第四章 如月事件~失踪

 だが……時間は無情に過ぎていく。榊原と刑事たちの必死の捜査活動もむなしく、ついに二時間後、タイムリミットの六時を迎える事になった。そして、この段階で県警上層部は容疑者たちのこれ以上の拘束は不可能と判断し、彼ら彼女らのホテルからの解放が命じられたのである。

「間に合わなかったか……」

 ロビーの入口で榎本が唸り声をあげ、榊原は腕を組んだまま黙って目を閉じていた。この二時間、榊原たちも黙って指をくわえていたわけではなかった。総員で事件についての再検討を行い、榊原の指摘により怪しいとされた『彼女』を守る『壁』を突破する手段がないかについて徹底した議論が行われていたのである。

 その結果、榊原の推理により「これではないか」というトリックを具体的に考えつくところまではたどり着いていた。この短時間で何もないところから犯人が仕掛けた『壁』を突破するトリックを推察するところまで持っていけたところはさすがに榊原の面目躍如と言ったところで、もし事件に榊原が介入していなかったらこんな短時間でこの推測にたどり着く事はまず不可能であっただろう。

 だが、その榊原の『推測』を聞いた瞬間、刑事たちの顔は一様に曇る事になった。というのも、もし榊原の『推測』が正しいのであれば、これを証明するための証拠の確保はとても数時間程度では間に合わず、最悪数日かける必要がある代物だったからである。正直、容疑者が解放されるまでに証拠を挙げる事はほぼ絶望的とも言うべき状態だった。さすがの名探偵・榊原恵一をもってしても、この時間的制約だけはいかんともしがたい状況だったのである。

「……これは私の想像ですが、『彼女』はもしかしたら、こうなる事を見越してこのトリックを採用した可能性があります」

 腕を組んで険しい顔を浮かべたまま、榊原は苦々しい表情でそう告げた。

「つまり、万が一トリックがばれる事があっても、その証拠収集の大変さから一度は自分の身柄が解放される事を読んでいたと?」

「警察がある程度真相に近づいてもそう簡単に手出しをできないようにし、逮捕されるまでに何かを仕込む時間を作り出した……という事ですかね」

「……逆に言えば、『彼女』はこの後何かを企んでいる可能性があると?」

 榎本の表情が一気に緊張する。

「証拠の確保作業は当然続けるとして、『彼女』に尾行をつけた方がいいですね。ただ、万が一のことを考慮すると残り三人にも尾行をつける必要がありますし、何より一刻も早く証拠を挙げるためにこちらに割く人員も増やさなければならない。正直、わかってはいても犯人のペースに乗らざるを得ない状況です」

「ですが、負けるわけにはいきません。榊原さんのいう『証拠』さえ見つかれば決定的ですから、そうなれば裁判所も逮捕状を出すはず。それまでの間、『彼女』の動向を把握し続ける事ができるかどうかが大きな鍵です。ある意味、ここからが正念場ですね」

 そうこうしているうちに、解放が通告された宿泊客たちがぞろぞろと降りてきて、次々とチェックアウトしていった。その中には、牛塚小春、伏田平子、江成真琴の三人の姿もあり、また一連のチェックアウト作業が終わればホテルの従業員たちも一時帰宅が認められている。当然、穀野花美もその例外ではない。

「尾行についての段取りは?」

「抜かりなく。すでに外に何人か待機しています」

 ならば尾行について榊原にできる事はもう何もない。捜査参加しているとはいえ榊原の立場はあくまでアドバイザー。ここから先の尾行は警察の仕事であり、榊原に介入する権利はない。

「戻りましょう。我々は一刻も早く証拠を挙げるのが仕事です。早ければ早いほど、『彼女』の思惑を潰す事ができます」

「……えぇ」

 そう言うと、二人はホテルの玄関を出ていく容疑者三人を最後に瞼に焼き付け、そのままホテルの中へと踵を返していったのだった……。


 その後、榊原の言う『証拠』を探すための作業は深夜にまで及んだ。目下の所、榊原の指摘した『彼女』が第一容疑者だが、警察としては万が一にも榊原の推理が間違っていた時のために他の容疑者についての捜査もおろそかにするわけにはいかない。尾行に割かれた人間も多く、深刻な人数不足の中での捜査であった。

