第三章 如月事件~捜査

 それから一時間半程度が経過した午後一時。集積所へ向かった部下からの連絡が入り、該当するトラックのコンテナの上から奇跡的にビニール袋に包まれたホテル備え付けの寝間着が載っているのが見つかった事と、その寝間着から血痕が検出された事が報告された。どうやらあまり速度を出さずに走っていたのが幸いして、振り落とされるという事はなかったらしい。また、運転手も自分のトラックのコンテナの上にいつの間にかそんなものが落とされていた事には気づいていなかったようだ。

「ホテル備え付けの寝間着か。まぁ、証拠を残さないためにも自分の衣服を使っていないとは思っていたが……」

 前線本部のある一階イベントホールで榊原は唸り声を上げた。問題は、この寝間着がどこから出てきたのか、そしてトラックの上に寝間着を投げ落とせるのが誰かという事である。

「先程榊原さんと一緒に検討した条件で犯行が可能な人間をピックアップしてみました。結果、宿泊客の中でこの条件に該当するのは三人だけです。全員女性。証言では三人全員が被害者の事を知っていて、犯人の条件は全員該当します」

 そう言って榎本はリストを差し出す。そこにはこの事件の容疑者たちの名前がしっかり書かれていた。


牛塚小春うしづかこはる 英会話教室講師 三〇九号室宿泊 三十二歳』

伏田平子ふしだひらこ エッセイスト 四一〇号室宿泊 三十四歳』

江成真琴えなりまこと 介護機器メーカーOL 五〇九号室宿泊 二十九歳』


「それと、当時ホテル内にいた従業員についてもアリバイを確認しましたが、うち一人は防犯カメラの範囲内にあるフロントにずっといて、カメラに姿が映っていた事からアリバイ成立。二人は基本的に常に誰かと一緒にいて、離れたとしてもトイレに行った五分程度。あの犯行は五分ではまず無理なので彼らも除外して構わないでしょう。ただ、残る一人は犯行時間に一人きりだった時間があり、しかも施設点検のために事務室内に保管されているマスターキーを持ち出せる立場にいたので除外する事ができませんでした」

 そう言って、榎本はその最後の従業員の名前を示す。


穀野花美からのはなみ ホテル「ハイエスト浜松」従業員 二十五歳』


「つまり、容疑者はこの四人の女性」

「はい。榊原さんの考えが正しいなら……この中の誰かが犯人です」

 その言葉に、その場にいた誰もが緊張した表情を浮かべた。

「彼女たちの部屋に備え付けられている寝間着はどうなっていますか?」

 トラックに血痕付きの寝間着を捨てた以上、必然的に犯人の部屋の寝間着はない事になるはずという事からの質問だった。だが、これに対して榎本は首を振った。

「残念ながら、全ての部屋で寝間着が確認されています。その代わり、被害者の部屋にあるはずの寝間着が確認できませんでした」

「……殺害後に現場にあった寝間着と着替えたという事ですか」

「寝間着はどの部屋も同じものですので、入れ替えられていたとしても判別は不可能です」

 さすがにそこまで甘くはないようである。

「だとするなら、寝間着から犯人を特定するのは少し難しいか……。そうなると彼女たちから直接話を聞いて情報を集めるしかないな」

 榊原はブツブツと独り言を呟いていたが、すぐに榎本に向き直った。

「彼女たちに話を聞けますか?」

「全員、今のところはこのホテルで足止めしています。呼び出しますか?」

「いえ、こちらからそれぞれの部屋に行きましょう。部屋の様子を見て何かわかるかもしれません」

 榊原の答えに、榎本は小さく頷いた。

「わかりました。では、一緒に行きましょう」

 その言葉と同時に、榊原と榎本は連れ立って部屋を出ると、エレベーターで三階へと向かった。エレベーターの隅を見ると、ご丁寧にも防犯カメラがセットされている。

「エレベーターの防犯カメラの映像はチェックしたんですか?」

「確認はしましたが、犯行時刻以降にエレベーターを使った人間はいません。ただし、エレベーター横に階段があって、そっちには防犯カメラがありませんので、階段を使えば各階の移動は自由にできます」

 そう言っているうちにエレベーターは三階に到着する。エレベーターを降りるとすぐ前の廊下に客室のドアが左右に等間隔で並んでいるのだが、その中で左手前の三〇二号室は今も捜査員が多数出入りをしていた。ここが被害者・如月鳳鳴の殺された現場である。

「現場を見ますか?」

 その問いかけに、榊原は首を振った。

「ひとまず先に話を聞きましょう。現場はその後に確認します」

 そう言って、榊原たちは右手奥の方にあるドア……三〇九号室の前に立った。ここが一人目の容疑者、牛塚小春の部屋である。榎本がノックすると、ドアの向こうから返事があった。

「はい」

「失礼、警察の者です。何度もすみませんが、もう一度お話を聞かせてもらえませんか?」

「はぁ」

 その言葉と同時にドアが開き、向こうから疲れた表情の女性が姿を見せる。黒い服に身を包んだその女性が、第一の容疑者である英会話教室講師の牛塚小春だった。

「私が知っている事は全部話したつもりなんですけど……」

 小春の言葉に、榎本は頷きながら告げる。

「それは重々承知していますが、改めて確認したい事ができまして。もう少しだけお付き合いできませんか?」

「まぁ構いませんけど……一体いつになったら解放してもらえるんですか? 夜にはここを出たいんですけど」

「努力はします。何にしても、立ち話もなんですので、中に入っても?」

 その問いに対し、小春は少し嫌そうにしながらも渋々と言った風に二人を招き入れる。と、部屋に入る直前、榊原は素早く榎本に小声で耳打ちした。

「質問は榎本警部が主導してください。私は基本的に聞き役に徹します。聞きたい事があったら、その都度口を挟みますので」

「わかりました」

 部屋の中に入ると、中はすっきり片付いていて、荷物もすっかりまとめられている状態だった。そんな中、小春はベッドに腰かけて話を聞くそぶりを見せた。

「それで、話というのは?」

「そうですね……。まず、確認の意味も込めて、あなたがここに宿泊した経緯と被害者との関係についてもう一度話してもらえませんか?」

 榎本の問いかけに、小春はうんざりしたような表情を浮かべて答える。榊原は榎本の後ろで黙ってその様子を観察していた。

「何度も言いますけど、私は全国に教室を置く英会話教室の講師をしていて、この浜松市内にある教室で授業するために昨日からこのホテルに宿泊していたんです。このホテルは今日みたいに浜松での授業があるときによく利用していて、如月さんとはよく一階のレストランやロビーで一緒になったりしました。その縁で、何度か話をした事もあります」

