第五章 きさらぎ駅~死闘

 ……ガタン、ガタン……ガタン、ガタン……

 リズムよく響く電車の音に、榊原はその目をうっすらと開けた。どうやら、いつの間にか寝てしまっていたらしい。榊原はいつの間にかしていた腕組みをほどくと、反射的に周囲を見回した。

 そこは電車の中だった。地方のローカル線といった風で、窓の外はすでに真っ暗になっている。車内に榊原以外の客の姿はない。電車は単調にレールの上を走り続けていたが、数十分経過しても一向に停車する気配がない。

 何かがおかしい。傍らに置いていたアタッシュケースの取っ手を握りしめながら、榊原は少し厳しい表情で周囲を警戒していた。

 と、唐突に走っていた電車の速度が緩んだ。やがてその速度はどんどん落ちていき、やがて徐行運転の状況に入ると、そのまま完全に停車して右側のドアが開いた。どうやら、どこかの駅に到着したらしい。榊原はしばらくそのまま待ってみたが、どれだけ待っても電車が発車する気配はない。それどころか、しばらくすると空調も切れ、さらに電気自体もいきなり消えて不気味な静けさがその場を支配してしまう。

「ここで降りろ、というわけか」

 こうなった以上、このまま乗り続けるわけにもいかない。榊原は小さくため息をついて座席から立ち上がると、アタッシュケースを持って駅のホームへ降り立った。

 それは小さな駅だった。高架などない地方の無人駅と言った風で、線路も単線、ホームも一つだけである。ただ、その古びた木造の駅舎の正面にかかっている駅表示板に書かれた駅名を、榊原ははっきりと読み取っていた。

『きさらぎ駅』

 それを見た榊原の頭には、ある意味この男らしい話ではあるが、恐怖よりも先に周囲を観察しようとする冷静さが大半を占めていた。都市伝説上のものでしかないはずの駅が目の前に現れたにもかかわらず、榊原は特に動揺する様子もなく、ひとまずそのまま駅の改札を抜けて駅舎の中に入ってみる事にした。

 改札は自動改札ではなく、古き良き駅員が直接切符を切るタイプのものだった。ただ、当然中に駅員の姿はなく、どころか隣にあるはずの駅員室の窓にもカーテンがかかっていて人のいる気配はない。改札を抜けると待合室で、木製のベンチが二つ、背中合わせに置かれている。正面の玄関から外に出てみるとそこには何もなく、遠くまで続く原っぱと山が広がっているだけだった。だが、一つだけ異様なのは、その目の前に広がっている草原……そこに、大量の真っ赤な彼岸花が咲き乱れているという点である。

 そんな彼岸花の群生する草原の前で、スーツにアタッシュケースを持った姿で駅前に立つ榊原の姿は、この異常な状況下でなければ出張でどこぞの田舎の駅にでもやって来たサラリーマン以外の何者でもなく、何ともシュールな光景を生み出していた。

「まさに瑞穂ちゃんの言った通りだな。さて……なぜいきなりこうなったのかはわからないが、これからどうしたものか……。例の都市伝説では線路伝いに歩いて行くと色々と不可思議な事が起こるらしいが、正直、そこまで付き合う気にはなれんね」

 ひとまず、駅から遠くに出るのはまずいと考え、ホームに引き返してみる。すると、いつの間に発車したのかさっきまで乗っていた電車の姿はそこにはなかった。周囲は真っ暗で、光源は改札前とホームの一方の端……今しがた電車が走ってきた方の先端部分にある今にも電球が切れそうな外灯だけである。ちなみに、反対側のホームの端にも外灯はあるのだが、そっちは電球が切れているのか真っ暗なままだ。

 榊原は改札の前の外灯の下に立ち、駅のはるか向こうの闇に浮かぶ線路を見ながら苦笑気味に笑った。

「随分音の静かな電車だ。まぁ、何でもいいがね」

 そう言って、もう一度ホームからの景色を確認しようと辺りを見回した時だった。不意に榊原の背後……ホームの端の方にある外灯の辺りから今までになかったはずの気配がした。榊原は一瞬どうしたものかと考えたが、このまま無視しても話が始まらないと考え、ゆっくりと背後を振り返った。そして、外灯が点滅を繰り返すホームの端にたたずむ人影を見て、思わず目を細める。

「これは、これは……もしかすると、とは思っていましたが、実際に実現すると私としても驚きますね」

 そう言いながら榊原は目の前の陰に対して慇懃に頭を下げる。

「お久しぶりです。あの時、ホテルでお話を聞いたとき以来ですか」

 そこにいた人物……それは、四年前に謎の失踪を遂げた如月事件の最重要容疑者である『彼女』の変わらぬ姿であった。

 だが、四年前と違ってどこか憔悴しきった表情で、心なしか生気もない。ただ、そんな『彼女』も目の前に立っているのが、あの時の探偵であるという事はすぐに理解をしたようだった。

「あなたは……あの時の……」

「改めまして、私立探偵の榊原恵一です。あの時は県警に協力して事件の捜査を手伝っていました。こんなところで再会するとは私としても驚きですが、それより、あなたこそどうしてこんなところに?」

 そう尋ねた瞬間、『彼女』は突然涙を流して榊原に訴えた。

「た、助けてください! 私をここから出して!」

「……ここから出せ、とは?」

「私、あの日からずっとここに閉じ込められているんです! 頼むから元の世界に戻してください!」

 その答えに、榊原は眉をひそめた。

「どういう意味ですか? あなたの身に何があったんですか?」

「わけがわからないの……。あの日、ホテルを出た後で浜松市内をうろついていたんですが、気が付いたら誰もいない電車に乗っていて……いつまで経っても駅に到着しないまま走り続けて、到着した駅がここだったんです。思わず電車から降りたけど、そしたら今度はこの駅から出られなくなってしまって……。駅前には何もなくて、ここから離れたらそれこそ二度と戻って来られなくなりそうだったし、電車はやってくる気配がないし、仕方がないから線路を伝って帰ろうとしたら……」

 そこで、『彼女』は両手で自分の体を抱きしめるようにしながら震え始めた。それ以上は言いたくないらしい。

「とにかく、ここから出させてください! お願いですから!」

 だが、榊原としては小さく肩をすくめるしかない。

「残念ながら、私もどうやったらここから出られるのかわからないものでしてね。そもそも、どうして自分がここにいるのかもわからないものでして」

「そんな……」

「しかし、皮肉なものですね。あれだけ事件への関与を否定していたあなたと、事件を追及していた私の行きついた先が、よりにもよって『きさらぎ駅』とは」

 その言葉に、『彼女』はピクリと顔をひきつらせた。

「ど……どういう意味ですか?」

「言葉通りの意味ですよ」

 そう言うと、榊原は表情を引き締め、鋭い口調で宣告した。


「あなたが殺した如月鳳鳴さんと同じ名前の駅にあなたが閉じ込められているというのは、随分な皮肉だという事です。違いますか……伏田平子さん」


 暗闇の中、ホームの空気が凍り付く。告発を受け、『彼女』……否、伏田平子はかすれた声で絞るように返答した。

「そんな……今は、そんな事を言っている場合じゃ……」

「この期に及んで、まだ認めませんか」

 しつこく食い下がる榊原の態度に、直後、平子の態度が一変した。目を血走らせ、榊原に向かって金切り声で叫ぶ。

「認めるも何も……私は殺していない! 誰が何と言おうと、殺していないものは殺していないんです! そんな事より、私をここから助けてください!」

 その瞬間、風一つなく今まで静かだったきさらぎ駅のホームにサァッと風が吹き、駅の外の草原に生える彼岸花がざわざわと音を立てた。また、同時に伝説通りにどこからともなく遠い場所から鈴の音が鳴り響き、その場に不穏な空気を漂わせる。突然の事態に、平子は一瞬顔を引きつらせ、しかし恐怖を振り払うようになおも何かを叫ぼうとした。

