第二章 依頼

 それから三日後の二〇〇八年七月十三日日曜日、品川の榊原探偵事務所を訪れた客は、事務所の主である元警視庁刑事部捜査一課警部補の私立探偵・榊原恵一さかきばらけいいちにとってかなり意外な人物であった。

「久しぶりですな、榊原氏。こうして会うのは、去年の『ジャンヌ・ショック』事件の時以来ですかな?」

「……まさか、そっちから私の事務所に来るとは思わなかったよ」

 低い声で独特な喋り方をするその来客に対し、榊原はこの男としては珍しい事に心底嫌そうな表情を浮かべていた。服装こそスーツであるが、狐のように鋭い目にどちらかと言えば痩せすぎの体躯。どう見てもまともなサラリーマンとは思えない風貌のその男は名を尾崎淳也おざきじゅんやといい、肩書は国民中央新聞社会部の記者である。まだ榊原が刑事だった時代に、榊原が所属していた捜査一課十三係こと「沖田班」から情報を得るために国民中央新聞が組織した専属取材遊撃隊のリーダー格だった人物で、こう見えて頭の回転もかなり速く、国民中央新聞のエース記者として今までに何度もスクープをすっぱ抜いてきた実績を持っている。榊原とはその遊撃隊時代からの付き合いであるが、その癖のある性格は榊原をもってしても非常に苦手とするものであり、こうして私立探偵となった今でもできれば極力関わりたくないというのが榊原の本音だったりした。

 そんな尾崎と榊原が久しぶりに邂逅する事になったのは、昨年の年末に発生した声優殺害事件を発端とする、今では『ジャンヌ・ショック』などとマスコミで呼ばれているある事件の調査においてであった(この件については拙作『魔法少女は高笑う』参照)。彼はその事件で榊原から得た情報から他社に先駆けてスクープをものにしていたが、それ以来特に会う事もなく、こうして面と向かって話をするのも久しぶりの事であった。

「まぁ、いい。無駄な挨拶や前置きはなしにして……私に何の用だ? お前ほどの男なら、私に頼らずとも大抵の事は調べられるはずだが」

 そんな榊原のつれない言葉に対し、尾崎はクックッと嫌な笑いを浮かべながら言葉を紡ぐ。

「随分高く評価されたものですな。ですが、残念ながら私にもわからない事があるものでして、こうして榊原氏に意見を伺いに来た次第なのですよ。いやぁ、榊原氏の事務所を探すのは苦労したものでして……」

「言っただろう、無駄な前置きはなしだ。用があるならさっさと話せ」

「……つれないですなぁ。いいでしょう。ならば、単刀直入に話すと致しましょう」

 尾崎はそう前置きすると、唐突にこんな事を言ってきた。

「つかぬことを聞きますが、榊原氏は肝試しについてどう思われますかな?」

「……本当に唐突だな。それが今回の訪問の目的と関係あるのか?」

「もちろんです。で、どうでしょうか?」

「……質問が漠然としすぎていて何とも言えないな。夏祭りの余興に自治会が主催する子供向けの肝試しくらいならかわいいものだとは思うが」

 榊原は慎重にそう答えた。

「では、もう少し具体的に聞きましょう。どこぞに放置されたいわくつきの廃墟に高校生ないし大学生くらいの若者が勝手に侵入して行う肝試し……まぁ、ホラー系の漫画や小説によくある話ですが、これについてどう思われますかな?」

「……そう言う話なら、私としてはあまりいい顔はできないな」

「ほう、なぜですか?」

「まず、いくら廃墟とはいえそこには所有者がいるはずで、厳密な意味ではそれは不法侵入だ。遭難中とかやむを得ない事情があるならともかく、面白半分に入っていいものではないだろう。それに、そうした法律上の問題がなかったとしても、廃墟というのは基本的に危険なものだ。手入れがされていないから崩落の危険があるし、とがった釘だの瓦礫だので怪我をすれば最悪破傷風になる可能性もある。万が一事故で怪我をしても救助を求める事もできない」

「同感ですな」

「……それに、そうした物理的な事象以外にも、犯罪面でも危険な事は多い。管理者がいない事をいい事に不良や暴走族みたいなよからぬ輩がたむろしていたり、浮浪者やそれこそ何らかの犯罪をしでかした人間が住み着いていたりする可能性だってある。もっと言えば自殺や何らかの犯罪の舞台になっている可能性だって否定できない。廃墟に肝試しに行ってそうした連中に見つかり何らかの犯罪に巻き込まれたり、そうでなくとも自殺者や犯罪被害者の遺体を見つけるなどという事態に陥ったりする可能性だってある。何にせよ、興味関心だけで行くべき場所でないのは確かだと思うがな」

「そういう榊原氏も、廃墟で起こった事件をいくつか解決していたように記憶していますが?」

「私の場合は仕事でやむなく足を踏み入れたケースが多いし、行く以上はそれなりの覚悟を持って行っている。だからこそ、ふざけ半分であんな危険地帯に足を踏み入れるというのは理解しがたい話だがね」