「被害者……如月鳳鳴さんと最後に出会ったのはいつですか?」

 その問いに、小春はさして考えるそぶりも見せずすぐに答えた。

「昨日の夜、一階のレストランの夕食の時に会ったのが最後です。と言っても、すれ違いざまに軽く挨拶しただけですけど」

「あなたがチェックインしたのは何時頃ですか?」

「横浜の教室で授業を終えてから新幹線ですぐにこっちに来たので……六時半頃だったと思います。レストランで食事をしたのはそれから一時間くらいしてからです」

 フロントの記録では、被害者の如月鳳鳴がチェックインをしたのは午後七時頃。時間的に不自然な部分はない。

「食事の後、あなたはどうしましたか?」

「そのまま部屋に戻りました。その時、如月さんとはエレベーターが一緒になって、同じ三階で降りたので一緒の階に泊まっている事を知りました。その後、如月さんの部屋の前で軽く会釈して別れたのが彼を最後に見た瞬間です」

「その後は一度も部屋を出ていない?」

「えぇ。シャワーを浴びて、今日の授業の準備をしてから、午後十一時頃までにはベッドで横になっていました」

「つまり、事件のあった午前三時頃には寝ていたと?」

 だが、この問いに対して小春は曖昧な返事をした。

「……それなんですが、実はその時間、一度起きて電話をしていました」

「電話、ですか? そんな時間に誰と?」

 当然の疑問に、小春は少し躊躇しながらも答えた。

「夫です。外資系の商社に勤めていて、今はロンドンに単身赴任しているんです」

「ロンドン、ですか」

「はい。向こうは日本と九時間の時差があって、夫の仕事が終わるのが現地時間の午後五時半くらい。そして、夫はむこうのアパートメントに帰ってから毎日私に電話をかけてきてくれるんです。時差の関係上、電話がかかってくるのはこちらの時間で午前三時前後になります」

 そう言いながら、小春はポケットから携帯電話を取り出して通話記録を見せた。見てみると、確かにそこには午前三時少し前から数十分の間国際電話をしていたという記録が残っていた。

「何だったら、夫に確認してもらっても構いません。それに、電話料金がかかる事を考慮して基本的に夫側からかけてきますから、その電話がいつかかってくるのか私にも全く予想ができない事になります。その状況で、如月さんの部屋に行って彼を殺害するなんて無理だと思いますけど」

 思わぬ反撃だった。榎本は思わず少し考え込み、質問の切り口を変えてみる。

「では、その電話をしているときに何か変わった事はありませんでしたか? 変な音が聞こえたとか?」

「さぁ、わかりません。電話に集中していましたし、大体、いくら同じ階でも別の部屋の音が聞こえるはずがないじゃないですか」

 小春の答えは取り付く島もないものだった。が、榎本はポーカーフェイスを崩さずに質問を続行する。

「如月さんとはよく会っていたとの事ですが、具体的にはどんな話を?」

「どんなと言われても、たわいもない世間話がほとんどです。向こうは民俗学の先生だとかで、私も知っている言い伝えとか怪異譚とかないかって聞かれた事があります」

「話したんですか?」

「いえ、私はそういう事に興味がないもので。ただ、何か思い出したらいつでも自分の部屋にきて話してほしいとは言われていました」

 その言葉に榎本が反応する。

「いつでも部屋にきていいと言っていたんですか?」

「はい。歓迎すると。多分、他の人にも同じ事を言っていたと思います」

「昨日もですか?」

「さぁ。私はさっきも言ったように昨日は軽く挨拶をしただけですから。他の人の事までは知りませんけど」

 もしかしたら、被害者が犯人を部屋に入れたのはこの事があったからかもしれない。

「一応聞きますが、部屋に行った事は?」

「ありません。さっきも言ったように、そういう話には興味がないので」

「如月さんが殺された理由に心当たりはありますか? あるいは、犯人だと思う人間についての心当たりとか?」

「さぁ。たまに話はしましたけど、あの人の事はほとんど知りませんでしたから」

 と、ここでいつの間にか窓際まで移動していた榊原がこんな問いを発した。

「お聞きしますが、あなた、この部屋に入ってからこの窓に触ったりしましたか?」

 突然聞かれて、小春は眉をひそめる。

「何ですか、いきなり?」

「質問に答えてください」

「……わかりません。カーテンの開け閉めをしたときに触ったかもしれないけど、覚えていませんし」

「つまり、触ったかもしれないけど、窓を開けた事は一度もない?」

「えぇ、まぁ。あの、何なんですか? 窓がどうかしたんですか?」

「いえ、ちょっとした確認です。続きをどうぞ」

 あっさりそう言って榊原は引っ込む。だが、榎本にはこれが榊原お得意の揺さぶりだという事がよくわかっていた。質問のリズムを乱す事で相手の心構えを崩し、思いもしない事を吐き出させるのが目的である。

「では、伏田平子、江成真琴、穀野花美。この三人の名前に心当たりはありますか?」

「……伏田平子さんなら大浴場でたまに出会って話した事があります。あっちも確かこのホテルの常連ですから」

「大浴場、ですか?」

「えぇ、一階にあって、私もたまに行きます。もっとも、昨日は仕事も残っていたので部屋のユニットバスで済ませましたけど」

「他の二人については?」

「……さぁ、名前は聞いた事もありません」

「穀野花美はこのホテルの従業員の名前ですが、それでも心当たりがないと?」

 そこまで聞いて小春はあぁと何かに気付いたような声を上げる。

「もしかしてフロントの女の子ですか? 確かにその子なら知っていますけど、名前は初めて知りました。でも、いくら常連でも、従業員の名前を知らない事なんかよくあると思いますけど」

 そう言われると反論する事はできない。榎本は背後の榊原の方を再度振り返った。

「榊原さん、他に何か?」

 榎本がそう尋ねると、榊原はゆっくり小春の方を見て口を開く。

「では一つだけ。『如月月夜』という名前を聞いた事はありますか?」

 その問いに小春は眉をひそめた。

「如月月夜……さぁ、聞き覚えはありませんけど……如月というからには、如月さんの関係者ですか?」

「娘さんです」

 その答えに、小春は少し驚いたような顔をする。

「如月さんって娘さんがいたんですか。でも、そんな話一度も聞いた事ありませんけど」

「そうですか……。わかりました、以上です」

 そう言って榊原は小春に対する質問を打ち切り、小春は当惑した表情を浮かべながらもホッと息を吐いたのだった。


 二人目の容疑者、エッセイストの伏田平子のいる四一〇号室に訪れると、ドアの向こうからは眼鏡をかけたインテリ風の神経質そうな女性が姿を見せた。彼女……伏田平子はどこか不満げな表情を浮かべながらも一応丁寧に尋ねてくる。