 だが、午後十時頃になって前線本部が置かれている一階イベントホールに緊急の連絡が入り、事件は新たな局面に突入した。

「尾行がまかれただと!」

 かかってきた電話に対し、榎本は思わずそう叫んでいた。その場にいた全員の目が榎本に集まる。一方、電話の向こうでは尾行をしていた刑事の悔しそうな声が伝わってくる。

『申し訳ありません! 注意はしていたんですが、してやられました』

「状況を説明しろ!」

『……ホテルを出た後、「彼女」はそのまま浜松市内を当てもなく移動していました。書店で立ち読みをしたり、浜松駅近くの定食屋に寄って食事をしたりと、何か時間を潰すような行動をとり続けていたのを確認しています。それで午後九時半頃、突然浜松駅の近くでタクシーを拾って移動し始めたので、我々も後を追いましたが、相手のタクシーは信号が多い場所や渋滞が起こりやすい道を意図的に選んで走り続け、最後はこちらが信号や渋滞に引っかかって見失ってしまって……』

 榎本は思わず電話口に怒鳴りつけかけた。が、こんな所で怒鳴り散らしても意味がないと思ったのか自重しながら押し殺した声で状況確認を続ける。

「それで、そのタクシーは見つけたのか?」

『それが、一周戻って遠州鉄道の新浜松駅近くで停車しているのを見つけたんですが、追いついたときにはすでに「彼女」はタクシーを降りた後でした』

「新浜松駅、とは随分意味深ですね」

 榎本の横で榊原が小さく呟く。その駅は、この事件の被害者の娘で現在失踪中の少女・如月月夜がロッカーの中に捨てられていた因縁のある駅である。そこへ事件の舞台が戻って来た事が、何か意味ありげに感じられたのだった。

「『彼女』の行方はわからないのか?」

『運転手の話では、そのまますぐにどこかへ去ってしまったらしく、そこから先の行方はわかりません。今、新浜松駅周辺を探してはいますが、何分捜査員が少ない上に時間も経っていますので……』

「……くそっ!」

 堪えきれなくなったのか、榎本は短くそれだけ吐き捨てた。一方、榊原は即座に気持ちを切り替えて冷静に助言を行う。

「そのタクシー運転手を念のため拘束して、『彼女』と関係ないかどうかを調べてください。『彼女』の協力者の可能性がありますから」

「そう、ですね。その運転手の身元は分かるか?」

 榎本にそう聞かれて電話口の刑事が答える。

『浜松青空タクシーの関松桃子せきまつとうこという二十四歳の女性ドライバーです。運転免許証によれば、本籍地は静岡県静岡市。ただ、本人は客である『彼女』の指示通りに車を走らせただけだと主張しています』

「そうか……」

 と、そこで隣にいた刑事が言葉を挟んだ。

「警部、仮に『彼女』が意図的に尾行をまいたとすれば、何かやましい事があったと考えるのが自然です。その点で逮捕状を取れませんか?」

 が、この提案には榊原が首を振った。

「状況を聞く限り、『彼女』は信号や渋滞で自然に尾行が中断されるように仕組んでいるようで、これだけで『逃亡の意図があった』と立証するのは困難です。『たまたまそうなった』と言われたら反論する事ができませんから。この状況では裁判官も逮捕状は発行できないでしょう」

「何から何まで計算の上ですか」

 榎本が悔しそうに机を叩く。本部の誰もが何も言えず、その場が重々しい空気に包まれた。そんな中、榊原は淡々とした口調で告げる。

「とにかく、一刻も早く『彼女』を探す事。それと、こっちはこっちで『証拠』の収集を急ぐ事。地味ではありますが、他に方法はありません。あと、駅周辺の防犯カメラをチェックする事くらいはできると思います。とにかく、今はやれる事をやるしかないと思います」

「……わかっています。それしか方法がない事も含めて、嫌というほど」

 榎本は唇をかみしめると、刑事たちに作業や尾行の続行を指示したのだった……。


 その後も、証拠の捜索や他の容疑者の尾行、そして失踪した『彼女』の捜索は継続して行われたが、少なくともその日のうちに取り立てて効果を上げる事はできなかった。夜の浜松市内の人ごみに消えた『彼女』を発見する事はできず、証拠の収集も思うようにいかない。刑事たちの間に焦りのような物さえ見え始めていた。



 そして、もうすぐ日付が変わろうかという午後十一時過ぎ。



 事態は、榊原たちが想像もしていなかった方向へと大きく動き出そうとしていたのである。



 始まりは、相変わらず必死の証拠探しが続くイベントホールの前線本部に入った県警本部からの連絡だった。時刻はすでに午前零時を超え、日付が変わって一時間ほどが経過した後というところである。

