第二章 如月事件~発生
その事件が起こったのは、今から四年前……二〇〇四年一月八日の早朝の事だった。静岡県浜松市内にある五階建ての中堅ビジネスホテル「ハイエスト浜松」から、宿泊している客が客室内で死亡しているという通報が静岡県警に入った。駆けつけた所轄の警官が現場を確認したところ室内には血みどろになった男性の遺体が転がっており、明らかに殺人だと判断した警官たちは県警本部に連絡。すぐさま県警刑事部捜査一課の面々が現場に駆け付け、現場となったホテルは騒然とした雰囲気に包まれた。
静岡県警刑事部捜査一課係長の
「ご苦労様です!」
先着していた最寄りの浜松警察署の初動捜査班の刑事が出迎え、榎本は事件の状況を確認する。
「状況は?」
「ご覧の通りです」
部屋の中を見ると、ベッドの上に寝巻を着た髭面の男がうつぶせに倒れており、その背中に一本のナイフが突き立てられて、ベッドが血の色に染まっていた。自分で自分の背中にナイフを突き立てられるわけもなく、明らかに殺人である。
「フロントには朝七時に出発すると言っていたのに姿を見せなかった事からホテル側が不審に思い、内線にも出なかった事から鍵を開けてみたところこの有様だったそうです」
「被害者はこの部屋の客か?」
「はい。宿帳に書かれた名前は如月鳳鳴。室内にあった財布の中に運転免許証があって、それによると本名は
「財布があるという事は、物取りの線は薄いか」
榎本はジッと遺体を観察しながらコメントする。と、傍らで検視をしていた検視官が所見を述べた。
「一通り見てみたが、死因は背後からナイフで刺された事による出血死でほぼ即死。それ以外に外傷は見られない。軽く見た限りだと、死後六時間程度と言ったところだな。詳しくは解剖待ちだが、ほぼ間違いないだろう」
「という事は、死亡推定時刻は今から六時間前の午前三時頃か」
続いて、榎本は入口のドアの方に注目した。
「このドアはオートロックか?」
「はい。チェーンロックはかかっていませんでしたので、犯行後にそのまま部屋を出れば鍵がなくとも部屋を密室にする事は可能です」
「つまり、入りさえすれば脱出する事は難しくないわけか。ひとまず、密室殺人の謎を解くというわけではなさそうで何よりだな」
ただ、そうなると犯人がどうやってこの部屋に侵入したのかが問題になる。被害者は背後から一突きされて即死している事から、外で刺された被害者が部屋の中に逃げ込んだ可能性は限りなく低い。となれば、可能性として考えられるのは、犯人側が合鍵なりを持っていた可能性と、被害者自身が犯人を自ら部屋に招き入れた可能性の二択である。
「殺害の状況としては、ベッドの前に立っていた被害者の背後から犯人が不意打ち的にナイフを刺した、もしくは最初からベッドの上にうつぶせに寝ころんでいた被害者の背中にナイフを突き刺した、のいずれかと考えるのが妥当だな。どちらにせよ、被害者は犯人に対して背中を見せている。背後にいる事に気付いていなかったか、あるいはそれだけ信用できる相手だったのか……」
と、ここで被害者の荷物を調べていた捜査員が声を上げた。
「警部、気になるものが見つかりました」
そう言って荷物の中から取り出したのは一冊の手帳である。榎本が受け取って中を確認してみると、いくつもの予定がびっしりと書き込まれていた。
「何々……『井尻家での聞き取り取材』『鎌倉市で講演会』『南中部大学での講演会』『勝沼家での聞き取り取材』……。取材やら講演会やらが多いが、被害者は一体何者なんだ?」
「どうやら、フリーの民俗学者だったみたいです」
調べていた刑事が手帳の最初のページを示す。そこに、被害者本人の名刺が一枚挟んであった。
『民俗学研究家 如月鳳鳴』
シンプルなデザインで職業と氏名、それに連絡先が書かれている。実際に荷物の中身も、取材用のノートや書きかけの手書き原稿などが大半であった。内容を確認してみると、どうやら各地に伝わる伝承や言い伝え、都市伝説などを調べては研究対象にしていたらしい。
「事件に関係ありそうなものはあるか?」
「待ってください……。手帳に一枚写真が挟んでありますね」
刑事が手帳のあるページを開ける。そこには、確かに一枚写真が挟んであって、二人の人物が写っていた。一人は今この部屋の中でこと切れている如月鳳鳴その人で、今に比べるとまだきっちりとした身だしなみで穏やかな表情を浮かべて写りこんでいる。そんな鳳鳴のすぐ横にもう一人、見た目十歳くらいの浴衣姿のおかっぱの少女が笑顔で写っていた。