「何でしょうか?」

「警察です。少し、お話を聞かせてもらっても?」

「……忙しいんです。手短にお願いできますか?」

「それは、あなたの答え次第になりますが」

 ハァと大きくため息をつきながらも、平子は二人を室内に招き入れた。テーブルの上にワープロが置かれており、原稿か何かを書いていたところだったらしい。

「お仕事ですか?」

「えぇ。出られないなら、少しでも進めておかないと締め切りに間に合わないので」

 そう言いながら、平子は恨めしそうに榎本を見やる。が、榎本は動じることなく質問を開始した。

「まずは、ここに宿泊をしていた経緯を話して頂けますか?」

「経緯も何も取材です。この辺を取材するときはいつもこのホテルに泊まる事にしているんです。安いし、何より浜松駅に近いから各地への移動がしやすくて」

「エッセイを書いておられるとか?」

「ずっとブログでたわいもない事を書いていたんですけど、幸運にもそれが出版社の目に留まって、数年前からこうして仕事としてやっていけるようになっています」

「それまでは一体どんなお仕事を?」

「……まぁ、色々とアルバイトとか派遣の仕事とかをしていました。正直、あまり話したくないのでこれ以上は聞かないでください」

 平子は淡々と質問に答える。それを聞きながら、榎本は彼女の心理を探るように慎重に質問をぶつけていった。

「被害者の如月さんと面識は?」

「言ったようにこのホテルにはよく泊まっていましたから、ロビーとかで顔を合わせて世間話をした事くらいはありますけど、逆に言えばそれだけです」

「昨日は会いましたか?」

「さぁ。昨日は外で食事をした後、夜の九時くらいにここにチェックインして、そのまま部屋に入ったのでホテルの人以外には特に会っていません」

「では、最後に被害者と話をしたのはいつですか?」

「……二週間くらい前にここに泊まった時にロビーで話をしました。でも、最近の政治や経済の話とか、本当に簡単な世間話だけです」

「怪奇譚については何か?」

「それならよく何かないかと言われていて、旅先で知った話をいくつか話した事はありますけど、でもそれだけです」

「では、被害者の部屋を訪れた事はありますか? 被害者は何か怪異譚があれば自分の部屋にきて話してくれないかと常々言っていたようですが」

「ありません。確かに今までにもあの人はそういう話をしていましたけど、こっちも忙しいし行く意味もないので。それに、昨日に至ってはそもそも出会ってすらいないので、あの人がどの部屋に泊まっていたのかも知りませんでした」

 平子の主張に榎本も言葉を詰まらせる。確かに、食後に本人と部屋の前で別れている小春と違って、それよりも後の午後九時にチェックインした平子が、被害者が今日どの部屋に泊まっているのかを知る機会はなかったはずである。つまり、平子はそもそも標的がどの部屋にいるのかさえ分からなかったという事なのだ。アリバイという壁が存在した小春同様、平子にも標的の部屋がわからないという壁が存在している事になるのである。

 と、ここで言葉を詰まらせた榎本の代わりに榊原が口を挟む。

「午後九時ぐらいにチェックインしていたと言いましたが、それまではどこに?」

「どこって、ですから取材に行って……」

「具体的にどこへ取材に?」

 答え終わる前に榊原が畳みかける。ペースを崩すための一種の戦略だが、平子は不満そうな表情を崩さないまま答えた。

「浜名湖の辺りを散策していました」

「同行者は?」

「いません。私一人です。それが何か?」

「……いえ、単なる確認です。失礼」

 再び話のバトンを榎本に渡す。間髪入れずに榎本が質問を続行した。

「事件が発生した午前三時頃は何をしていましたか?」

「何をと言われても……寝ていました。それが普通ですし」

「では、何か不審な物音等は聞きましたか?」

「いえ、ぐっすりと寝ていたもので。実は私、少し睡眠障害気味で睡眠薬を使っているので、一度眠ってしまうと起きられなくなるんです」

 そう言って平子は睡眠薬の瓶を見せる。なお、今回の事件で被害者の体内からは睡眠薬の痕跡は見つかっておらず、犯行に睡眠薬が使用された可能性は低い。

「つかぬ事を聞きますが、この部屋の窓に触ったりはしませんでしたか?」

「窓、ですか? さぁ……そんな事、いちいち覚えていませんけど……」

「カーテンを開けたり、窓を開けたりと言った事は?」

「……多分、開けてないと思いますけど。あの、何でそんな事を聞くんですか?」

 平子は不満そうに言う。

「ちょっとした確認です。全員に聞いている事なのでお気になさらずに」

「はぁ」

「話は変わりますが、如月さんを殺害する人間に心当たりはありませんか? 彼が殺された理由についてでも構いませんが」

 その問いに、平子は大きく首を振った。

「そもそもそこまでの付き合いがあるわけでもなかったのでわかりかねます。人間関係もあまり知りませんし……」

「それでは牛島小春、江成真琴、穀野花美、これらの名前に聞き覚えは?」

「ええっと……穀野さんはこのホテルの従業員ですよね? 今日も確かチェックインを担当してもらいました。あと、牛島さんはたまに大浴場で一緒になって、何度か世間話をした事もあります。私、ここのレストランはあまり利用しないので、常連の宿泊客と話すのはロビーか大浴場くらいなんです。でも、残りの一人は知らないです。ロビーでも大浴場で会った事もないし……」

 すると、ここで榊原が再度割り込んだ。

「それでは『如月月夜』という名前に心当たりはありませんか?」

 その問いに、平子はキョトンとした表情を浮かべた。

「いえ……あの、誰ですか? 如月さんの関係者ですか?」

「如月さんの娘さんです。知りませんか?」

「娘さん、ですか? いえ、そんな女の子の話なんか聞いた事もありませんけど、彼女がどうかしたんですか?」

「まぁ、ちょっとした確認です。失敬」

「はぁ……」

 平子は当惑気味に首をかしげる。が、間髪入れずに榎本が咳払いをして質問する。

「この後どうするつもりですか?」

「どうするも何も……さっさと原稿を仕上げて次の取材に行くだけです。私、こう見えても忙しいので。もういいですか? これ以上何もないんだったら原稿の続きを書きたいんですけど」

 そう言われてしまっては、これ以上突っ込んだ質問をする事は榎本にはできなかった。


 宿泊客の中で最後の容疑者である江成真琴のいる五〇九号室へ二人が向かう頃には、時刻は午後二時を回ろうとしていた。だが、ドアの前に立った榊原は少し違和感を覚えた。

「これは……」

 なぜかドアの床の隙間につっかえが挟んであって、完全に扉が閉まらないようにしてある。オートロックが勝手にかからないようにという工夫のようだが、階は違うとはいえ同じホテル内で殺人が起こっている現状としてはいささか不用心とも思える話だった。

