったからなんです」

「そうですか……」

 竹村は質問の切り口を変更する。

「現場となった『ホテル・ミラージュ』について、何かご存知ですか? あるいは、三人があのホテルに行こうとしていた事を知っていましたか?」

 今までの二人と同じ質問であったが、その問いかけに対し、なぜか明日子は少し躊躇した後、やがて思い切った風にこう答えた。

「……実は私、部長たちが『ホテル・ミラージュ』に肝試しに行くかもしれない事を知っていたんです」

 竹村と典子の顔が少し緊張した。これは今までにない証言である。

「確かですか?」

「あの、はい。たまたま部室に来た時に、三人が話しているのを聞いてしまいました。でも、それがいつかまでは知らなかったんです。その時、他の場所にも泊りがけで探検に行くみたいな話をしていて、今回はそっちに行ったのかなって思っていました。」

「それはいつの事ですか?」

「えっと……一週間くらい前だったと思いますけど……」

 という事は十二月八日から九日辺りという事になろうか。事件の二日から三日前である。

「その時、彼らは他に何か?」

「いえ……それ以上は教えてくれなくて。ただ、他のメンバーには秘密にしておいてほしいとは言っていました」

「秘密、ですか」

 さっきから聞いていると、被害者たちは後輩たちに今回の『ホテル・ミラージュ』行きを秘密にしていたようである。それが一体なぜなのかという点も疑問ではあった。

「では、あなた自身は『ホテル・ミラージュ』について何か知っていますか?」

「えっと、何年か前に火事があったってホテルですよね。実はそれ以上はよく知らないんです。さっきも言ったみたいに先輩たちの話の中でそのホテルが出ていて、それで初めて少し調べたくらいですから」

「……結構。では、谷藤松蔵、という名前に心当たりはありますか?」

 それでは、その問いに対し、明日子は困惑気味に首をひねった。

「……すみません。心当たりがないんですけど、それだと何か問題なんでしょうか?」

「いえ、確認のための質問です。気にしないでください」

「はぁ」

「最後に、事件当日のアリバイを聞かせてもらえますか? 一応、関係者全員に聞いている事でしてね」

 竹村はそう言って他のメンバー同様に明日子のアリバイを確認する。被害者たちの死亡推定時刻を伝えると、明日子は少し考えこんだ末に、遠慮がちにこう言った。

「その日なら、私は名古屋にいました」

「名古屋、ですか?」

 思わぬ地名に竹村は戸惑う。

「はい。その日の少し前に名古屋に住む叔母が病気で亡くなって、葬儀のために名古屋に行っていたんです。確かその日はお通夜だったはずですが」

「通夜……という事は、一晩中ずっと誰かと一緒にいたわけですか」

「はい。参加していた人に聞いてもらえれば証明できるはずです」

 それはこれまでにない完璧なアリバイだった。事件当夜、ずっと通夜に参加していたとなれば犯行を行う隙などほぼ無きに等しい。しかも、その場所は東京ではなく名古屋なのである。多少一人になる時間があったところでどうにもならないし、たとえ数時間の空き時間があっても夜間では新幹線や飛行機は動いていない。さらに確認したところ、明日子はまだ運転免許を取得しておらず、従って車を使って高速道路を移動することも不可能だとわかった。

「わかりました。では、ここまでで結構です。次の方を呼んできてください」

「はい……。あの」

「何か?」

「……犯人、必ず見つけてください。よろしくお願いします」

 明日子はそう言って一礼し、そのまま部屋を出て行ったのだった。


 最後の一人は一年生の大室貴政だった。今までの三人がそれぞれ良くも悪くも個性的だったのに対し、最後の大室はこう言っては何だが普通の特徴がない大学生男子という感じで、困惑気味に部屋に入った所で足をドアにぶつけ、少し焦ったように椅子に座ると恥ずかしそうに俯いていた。

「す、すみません。こういうの、慣れてなくて……」

 そう言って謝った後、彼はコホンと咳払いをして自己紹介をした。

「文学部英文学科一年の大室貴政です。よろしくお願いします」

「こちらこそ。では早速ですが、事件についていくつか話を伺いたい」

 そう切り出すと、大室は顔を曇らせた。

「正直、驚いています。何でこんな事になったのか……」

「亡くなった三人とはどのような付き合いでしたか?」

 竹村の問いかけに、大室は少し考えたがすぐに答えた。

「頼れる先輩って感じですね。特に椎木先輩とは馬が合って、よく先輩の家に麻雀しに行ったりしていました」

「麻雀、ですか」

「はい。椎木先輩と僕と、後は日替わりで面子が変わっていました。二階堂先輩とかロバート先輩とかが来る事もあったし、それ以外の椎木先輩の学部での友達とか、あるいは逆に僕の友達とかを誘ってやる事も多かったですね」