「娘ですかね」
「わからんが、調べてみる必要はあるな」
そう言いながら、榎本は手帳で被害者のここ数日の予定を確認する。と、そこで榎本の視線がある一ヶ所で止まった。
「……被害者は三日前に誰かと会ったようだ」
榎本が三日前の欄を見ながら呟く。そこには『13:00~ 名古屋でSと待ち合わせ』と書かれており、その下に相手方の連絡先と思しき電話番号が記されていた。後にも先にも、被害者が誰か特定個人と待ち合わせをしているのはこの一回きりである。
「気になりますか?」
「まぁね。ひとまず、後でこの番号にはかけてみる事として、問題は昨日から今日にかけての予定だ」
見てみると、今日……すなわち一月八日の欄には『浜松市民センターにて講演会』の文字が躍っていた。後で確認する必要はあるが、どうやら講演会に出るためにこのホテルに宿泊していたようであり、それ自体に何か不自然な臭いは感じない。
一方、昨日、すなわち一月七日の予定には『浜松市 雨郷家での聞き取り調査』の文字が躍っている。どうやら昨日はこの家を訪問し、そこからこのホテルに足を運んだ様子である。
「どうやら、そっちの原稿やらメモやらを確認して雨郷家とやらがどこなのかを特定する必要があるな。それはそれとして……」
そう呟くと、榎本はポケットから携帯電話を取り出した。
「さっきの番号にかけますか?」
「あぁ」
榎本は短くそう答えると、先程手帳に書かれていた番号を押してみる。出るかどうかは正直五分五分だと思っていたのだが、コール数回で意外にもすんなり相手は出た。
だが、その電話口で相手が名乗った名前を聞いて、今まで冷静に事を進めていた榎本は思わず携帯を取り落としそうになった。
『はい、榊原探偵事務所』
それは、榎本がよく知る人物だったからである。
「さ、榊原さん……ですか?」
『そうですが、あなたは?』
「失礼しました。静岡県警の榎本です。覚えていませんか?」
その言葉に、電話口の向こう……すなわち私立探偵・榊原恵一も少し驚いたような声を出した。
『榎本……榎本警部ですか! 久しぶりです。何年か前に一緒に捜査したのが最後ですか』
榊原の言うように、榎本にとって榊原は彼が刑事だった時代からの付き合いで、彼が探偵になってからも何度か捜査協力を依頼した事がある仲である。それだけに、まさか被害者と榊原がつながっているなどとは想像もしていなかった。
「驚きましたよ……まさか、あなたが出るなんて」
『……それは、どういう事ですか? 私に何か依頼があってこの電話にかけたというわけではないんですか?』
榎本が思わず呟いた言葉に、早速榊原が反応する。こういう頭の回転が速いところは相変わらずだと榎本は感心しながらも本題に入った。
「その前に確認したい事があります。榊原さんは、今から三日前に誰かに会っていませんか? 具体的には名古屋で、ですが」
『三日前……確かにその日、名古屋に出張してある人物から依頼を受けました。しかし、なぜそれを榎本警部が?』
「その依頼人、名前は如月鳳鳴というのでは?」
その問いに、榊原の声も一気に真剣なものになる。
『……彼に何かあったんですか?』
「有体に言えばそうなります。本日早朝、浜松市のホテルで如月鳳鳴の他殺体が発見されました。私は今、その現場から彼の手帳に残されていた電話番号にかけたんです」
『……』
「榊原さん、如月氏とはどのような関係なんですか? 状況によっては、我々はあなたに話を聞かなければなりませんが」
その問いに、榊原は一瞬黙り込んだ。だが、続けて放たれた言葉に、榎本は本日二度目の驚きを味わう事になった。
『さっきも言ったように依頼人です。ただ……同時に友人でもありましたが』
「友人、ですか?」
『えぇ。如月鳳鳴こと本名・如月勝義は、大学時代の私の先輩です。三日前、その縁で彼からある依頼を受け、その件について調査を進めていたところでした』
そう言ってから、榊原は完全に真剣になった声でこう告げた。
『私も今からそっちに向かいます。詳しい話はそちらでという事で構いませんか?』
「来るんですか?」
『えぇ。今から準備をして品川駅へ行きますので、到着は二時間後くらいになると思いますが』