 だが……その時点で一方の榊原は、唐突に今、自分がこの場で何をすべきなのかを悟っていた。

「そういう事か……」

 静かにそう呟くと、榊原は体を平子の正面に向けてジッと相手を見据え、その態度を見た平子も思わず叫ぶのをやめて息を飲んだ。暗闇に包まれた伝説の「きさらぎ駅」のホーム上で、そよ風と共に小さな鈴の音が不気味に鳴り響く張り詰めた空気の中、時折点滅する外灯の光をスポットライトにして探偵と容疑者が睨み合っている。

「いいでしょう。この際、ここですべての決着をつけるとしましょうか。どうやら、それが私たちの助かる唯一の道のようですし」

「何を言って……」

 狼狽する平子の言葉を遮るように、榊原は鋭く告げた。

「始めましょう。今回の事件……この『きさらぎ駅』が終着点です!」

 それが、四年前に実現しなかった、あらゆる意味で異色すぎる「幻の推理勝負」の始まりだった。


「今から四年前……つまり二〇〇四年一月八日、静岡県浜松市のホテル「ハイエスト浜松」で一人の民俗学者が殺害されました。殺害されたのは如月鳳鳴こと如月勝義。発見された返り血のついた寝間着の処分法から当日各階の九号室か十号室に宿泊していた人間、もしくはそれらの部屋を利用できる人間が犯人である可能性が高まり、浮かび上がった複数の容疑者の中にいたのが伏田平子さん……あなたでした」

 この異常な状況下にもかかわらず、榊原はいつも通り淡々とした口調で推理を開始する。一方、それを聞いて平子はなぜか顔を青くした。

「ちょっと待って、四年前って……何を言ってるの? 私は、ここにきてからまだ数日しか……」

 だが、榊原はあえて伏田のその発言を遮って話を進める。もはや、そんな些末な事にいちいちコメントしているような状況でない事を榊原は直感的に理解していた。

「ただ、今回は事件そのものがシンプルであったゆえに、逆にそこから容疑者を絞り込む事が難しくなっていました。それでも『ある事実』から犯人があなたである可能性まで絞る事はできたのですが、それはあくまでもあなたの発言を元にした根拠の弱いただの可能性。少なくとも、あなた方に話を聞いた時点では犯人を指摘するための決定的な物的証拠……つまり、犯人を推理で追い詰めるための材料が不足し過ぎていたのは事実です。実際、その証拠を挙げる事に対して時間がかかり過ぎ、あなた方を解放しなくてはならないところまで追い詰められた結果、あなたの逃亡を許す事になってしまったわけです。もっとも……この状況からすれば、それがあなたにとって良かったのかどうか疑問符がつくところではありますが」

 そう言って軽く肩をすくめると、さらに推理を進めにかかった。

「今回の事件における最大の問題点は、浮上した四人の容疑者それぞれに別個に存在する不可能要素の存在です。容疑者のうち、牛塚小春には犯行時刻に電話をしていたというアリバイ。伏田平子には被害者の宿泊していた部屋を知らなかったという事実。江成真琴には車椅子生活ゆえにエレベーターなしで階の上下移動ができなかったという状況。そしてホテル従業員の穀野花美には返り血対策の寝間着を着て被害者の部屋に入れないという問題です。誰が犯人であれ何らかの問題にぶつかってしまうのは同じ。逆に言えば、この中で一つ犯人によって偽造された偽物の不可能要素が存在するわけです。それは一体どれなのか? そして、その不可能を可能にするにはどうすればいいのか? この問題は誰を選んだとしても解明が非常に難しく、それでいて間違った人間を犯人と考えて推理を進めるといずれどん詰まりになって盛大な時間の無駄遣いになってしまうという罠を抱えています。従って、この問題点を突破するには、最初に四人の中で一番怪しいのが誰かという目星をつけなければならないという制約があるのです」

 その瞬間、榊原はジッと平子を睨みつけた。

「そして、先述した通り私はそれを考えるにあたって『ある事実』から一番犯人である可能性が高いのがあなたであると仮定し、その前提の上であなたが犯人である場合の不可能要素……すなわち『あなたがいかにして被害者の宿泊する部屋を知る事ができたのか』という問題に集中して推理をする事にしました」

 と、ここで我に返った平子が金切り声を上げて反論した。

「ま、待ってください! 何でそんな結論になってしまうんですか! 一体何をどうしたら、私が一番犯人である可能性が高いなんて事になってしまうんですか!」

「何度も言うように、あなたについての『ある事実』が根拠です。無論、直接的に犯人である事を指し示すものではありませんが、少なくとも私はこれであなたが事件について無関係ではないと考えました」

「その『事実』って何なんですか!」

 必死に反論する平子に、榊原はあくまで冷静に告げた。

「問題は、あなた方に対して行った尋問の際の答え方です」

「あ、あの尋問? 私、何も変な事なんか……」

「違和感を覚えたのは、私があなたに『如月月夜』について尋ねたときの事です」

 榊原は平子の言葉を遮るように答えた。

「私はあの時、あなたに対して『如月月夜』という人物の事を知らないかと尋ね、あなたが知らないと言ったので彼女が如月氏の娘であると答えた上であなたに知らないかと再度質問しました。それに対するあなたの解答は『いえ、そんな女の子の話なんか聞いた事もありませんけど』というものだったはずです」

「それが、一体……」

「単純な話です。なぜあなたは如月の娘が『女の子』……つまり『子供』だとわかったのでしょうか?」

「……え?」

 そう言われて平子は思わずハッとした表情を浮かべた。その反応を確認してから、榊原は早速切り札の一枚を切る。

「えぇ、おかしいんです。私はあの時単に『如月氏の娘』としか言っておらず、その娘の具体的な年齢までは口にしていません。殺害当時の被害者の年齢は四十一歳ですから、その娘という事になれば子供であるとは限らず、大学生くらいの大人の女性である可能性も考えられるはず。少なくとも本当に知らないなら答える前に彼女の年齢を確認するでしょう。しかし、あなたは私のこの問いに対して一切迷うことなく彼女を『女の子』……子供だと断定しました。実際、如月月夜は小学生だったわけですが……どうして彼女の事を知らないというあなたがこの事を知っているのでしょうか?」

「……」

 平子は押し黙る。が、榊原は小さく首を振って続けた。

「……もっとも、これはあくまであなたに対して感じた小さな違和感に過ぎず、『言い間違い』『口調から単に子供だと思っただけ』『大学生くらいなら女の子という事もある』とでも言われてしまえば後が続かない些細な矛盾です。なので、あの時点ではこの矛盾を直接あなたにぶつけるような事はしませんでした。ですが、あなたの発言に違和感を覚えたのは事実。そこで、私は推理の突破口として四人の中であなたを優先的な容疑者として扱う事に決め、その上であなたが犯人だった場合に立ちふさがる『壁』……すなわち『あなたが被害者の部屋をどうやって知る事ができたのか』という謎の解明に全力を注ぐことにしたんです。すると、同じくあなたの尋問中の発言の中に、今度は本格的に矛盾と言える代物がある事に気付きました」

「ま、まだ何か?」

 恐々と尋ねる平子に、榊原は容赦なく言葉を叩きつける。

「問題になるのは先程の『女の子』発言の少し前……榎本警部が他の三人の容疑者、すなわち『牛塚小春、江成真琴、穀野花美について知っているか?』と聞いたときのあなたの解答です。この時あなたは『穀野さんはこのホテルの従業員ですよね? 今日も確かチェックインを担当してもらいました。牛塚さんはたまに大浴場で一緒になって、何度か世間話をした事もあります。私、ここのレストランはあまり利用しないので、常連の宿泊客と話すのはロビーか大浴場くらいなんです。でも、残りの一人は知らないです。ロビーでも大浴場で会った事もないし……』と答えたと記憶しています。間違いありませんか?」