「理由はすぐにわかります。いきますよ」

 と、榎本が不意にそう言って、そのまま今までと同じくドアをノックをした。すぐに、部屋の中から返事がする。

「はい。どちら様ですか?」

「警察の者です。江成真琴さんですね?」

「そうですが……」

「何度もすみませんが、もう一度お話を聞かせて頂けませんか? 時間はそんなに取りませんので」

「……構いませんけど、これが最後にしてもらいたいです。朝から質問攻めで私も疲れていて……」

「承知しています」

「……どうぞ。鍵は開いていますので勝手に入ってください」

 その言葉に従って、榎本はドアを開けて中に入る。そして、その後に続いた榊原は部屋の奥を見て何か納得したような表情を浮かべた。

 部屋の奥の窓際にいる女性……江成真琴は車椅子に座ってこちらをじっと見つめていたのである。榊原が彼女の姿を見たのを確認して、榎本が小声で捕捉する。

「部下の報告だと、江成真琴は二週間前の昨年末に旅行中のスキーで転倒事故を起こして両足を骨折。現在、車椅子での生活を余儀なくされているそうです。部下が担当医にも確認を取りましたが、彼女の足が動かない事は医学的にも間違いないと断言されたとか」

「つまり、狂言ではなく本物の怪我という事は確実だと?」

「はい。おそらく、彼女についてはこの点が大きな問題になると思います」

 今回ばかりは軽く小声で事前の情報共有を済ませた後、改めて二人は部屋の奥、窓際にいる彼女の前に進んだ。怪我をしているせいかどこかはかない印象を与える彼女は、軽く首をかしげながら問いかけをぶつける。

「……それで、こんな怪我人の私に一体どんなお話ですか?」

「いくつか確認した事がありましてね。まず、恐縮ですがその車椅子についてあなた自身の口から事情を説明してもらえませんか?」

 もう何度も聞かれた事なのか、真琴は深いため息をつきながらも仕方がないと言わんばかりに答えた。

「他の刑事さんにも話しましたけど、去年の年末に友達数人と長野へスキー旅行に行ったときに転倒してコースの外に飛び出してしまったんです。その時に両足を骨折して、医者からは全治二ヶ月と言われました。介護機器メーカーの社員が車椅子のお世話になる事になるなんて、皮肉な話ですよね」

 真琴は自嘲気味に笑う。

「そんなあなたが、どうしてこのホテルに宿泊していたんですか?」

「それが、年が明けて車椅子で会社に出社したら、社長から『怪我をしてしまったのは仕方がない。それよりもせっかくの機会だから、バリアフリー検査を頼まれているいくつかの物件に実地調査に行って、実際に車椅子を使っている人間としての所感をサーチしてほしい』と言われてしまったんです。何というか、自分の会社の社長とはいえ商魂たくましすぎるとは思いますけど、働かずにぼんやりしているのも性に合わなかったので引き受けました。で、社長から手渡されたバリアフリーの実地検査リストの一つに挙がっていたのが、この『ハイエスト浜松』だったというわけです」

「つまり、あなたは仕事でここにきていた?」

「はい。ホテル側からも了解はもらっています。昨日の昼頃に到着して、実際に宿泊もしながら一日かけてチェックを進める手はずでした。こうして最上階の部屋に泊まっているのも、高層階に宿泊しても車椅子の人間が普段通り過ごせるかを確認するためにホテル側に頼み込んで部屋を空けてもらったからです」

 と、ここで榎本は少し厳しい表情を浮かべた。

「待ってください。つまり、あなたがこのホテルに泊まるのは今回が初めてだと?」

「そうなりますね」

「しかし、先にあなたから話を聞いていた部下の報告では、あなたと被害者は以前からの知り合いだったという事ですが?」

「それもその通りです。だから、昨日の夜にレストランで如月さんに出会った時はびっくりしました。嘘はついていません」

「どういう事ですか?」

「どうもこうも、如月先生とはここで会う以前に会った事があるんです。具体的にいうと、如月先生がまだ大学の教授だった時代に、当時大学生だった私は如月先生の講義を受けていたんですから」

 どうやら、前の二人とは事情が違うようである。

「こちらの調べでは、被害者は四年前まで富士市内にある大学で民俗学の教授をしていたという事ですが、あなたもそこの出身なのですか?」

「そうです。『怪異譚から見る民俗学』っていう教養系の講義で、面白そうだと思ったんで大学三年生の頃……今から大体八年くらい前に受講していました。その時に如月先生とは何度か個人的に話をした事もあります。実は私、高校時代はオカルト研究会に所属していて、その縁でいくつか怪異譚を知っていたんです。それを知った先生が私の知っている怪異譚を教えてほしいって言ってきて、研究室に呼ばれて実際にいくつか話をした事もあります。言っておきますけど、別に変な事はなかったですよ。あの先生は怪異譚の事になるとそれ以外の事が目に入らなくなるみたいでしたし、それに娘さんの事をかわいがっていたみたいですから」

 その言葉に榊原が反応した。

「あなたは、如月氏に娘さんがいた事を知っていたんですか?」

「えぇ。研究室に行ったときに写真を見せてもらいました。当時幼稚園くらいだったかな。名前は忘れたけどかわいい女の子でしたよ。お父さんがこんな事になって、あの子これからどうなるんでしょうか」

 どうやら、如月月夜の失踪の事は知らないようである。榊原としては何も言う事はできなかった。頃合いを見て、榎本が再び質問をする。

「では、昨日如月氏と出会ったのはあくまで偶然だと?」

「もちろんです。レストランで食事をしていたら如月先生が入ってくるのが見えて、私から声をかけたんです。先生もびっくりしていました」

「どんな話をしたんですか?」

「簡単な近況報告と、私がこんな姿で先生もびっくりしていたからその説明をしました。先生が大学を辞めたって話はその時に知りました。ただ、相変わらず怪異譚を集めているみたいで、何か新しい怪異譚があったら後で部屋にきて教えてくれないかと言われました」

「つまり、あなたは被害者がどの部屋に宿泊していたのかを知っていた?」

「そうなります。でも、行きませんでした。さすがに夜遅くに車椅子で行くのは迷惑だと思ったし、そもそも話せるような新しい怪異譚のストックもありませんでしたから。それに、私が先生の部屋に行かなかった事は簡単に証明できると思います」

「証明、ですか?」

 真琴は大きく手を広げて自分の車椅子を示した。

「ご覧の通り私は車椅子なしでは動けませんから、他の階に行こうと思ったら階段ではなくエレベーターを使うしかありません。私、ホテルのバリアフリー検査をしていたから気付いたんですが、あのエレベーターには防犯カメラがセットされていますよね。もし私が本当に三階の先生の部屋に行ったんだったら、エレベーター内部のカメラに私の姿が映っているはずです。映っていなかったとしたら、私が三階に行っていないという立派な証拠になるんじゃないですか?」