「ネット犯罪対策課?」

 それは、思わぬところからの連絡だった。近年試験的に設立されたネット犯罪に対する対策部署から、『ネット上の某大手掲示板にそちらの事件に関係しているかもしれないコメントが投稿されている』という連絡が入ったのである。いわく、『その掲示板で午後十一時過ぎ頃から投稿されている一連の投稿が、伝え聞いているそちらの殺人事件の情報を知っているとしか思えない内容だ』とか。

「何の掲示板ですか?」

『巷の都市伝説を利用者が語ったりするサイトです。アドレスは……』

 即座に捜査員の一人が告げられたアドレスを捜査用のパソコンに打ち込み、その掲示板が立ちあげられた。すると、そこには女性と思しき人物によって、確かに現在進行形で何とも不思議な書き込みがなされ続けていた。

「これは……」

 書き込みは、午後十一時過ぎ頃から彼女が掲示板の面々に相談するという形式で始まっていた。いわく、ある私鉄の電車に乗り込んだはいいが、その電車がなぜか一向に停車する様子がなく、運転席に行ってもブラインドがかけられていて反応がないという。そして、その書き込みによれば彼女が乗り込んだ駅はよりにもよって「彼女」がその姿を消した新浜松駅であるという。

 それだけならまだ偶然かもしれない。だが、書き込みを見ていると事態は思わぬ状況へと向かっていた。しばらくして彼女の乗っていた電車はどこかの駅に停車し、彼女もそこに下りたのだが、その駅は周囲に何もない見覚えのない無人駅なのだという。そして、掲示板上に彼女がその駅の名前を打ち込んだ瞬間、捜査員たちの間に緊張が走った。


『きさらぎ駅』


「これは……偶然とは思えませんね」

 榊原が厳しい顔で重々しく告げる。確かに、「新浜松駅から出発した電車」という内容に事件の被害者・如月鳳鳴と同じ「きさらぎ駅」の名前。明らかにこの事件の事を暗喩するような内容である。

「ハンドルネームはどうなっていますか?」

「えっと……」

 榊原に言われて榎本が改めてハンドルネームの所を確認すると、そこにはこう書かれていた。

知由子ちゆこ

 当然ながら今まで聞いた事がない名前であるし、ネット上なら十中八九偽名だろう。

「発信源の特定はできないんですか?」

「……ネットの発信源特定には令状がいります。限りなく怪しいとはいえ、事件と直接的に関係しているという証拠がない現状ではどうにもなりません」

「向こうもそれをわかってやっているか……」

 その後も、彼女……「知由子」によるネット上の書き込みは続いた。山と草原だけが広がり何もない駅前の光景。焦った様子の彼女は家族や警察に電話をかけて助けを求めようとするがどうにもならない。ついには鈴の音や太鼓の音のようなものまで響くようになり、彼女は掲示板の書き込みに従って線路を伝って帰ろうとするが、トンネルの前に差し掛かった時に後ろから片足の老人に呼びかけられるなど不気味な体験を繰り返す……。

「一一〇番指令センターからの回答はどうなっている!」

 ネット上の動きを睨みながら榎本が発した問いに、連絡をしていた刑事が首を振った。

「駄目です! 県警の一一〇番指令センターにその書き込みの内容にあるような警察への通報は行われていません!」

「少なくとも、警察に電話したという書き込みは真実ではなさそうですね」

「一体、この書き込みは何なんだ!」

 厳しい表情ながらも冷静にコメントをする榊原に対し、榎本は訳が分からず混乱状態だった。だが、その間にもネット上の書き込みはさらに先へと進んでいた。トンネルを抜けた彼女は、その先で一人の男性に出会い、車で近くのビジネスホテルまで送ってもらえる約束をする。掲示板に書き込む人々はどう見ても怪しいと必死に止めようとするのだが、彼女はそのまま車に乗り込んでしまう。その際、ここがどこなのか男に尋ねたのだが、それによると富士市内の地名らしい。それを聞いて、榊原が眉をひそめた。

「富士市というと……今回の被害者・如月鳳鳴が如月月夜と一緒に住んでいた街の名前ですね。またしても事件との不気味な符合です」

 榎本たちの顔がさらに緊張する。もはや、この書き込みが今回の事件に何らかの関係があるのは疑いを通り越して確信とも言えるところに突入していた。しかし、誰が何のためにこんな事をしているのかがさっぱりわからない。それが逆にこの場に不気味な感触を生み出し続けていた。