 平子は警戒気味に榊原の言葉を聞いていたが、やがて不承不承と言った風に頷いた。否定できる要素がどこにもなかったからである。

「でも、私、何も間違った事は言っていないはずです。穀野さんにチェックインの手続きをしてもらった事も、牛塚さんとはたまに大浴場で会うくらいの仲だった事も、あとの一人……江成真琴さんなんて女の人を知らない事も事実です。なのに、どうして問題視されないといけないんですか!」

 だが、そんな必死の反論に対する榊原の答えは単純だった。

「逆なんです。正しいからこそ、あなたの発言は矛盾しているんです」

「正しいからって……」

「問題はこの発言の最後の部分です。『残りの一人は知らない。なぜならロビーでも大浴場でも会った事がないから』というのがあなたの発言の趣旨になりますが、つまり、あなたは江成真琴さんを『女性』として認識していた事になる。そうでなければ『大浴場で会う』というような発言が出てくるはずがありませんし、そもそもたった今、あなたは江成さんを『女の人』と断言していました」

「そ、それが何か……」

 戸惑う平子に、榊原は第二のカードを叩きつける。

「何かも何も、なぜあなたは一度も会った事がない江成真琴さんを『女性』だと知っているんですか?」

「……は?」

 平子は一瞬本気で意味がわからないようだった。が、すぐに何かに気付いたのか外灯の下で顔が真っ青になる。そこへ榊原は自分の推理を畳みかけた。

「我々はあなたに対して口頭で『江成真琴』と言ったに過ぎず、彼女の写真を示したりした覚えはありません。普通、口頭で『まこと』という名前を聞けば、ほとんどの人は男性の名前と勘違いするはずです。文字で『真琴』と書けばもしかしたら女性と気づく人もいるかもしれませんが今回はそれもない。にもかかわらず、あなたは『まこと』という一度も会った事がないはずの人物をなぜか女性であると看破し、あまつさえ大浴場で会った事がないとまで証言しました。つまり……先程の『女の子』発言に続き、あなたはまたしても知っているはずがない事を知っていた事になってしまうんです」

 そこで、榊原はジロリと彼女を睨んだ。

「改めて聞きます。なぜあなたは一度も会った事がない『まこと』という人物が女性であると知っていたんですか! ちなみに、彼女は今回初めてあのホテルを使用した初見の客で、部屋は五階かつ車椅子を使用していたので四階に宿泊していたあなたがばったり出会った可能性は否定されます。その上で、この問題に対して納得のいく説明をしてもらえますか?」

「そ、それは……」

 平子は押し黙ってしまい、答える事ができないようだった。実際、どんな言い訳をしても全く言い訳のつかない矛盾が発生しているのは事実である。だが、そんな様子の彼女を見て、榊原は自分の推理に確証を持ったようだった。

「あなたは本来絶対知る事ができないはずの他の宿泊客の情報を知っていました。逆に言えば、この発言はあなたに他の部屋の宿泊客がどのような人物だったのかを知る何らかの手段が存在していた事になります。そして、その手段が存在した以上、あなたに犯行が不可能な根拠になっていた『被害者の宿泊する部屋がわからない』という『壁』が大きく崩れる事につながってくるんです!」

「しゅ、手段って……そんなものがあるわけが……」

「あります。他人の部屋の情報をその部屋にいずして盗むと考えれば、それが可能なシンプルな手段を私はよく知っているのです。そう……一般には『盗聴器』と呼ばれる代物の事を」

「っ!」

 平子が息を飲んだ。

「わかってみればとても簡単な話だったんです。電話をかけるまでもなく、犯人は被害者の部屋に仕掛けた盗聴器を通じて被害者がその部屋にいる事を確認し、その上で部屋を訪れて被害者を殺害したんです。もしこの手法が可能だとすれば、あなたを守っていた『壁』は何の意味もなさなくなることはわかると思います。いかがですか?」

 だが、平子は歯を食いしばって反論を試みた。

「じょ、冗談じゃありません! その説には大きな問題があります!」

「何でしょうか?」

「盗聴器で部屋の様子を聞こうと思ったら、その部屋に盗聴器を仕掛けないといけないって事です! 他人が宿泊しているホテルの部屋に侵入して盗聴器を仕掛けるなんてそんな事できるはずがありません! それに、仕掛ける先に被害者がいる事がわかっているんだったら、そもそもその時点で『被害者がどの部屋に泊まっているのかを知る』という目的は達成しているんだから危険を冒して盗聴器を仕掛ける意味は全くありません! あなたの推理は根本からおかしいんです!」

 息を荒げながらそんな反論を加える平子に対し、しかし榊原は平然と答えた。

「いえ、ホテルの部屋に盗聴器を仕掛ける手段はあります。そして、犯人が一見無駄に見えるこの行為を行った理論的な理由も」

「どういう事ですか!」

「ポイントになるのは、あなたが本来事件とは全く関係ないはずの江成真琴さんの情報まで知っていた事です。標的があくまで如月鳳鳴だったとすれば、彼の部屋の情報だけ入手すればいい。にもかかわらず、あなたはなぜか関係ない部屋の情報まで知っていました。犯人は無駄な事をしません。無駄に見える何かをしていたのだとすれば、そこには何か必然があったはずです」

 そう前置きしてから、榊原は相手を見据えながらしっかりと答えを告げた。

「ホテルの客室に盗聴器を仕掛けるのに、わざわざ部屋に侵入する必要はありません。合法的な手段で部屋に堂々と入り、これまた堂々と盗聴器を仕掛ける呆れるほど単純な手段が存在します」

「そんなものあるわけ……」

「それは、『宿泊客として自身が宿泊した部屋に盗聴器を仕掛ける』、という手法です」

 その瞬間、平子は顔を真っ白にして絶句した。すかさず榊原が畳みかける。

「あなたは事件の一年ほど前からあのホテルを利用するようになったという事ですね。当然、宿泊するごとにホテルの部屋は変わったはず。そして、ホテルに宿泊するごとに自分の宿泊した部屋に毎回盗聴器を仕掛け、一年かけてホテルの複数の部屋に盗聴器を仕込み続けていたのだとすれば……。そして、以前盗聴器を仕掛けた部屋に標的が宿泊するのを一年間待ち続けていたのだとすれば……『標的である被害者の部屋を特定するために被害者の宿泊する部屋に盗聴器をセットする』という一見矛盾にしか思えない犯行形態が充分成立するとは思いませんか?」

「……」

 平子は答えなかった。だが、榊原は追及を緩めない。

「そして、もしこの説が正しいとするなら、事件の半年前に起こったという二〇四号室の幽霊騒動にも説明がつくんです。問題の騒動は二〇四号室で宿泊客が病死し、その後部屋に人魂のようなものが漂っているのを目撃した人物が現れたというもの。一見するとオカルトそのものですが、今我々が体験しているこの『きさらぎ駅』と違い、この幽霊騒動は理論的に説明する事が可能です」

「何を……言って……」

 呻くように言う平子に、榊原は容赦なく告げた。

「問題の二〇四号室は宿泊客が急死した事でそのままでの使用ができなくなり、改修工事を余儀なくされていました。問題は、仮に先程のような盗聴器の仕込みが犯人によって行われていたとして、この時点ですでに二〇四号室に盗聴器が仕掛けられていたらどうなるのかという事です。この場合、犯人にとってこの宿泊客の急死事案は計画の根幹を揺るがすハプニング以外の何物でもなかったはず。なぜなら、部屋の改修工事が行われるという事は、その工事の過程で仕込んでいた盗聴器が発見される恐れが出てしまうからです」