「左様ですか」

 尾崎は再び小さく笑うと、今度はこう続けた。

「確かに、榊原氏の言われるようにちゃんとした理由があるというならともかく、肝試しなどというふざけた理由で廃墟に行くというのは私も褒められた行為ではないと思います。特に、榊原氏が最後に言われたように犯罪に巻き込まれるかもしれないという点は意外と見過ごされている危険な点でしてな。いやぁ、幽霊や怪異より生きている現実の人間の方が怖いとはよく言った話です。実際、過去の記録を紐解いてみれば、廃墟が事件の舞台となったというケースは現実に何度か起こっているものです」

「……」

「有名なのは、富山県の『坪野鉱泉』をめぐる事件や、千葉県のホテルの廃墟を舞台にした事件、それに有名な福岡の『犬鳴トンネル』の事件でしょうか。『坪野鉱泉』事件では富山県下にある『坪野鉱泉』と呼ばれる廃ホテルに肝試しに出かけた女子大生二人組がそのまま行方不明になり、今となってもその行方はわかっていません。場所柄北朝鮮に拉致されたとか、あるいは廃墟にいた暴走族なりに殺されたとか色々説は出ているようですが、どれも決め手に欠けているようですな。千葉県の事件の場合は行方不明どころか実際に殺人事件が起こっていて、近隣の駅前で拉致された女子高生が五人組の男性に連れ込まれて殺害されるという事態に発展しています。『犬鳴トンネル』もかつて若い男性が焼き殺されるという事件が起こっていますな」

 そんな事を言ってから、尾崎は少し真面目な表情になってこう続けた。

「……実は、今日私が相談したいのは、無責任にも廃墟に肝試しに行って事件に巻き込まれたという類の事件なのです。現時点では未解決の事案で私が取材を担当しているのですが、私ではどうにも真相が見えてこないものでしてなぁ。そこでこの件について、榊原氏の意見をお聞かせ願いたいのですよ」

「意見、ねぇ」

「こう言っては何ですが、榊原氏も興味を持てる事件だと思っています。もちろん、これは正式な依頼ですから依頼料はお支払いいたしましょう。いかがですかな?」

「……私に事件を解かせて、お前に何のメリットがある?」

「もちろん、他社に先駆けてスクープを出す事ができます。普段なら私自身が取材して真相を突き止めるのですが、今回はいささか苦戦しそうでしたのでね。この際、榊原氏の意見を聞くのも一興かと思った次第です。どうですかな?」

「……何にしても、事件の話を聞かない限りは何とも言えない。ひとまず、その事件とやらの詳細を聞こうじゃないか。受けるかどうかはそれから決める」

 榊原の言葉に、尾崎はニヤリと笑った。

「交渉成立ですな。では榊原氏の要求通り、ひとまず事件の概要についてお話ししましょうか」

 そう前置きすると、尾崎は問題の事件について語り始めた。

「事件が起こったのは三日前……つまり七月十日木曜日の事でした。場所は埼玉県春日部市の郊外にある『紫苑観光旅館』という旅館の廃墟で、肝試し目的でここを訪れた女子高生が殺害されたというものです。この事件については何かご存知ですかな?」

 そう聞かれて榊原は少し思案する。

「……そう言われれば確かに三日前、そんな事件が埼玉であったと新聞で読んだ記憶があるな。『肝試し中の悲劇』とか何とか書かれていたはずだが」

「さすがですな」

「だが、知っているのはせいぜい新聞に書かれていた事くらいだ。詳細まではわからない」

「ご説明しましょう」

 そう言いながら、尾崎は一枚の写真を応接机の上に置いた。そこにはブレザーを着た女子高生が写っている。

「被害者はこの写真の女の子で、名前は栃崎濱江とちざきはまえ。地元の聖ルミナル女学院というミッション系の高校の二年生で、同校のオカルト研究会の部長をしていました」

「……ミッション系の学校にオカルト研究会とは笑うに笑えない話だな」

 そうコメントしながら、榊原は先を促す。

「現場となった紫苑観光旅館は埼玉県内では有名な廃墟です。元々は食材や調度品など館内で使われるものを可能な限り地元から調達し、徹底して『地元の旅館』である事を売りにしていた知る人ぞ知る隠れ温泉旅館的な扱いを受けていたそうですが、今から五年前に旅館内の大浴場でレジオネラ菌の集団感染が発生し、これが原因で宿泊客五人が死亡した事から経営難に陥って倒産。以降、町外れに放置された建物は廃墟と化して一部の廃墟マニアやオカルトマニアにはかなり有名な存在となりましたが、事件当時はそれ以外にもよからぬ輩が出入りするような場所になっていたそうです」