 だが、午前三時半過ぎ。彼女の書き込みは、掲示板の人々が心配した通り彼女が車でどこか山奥に連れて行かれそうになっているという書き込みを最後に終了した。それ以降の書き込みは一切なく、刑事たちはその場で後味の悪い表情を浮かべるしかなかった。

「何だったんだ、一体……」

 刑事の一人が呆然と呟く。そんな中、榊原がポツリと呟いた。

「まるで……新浜松駅で消えた『彼女』が何か得体のしれないものに巻き込まれて、それを実況していたようにも見えますね」

「……『彼女』の仕業だというのですか?」

 榎本の問いに、榊原は首をすくめる。

「わかりません。ただ、何となくの勘ですが、我々が容疑者と睨んでいた『彼女』が当分発見されなくなりそうな気がしてならないのです。まぁ、あくまで私の取るに足らない想像に過ぎませんが……」

 榊原はそう言ったが、刑事たちはその言葉を否定できず、その場の重苦しい空気は継続する事になったのだった……。


 この二〇〇四年一月八日~九日にかけて行われた一連の書き込みは、後にネット上で拡散し、都市伝説「きさらぎ駅」として全国に広まる事となった。だが、この都市伝説の裏で一人の殺人事件の容疑者が伝説さながらに失踪し、県警がこの都市伝説に対して極秘裏に捜査を進めていた事を知る人間は少ない……。


「……それで、その後どうなったんですか?」

 そして、時代は戻って二〇〇八年一月五日、品川の榊原探偵事務所。榊原から「如月事件」の概要を聞いた瑞穂は、正面の榊原にそう尋ねた。

「どうもしないよ。尾行をまいたその『容疑者』は、『きさらぎ駅』というあまりにも意味深な都市伝説通りにそのまま失踪。現在に至るまで発見されていない。その後の県警の必死の捜査で彼女が犯人であるという『証拠』は無事に挙がったが、生きているのか死んでいるのかさえわからないから県警としては未解決にするしかない。だから、最初に言った通りこの事件が『未解決』というのはそういう意味でね。有体に言って、真相そのものは明らかにしたが、追及する前に当の容疑者が失踪してしまい、そのまま現在まで見つかっていないという事だ。まぁ、私にとっては苦い思い出の一つではある。今でも時間があれば少しずつ調べてはいるんだがね。何だかんだでもう四年も経ってしまった」

 苦笑気味にそう笑いながら、榊原はすぐに真剣な表情に戻って続ける。

「ただ……このままうやむやにしておくわけにもいかないし、そろそろ決着をつけないといけないとは思っているがね」

「……という事は、決着をつけられるところまで真相の解明は終わっているという事ですか?」

 瑞穂の問いに、榊原は頷いた。

「元々事件の推理自体は『彼女』が失踪する直前にあらかた固まっているからね。あとは、『彼女』がどこに消えて、そして失踪前に突如流れたあの『きさらぎ駅』の都市伝説とは何だったのかという問題が残っているわけだが……。まぁ、これもある程度までは推測できている。が、実のところこっちについては証拠が足りなくてね。真の意味で解決するまで、本当にあと少しというところだ」

「へぇ……。で、先生はこの事件についてどんな推理をしているんですか?」

 瑞穂が興味津々に尋ねる。

「聞きたいのかね?」

「もちろんです。こっちのファイルにはまだそこまで書いていませんし」

「そうだね……。まぁ、せっかくここまで話した事だ。この際、未だに解決できていない事に対する愚痴半分に、君に推理を語ってみるのもいいかもしれないな」

 そう言うと、榊原は姿勢を正し、瑞穂もソファで背筋を伸ばす。

「ではまぁ、語ってみるとするか。この『未解決』の事件について私が考える、事件の『真相』を……」

 ……そして、榊原は瑞穂に対して自分の考えるこの事件についての『推理』を語り始めた。瑞穂は興味深げにそれを聞き続け、全てが終わる頃にはすっかり夕日が沈みかけている状態だったという。



 ……まさか、この何気ない瑞穂に対する榊原の『推理語り』が、後に四年ぶりにこの事件を解決する重大な転換期になろうとは、この時点では瑞穂も、そして当の榊原自身も全く予想できなかったのであるが……。

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