 その瞬間、平子が唇を噛む仕草を見せたのを榊原は見過ごさなかった。

「万が一にでも盗聴器が発見されるような事があればホテルの信用問題になりますから、当然ホテル側は他の部屋のチェックを行う事になり、その時点で一年かけて仕込みを続けてきたあなたの計画は完全に破綻してしまいます。だからこそ、工事で盗聴器が発見されるまでに、あなたは二〇四号室に仕掛けた盗聴器を回収する必要に迫られた。幸い、工事中のあの部屋は鍵がかからなくなっていて、侵入すること自体は容易でした」

 もはや何も言えなくなった平子に榊原は結論を告げる。

「二〇四号室の幽霊騒動……それは、あなたが二〇四号室に侵入して盗聴器を回収した際に、あなたが持っていた懐中電灯か何かの明かりを外から見てしまった人間が人魂と勘違いした事によって発生したものだったんです。おそらく暗闇の中での作業になったでしょうから何らかの光源が必須だった事は容易に想像がつきます。補足までに言っておくと、後の捜査で問題の幽霊騒動があった日にあなたがホテルに宿泊していた事は宿泊記録から確認済みです」

 平子が失踪してから四年が経過し、すでに榊原の推理を元に動いた警察による証拠固めは済んでいる状態である。それだけに、四年前と違って今の榊原は堂々と平子に対して証拠を突き付ける事ができる状態だった。

「これだけ計画的に犯行を考えていたという事は、あなたは最初から『被害者の部屋を知らなかったから自分に犯行は不可能』という主張で警察の追及をかわすつもりだったのでしょう。おそらくあなたには如月鳳鳴を殺害する何か明確な動機があったゆえに犯行を否定するだけの材料が必要だった。だからこそのトリックであり、このトリックがあったがゆえにあなたは人の出入りが限られ容疑者が絞られやすいあのホテルを犯行の舞台にせざるを得なかったんです。そして、あなたがこの盗聴器を使った犯行を行えるのは、あなたと被害者が同日に宿泊した上で、被害者がすでに盗聴器を仕掛けた部屋に泊まり、なおかつあなたが宿泊する部屋が裏手のコンビニに夜中に停車するトラックを使った証拠隠滅を行う事ができる各階の九号室か一〇号室だった場合のみ。一致しなかった場合は犯行を見送ればよく、あなたは一年かけて盗聴器を仕掛け続けながら、この偶然が起こる日を待った。そして、この条件がすべて成立する偶然が起こったのが、二〇〇四年一月八日だったという事です」

 そう言うと、榊原は「あの日」の出来事を忠実に再現し始めた。

「あの日、あなたはホテルに入る前の段階で、事前にそれぞれの部屋に仕掛けた盗聴器の音声から被害者が三〇二号室に宿泊している事を知った。おそらく、その過程で江成真琴が宿泊していた五〇九号室の音声も聞き、声などからその部屋に宿泊しているのが江成真琴という女性であるという事実を知ったのでしょう。それが、尋問の際にあなたが江成真琴が女性である事を一発で見抜けた理由です。そして、いざチェックインをするとあなたの部屋は四一〇号室で、全ての条件が一致した。それゆえに、あなたはあの日犯行を実行に移す事を決意したんです」

 反論の声はない。榊原は体を震わせ続ける平子を冷静に見ながら推理を続行する。

「午前三時、あなたは返り血を防ぐために部屋に備え付けられた寝間着を着込み、凶器のナイフを持って部屋を出ると、非常階段を使って三階に下りて被害者の部屋をノックした。もしかしたら盗聴器で被害者が起きている事を確認していたのかもしれません。そして、被害者に部屋に入れてもらい、不意を突いて背後から刺殺。その後は被害者の部屋に備え付けられていた寝間着に着替えてから自室に戻り、返り血のついた寝間着を自室の窓から裏手コンビニ横に停車していたトラックに落とし証拠隠滅を図った。これがあの夜の事件の流れだと考えているわけですが、いかがですか?」

「……」

 平子は黙り込んだまま、必死に反論をひねり出そうとしている様子だった。榊原はそれを遮る事なく黙って様子を窺う。相手に徹底的に反論をさせて、その上でその反論を容赦なく叩き潰す……それが榊原のやり方である。相変わらず鈴の音が鳴り響く暗闇の無人駅がしばし無言に包まれる。

 が、それから数分して、ようやく平子が苦悶に歪んだ表情で言葉をひねり出してきた。

「証拠は……私がそれをやったっていう証拠はどこにあるんですか? 現場の部屋からその盗聴器でも見つかったんですか?」

 その問いに対し、榊原は軽く首を振った。

「いえ、そんなものが現場に仕掛けられていたら鑑識の現場検証の際に発見されているはずです。現場から盗聴器は見つかっていません。さすがにそれは殺害の際に犯人自身が回収したのでしょう」

「だったら……」

「ただし!」

 榊原は平子の言葉を遮ると鋭く反駁した。

「それ以外の客室にあらかじめ仕掛けてあった盗聴器を回収する事は、あの犯行の後ではできなかったはずです」

「っ!」

 平子が息を飲み、榊原はその隙を逃さずに追い詰めにかかる。

「あの日、決定的な証拠の収集に時間がかかってしまった原因はこれでしてね。この推理が正しいなら、現場を除いてあなたが約一年間の間に宿泊してきたすべての客室に盗聴器が仕掛けられているはずです。なので、現場以外の客室に対する鑑識作業を行って盗聴器の発見に全力を注ぎました。正直、大変でしたよ。盗聴器を仕掛けてあった場所は部屋ごとに違った上に、一つだけ見つけてもあなたの犯行を立証した事にはなりませんからね。あなたが過去に宿泊したすべての部屋から盗聴器が発見される事で、この盗聴器をあなたが仕掛けたという事が証明できるんです。結論から言えば、全て発見するまでにあの後一週間かかりました。今から思えば、こんな面倒臭い事をやったのも証拠の立証に時間をかけさせ、その隙に自身が逃亡する時間を稼ぐためだったんでしょうね。それがわかっていながらあなたを解放しないといけなかった事については、随分忸怩たる思いをしたものですよ」

「……全部、見つけたんですか?」

 かすれた声で聞く平子に、榊原はしっかり頷いた。

「もちろん。問題となった江成真琴さんの宿泊していた五〇九号室を筆頭に、複数の部屋から発見されました。そして、盗聴器が発見された部屋はあなたが事件までの約一年間……正確に言えばあなたが初めてあのホテルに泊まった二〇〇三年三月二十七日から二〇〇四年一月八日の間に宿泊した部屋と完全に一致し、逆に盗聴器が仕掛けられていなかった部屋はすべてあなたが一度も宿泊した事のなかった部屋でした。そして、あなたが盗聴器なしでは絶対にわからない江成真琴さんの情報を知っていたという事実。……ここまで完璧に一致している以上、あなたが盗聴器を仕掛けた事に対して言い逃れはできないはずです」

 だが、ここまで追い詰められても平子は必死にあがく。

「……それが本当だったとしても、立証できるのは私が盗聴器を仕掛けた事だけ。現場から盗聴器が見つかっていない以上、盗聴器の設置が殺人と関与しているという証拠はないはずです!」