 なかなかに論理的な反証だった。案の定、彼女が車椅子であるという事が大きな問題として立ちふさがろうとしているようである。榎本は少し苦い表情を浮かべると、別の切り口から質問をぶつけた。

「では、事件のあった本日午前三時頃は寝ていたという事ですか?」

「はい。というより、そんな時間にアリバイがある方がおかしいと思いますけど」

 真由美はさも当然のように頷く。が、榎本はさらに食い下がった。

「それでは、寝ているときに何か変わった事はありませんでしたか? 音でも何でもいいんですが」

「さぁ……。生憎、一度寝るとなかなか起きられませんし、それに気づいてもこの有様なので起き上がるだけでも難しかったと思います」

 真琴は肩をすくめながら答えた。と、ここで榊原が口を出す。

「一つ確認ですが、あなたはこの部屋の窓に触ったりしましたか?」

 この問いに真琴は眉をひそめる。

「どうしてそんな事を?」

「確認です。どうですか?」

「……触りはしました。でも、開けたりはしていません。というか、開けられなかったんです」

 そう言って、真琴は実際に車椅子に座ったまま窓の方に手を伸ばすが、その手は窓の中ほどにある鍵の部分に届かない様子だった。

「正直、この点はバリアフリー検査の項目に引っかかると思います。車椅子の人が一人で窓が開けられないというのは防災的な面でも問題です。そういうわけで、チェックのために窓の下の方は触りましたけど、窓を開けたりする事はできませんでした」

 実際に目の前で実演している以上、彼女の話を納得する他ない。

「あの……もういいですか? 話せる事はもう全部話したと思いますが」

 真琴はあからさまに話を打ち切りたそうなそぶりを見せながら言う。が、榊原はなおもしつこく追い打ちを仕掛けた。

「如月氏を以前から知っているあなただからこそお聞きしますが、この事件の犯人について、もしくは如月氏が殺される動機について何か心当たりはありますか?」

「心当たりと言われても……さっきも言ったように前に先生に会ったのは八年も前の話ですから何とも言いかねます。それに、先生は怪異譚の蒐集以外に興味がなさそうな人というが私の認識です。そんな人を殺す理由なんか、私には思いつけません」

「では、牛塚小春、伏田平子、穀野花美、以上三名の名前を知っていますか?」

「……いいえ、全く知りません。というか、何でそんな人たちの名前が出てきたのかもわからないんですが……」

「三人のうち穀野花美さんはここの従業員です。」

 その言葉に、真琴は不機嫌そうな表情を浮かべた。

「普通に考えて初めて泊まったホテルの従業員の名前をわざわざ確認したりしないと思いますけど」

「しかしあなたは仕事で来ているのだから、担当者から名刺をもらったりしたはずですが」

「確かにもらいましたけど、根本的に私の対応をしてくれたホテルマンは男の人でした。だから、その穀野花美という人とは面識がないと思います」

「そうですか……」

 考え込む榊原と入れ替わりに榎本が問いかける。

「この後、あなたはどうするつもりですか? どこかに行く予定でも?」

 それに対し、真琴は肩をすくめて答えた。

「本来なら今日の午前中に残るチェック項目を仕上げるつもりだったんですけど、状況が状況ですから社長も無茶は言わないでしょう。なので、一刻も早く次のチェック対象物件へ向かいたいと考えています。そう言うわけで、できれば少しでも早くここから解放してもらいたいところなんですけど」

「……」

 少し不満がこもった口調で言われ、榎本は何も言う事ができなかったのだった。


 最後の容疑者でホテル従業員の穀野花美に対する尋問は、一階の従業員控室で行われた。花美は髪をショートにした女性で、二十五歳という若さに似合わずどこか冷めた目をしているのが印象的だった。

「私も暇ではないので手短にお願いします。正直、迷惑です」

 開口一番、花美はそんな言葉を二人にぶつけてきた。こうも真正面から言われればいっそすがすがしい気分になってくるものである。

「では単刀直入に。殺された如月さんについて知っている事を話してもらえますか?」

 榎本の問いに対し、花美は顔色を変える事無く事務的に答えた。

「よく当ホテルをご利用されていたお客様です。私も何度かフロント越しにお話しした事があります。でも所詮はホテルマンと客の関係で、個人的な関係を持ったことは一切ありません」

 と、今回は開始早々すぐに榊原が口を挟む。

「彼がこのホテルに宿泊するようになったのはいつ頃からですか?」

「詳しくは覚えていませんが、二年程前からだったと思います」

「ちなみに、あなたがこのホテルに就職したのはいつですか?」

「三年前、大学卒業後すぐです。正直、就職活動で行きたかった企業にことごとく落ちて生活のためにしかたなく就職した一面があるので、ここだけの話、最近は転職も真剣に考えたりしています」

 いきなりそんな話を暴露され、榊原と榎本は思わず顔を見合わせた。が、すぐに榎本が咳払いをして質問を再開する。

「昨日、あなたは如月さんと会っていますか?」

「はい。午後七時にチェックインをされた時にフロント対応をしたのが私ですから。宿帳に必要事項を書いて頂いて、その後お部屋まで私がご案内しました。ただ、それ以降はお会いしていません」

「食事の時も、ですか?」

「レストランは別のスタッフの担当ですから。食事の時間なら私は事務室で書類仕事をしていました」

 澱む事なくすらすらと彼女は答えていく。

「いいでしょう。ちなみに、この三人がチェックインした時間はわかりますか?」

 そう言って榎本は小春、平子、真琴の三人の名前を示す。それを見ると、花美は特に不審がる様子もなくあっさり答えた。

「牛塚様は午後六時半頃。伏田様は午後九時頃です。お二方とも私がフロント対応をして部屋までご案内したので間違いありません。江成様は記録だと午前十一時頃にチェックインされています」

 その言い方に違和感を覚えたのか榊原が突っ込みを入れた。

「『記録だと』という事は、あなた自身は江成さんのチェックインした時間にいなかったようですが、昨日の何時頃に出勤したんですか?」

「……泊まり込みの夜勤業務の予定でしたから、午後四時頃に出勤しました。本来なら今日の朝九時に退勤して一日休みがもらえるはずだったんですが、事件のせいで台無しになっています」