 竹村の質問に大室はサクサク答える。

「君がこのサークルに入った理由は?」

「理由ですか。お恥ずかしい話ですけど、何か理由があって入ったわけじゃないんです。一年生の時の新歓活動の時にいくつかサークルを見て回って、ここが一番面白そうかなぁって思って入ったんです。逆に言うとその程度の動機だったんですけどね」

「部活の様子はどうですか?」

「まぁ、居心地は良かったです。誰かと誰かの仲が悪かったとか、そういう事はなかったと思います」

「何かトラブルがあったとか、そういう事はない?」

「まぁ、探検先で許可をめぐってトラブった事は何回かあったけどそこまで大した話じゃないです。少なくとも、殺人に発展するみたいなトラブルじゃなかったのは間違いないですね」

「……被害者たちが亡くなった『ホテル・ミラージュ』について何かご存知ですか?」

 だが、この質問に対して、大室の認識も他の面々とそう変わらないものだった。

「有名な廃墟だから名前は知っていましたし、先輩たちも時々話題にしていました。でも、実際に行くつもりだったという話は初耳です」

「三年の三人だけでどこかの廃墟探検に行くつもりだったという旨の話を何人かが聞いているようですが」

「……すみません。最近ゼミの資料準備とか私用とかがあってあまりサークルに顔を出せていなくって、そういう話もよく知りませんでした。だから、なおさら驚いているんですけどね」

「椎木君とよく話していたという事でしたが、彼からもその話は?」

「聞いていません」

「では、逆に椎木君に何か変わった事はありませんでしたか?」

「……別に普通だった気がします。最後に会ったのは……十日くらい前だったかな。学食で偶然会って、でもその時は普通に世間話をして終わりました」

「世間話と言うと、どんな事を?」

「普通の雑談ですよ。テストも近かったし、単位がどうだとか、今後の予定がどうだとか」

「椎木さんが最近彼女と別れたという話が出ていたようですが、それについては?」

 竹村が聞くと、大室は目を丸くした。

「へぇ、そうなんですか。椎木先輩、あの人と別れたんだ」

「相手を知っているんですか?」

「はい。名前は知りませんけど、確か近くの居酒屋でバイトしているお姉さんだったはずです。確か名字は天井だったかなぁ。先輩と一緒に飲みに行った時に見た事があるけどかなりの美人で、こう言ったら何だけどよく椎木先輩が口説き落とせたなぁと思っていたくらいだったんですけど……」

 最後だけはなかなかに失礼な証言ではあるが、今までの三人に対して、全体的に比較的あっさりとした証言内容である。だがそれだけに、どこかつかみどころがなかった。

「では、事件当時のアリバイについてお聞きしたいのですが」

 事件発生時刻を告げた上で大室自身のアリバイを確認すると、彼はホッとした様子で予想外のことを言い始めた。

「あぁ、よかった。その日なら、僕はイギリスにいましたよ」

「は?」

 予想外の答えに竹村は思わずそんな間抜けな声を上げる。

「いえ、大学在学中に一度はイギリスに行ってみたいと思っていまして、ちょうどいい塩梅かなぁと思って、大学を自主休校して五泊六日でイギリス旅行をしていたんです。帰国したのはその事件があったという日の二日後になります。何なら、パスポートをお見せしましょうか? アリバイを聞かれると思ったので一応持って来たんですが」

 そう言って大室はパスポートを差し出す。中を確認すると、確かに問題の事件前に彼が成田から日本を出国してヒースロー空港からイギリスに入国し、さらに事件後の十二月十三日にイギリスから出国して日本に入国した旨のスタンプがはっきり通されていた。はっきり言って、明日子以上に完璧で、突っ込みようがないアリバイである。

「……ちなみに、イギリスのどこに?」

「ビッグベンの辺りとか大英博物館とか……ロンドンを中心に観光していました。宿泊したホテルも全部言えますよ。何なら確認してください」

「期間中、イギリスから別の国に行ったことは?」

 イギリスからなら飛行機に乗らずともユーロスターでユーロトンネルを通ってフランスに出国できるはずであり、EU加盟国間ならパスポートなしでも他国への移動ができるはずである(注:イギリスのEU離脱は二〇二〇年二月のことであり、この事件が起きた二〇一〇年当時、イギリスはまだEU加盟国である)。だが、大村は黙って首を振った。