「ホテルの各部屋に盗聴器を仕掛けたこと自体は認めるんですか?」

「それは……」

 平子はそれ以上言葉が続かない……というより続ける事ができない。榊原はそれを「イエス」と受け取る事にして話を進めた。

「では、なぜあなたはホテルに盗聴器を仕掛けたのですか? もはや盗聴器設置の事実をあなた自身が否定できない以上、次に問題になるのはその点です。いかがですか?」

「……それを言わなきゃいけないんですか? 根拠がない以上、それを立証するのはあなたたち警察の仕事ですよね」

 ここまで来て平子は傲然と答える。榊原はしかしなお動じることなく言葉を続けた。

「では、発見された盗聴器が事件と関係しているという事を証明できれば、あなたの言う『立証』は成立したと考えてもよろしいですね?」

「そんな……そんな証明ができるわけがない!」

「それをするのが私の……『探偵』の仕事ですよ」

 そう言ってから、榊原はいよいよとどめを刺しにかかった。

「まず、推理の前に前提条件を確認しておきます。すなわち、『ホテルの各部屋に盗聴器を仕掛けたのは伏田平子である』『伏田平子は一年をかけて自分の宿泊した部屋全てに盗聴器を仕掛けた』『盗聴器を仕掛けた動機については語る気がない』という三点です。これに相違はありませんか? 反論がないならこれらの条件が正しいと仮定しますが」

「……」

 平子は答えない。すでに「彼女が盗聴器を仕掛けた」という点に関しては彼女が否定しても無駄なところまで立証されてしまっている。それゆえに、これ以上うかつに答えて肝心の殺人容疑に対して突っ込まれるのを警戒しているようだ。が、榊原は構わず先に進める。

「いいでしょう。では、あらかじめ宣告したようにこれらの条件がすべて正しいと仮定します。それを踏まえた上で、まず、あなたがなぜ盗聴器を仕掛けたのかという点に関しては、あなた自身が証言しない以上、あくまで現時点では保留するものとします。ひとまず、何の目的かはわかりませんが、あなたはあのホテルに宿泊するたびに宿泊した部屋に盗聴器を仕掛けるという事を繰り返していたとしましょう。しかし、実はそうするとあなたが今回の事件に関係していない限り極めて不自然な事が一つ浮かび上がってしまうんです。その矛盾が、あなたが事件に関係している事を立証する決定的な証拠になります」

「な、何を言っているか私には……」

「では、なぜ普段宿泊の度に部屋に盗聴器を仕掛ける事を繰り返していたにもかかわらず、今回現場になった三〇二号室に『だけ』盗聴器が仕掛けられていないのですか?」

「え?」

 平子は一瞬虚を突かれたらしくポカンとした表情を浮かべた。すかさず榊原が畳みかける。

「先程も言ったように、現場の三〇二号室からは盗聴器は発見されていません。殺人現場ですから鑑識も徹底した捜査をしており、室内に盗聴器のような怪しいものがなかったのは確実です。そして同時に、あなたがここ一年以内……正確には事件の約半年前にあの現場となった三〇二号室に宿泊していた事も、ホテル側の提出した宿泊記録から確認済みです。つまり、あの部屋は常に宿泊する部屋に盗聴器を仕掛けていたあなたが宿泊しているにもかかわらず、なぜか盗聴器が仕掛けられていないという矛盾が発生してしまっているのです!」

「あ……あぁぁぁ!」

 不意に、平子が目を見開いて叫んだ。

「さて、改めてお聞きしましょうか。何の目的かは知りませんが宿泊するたびに部屋に盗聴器を仕掛け続けていたあなたが、よりによって後に殺人現場になるあの部屋『だけ』盗聴器を仕掛けなかった。その理由は何ですか! 一応言っておきますが、ここまで来て今さら『気分で仕掛けなかった』『たまたま盗聴器を持っていなかった』などの言い訳は一切通用しませんよ。盗聴器を仕掛け続けていた理由の証言を拒否し続けている以上、そんな言い訳が通用する段階ではなくなっているんです」

「そ……それは……」

 平子が言葉に詰まる。

「そして、これに対する回答として考えられるのは、『盗聴器自体はいつも通りに仕掛けていたが、後に誰かが取り外した』というこれ一つだけです。では、誰が取り外したのか? 設置した場所がわからない以上、そんな事ができるのは仕掛けた当人……すなわちあなただけしか考えられません。しかも、問題の三〇二号室にあなたが宿泊したのはわずか一回だけなので、二回目に宿泊した際に取り外したという事も考えられない。あなたが盗聴器を取り外せる機会はただ一度……殺人犯としてあの部屋に侵入し、殺害後に部屋に残された証拠を隠滅していた瞬間でしかありえないのです!」

 榊原は大きくなる鈴の音の中、外灯の下で震える平子に対しとどめとなる言葉を突き付けた。

「つまり、証拠隠滅のために盗聴器を処分したあなたの行為自体が、他の部屋から盗聴器が発見された現状では、逆にあなた以外に犯人が存在しないという決定的な証拠になってしまっているんです! さて、この事実に対する私が納得できるような反論があるなら、今この場でいくらでも聞きましょう。私はいくらでもそれに付き合います。ですが、それが思いつかないというのなら……この事件はこれで決着となります。さぁ、答えを聞きましょうか……伏田平子さん!」

 その直後、平子は震えていた体を自分の腕で抱きしめながら、金切り声で叫んだ。

「違う……違うわ! まだ……まだ勝負は終わっていない!」

 そのまま顔を上げて榊原を明らかに敵意がこもった眼で睨みつける。その目には、まだ闘志がともっており、ここまで来てまだ諦めるつもりはないらしい。そして、彼女は完全に何か開き直ったかのようにまくしたてた。

「いいです、認めます! 私は、あのホテルに宿泊するたびに自分の泊まっていた部屋に盗聴器を仕掛けていました! エッセイのネタに困っていて、宿泊している人のエピソードを集めるためにそんな事をしたんです! でも、やったのはそれだけで、殺人なんかやっていません!」

 ここまで追い詰められて、ついに平子は盗聴器を仕掛けた事実を自分から認めた。というより、このままこの事実を曖昧にしたままでは榊原に追い詰められて終わってしまう上に、先程も述べたようにすでに盗聴器を仕込んだ事は彼女が否定しようがしまいがもはや客観的に証明されてしまっている事であるがゆえに「認めざるを得なかった」というのが正解だろう。だが、それでもなお彼女は殺人を認めず、榊原が推理した盗聴器を仕掛けた理由も否定する。一方の榊原もそう簡単に相手が認めないのは今までの経験上よくわかっているので、焦ることなく相手を見据えながら静かに言葉を紡いだ。

「では、問題の三〇二号室に仕掛けたはずの盗聴器が発見されなかった理由は?」

 そう、榊原のこの推理を否定できない限り平子は殺人の疑いを払拭できない。なので、ここからの戦いの争点は、「自身が三〇二号室に仕掛けた盗聴器が事件後なぜなくなっていたのか」を彼女自身が説明できるかに絞られる。先程榊原も言ったように今さら「仕掛けなかった」という言い訳は通らない。他の部屋は完璧に盗聴器を仕掛けてあるのに、殺人が起こった部屋だけ都合よく盗聴器を仕掛けなかったというのは偶然で片付けられない不自然さだからだ。なので、不本意ながらも彼女は三〇二号室に盗聴器を仕掛けていた事を前提とした上で、必死になって現場から盗聴器が消えた事に対する反論を試みなければならないところまで榊原に追い詰められていたのである。

「そんなの私がわかるわけがないでしょう! 仕掛けてから事件まで半年くらいはあるんです! その間に宿泊客の誰かが見つけて持っていたかもしれないじゃないですか!」

「そんな言い訳が通ると思っているんですか?」

「でも、その可能性を否定する事はあなたにもできないはず。違いますか!」

「違いますね」

 予想に反して榊原にあっさりと切り捨てられ、平子の反論が止まる。間髪入れずに榊原は言葉を切り返した。

「他の物ならともかく、物が盗聴器である以上、あなたは盗聴をしていたはず。そして、盗聴器が設置場所から排除されたのなら盗聴をしているあなたがそれに気付かないはずがないじゃないですか!」

「それは……」

「実際どうだったのですか? 三〇二号室に仕掛けた盗聴器が仕掛けた後に排除されたのは事実です。実際に盗聴していた人間として、誰が盗聴器を排除したのかあなたは知らないのですか?」