 花美は遠慮なく言う。榊原が苦笑いする中、榎本は咳払いをして話を軌道に戻した。

「では、事件が発生した午前三時頃の行動を話してください。聞いた話では、あなたはこの時間一人で行動をしていたようですが」

「……午前二時半頃から一時間くらい、二階の二〇四号室にいました」

 花美は端的にそう答えた。

「二〇四号室、ですか?」

「改修中でお客様のご宿泊を停止している部屋です。何と言いますか……半年ほど前にこの部屋でちょっと厄介な事が起こって、改修を余儀なくされたと言った方がいいのかもしれませんが」

 何とも意味深な答え方だった。

「その厄介な事、というのは?」

 榎本の当然の問いかけに、花美は少し顔を固くしながら答える。

「有体に言って……人死にが出た部屋なんです。もちろん、今回と違って殺人ではありませんけど」

 その答えに榊原は思わず榎本を見やるが、榎本は黙って首を振った。どうやら、少なくとも県警捜査一課が認知していない何からしい。

「……人死に、とは穏やかではありませんね。詳しく教えてもらえませんか?」

 榊原の問いに、花美は淡々とした口調のまま答える。

「そんな物騒な話ではなくて、半年前にたまたまここに泊まりに来ていた観光客の男の人が、寝ているときに心臓発作を起こして急死したんです。朝になっても起きてこないので従業員が確認して発覚しました。もちろん警察も呼びましたけど、明らかに病死だったからそれほど大騒ぎにならずに済んでいます」

 確かに、それが本当なら捜査一課に情報が伝わっていないのもやむなしである。とはいえ、不審死案件である以上は近隣の所轄署に記録が残っているはずである。後で確認する必要はあった。

「それで、なぜあなたは昨晩、そんな不審死があった部屋にいたんですか?」

 その質問に対し、花美は深いため息をつきながら答えた。

「それが……事件の後であの部屋に関する変な噂が流れ始めたんです。それこそ如月さんが好きそうなオカルト系の噂ですけど……あの部屋に死んだ男の人の幽霊が出るっていう噂です」

「幽霊、ですか」

 話が急にオカルトじみたものになってきた。

「はい。正直、私自身は胡散臭いと思っているんですが、外を歩いていたら誰もいないはずの部屋に人魂が漂っているのを見たという訴えがあったらしくて、ホテル側としても対処しないといけなくなったんです。幽霊云々じゃなくて、改修工事中のあの部屋は鍵がかけられなくなっていて、治安面でまずいという事になって。だから工事が終わるまでは夜の間、従業員が交代で見張りをする事になったんです。昨日は、私がその担当で、午前二時半から午前三時半までの一時間、二〇四号室で過ごす事になりました」

「その予定は以前から決まっていたものですか?」

「そうです。ローテーションになっていて、昨日が私の担当でした」

「その一時間の間、あなたは部屋で何をしていたのですか?」

 その問いに、花美は表情を変えずに答える。

「さすがに何もしないで一時間も部屋を見張るのは辛いので、読みかけの文庫本を何冊か持ち込んで部屋の中で読んでいました。支配人も問題ないと言って認めている事です」

「では、犯行時間に現場に行かなかった事を証明する事はできないという事ですか?」

 榎本の言葉に、花美は一瞬眉をひそめたが、すぐにこう反論してきた。

「それを証明するのは本来あなた方警察の仕事だと思いますけど……私が犯人ではありえないという証明ができない事はありません」

「ほう、どういう意味ですか?」

 榊原がお手並み拝見と言わんばかりに聞くと、花美は淡々とした口調のまま反論する。

「先程他の刑事さんから聞いた話だと、如月さんは刃物で刺されて殺されていたという事ですが、当然そうなると必ず返り血が発生する事になります。ですが、ご覧の通り私はこのホテルの従業員の制服を着ているんです。着替えはありませんから、もし私が犯人ならこの従業員の服から返り血が検出されるはずです。誓ってもいいですが、私のこの服に返り血は絶対に付着していません。これが私が犯人ではないという証拠になると思いますけど」

 その答えに榊原と榎本は厳しい表情で顔を見合わせた。他の容疑者にも言える事だが、彼女たちに返り血のついた寝間着がコンビニのトラックの上から見つかった事は話していない。なので、彼女が犯人でないとするならその事を知らずにこのような反論をするのも無理はないのだが、犯人が返り血を防ぐために部屋備え付けの浴衣を着ていた事はすでに証明がなされた事実であり、すなわち宿泊客三人については返り血が衣服についていない事は犯人でない証明にはならないのである。

 だが実の所、花美についてはこの反論が通用してしまうかもしれない事を榊原は一瞬にして悟っていた。というのも、寝間着で返り血を防ぐというこの手法は、冷静に考えてみればその寝間着を着ていても不自然ではない人間……すなわち宿泊客しか通用しない手法だからである。逆に言えば、従業員の花美が仕事中に寝間着を着て職場であるホテル内をうろついている事は明らかに不自然であり、そんな人間が部屋を訪れたとして、被害者がその不審な従業員を部屋に入れるのはおかしいという問題点が発生してしまうのである。つまり、「返り血対策のために寝間着を着て、犯行後にトラックの上に投げ捨てた」……言い換えるのなら「犯行に寝間着が使われた」という事実そのものが、逆に花美の無実を証明してしまっているのである。

 ちなみに、被害者が花美を従業員だと知らなかったから部屋に入れたという推論はここでは成立しない。なぜなら如月鳳鳴はこのホテルの常連客である上に、今日に限っても被害者のチェックインを担当して部屋まで案内したのは花美自身であり、それゆえに彼女が従業員である事を知らないとは考えにくいからだ。

「最後に一つ。二〇四号室に幽霊が出たという噂が流れたという事ですが、その話を怪異譚の蒐集をしていた被害者に話したりはしなかったのですか?」

 榊原のその問いに対し、花美はあっさりとこう返した。

「もちろん言いました。本人もそれなりに興味を持っていたようですけど、私には関係ない話ですし、これ以上話せることは何もありません。正直、また事故物件の部屋ができてしまって迷惑に思っています」

 最後の一言を言った後、花美は深いため息をついたのだった。


 榊原たちが容疑者四人の話を聞いて前線本部の置かれているイベントホールに戻った時には、時刻はすでに午後三時半を回ろうとしていたところだった。

「あ、警部。お疲れ様です!」

 所轄署の刑事の一人がそう言って前に出てくる。

「何か進展はあったか?」

「はい。被害者の昨日の動きについて一通りの聞き込みが終わりました」

 現場で発見された手帳の内容を参考に、所轄署の刑事たちが聞き込みに廻っていたのである。

「確か、手帳には『雨郷家での聞き取り調査』と書かれていたはずだな」

「はい。調べたところ浜松市内に確かに雨郷家という家が存在し、昨日被害者が怪奇譚の聞き取り調査に来たことを認めました。聞き込みを進めた結果、雨郷家を辞去した後も周囲の家を何件か回って怪奇譚の蒐集をしていたという事がわかっています」