「どうするつもりですか?」
榎本の問いに榊原ははっきりと宣告する。
『身勝手な話で申し訳ありませんが、県警の捜査に協力させて頂きます。構いませんか?』
「それは……榊原さんが協力してくれるというのならこちらはありがたい話ですが、しかし、なぜ?」
『……依頼人が殺されたというなら、それは今回の依頼に関係がある事かもしれない。一度依頼を受けた身として、調べる必要があると考えます。私は一度受けた依頼を、途中で放棄するような事は絶対にしません。それだけです』
その言葉を最後に電話が切れる。榎本はゆっくり携帯を下ろしながら、少し緊張した様子で呟いた。
「予想外の事態になったな。まさかここで、あの人が介入してくるとは……。この事件、一気に先が読めなくなったぞ」
私立探偵・榊原恵一が浜松駅のコンコースに姿を見せたのは、それから二時間ほどが経過した午前十一時過ぎの事だった。あらかじめ連絡を受けて迎えに来た榎本は、駅の入口から姿を見せたくたびれたスーツに黒のアタッシュケースの男の姿を見て、大きく手を振った。向こうもそれに気づき、榎本の所へ近づいてくる。
「どうも」
「お久しぶりです」
挨拶もそこそこに二人は車に乗り込んで出発する。その車中で、事件についての情報交換が行われる事になった。
「ひとまず上と相談して、榊原さんが捜査に介入する事については許可が出ました。いつも通り、非公式のアドバイザーという形です」
「恩に着ます」
「その代り、こちらの質問にも答えてもらいたい。被害者……如月鳳鳴と榊原さんの関係とはどのようなものなのですか? 先程の話では、何か依頼を受けたという事ですが」
その問いに対し、榊原は淡々とした口調で答えた。
「三日前……つまり一月五日に名古屋で会う約束をしましてね。連絡があったのはその前日の一月四日です。事務所に電話があって、明日名古屋で会えないかという話でした」
「榊原さんの先輩、という事だそうですが」
榊原は小さく頷く。
「東城大学法学部で一年の時だけ所属していたミステリー研究会の先輩でした。もっとも、私も彼もあまりサークル活動に熱心な方ではなかった上に、一年後には彼は卒業して私もサークルを辞めた事からあまり付き合いはなかったんですが、向こうはこっちの事を知っていたようです。全くの他人というわけでもないので、一応話だけは聞いてみようと名古屋まで足を運んだわけですが」
「会ったんですね?」
「えぇ。名古屋駅近くの喫茶店で。向こうは私が探偵をしている事を知っていて、その上で私にある依頼をしてきました」
「その依頼内容について話してもらえませんか? 本人が殺害されている以上、事件解決のために我々もそれを知る必要があります」
榊原は少し黙り込んだが、やがてポケットから一枚の写真を取り出して榎本に見せる。チラリと確認すると、それは被害者の手帳に挟まっていたあの幼い女の子とのツーショット写真だった。
「この写真は……」
「榎本警部も見た事が?」
「えぇ。現場から発見された被害者の手帳に挟んでありました」
「それなら話は早い。これは三日前に会った時に如月先輩からもらった写真です。依頼内容は、ここに写っている女の子の行方の調査、という事でした」
「この女の子と被害者との関係は?」
「名前は
ただし、と榊原は言い添える。
「義理の、という言葉がつくようですが」
「血のつながった親子ではない、と?」
「えぇ。如月先輩曰く、彼女は捨て子だそうです」
その言葉に榎本はギョッとする。
「いわゆる『ロッカー児童』という奴です。今から十三年前、浜松駅と隣接する遠州鉄道新浜松駅のコインロッカーから餓死寸前の乳児が発見されましてね。幸い、発見が早かった事から一命はとりとめたんですが結局親がわからず、そのまま孤児院に送られたんだそうです。その女の子が月夜ちゃんでしてね。そして、そんな彼女を養子としてもらい受けたのが如月先輩でした」
「如月氏に奥さんは?」
「いたそうですが、結婚してすぐに病気で亡くなったそうです。子供もいなくて孤独を感じていた時に養子の話を聞いて、彼女をもらい受けたんだとか。それだけに目に入れても痛くないかわいがりぶりだったらしいです」
榊原はいったん言葉を切る。
「……さっきの話だと、被害者の榊原さんへの依頼はその月夜という女の子の捜索、という事だったようですね」
「えぇ」