「残念ですけどイギリス以外には行っていませんし、仮にイギリスから出ていたとしても、そこから日本に戻るためにはパスポートが必要なはずです。今の日本にパスポートなしで入国できる国は存在しないはずでは?」

 返す言葉もなかった。それでも竹村はなおも悪あがきをする。

「では、イギリス旅行中に被害者の誰かと連絡を取ったというような事はありませんでしたか?」

 大した期待もしないままの質問だったが、意外にも大室はこれに反応した。

「えっと……それなんですけど、実は一度だけ椎木先輩に国際電話をしたんですよね」

 その答えに竹村と典子は思わず顔を見合わせた。

「それは本当ですか?」

「はい。椎木先輩本人が出ました。確かあれは……」

 そう言いながら大室は自身の携帯の履歴を確認し、直接竹村に示す。そこには確かに、現地時間の十二月十一日午後一時十五分頃に大室が椎木に対して電話をした旨の記録が残されていた。

「竹村さん、確かロンドンと日本の時差ってサマータイムを考慮しなかった場合九時間くらいじゃありませんでしたっけ」

 典子が小声で言うのに、竹村は頷いた。

「あぁ。だとすれば、彼が電話をしたのは日本時間の十二月十一日午後十時十五分頃……死亡推定時刻の範囲内だ」

 もしかしたら重要な情報になるかもしれないと思い、竹村はこの件をさらに掘り下げていく。

「具体的にはどんな内容を?」

「どんなって……こっちの近況報告と、お土産は何がいいかを聞いたくらいです。行く前に椎木先輩から『近況報告しろ』って言われていたので。時間も一分ちょっとだったと思います」

「その時の椎木君の様子は? 会話以外に何か不審な音が聞こえたりとかは?」

「別に……声も落ち着いていて、普通だったと思います。おかしな音も聞こえなかったと思いますし」

「どこからかけたとか、一緒に誰がいたかとかは?」

「……すみません。その辺りは全くわかりません」

 何とも肩透かしの証言だった。やむなく竹村は最後の質問をする。

「最後にもう一つ。谷藤松蔵という名前に心当たりは?」

「……さぁ、聞き覚えありませんね。誰なんですか?」

「現場で発見された四体目の遺体の主の名前です。ホームレスなんですが」

「ホームレス……いや、わかりません。申し訳ないんですが……」

 大室はすまなさそうに頭をかきながら言う。それでひとまず、彼に対する質問は終了となった。


「……以上が、四人に対する事情聴取の概要です」

 ところ変わって捜査会議の席。竹村はそう言って四人に対する報告を締めくくった。早速新庄が詳細を確認する。

「各々のアリバイの裏取りはしたのか?」

「はい。アリバイを申告したのは吉永明日子と大室貴政の二人ですが、まず吉永明日子については、該当日に間違いなく実家の名古屋の葬儀に出席していた旨を、複数の親族及び葬儀の参列者が証言しています。しかも本人が言うように当日は通夜で、それに参列していた彼女が中座する事なく深夜遅くまで名古屋にいた事も証明されていて、アリバイは完璧です」

「大室貴政については?」

「こちらも完璧ですね。本人のパスポート及び成田空港の税関の記録などを確認したところ、確かに犯行日前にイギリスに出国していた事が確認されました。帰国は本人の申告通り犯行二日後の深夜で、吉永明日子以上にアリバイに付け入る隙がありません」

「逆にでき過ぎているような気もするが……」

「しかし、アリバイを崩す手段が今のところ考えられないのも事実です。念のためスコットランドヤードにも協力要請して大室のイギリス国内での動きを洗い出してもらっていますが……今の所、不審な動きをした痕跡は確認できないようです」

 竹村の報告に新庄は呻き声を上げた。ロンドンは至る所に防犯カメラが設置された監視社会の都市として有名であり、これを欺くのは至難の業である。それで怪しい行動が確認できないとなれば、大室のアリバイはまさに『完璧』と言わざるを得なかった。

「なお、残り二名については本人たちの自己申告通りアリバイらしいアリバイは確認できませんでした。とはいえ、この時間ならアリバイがないのが普通ですので、これだけで疑う根拠にならない事に変わりはありませんが」

「だろうな」

「あと、証言に出ていた椎木の元彼女……天井涼子(あまいりょうこ)という名前ですが……にも話を聞きましたが、確かに十二月頭くらいに大喧嘩をして別れたと言っています。さすがに椎木が死んだと聞いて顔色が悪くなってはいましたが、もう付き合い直すつもりはなかったと言っています。なお、事件当時はずっと居酒屋でバイトをしていたらしく、勤務記録も残っていてアリバイは完璧です」