「雨郷家というのはどういう家なんだ?」

「かなり古い家系の家で、その地域の顔役と言った風です。当主は長年国鉄に勤務していたらしく、国鉄の民営化がなされたのと同時期に引退。今は地区の自治会長をしているそうです。ただ、被害者との面会の時に何か変わった事はなかったかと聞いたんですが、そんなものはなかったというだけでして。聞き込みをしていた刑事の所感では、嘘をついているようには見えなかったと」

「ふむ……」

 と、ここで榊原が口を挟む。

「参考までに、具体的に彼らは被害者に対してどんな怪異譚を話したんですか?」

「どんなと言われても……雨郷家に伝わるいわくつきの古い人形の話や、後部座席に乗せたはずの女性が水を残して消えたという経験をしたタクシー運転手の話や、以前この辺で起こった自殺事件の被害者の幽霊の話と言ったところです。正直、ありきたりな話が多いですね」

「なるほど」

 と、ここで榎本が榊原に問いかけた。

「それで、実際に容疑者四人の話を聞いてみてどうでしたか?」

「……ひとまず、四人のうち誰を追い詰めるにしても、それぞれに別々の『壁』が発生する事はわかりました」

 榊原はそんな答えを返す。

「『壁』ですか」

「えぇ。牛島小春には夫と電話をしていたというアリバイ。伏田平子には被害者の宿泊する部屋を知らなかったという事情。江成真琴には車椅子に乗った状態で違う階に移動しなければならないという制約。穀野花美には返り血を防ぐための寝間着を着て被害者の部屋に入る事ができないという事実です」

「どれを選んでも一筋縄ではいかなそうな謎ばかりですね」

 ひとまず、検証前にいくつか情報を整理しておく。

「まず、牛島小春のアリバイについてはロンドンにいる夫に確認が取れているんですか?」

「はい。牛島小春の話を聞いて部屋から出た直後に部下に指示を出しておきましたが、ロンドンの旦那は間違いなく現地時間夕方六時頃に彼女に電話をかけた事を認めました。彼女の通話記録もそれを証明しています」

「二人が共犯で、協力してアリバイを偽造している可能性はありますか?」

 間髪入れずに榊原が尋ね返すが、榎本は首を振った。

「ないとは言いませんが、ロンドンにいる夫を共犯に巻き込んでアリバイを偽造したというのはさすがに無茶が過ぎるようにも思います。そもそもこの夫は外資系企業のロンドン支局に単身赴任できるほどのエリートで、そんな彼がいくら妻の頼みでも自分の人生を台無しにしてまで殺人のアリバイ工作に協力するというのは考えづらいです」

「……では、次に伏田平子の件についてですが、彼女が事前に携帯電話か何かで被害者と連絡を取って、被害者の部屋番号を入手していた可能性はありますか?」

 確かに、被害者本人が携帯電話なりであらかじめ知らせていれば、部屋番号を知らなかったから犯人ではないという平子の主張は崩れ去る。が、これに対して榎本は再び首を振った。

「被害者の携帯電話についてはすでに鑑識が解析していますが、ホテルにチェックインした午後七時以降、通話・メールを含めて被害者が携帯電話を使用した形跡は確認できないそうです。つまり、電話やメールで部屋番号を知ったという推理は成り立ちません」

「携帯ではなくホテルの室内電話を使った可能性はありますか?」

「そっちも調べましたが、結論から言えば否です。このホテルは室内電話を利用すると事務室のパソコンに記録が残るシステムになっているんですが、その記録によれば、被害者がチェックインして以降、現場の部屋の室内電話が使用された形跡はないとの事です」

 つまり、これで電話などを使って被害者が犯人に部屋番号を知らせた可能性は完全に否定されてしまうのである。なお、言うまでもないが如月がチェックインするまでは本人もどの部屋になるかわからないので、午後七時以前にホテルに入るまでに外で直接教えたという可能性もまず考えられない。

「伏田平子が犯人だとすれば、どうやって被害者の部屋番号を知る事ができるかが鍵となります。正直、見当もつきませんが」

「……では、江成真琴の車椅子の問題についてはどうでしょうか。彼女の怪我が本物であるという事については医者の証言があるから間違いないようですが、問題のエレベーターの防犯カメラについてはどうなのですか?」

 榊原の問いに、榎本ははっきりと答えた。

「被害者が部屋に戻ってから遺体が発見されるまで、現場の三階でエレベーターを乗り降りした人間は誰一人確認できません。そして、江成真琴は午後八時頃にレストランでの食事が終了して五階に戻って以降、一度もエレベーターを使っていません」

「他の二人のエレベーターの利用については?」

「似たり寄ったりです。牛塚小春は午後八時前後に被害者と一緒に三階で降りて以降エレベーターを使っていません。また、午後九時にチェックインした伏田平子はその時間に四階の部屋に行くためにエレベーターで使ったのが唯一の記録で、しかもその時には案内のために穀野花美がエレベーターに同乗しています。もっとも、この二人は被害者と同じ階だったり非常階段を使えたりしますので、仮に犯人だとしてもエレベーターを使う必要はないわけですが」

「となれば、問題は江成真琴が車椅子で非常階段を五階から三階へ移動できるか、という事ですね。この点についてはどうですか?」

 その問いに榎本は首を振った。

「正直、難しいと思います。かなり急な階段ですし、ここを車椅子で上り下りするのは不可能と断言してもいいくらいです。もちろん、車椅子を五階に置きっぱなしにして時間をかけて上り下りする手段もないとは言いませんが、移動中にその不自然な行動を階段を利用する誰に見つかるかもしれませんし、見つからなかったとしても今度は車椅子なしで被害者を刺し殺す必要に迫られるわけで……」

「……両足を怪我している人間が車椅子なしで被害者を刺し殺すのは無理がありますね」

 榊原が重々しく言い、榎本は話を続けた。

「最後に従業員の穀野花美ですが、事件当時は二〇四号室の見張りをしていたという事情からアリバイはなく、被害者のチェックインを担当した張本人という事で部屋の場所は当然把握している事からこれらの障害は問題ないという事になります。問題になるのは、従業員の彼女では客用の寝間着を着て被害者の部屋に入る事ができないという事実です。どう考えても被害者に怪しまれてしまいますからね」