「つまり、彼女は現在失踪している?」
榊原は頷いた。
「今から三年前の二〇〇一年の夏、当時十歳だった彼女は地元で開催されていた夏祭りに浴衣姿で出かけ……そしてそのまま帰って来なかったんだそうです。地元の警察も行方を追っていたんだそうですが、今に至るまでその消息はわかっていません」
「地元、というのは?」
「富士市だそうです。当時、彼は富士市にある大学で民俗学の教授をしていて、大学近くのアパートに住んでいたんです。もっとも、彼女が失踪してしばらくして大学を退職してアパートも引き払い、フリーの民俗学者として働き始めたようですが……依頼の時の様子だと、彼は今でも彼女の行方を捜し続けていたようですね」
そう言いながら、榊原はもう一つ鞄の中から何かを取り出して榎本に示した。それは、どこかの神社の小さなお守りに見えるものだった。
「それは?」
「依頼の際に如月先輩から写真と一緒にもらったものです。調査の手掛かりにしてほしいと。失踪前の初詣の時に近所の神社で買ったもので、中に彼女の髪の毛が入っているそうです」
その言葉だけで、榎本にはピンとくるものがあった。
「髪の毛……という事は、DNA鑑定ができますね」
「多分、それが目的でずっと持っていたんでしょう。捜索を依頼するにあたって、身元を確認する際に使ってほしいというのが彼の言でした」
「……そして、その三日後に何者かに殺害された、か。何とも臭い話です」
榎本の言葉に、榊原も同意した。
「同感です。さて、今度はこちらが聞く番ですが、事件の捜査の方はどうなっているんですか? 犯人の目星は?」
その問いに対し、榎本は丁寧に答えた。
「調査の結果、現場となったホテルの正面玄関及び従業員用の裏口に設置された防犯カメラに、犯行時刻以降出入りする人間は確認できませんでした。非常階段も使われた形跡はなく、犯行後に犯人がホテルから脱出したとは考えにくい状況です」
「つまり……犯人はホテルの客、もしくは従業員」
榊原の指摘に、榎本は肯定の頷きを返した。
「事件当夜、ホテルに宿泊していた人間は全部で十八名。また、当日夜間勤務だったホテルの従業員は四名。現在、全員のアリバイを確認して何とか人数を減らせないか検証をしているところです。また、被害者が自室内で背後から刺されて殺害されている事から、おそらく被害者と犯人は顔見知りかつ被害者が背中を見せても問題ないような間柄と推定されます」
「そうなると、容疑者はある程度絞れそうですね」
榊原は思案気に言う。
「現状、関係者全員をホテルに足止めして事情聴取をしているところです。我々も現場のホテルに向かっています。さすがに遺体はもう解剖に回しましたが……」
「当然でしょうね。それに、その状況なら容疑者を足止めできるのはせいぜい今日一日が限度でしょう」
「はい。つまり、今日中にある程度犯人の目星をつけなければならないという事です」
時刻はすでに正午まで一時間と言った具合である。タイムリミットはそう長くない。
「しかし、疑問の残る犯人ですね。入口に防犯カメラがある以上、ホテル内で殺人をやれば容疑者が絞られてしまう事は犯人にもわかっていたはずです。にもかかわらず、なぜホテルで殺人を行ったんでしょうか」
榊原はふとそんな疑問を呈する。
「確かに……それも大きな問題ですね。考えられる事としては、何か犯人側に事情があったというところでしょうが、その事情が我々にはわかりません」
「逆に言えば、その事情さえわかれば犯人にたどり着く事ができるかもしれない、という事ですが」
そうこうするうちに、二人の乗った車は現場のホテル「ハイエスト浜松」に到着した。車を降りて、ひとまずの前線本部が置かれているホテル一階のイベントホールに足を踏み入れると、所轄の刑事が榎本に駆け寄ってきた。
「あ、警部。一通り関係者の話は聞き終えました」
「ご苦労。それで結果は?」
「何しろ死亡推定時刻が午前三時頃ですから、寝ていたという人が大半です。まぁ、無理もない話ですが……」
「被害者の事を知っている人間はどのくらいいた?」
いない、といわれるかと思ったのだが、所轄の刑事の答えは意外なものだった。
「それが、十人以上が被害者の事を知っていました。どうやら、被害者は日頃からよくこのホテルを利用していたらしく、同じくこのホテルを日常的に使っている客とは顔なじみだったようなんです」