「……っ!」

 平子は答える事ができない。うかつに嘘で取り繕っても、この男の前では完膚なきまでにその嘘を暴かれてしまう上に、最悪の場合その嘘をきっかけにさらに平子によって都合の悪い事を突き詰められてしまうかもしれない。そう考えると、適当な嘘でごまかす事さえ今の平子にはできなくなってしまっていた。というより、すでにせっかくの反論がかえって藪蛇になりつつあるのは明白だった。

 それでも、平子はなおもあがき、無理やりにでも反論を絞り出す。

「……気づかなかったんです。仕掛けたはいいけれどあまりいい話が聞けなかったから、しばらくしてあの部屋を盗聴するのはやめてしまったんです。だから、誰があの部屋から盗聴器を持ち出したのかまではわかりません……」

 聞いていてもかなり苦しい言い訳だった。実際、言っている平子自身も自分がかなりまずい言い訳をしている自覚はあるのか、その表情が苦痛で歪んでいるのが見える。だが、榊原は素知らぬ風に言葉を続けた。

「つまり、あなたはあくまで自分が仕掛けた後にあの部屋に宿泊した誰かが盗聴器を持ち出した、と主張するわけですか」

「そ、そうです」

「……予想通り、ですね」

 いきなりそんな事を言われて平子は目を白黒させた。

「どういう意味ですか?」

「ここまで追い詰めた場合、あなたがそういう言い訳をしてくる事は予想の範囲内でした。というより、そういう言い訳するしかやりようがないからです。さて、それがわかっているのに、私が何の対策もしていないと思いますか?」

「一体……何を……」

 恐々尋ねる平子に対し、榊原ははっきり告げた。

「言ったでしょう。盗聴器を発見した後に宿泊記録を調べたと。だからついでに調べましたよ。……あなたが三〇二号室に宿泊してから、事件が発生したあの日までの間に三〇二号室に宿泊した宿泊客をすべて」

「し、調べた?」

 思わぬ答えに平子は絶句した。一方、榊原は表情も変えないままで平子の希望を叩き潰していく。

「まぁ、一〇〇人前後いましたが、四年かけて警察が本気を出して調べれば調べられない数ではありません。住所と名前はわかっていましたしね。で、調べた結果部屋から盗聴器を持ち出したと認定できる人間は誰一人存在しませんでした。つまり、他人が盗聴器を見つけて持ち出したという主張は成立しないんです」

 まさかそこまでしているとはさすがの平子も想定外だったのだろう。一気に追い詰められ、平子はもはやなりふり構わない様子で無理やりにでも反論しようとする。

「だったら……だったら、そう! 客じゃなくてホテルの従業員の誰かが掃除中に見つけて、私の知らないところで勝手に処分をしたんじゃ……」

「ホテル関係者がそんなものを見つかったら、処分する前に警察に通報するのが普通でしょう。さっきも言ったように、どう考えても信用問題になりますから」

「わからないじゃないですか! もしかしたら表沙汰にしたくないと思った誰かが……」

「一応聞いておきますが、宿泊客全員を調べた私と警察が、ホテル関係者だけ見逃していたとでも本気で思っているんですか?」

 その言葉に、平子は完全に言葉を詰まらせた。彼女自身、宿泊客全員を調べるなどという事をしてまで自分を追い詰めようとしていたこの男が、そんな単純な事をやり逃しているとは思えなかったのだ。

「じゃ、じゃあ……そう、例えば殺された如月さんがあの事件の日に取り外したんじゃ……」

「どうして被害者がそんな事を?」

「し、知らないわよ! でも、もう可能性はそれしか……」

「知っての通り、被害者は事件当夜、あの部屋に入って以降一度もホテルから出ていません。そして、彼の遺品からはもちろん、目ぼしい場所からそれらしい盗聴器は見つかっていない。従って、彼が盗聴器を外した可能性は完全に否定されます。警察の捜査能力をなめないでいただきたい」

 今度こそ平子は何も言えなくなってしまった。それは、この時点で平子がこの現場から消えた盗聴器について反論する事がもはやできなくなった事を意味していた。仕掛けた盗聴器を取り外せたのが客や従業員や被害者でない以上、もはやそれができるのは彼女本人しかおらず、そしてそれができるのは事件直後……すなわち殺人事件が発生したまさにその瞬間しかありえない。それつまり、榊原が平子の反論をすべて完膚なきまでに打ち崩し、そして彼女が犯人である事を明確に証明してしまった事を……つまり、平子がこのさえない名探偵に完全敗北を喫した事を意味していた。

「……もう反論はありませんか。ないのであれば、結末は明白でしょう」

 そして榊原ははっきりとした口調で端的に宣告する。

「この事件、ここまでです」

 それを聞いた瞬間、平子は体を大きく震わせながら無言でその場に崩れ落ちた。それは、四年前に未解決に終わったあの事件の決着が、はっきりとついた瞬間であった……。


 ホーム端の外灯の下でうなだれる平子と、改札前の外灯の下でジッとをそれを見据える榊原。都市伝説上の無人駅の構内で、しばし無言の時間が過ぎ去る。やがて、榊原はうなだれている平子に向かって静かに問いかけた。

「……あなたが犯人であると認めますか?」

 もはや、反論する事もできない。平子は無言のまま何も答えなかったが、事実上それが平子の敗北宣言に他ならなかった。榊原もそう解釈し、話を先に進める。

「いいでしょう。さて、あなたの犯行が決定的になったところで、もう一つはっきりさせておくべき事があります。他でもない、あなたが如月鳳鳴を殺害した動機です」

「……私が何も言わなくても、どうせ、それももう見当がついているんですよね?」

 不意に、平子は魂の抜けたようなか細い声で虚ろな言葉を発した。榊原は小さく頷く。

「あくまで私の推理によるものですがね。問題は、あなたが事件の三年前に失踪していた如月鳳鳴の娘・如月月夜の事について知っていたという事です。今言ったように、彼女は事件の三年前にすでに失踪していますが、にもかかわらずあなたはそれが女の子である事を知っていた。つまり、あなたは赤の他人にもかかわらず、失踪前の如月月夜を知っているという事になります」

「……」

「そうなると、三年前の如月月夜の失踪事件にあなたが何らかの関与をしていたのではないかという疑いが当然浮上してきます。そして、如月氏は娘の失踪について三年前から追い続けていて、事件の三日前には私に娘捜索の依頼までしていた。……あなたは、如月月夜の失踪に関する何らかの事実が如月氏によって暴かれるのを恐れ、先手を取って彼を殺害したのではないですか?」

「……あなたは、私が何をしたと思っているんですか?」

 苦しげにそう反発する平子に、榊原は深く息を吐きながら重い口調で答えた。

「事が殺人にまで発展している以上、考えられる可能性は一つです。事件の三年前、如月月夜は何らかの事件に巻き込まれて死亡した……それが私の推測です。実際に遺体は見つかっていませんし、直接的な証拠もありませんが、人が殺人まで犯して何かを隠そうとしている以上、それに匹敵する事があったと考えるしかないのも事実です」

「つまり……あなたは私が、三年前にその月夜という女の子を殺した、とでも言いたいんですか?」

「……はっきり言えばそうなります」

 そう言われて、なぜか平子は自嘲気味に反駁した。

「ここまで言っておいてなんですけど、何で私が見知りもしない女の子を殺さなきゃいけないんですか? 私は別にシリアルキラーじゃありませんよ」

「えぇ。ただ、事件の概要から見るに、私には如月月夜を殺害する動機がある人間が一人だけ存在すると推測しました。なので、調べたんです。具体的には、ホテルのあなたの部屋に残っていたあなたの髪の毛を、ね」