「そんなところに女子高生が一人で肝試しに行ったのか?」

「本人は探検気分で自身の身に危険があるなど考えていなかったのでしょうな。実際、彼女の友人やオカルト研のメンバーの話では、彼女は日頃からこの手の廃墟に一人で肝試しに行く癖があったようです。私からすれば正気の沙汰ではない話ですがな。とにかく事実として彼女はこの廃墟へ肝試しに出かけ……そして後日、廃墟内で遺体となって見つかったというわけです」

 そう言うと、尾崎は一枚の図を取り出した。それは問題の廃墟旅館のフロントロビーと思しき部屋の見取り図で、そこの一角に放置されているソファの辺りにこういう殺害状況の見取り図ではおなじみの被害者を示す糸人間が書かれているのがわかった。

「それは今までの取材から推測した現場の見取り図です。そこに書かれているように、被害者は廃墟内に放置されていたソファに寝かせられた状態で発見されました。死因は手で首を絞められた事による絞殺。事故や自殺ではなく明らかに殺人です。死亡推定時刻は七月十日午後十一時から翌十一日午前零時までの一時間で、遺体に動かされた形跡はないそうです」

「性的暴行の痕跡は?」

「ありませんでしたが、着衣の乱れは確認できました。おそらく抵抗する被害者を押さえつけている際に、勢い余って被害者を殺してしまい、恐ろしくなってその場から逃げた……と言ったところでしょうかな」

 簡単に言ってくれるが、聞いているだけでも胸糞悪い話だった。

「事件当夜の被害者の動きですが、被害者は春日部市内にある聖ルミナル女学院の女子寮に同学年の少女とルームシェアで住んでいました。女子寮から現場の廃墟までは自転車を使えば三十分程度。実際、現場近くの道路脇から被害者の自転車も発見されています」

「女子寮という事は、普通は門限なりがあるものじゃないのか?」

「もちろんそうですが、事件当夜は寮監が親戚の葬儀に出るために寮を離れていて、生徒の出入りを管理する人間が不在の状況でした。この辺は寮監不在時の生徒の管理について学校側の不手際があったと後ほど問題になる部分かもしれませんが、とにかく事件当夜、寮からの生徒の出入りは自由になっていたという事ですな。むしろ、被害者はこの千載一遇の機会を狙って肝試しに出かけた節さえあります」

 そう前置きして、尾崎はさらに詳しい状況を説明していく。

「事件当夜の午後十時半頃、被害者はルームメイトの少女に『肝試しに行ってくる』と言って部屋を出ています。また、その直後に部屋を出たところで隣部屋の女生徒二名と遭遇。ここでも肝試しに行く旨を申告した上で玄関に向かっています。現状これが、被害者が生きて確実に目撃された最後の瞬間となりますな」

「ルームメイトや隣部屋の少女たちは被害者の行動に何も言わなかったのか?」

「えぇ。彼女たちは普段から被害者が機会を見ては一人で肝試しをしている事を知っていて、今回もそうだと思って何も言わなかったんだそうです。ただ、そのルームメイトの少女が朝になって起床しても被害者は部屋に戻っておらず、こんな事は今までなかった事から心配になり、登校後に担任教師に相談した事で事件が発覚しました。その時点で学校側から警察に通報がなされ、近隣の心霊スポットをしらみつぶしに捜索した結果、午前十時頃に問題の廃墟で被害者の遺体が見つかったという流れです」

「警察の見立ては?」

 榊原は間髪入れずに尋ねた。

「警察は、問題の廃墟を根城にしていた不審者、もしくは不良の犯行を疑っているようですな。もっとも、これ以上はさすがに詳しい事まではわかりかねますが」

 そう言うと、尾崎はニヤリと笑って榊原を見やった。

「私がわかるのはこの程度です。さて……どうされますかな? ここまで話を聞いた上で、この事件の調査をやってみる気はありますかな?」

 試すような尾崎の言葉に榊原は目を閉じてしばらく考え込んでいたが、やがてゆっくりと目を開けるとこう言った。

「……もう一度聞く。なぜわざわざ私にこの事件の調査を依頼する?」

「それについてはすでに答えたはずです。私では少々手に余りそうだという事。榊原氏が解決してもらえるなら、他社に先駆けてスクープにする事ができるからです」

「本当か?」

「本当です」

 そのまま両者は一瞬睨みあう。そのまま無言の時間が何分か続いた。

 が、先に動いたのは榊原の方だった。

「……ひとまず、明日にでも春日部に行く事にしよう。実際に行って二、三確認したい事がある。結論を出すのはそれからでも遅くはない」

「では?」

 尾崎の言葉に、榊原は深いため息をつきながら言った。

「いいだろう。本意ではないが、少し興味がある。この依頼、受けようじゃないか。ただし、依頼料はしっかり払ってもらうぞ」

「もちろんです。榊原氏に推理してもらえるなら百人力。そのためなら依頼料など安いものです。何卒、よろしくお願いします」

 尾崎は頭を下げ、榊原は憮然とした表情でそれを受け止めたのだった……。

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