「そう来たか。何とも厄介な話だ」
榎本は渋面を作る。と、ここで隣にいた榊原がこんな問いを発した。
「榎本警部にさっき聞きましたが、犯人がこのホテルから出ていないのは間違いないのですか?」
「それは確実です。少なくとも、犯行時間以降にホテルを出た人間は誰一人存在しません」
「では、物の出入りはどうでしょう?」
思わぬ問いに、所轄の刑事が目を丸くする。
「も、物、ですか?」
「そうです。今の話だと確かに人の出入りはなかったようですが、物の出入りはなかったのでしょうか? 例えば窓から外へ投げ捨てるとか」
「そ、それは……」
刑事が言葉に詰まる。代わりに榎本が言葉を引き取った。
「どういう意味ですか?」
「ちょっと気になった事がありましてね。今回の被害者の死因は刺殺。だとすれば、犯人側に残る痕跡が必ずあるはずです」
「痕跡、ですか?」
「返り血です」
その言葉に、榎本は息を飲んだ。
「凶器のナイフは遺体に突き刺さったままだったようですが、そうだったとしても少なからず返り血は浴びているはずです。体に付着した血はシャワー等で流せるでしょうが……衣服に付着した血はルミノールの件もあるのでそうもいきません。だからと言って、閉鎖状態にあるこのホテルで、その血のついた衣服を自室で保管するわけにもいかない」
「……返り血のついた衣服をホテルの外に処分したと考えているんですか?」
榎本の言葉に榊原は深く頷いた。
「一応聞きますが、ホテル館内からその手のものは見つかっていないんですよね?」
「えぇ。さすがにそんなものが見つかっていれば大騒ぎになっています」
「なら、重要な証拠を外に持ち出した可能性が高い。人の出入りはなくとも、物なら抜け道があるかもしれません」
「どうなんだ?」
榎本に聞かれて、刑事は慌てて答えた。
「そう言われましても、事件発生が午前三時で発見が午前七時頃ですから、その間に物の移動があったかと言われても……。遺体発見後に警察が駆け付けて以降はなかったと断言できますが」
「自動販売機の補充やタオルなどのクリーニング業者の出入りは?」
「ホテル関係者によればなかったとの事ですし、そんな明け方にそういう作業をやるはずがありません。第一、そういう業者が出入りしていたらさすがにマークします」
榎本は顎に手をやって思案する。
「窓から物を投げ落とすくらいならできなくもないが……。ホテル周辺で怪しいものは発見されていない。仮に投げ捨てたとしても、外でそれを持ち去る役割の人間が必要だ」
「共犯、という事ですか?」
「どうだろう。この犯行形態から見て、共犯というのはしっくりこないが……」
そう言いながら榎本は何事か思案している榊原の方を見やる。と、ここで榊原は不意にこう問いかけた。
「このホテル周辺の地図はありますか?」
「ありますけど……」
所轄の刑事が当惑しながら、一枚の地図を差し出す。その地図を机の上に広げると、榊原はジッと何かを観察し始めた。
「……このホテルの裏、コンビニがありますね」
見ると、確かにホテルの裏手に背中合わせになるようにしてコンビニの建物がある。
「それが何か?」
「このコンビニ、ホテルの一角と背中合わせに接していますが、端の方のスペースが少し開いていて、そこが大型車の駐車スペースになっています」
改めてこのホテルの構造を確認すると、玄関があるのが北側で、各階は中央を東西に廊下が伸びており、それぞれの南北に五部屋ずつ、一階につき十部屋がある構図だ。北側……つまり玄関側がそれぞれの階の一号室~五号室、南側……つまり裏側が六号室~十号室に相当する。そして榊原が見ているホテルの裏手はコンビニと背中合わせになっているのだが、コンビニの建物自体は六号室から八号室までの範囲でホテルと接しており、九号室と十号室の範囲は建物が途切れて大型車の駐車スペースになっているのである。
そして、榊原が注目したのはこの大型車の駐車スペースだった。
「例えばですが、この駐車スペースに大型トラックが停まっていたとして、その上から問題の返り血のついた衣服を落としたとすれば……その衣服は何も知らないトラックが運んでしまうという事になりませんか?」
「あ……」
榎本たちが絶句する。その間にも、榊原は行動を起こしていた。
「このコンビニに行ってみましょう」