「しかし、彼女が犯人ならマスターキーを使って勝手に入る事ができますが……」

 榊原は早速そんな推測をしたが、すぐに首を振って自分でその説を否定した。

「いえ、マスターキーを持っていてもその場合なら被害者はチェーンロックをかけているはずですね。鍵を開ける事はできても、外からチェーンロックを開けるのは不可能です」

「念のために言っておけば、チェーンロックに細工がなされたような痕跡はありませんでした。もちろん、被害者がチェーンロックをし忘れていた可能性はありますが、仮にそうだとしても遺体の状況から被害者はベッドの近くに立っていたところを後ろから刺されたと思われます。つまり、殺害されていた当時被害者は起きていて、なおかつ犯人に背中を見せていたという事になります。マスターキーで勝手に入って来た寝間着姿の従業員相手にそんな無防備な姿を見せるとは私には思えないんですが」

 榎本の言葉は妥当なものだった。榊原もそれに同意する。

「同感ですね。しかし、そうなると寝間着姿の従業員を被害者がなぜ室内に入れたのかという問題が復活します。もちろん、彼女が犯人だった場合、ですが」

「これもまた難しい問題です」

「念のために聞きますが、例の寝間着は間違いなく犯行に使われたものなのですか?」

 榊原の確認に榎本は頷いた。

「寝間着から検出された飛沫血痕は明らかに正面からの返り血を浴びた際にできるもので、偽造されたものではありえません。犯行当時、犯人があの寝間着を着ていたのは確実です」

「なるほど……ちなみに、問題の二〇四号室の件について何かわかりましたか?」

 その問いには、再び所轄の刑事が答えた。

「うちの署の記録を調べてみたところ、確かに昨年の九月頃にこのホテルの二〇四号室で変死事案がありました。ただし、公式記録はあくまで心不全による病死で事件性はありません。不審死の上に遺族の要望もあったので解剖に回しましたが、その解剖でも殺害の痕跡は見つかりませんでした。被害者の名前は北田範道きただのりみちという当時七十五歳の老人で、心臓に持病もあった事から心不全による病死もおかしくないという判断です」

 確かに聞いている限り事件性は全くなさそうである。むしろ恨みがない分、噂のように幽霊として出てくる方がおかしい死に様だった。

「ただ……事件自体にあまり気になる事はないんですが、一つ気になる事が。北田氏が死んだ前日の夜、一階レストランでの夕食の際に北田氏が今回の被害者の如月鳳鳴と何か話していたという目撃証言があったそうなんです」

 その言葉に、榎本の表情が険しくなった。

「待ってくれ。つまり、北田氏が死んだ当日、被害者もこのホテルに宿泊していたという事か?」

「そのようです。ちなみに、駆けつけた警官も一応如月氏から話を聞いたらしいですが、如月氏曰く『北田氏の知っている怪異譚を聞いていた』との事だったそうで、実際にその時の話をまとめた取材ノートを見せられたそうです。特に不審な点はなかったのでそれ以上突っ込まなかったようですが」

 もちろん、単なる偶然かもしれない。とはいえ、少し気になる話だった。

「ちなみに、北田氏の死んだ当日、他の容疑者四人はこのホテルにいましたか?」

「従業員の穀野花美は当然いましたが、他の三人は誰一人宿泊していませんでした」

「では、『部屋に人魂が出た』とかいう怪異があった日は?」

 その問いに、榎本は記録を見ながら答える。

「そうですね……。牛塚小春と伏田平子の双方が宿泊していますし、穀野花美も宿直の担当になっています」

「ついでにもう一つ。現場となった三〇二号室ですが、容疑者たちが今まであの部屋で宿泊した事はありますか?」

 思わぬ問いに榎本は困惑しながらもさらに記録を調べる。

「ええっと……ここに今日初めて宿泊した江成真琴は別として、あとの二人は牛塚小春が八ヶ月前と三ヶ月前の二回、伏田平子は半年前に一回、三〇二号室を利用しています。もちろん、この時は何も変わった事はなかったようですが」

「被害者自身は?」

「今回を別とすると、九ヶ月前にあの部屋に宿泊していますね。どの部屋になるかは宿泊するごとに完全にランダムなので、ある意味当然ではありますが」

「そうですか……」

 そこまで聞いて榊原は考え込んだ。それに対し、榎本は少しためらった後、こんな問いを榊原にぶつけた。

「榊原さん、あなたの意見を聞いてもいいですか?」

「……どういう意味ですか?」

「先程の容疑者四人に対する尋問。些細な事でも結構です。何か境原さんの琴線に触れるような事はありましたか? 有体に言って、犯人の誰なのかという目星をつける事はできなかったのですか?」

「……」

「榊原さんなら、それができてもおかしくないと、私は思っているわけなんですがね」

 一瞬、部屋の中が静まり返った。榊原は少しの間黙り込んでいたが、やがてこの男にしては珍しい事に少し慎重かつ歯切れの悪い口調でこう答えた。

「……最初に言っておきますが、証拠は全くありません。従って、現段階で本人に対して直接追求できるような状況ではない事は理解してもらいたい。また、先程列挙したそれぞれの容疑者に付きまとう犯行を不可能にする『壁』については、未だに解決の糸口さえ見えていない状況です。ただ、先程の尋問の中で、一人だけ違和感を覚える発言をした人間がいます」

「それは……一体誰なんですか?」

「……その人物は……」

 直後、榊原は現段階で怪しいと考える『その女の名前』と、彼女が怪しいと判断する『理由』を重々しい口調で口にした。その答えに、榎本をはじめとするその場の刑事たちの表情が緊張に包まれる。

「彼女が……」

「ただし、言った通りこれはあくまで証言が少し矛盾していただけで決定的な証拠になりません。今この状況で追及を仕掛けても『言い間違い』で通されたら反論する事ができないんです。何より、問題の『壁』を解決する手段が見えていないのが痛い。とにかくこの事件、犯人を追い詰めるための証拠がなさすぎるの一言に尽きます」

「……証拠を見つける事は可能ですか?」

 榎本の問いに、榊原は静かに告げた。

「私が関与している以上、時間さえあれば必ず見つけます。問題は、容疑者たちを引き留められるタイムリミットがあまりに短すぎるという事です。榎本警部、正直に言ってもらいたいのですが、容疑者たちを引き留められる限界はあとどれくらいですか?」

 その問いに、榎本はためらいつつも苦しそうな表情で応えた。

「すでに宿泊客の何人かが弁護士などに連絡をしていて、弁護士側から県警上層部に抗議が行われているそうです。こちらもできるだけ粘りましたが……現状、午後六時頃までが限界というのが上の判断です」

 現在時刻は午後四時少し前。容疑者の解放まであと二時間弱。犯人が使用したトリックにもよるが、証拠を探し、なおかつそれで裁判所を説得して逮捕令状を請求するにはあまりにも時間がなさすぎる。さすがの榊原もこの状況には歯噛みする他なかった。

「……とにかく時間がありません。やれるだけの事はやってみますが……」

 その先は、榊原をもってしても断言をする事ができなかったのだった。

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