 ひとまず、アリバイについてはもう少し精査が必要なようである。

「その他、何か報告あるか?」

 新庄がそう尋ねると、手を上げたのは典子だった。

「あの、一つ気になる事が」

「何だ?」

「探検サークルのメンバーに事情聴取をするにあたって、このサークルの事について色々調べたのですが、その結果、三年前にこのサークルの当時のメンバーが事故で死亡していた事がわかりました。しかもその死亡理由というのが……問題のホテル・ミラージュで起こった火災によるものなんです」

 その言葉に、捜査員たちが一斉にざわめいた。

「それは確かな情報か?」

「はい。死亡したのは小堀秋奈(こほりあきな)、事件当時早応大学理学部数学科の三年生。火災当日は就職活動のためにあのホテルの九一〇号室に宿泊していましたが、火災発生後逃げようとして部屋のドアを開けたところで煙に巻かれ、一酸化炭素中毒でその場に昏倒し即死しています。遺体は火災後に黒焦げとなって発見されました」

 新庄は三年前の火災の事について思い出す。確かに、思い返してみれば火災の犠牲者の中に就活中の女子大生がいたはずで、おそらくその女子大生が小堀秋奈なのだろう。だが、まさか彼女が今回の事件の被害者が所属していたサークルのメンバーの一人だったとは思いもしていなかった。

「三年前……という事は被害者三人とその火災で死んだ小堀秋奈という女子大生に直接の面識はないわけか」

「はい。事件当時、被害者たちは全員高校三年生で受験の真っただ中。一方の小堀秋奈は当時大学三年生でサークルの副部長をしていました。ただ、他の部員の話だと、部の関係者があのホテルで亡くなった事は三人とも知っていたとの事です」

「面識はなかったとはいえ、同じ部の人間が死んだホテルに肝試しに行ったのか……」

 それは新庄らから見ればやや理解しがたい行動だった。と、ここで竹村が立ち上がる。

「なお、知らない人間も多いと思うので、念のために三年前の火災で亡くなった方の名前を列挙しておきます」

 そう言ってスクリーンを操作すると、画面に三年前の火災の関係者の名前が列挙された。


【死者】

・平良木敦美……老婦人          (九〇二号室)

・甲嶋昭太郎……建設会社社員       (九〇五号室、出火元)

・立浪権之助……暴力団員         (九〇七号室)

・小堀秋奈 ……早応大学理学部数学科三年 (九一〇号室)

・静川優里亜……出版社社員        (九一八号室)

・パトリック・シェルダン……証券会社社員 (九二〇号室)

・田丸治一……大学院生          (一〇〇五号室)

・大葉良美……大学生           (一〇〇五号室)

・蒲生晴孝……杉並第三消防署特別救助隊隊長


「なお、この死者のうち数名は、ご存知の通り後の捜査で三年前に火災現場で発生した殺人事件の犠牲者だった事が発覚しています。また、火元である九階からは、平良木敦美の夫である平良木周平、暴力団員の谷松慎太、旅行会社勤務のハンク・キャプラン、弁護士の淀村伊織の四名が生還。十階に関しては生存者が多く……」

 その後しばらく、竹村は十階の生存者の名前を列挙し、刑事たちがそれをメモしていく。それが終わると、竹村は最後にこう言い添えた。

「三年前の火災が本事件に関係あるかまでははっきりしていません。ですが、その可能性は捨てきれませんので、各自頭には置いてほしいと思います」

 そう言って竹村は着席し、代わって典子が再び報告する。

「話を戻しますが、ひとまず小堀秋奈については今後も調査を続ける予定です。それと、被害者の一人である竹倉未可子の所持品の中にあったハンディカメラですが、解析が完了したと鑑識から報告が」

 杉山のその言葉に、刑事たちの目が圷に向く。が、どういうわけか圷は難しいそうな表情で腕組みをしているだけだった。

「圷さん、解析の結果は?」

「……映像は残っていた。おそらく、犯行当日のものだ」

 おぉ、とざわめきが起こる。が、圷は難しい表情を崩そうとせず、敬語抜きでこう続ける。

「ただ、少し内容が問題でな。何はともあれ、見てもらった方がいい。先に言っておくが……かなり異常な映像だ」

 そう言うと、圷の合図でプロジェクターが準備される。そして、カメラに残っていた映像が、捜査本部に流される事となったのだった……。

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