いったん玄関から外に出てホテルの裏に回る。問題のコンビニは駐車場の大半が建物正面にあり、例のコンビニの建物横、ホテルすぐ裏手のスペースにはトラックが一台停車できるかどうかと言った具合だった。今は何も停まっていないが、問題は犯行時刻の午前三時以降、ここに何が停車していたかである。
「すみません、少し話を聞かせてください」
早速、榎本がコンビニの店内に入って警察手帳を見せる。すると店長が出てきて少し緊張した様子で榎本らに応対した。
「な、何でしょうか? うちの店に何か問題でも?」
「いえ、そうではなくて、この建物の隣の大型車用の駐車スペースの事です。今日の午前三時から朝の七頃までの間に、あそこにどんな車が停まっていたかわかりますか?」
正直、自分で言っておきながら無茶な問いかけではないかと榎本は思ったが、それに対して店長は意外にもホッとしたようにこう答えた。
「あぁ、それでしたら簡単です。あそこには補充用の商品を運んでくるトラックが停車していました。それ以外にはあり得ません」
榊原と榎本は顔を見合わせた。
「わかるんですか?」
「えぇ、まぁ。あそこは場所も狭いしコンビニの裏口にも近いので、普段から業務用車両専用駐車場にしているんです。だから、他の車が停車する事はありません」
それが本当なら話は一気に簡単なものになる。
「そのトラック、今日も来ましたか?」
「もちろんです。来ないと商品の補充ができませんから」
「具体的には何時ですか?」
「お客様のできるだけいない早朝ですね。いつも朝の三時から三十分くらいで積み下ろしを完了します」
「そのトラックは今どこに?」
榎本が緊張した様子で尋ねる。
「どこって、他のコンビニにも荷物を運んだ後、浜松市内の集積センターに戻っているはずですが……」
それだけ聴ければ充分だった。礼を言ってコンビニから出ると、榊原は榎本に自身の考えを告げる。
「もし、この犯行が計画的なものだったとすれば、犯人は最初から返り血のついた衣服をホテルの外に捨てるつもりだった事になります。つまり、この犯行では確実にあのスペースにトラックが停まっている事が条件になるんです。そして、このコンビニにおいては午前三時から三時半までの三十分間、毎日必ずコンビニの商品の補充用トラックが停車していました」
榊原の言葉に榎本も頷く。
「今現在周囲にそれらしきものが落ちていない以上、現場のホテルから何か捨てられたとすれば、可能性があるとすればそのトラックしかないですね。走行中に証拠が振り落とされていない事を祈りましょう」
ひとまず、浜松市内のコンビニへ商品を送っている集積所に連絡し、該当するトラックを調べる必要がある。仮に肝心の証拠が振り落とされていたとしても、もしかしたらトラックに血痕が付着している可能性もあるのだ。
「そっちは他の部下に任せましょう。問題はこっちです」
榎本の言葉に榊原も同意して推理を続けた。
「もし、犯人が本当にトラックの上に血痕つきの衣服を落としていたのだとすれば、これができる人間は限られます。北側……つまり玄関側に窓がある各階の一号室から五号室からはホテル裏手のコンビニに物を落とす事は不可能です。現場も北側の部屋でしたから、現場の窓から落とす事も出来ません。また、コンビニに面している南側の部屋でも、各階の六号室から八号室はトラックの真上に位置しませんから、物をトラックに落とす事はできません。あのホテルの窓は大きく開くタイプではないので、遠方から放り投げる事もできない。トラックに物を落とせるのは、駐車スペースの真上にある各階の九号室から十号室だけです。しかも、一階の窓からトラックの上に物を放り投げる事もできないから、一階の部屋からという可能性は消えます。という事は……」
「犯人が仮に血痕つきの衣服をトラックに捨てたとすれば、それが可能なのは二階から五階の九号室か十号室に宿泊している客だけ、という事ですか」
榎本が唸りながら言った。榊原はさらに一つ補足する。
「もしくはホテルの従業員ですね。鍵さえあれば、条件に該当する空き部屋に入って、その窓から捨てる事は可能ですから」
「問題は、それができる人間がいたのかという事です。集積所からの結果が届くまでに調べましょう」
二人は急いでホテルの方へと戻っていったのだった。
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