「髪の毛?」

「DNA鑑定をするためです。被害者の如月鳳鳴がずっとお守りの中に保管しておいて、事件直前に私に預けていた如月月夜の髪の毛に残されていたDNAとあなたのDNAを比較検討しました。その結果……この両者には、親子関係が認められる事が証明されました」

 その瞬間、平子の表情が大きく歪んだ。が、榊原はそのまま追及に移る。

「如月月夜は如月鳳鳴の実子ではなく養子です。具体的には、失踪の十年前に新浜松駅のロッカーで保護された捨て子を彼が養子として引き取った、という流れになります。つまり、彼女には育ての親である如月鳳鳴とは別に、彼女をロッカーに捨てた実の母親が存在するはずなんです。そして、DNA鑑定の結果、その母親の正体も今明らかになりました」

 榊原は告発する。

「伏田平子さん……あなたが赤ん坊だった如月月夜さんをロッカーに捨てた、彼女の実の母親その人だったんです。ホテルの殺人当時のあなたは三十四歳で、逆算すれば二十一歳の時に出産した事になり、年齢的にも充分に合致します」

「……」

「そして、あなたが実の母親だったとすれば、あなたが如月月夜に対して持っていた複雑な思いも想像がつきます。……失礼ですが、あなたの経歴を調べさせてもらいました。素行不良で高校を中退後、家を飛び出したあなたは水商売の世界に入り、しばらくホステスとして生活していますね。エッセイストとして食べていけるようになったのはホテルの事件の数年前からで、それまではアルバイトを転々とする生活を送っていたとか」

「……だったら、わかりますよね。私が、どういう気持ちで生きてきたのか」

 突然、平子はどこか怨念がこもったような声でそう言うと、ゆらりとその場で立ち上がり、どす黒い視線を榊原に向けた。榊原はそれを真正面から受け止め、しっかりとした口調で告げる。

「聞かせてもらえますか? あなたの動機を」

「……最悪の人生でした」

 最初に平子が口に出したのはそんな言葉だった。

「私の両親は人として最低の人種でした。基本、私の事なんかほったらかしで、自分の気に入らない事があればすぐに私を殴ったり蹴ったり……今でいう『虐待』をしていたんです。だから、私にとっての『家族』や『親』は『不幸』の象徴でした。そんな家で育ったから、家にいたくない一心で夜遊びばかりするようになって、結局ギリギリの成績で高校に進学したけど、最後は素行不良で退学になってしまいました。だからと言って家に戻る気もなかったから、そのまま家を飛び出して、いつの間にか水商売の世界で働き始めたんです」

「……子供ができた経緯は?」

 榊原の端的な問いに、平子は首を振る。

「言いたくありません。あの頃は、色々あったから……」

「堕胎する事は考えなかったのですか?」

「したくても、そんなお金なかったんです。でも、そんな状況だったから、出産しても育てられる自信もありませんでしたし、何より私が、私の『不幸』の象徴だった『親』になりたくなかった。だから、何とか自宅アパートで出産した後……」

「新浜松駅のコインロッカーに捨てた、と」

 怖い顔で言う榊原に対し、平子は小さく頷いた。

「その子が保護されて、少しして如月という人に引き取られた事はニュースで知りました。でも、私は自分の事で手いっぱいでそれ以上の事は知りたくなかった。その後の十年間、私の人生はどん底でした。何をやっても長続きしなくって、借金に追われる毎日。あの時……あの子に偶然再会した時は、そんな人生の最底辺の時期でした。私はその直前にまた仕事をクビになって、富士市の街中を当てもなく歩いていました。これからの展望もなく絶望しきっていた私の前に……友達と一緒に楽しそうに学校から帰っている途中のあの子に出会ったんです」

 その瞬間、平子の視線がより一層虚ろで暗いものになった。榊原はそれでもひるむことなく平子に先を促す。

「あの子の友達が『如月さん、また明日!』と言って別れるのを聞いて、私は思わずハッとしました。如月……その名字は彼女の里親となった人の名前として聞き覚えがありました。あのまま無事に育っていればちょうど十歳くらい。しかも、パッと見た彼女の晴れやかな笑顔には多少ながら私の面影もあった。もちろん、如月という名字の人は全国に何人もいるでしょうし、顔立ちが似ているかもしれないというのは私の主観に過ぎません。でも、正直直感としか言いようがないんですが、私はその時、その子が十年前に私が捨てた娘だとはっきりわかったんです。そして、その後彼女を尾行して、彼女が『如月勝義』の表札がかかったアパートの部屋に入っていくのを見て確信しました。彼女を引き取ったのが大学の先生だという事はニュースで最低限確認していた事ですし、如月勝義という人物が大学教授だという事は、何かの雑誌で民俗学のインタビューを受けていた記事が掲載されていたのを読んで知っていましたから」

「……あなたはかつて自分が捨てた娘が元気に育っているのを確認した。しかし、それがどうしてその娘を殺害する事につながってしまうんですか?」

 その瞬間、突然平子は絶叫した。

「それが許せなかったのよ!」

「……」

「私にとって『家族』は『不幸』の象徴だった! なのに、私が捨てた娘が、その『家族』に恵まれて『幸福』に暮らしているなんて、どう考えても納得できるはずがないじゃないの! 生みの『親』がこんなに苦しんでいるのに、私から離れたあの子だけが幸せに生きているなんて、私が『不幸』の根源みたいじゃない! そんなの不公平よ! 許されない事だわ! 私の『娘』なら、あの子も私と同じように苦しむのが当然じゃない! 子供を『不幸』にするのが『親』の役割のはず! そうでしょう!」

 平子は狂気に満ちた表情を浮かべながらまくしたてるように叫び続ける。その平子の黒く歪んだ訴えを聞き、榊原もさすがに少し沈黙したが、やがて静かにこう問い返した。

「それで……あなたは幸せに暮らしていた何の罪もない如月月夜を殺害した」

「えぇ……あの子だけ幸せになるなんて許されない……夏祭りの日に帰る途中のあの子をさらって……その後は言いたくないわ……」

 最後はうわ言のような言葉だった。だが、榊原は容赦しない。

「その後、あなたはエッセイストとして成功し、それなりの名声と財産を得ました。しかし、それを許さない存在がいた。それが如月鳳鳴こと如月勝義だった」

「……あの人が三年前のあの日から、消えたあの子の事を探しているのは知っていました。証拠は残していなかったつもりですけど、あの執念だとばれる可能性があるとは思いました。何より、私を差し置いてあの子を『幸福』にした彼の事を私自身許す事ができなかった。だから、あの子と同じく殺す事にしたんです。綿密に計画を練って、一年前からあの人が仕事でよく泊まっていた浜松のあのホテルに私も泊まるようにして、彼から調査の進捗状況をさりげなく探ると同時に、少しずつ仕掛け……盗聴器を仕込み続けました。幸い、それができるだけの蓄えはその時の私にはありましたから。あとは……あなたがさっき推理した通りです」

 そこまで言ったところで、平子はその場でうなだれてしまった。そんな彼女に、榊原は最後に残った謎をぶつける。

「一つ聞きますが、警察の尾行をまいた後、あなたはどこで何をしていたんですか?」

 だが、これに対する彼女の解答は曖昧なものだった。

「それが……覚えていないんです」

「覚えていない?」

「新浜松駅で警察の尾行をまいてホッとしたところまでは覚えています。でも、その後は何がどうなったのかわからなくて……。記憶にあるのは、いつの間にかどこにも停まらない電車に乗っていて、気が付いたらこの『きさらぎ駅』にたどり着いていたという事だけです」

「では、ネットの掲示板に『きさらぎ駅』の都市伝説を投稿したりはしていない?」

 その問いに、平子は困惑気味に答えた。

「何の事ですか? 意味がわかりませんし、そんな事をして一体何の意味があるんですか? 大体、ここは携帯の電波も通じない場所なんです。通じているなら、すぐに助けを呼んでいます」

「……ならばもう一つだけ。あなたは今『尾行をまいた』と言いましたが、具体的にどうやって刑事の尾行をまいたんですか? 単にタクシーに乗っただけでは刑事の尾行を振り切る事はできないはずです」

 この問いに対し、平子はなぜか顔をしかめて答えた。

「それも……思い出せません。私に何か勝算があった事はボンヤリ覚えているんですけど、具体的にどうやったのかがなぜか思い出せないんです。どうしてかわからないけど……」

「……そうですか」

 それだけ聞ければ満足だった。

「私が言える事はこれで全部です。それで……これからどうするつもりですか?」

「と言いますと?」

「私を逮捕しようにも、ここから出られない限りどうする事もできませんよね。そもそも、何でいきなりこんな場所で私の罪を暴くような事をしたんですか?」

 その問いに対し、榊原は冷静にこう答えた。

「……さっきも言ったように、私の認識ではホテルの事件があってからすでに四年の時間が経過していて、その間あなたは『行方不明』という形になっています。仮に、その失踪の理由が、あなたがこの『きさらぎ駅』に閉じ込められていたからだとすれば、逆にどのような条件があればあなたが『きさらぎ駅』を脱出できるのかと考えました。オカルト的な事について考えるのはあまり得意ではありませんが、可能性として考えられるのは……『きさらぎ』という名前からしてここが如月事件に対する怨念か何かで作られた怪異であり、その怨念が犯人であるあなたを閉じ込めているのではないかという事です。そして『きさらぎ駅』の中からあなたが脱出できないのは、あなたが事件に対する関与を頑として認めようとしていないからであって、これを逆に言えば……事件の真相をすべて明らかにしあなたが自白する事で如月事件が『解決』すれば『きさらぎ駅』の怨念が消滅し、もしかしたらここから脱出できるのではないかと考えたわけですが……」

 榊原がそう言った、その瞬間だった。先程、榊原が乗ってきた電車がやって来た方向とは逆の方からチラリと明かりが見え、その明かりがだんだんとこちらに近づいてきた。そしてそれは、いつしかさっきまで榊原が乗っていた真っ赤な電車の形状となり、先程の電車とは真逆の方向……つまり榊原がさっき来た方へ戻る進路で『きさらぎ駅』のホームに滑り込むと、榊原が立っていた改札前のドアだけが自動で開き、車内の明かりをホームに照らし出した。唖然としている平子に対し、榊原は落ち着いた表情で告げた。

「どうやら、当たりだったようですね」

 そのまま榊原は平子に対して告げる。

「電車が戻って来たという事は、事件が解決した事で、あなたが『きさらぎ駅』から解放されたという事なのでしょう。さて……用も済んだ事ですし、戻るとしましょうか。それとも、このままこの駅にとどまり続けますか?」

 そう言われて、平子は少し躊躇していたが、やがて意を決したように榊原のいる改札前の方へと歩き始めた。そのまま、二人でドアの前に立つ。

「……戻ったら、私はどうなるんですか?」

「もちろん、警察に出頭してもらいます。言っておきますが、現実世界においては、すでに証拠がそろっている事もあってあなたには指名手配がかかっている状態です。この際、自分から出頭した方がいいと私は考えますが」

「……」

「まぁ、それは戻ってから考えればいいでしょう。ひとまず、乗るとしましょうか」

 そう言って榊原が電車に足を踏み入れようとした、その時だった。


「冗談じゃないわよ」

 その言葉が発せられたのと同時に、突然榊原は後ろから思いっきり引っ張られ、そのままホームに転倒した。そして、それと入れ替わるように、伏田平子が歪んだ笑みを浮かべて電車に乗り込むのを榊原はホームに倒れながら目撃した。


「……どういうつもりですか?」

 突然の出来事に対して、しかし榊原は激高する事もなく、上半身を起こしながら静かに問いかけた。一方、平子は榊原が電車に入れないようにドアの前で仁王立ちし、引きつった笑みを浮かべながら嘲るように宣告した。

「私の罪を暴いたのはあくまであなた一人だけ。だったら、あなたがいなかったら私はまだまだ逃げ切れるはず! あなたさえいなければ、警察の追跡だって振り切ってみせる!」

「……私をこの駅に置き去りにするつもりですか?」

 立ち上がる事なく淡々と問いかける榊原に。平子は勝ち誇ったように叫んだ。

「ここは一人じゃ絶対に脱出できない駅よ! それは私自身がよくわかっている! あなたには私の代わりに永遠にこの駅で過ごしてもらうわ!」

「それがあなたの『答え』ですか」

 榊原の鋭い視線にも、彼女はひるむ様子はない。

「もう、うんざりなのよ! 今までずっと不幸だった! いい加減に私も幸せになりたいのよ! そのためにはすべてを知っているあなたは邪魔なの! だから、ここで消えてほしいのよ!」

「自分さえ助かればそれでいいと?」

「こうして脱出手段を示してくれたあなたには一応感謝しているわ。でも、あなたは危険すぎる。私はあなたに負けるわけにはいかないの!」

「……」

「でも、私は鬼じゃない。せっかくだから、最後に何か言いたい事があったら聞いてあげるわよ。どう?」

 そう言う平子に、榊原は特に緊張感もなく、無感情にこう返した。

「そうですね。私からは最後に一つ、あなたにある事実を思い出させてあげましょう」

「何よ?」

「ここは我々の常識が通用しない『怪異』の駅。この駅で主導権を握っているのは私でもあなたでもない……あなたを四年間閉じ込め続けた『怪異』だという事を忘れてはいけないという事です」

 それに対して、平子が何かを言おうとした瞬間、無情にも電車のドアがゆっくりと閉じた。平子がホッとしたような表情を浮かべ、榊原が無表情にそれを見送る中、電車はゆっくりと動き出す。


 元の世界への進行方向ではなく、今来た線路を逆戻りしながら……深い、深い闇の奥へと向かって。


 その事実……つまり自分が元の世界に戻れるどころか更なる闇の奥へ引きずり込まれようとしている事に気づいた瞬間、平子の顔が一瞬で青ざめ、狂ったように電車の窓を開けようとした。が、電車の窓はびくともせず、電車はそのままどんどん駅を離れてその姿が小さくなっていく。榊原が最後に見た彼女の顔は、恐怖と絶望が入り混じった泣き顔であったが、その直後に不意に車内の明かりが消え、電車が遠ざかっている事もあって彼女の姿は見えなくなってしまった。

「彼女が私を引きずり倒した時点で嫌な予感はしていたが……やはり、こうなったか……。四年間もずっと彼女を閉じ込め続けていたこの『駅』が、あんな醜態を見逃すはずがないとは思ったが……」

 それは、ある意味一種の『黄泉送り』ともいえる光景だった。今まで事件への関与を否定していた罰のためか黄泉に送られる事なくこの駅に閉じ込められていた彼女が、自らの罪を認めた事で晴れて黄泉に送られる事になった、とも取れる展開である。もっとも、これはあくまでオカルトに詳しくない榊原が目の前の光景に対して勝手に抱いた解釈に過ぎないが。

 とにかく、榊原は去っていく電車を見送りながら、ゆっくりその場で立ち上がると、彼女に対する最後の言葉を送った。

「人は誰だって償う事ができるし、やり直す事もできる。ただし、その償いの機会を自分から拒絶した人間には……それ相応の因果が巡る。そんな事もわからなくなっていたとはな。残念ながら、ここまでされたら、もはや私に助ける術はない」

 そう言い終えた瞬間、電車のライトは漆黒の闇の中に消え、二度と浮かび上がってくる事はなかった。かくして、四年間『きさらぎ駅』に閉じ込められていた伏田平子はようやく駅から解放され、現世ではなくさらなる暗黒へと旅立っていったのであった……。

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