それは限りなく闇に近い深い青

池田(ちゃぬん)

第1話

 湿った脱脂綿のように重たい空気が、体にべたべたとまとわりついて鬱陶しかった。汗なのか、それとも結露した水蒸気なのかわからない水滴が頬を滑り落ちていく。

「……あっちぃ」

 まっすぐに伸びる国道の真ん中を、僕は自転車で進んでいく。両脇の歩道に設置された街灯がぼんやりとした光を地面に降り注がせているので、地面には濁った水のような、形のはっきりしない僕の影が落ちていた。伸びたり縮んだり、膨らんだり萎んだりを繰り返している。

 家を出てから数時間が経過していた。近所の見知った光景はすでに通り過ぎ、僕の目にうつるのはまったく知らない隣町の風景だ。夜にすっかり覆い尽くされた人間の世界は、なんだか別の惑星のように見えて仕方がない。

 梅雨の湿度と夏の暑さが入り交じった気候のせいで、とめどなく汗が噴き出している。心臓の鼓動もどこか粘っこく感じられて、とても辛い。だけど間違いなくいま、僕の心だけは安らいでいた。

 眠れない夜に何度もやってくる、静かで穏やかで暗い願望。あるいは妄想と言ってもいいけれど。

 そこで組み立てられた景色が、いま、現実のものとして目の前にある。僕はその事に若干の罪悪感を感じつつも、それを大きく上回る満足感で満たされていた。

「……不思議なことってのは、意外と近くに転がってるもんだ」

 わざとらしく呟き、星空を見上げながら、僕は時計を見る。

 時刻は、午前七時を指していた。


 ◆


 僕が彼と出会ったのは、まったくの偶然だった。

 ある日、仕事帰りの駅の改札を抜けてしばらく歩いていると、一人の若い男が地面にゴザを敷いて座っている光景に出くわした。

 彼は通行人に声をかけるでもなく、ただ薄笑いを顔に浮かべたまま道行く人たちを眺めていた。人々も人々で、そんな彼に無視を決め込んだように前を通り過ぎている。

 もしかして、僕にしか見えてないんじゃないか?

 だんだんとそんな思いが頭の中で大きくなっていく。

「ちょっと」

 だから、僕はその男に声をかけた。かけてしまった、と言った方がより的確だろうか。

 彼は待ってましたとばかりに膝を打って、秘密めいた雰囲気で囁くように語り出す。

「お兄さん、すごいね。こんな怪しいのに声をかけるなんて。勇気あるじゃないの」

「自分で怪しいとか言っちゃうんだ……」

「そりゃ、まぁ……自覚あるからね。怪しさしかないでしょ、このご時世に、こんな叩き売りなんてさ」

「叩き売り?」

 僕は思わず眉をひそめた。

 叩き売りだって?

「商品は、どこにあるんです」

 僕がそう聞くと、彼は少し照れくさそうに頭を掻きながら、

「陳列するほどのものでもないしね」と言う。

「あなたは、なにを売ってるんです?」

 さらに追求すると、彼はポケットから小さな砂時計を取り出して、僕に手渡してきた。

「これさ」

 手のひらに収まるくらいの、小さな砂時計。中の砂は黒に近い青色で、ほかにもなにか混ぜ込んであるのか、散りばめたような光がきらきらとしている。

「……砂時計?」

 僕の呟きに、これまた待ってましたとでも言いたげに彼はにんまりと笑い、やや演技がかった口調でこう答えた。

「夜さ」

「はぁ?」

「だから、夜」

 首を傾げる僕を見て、そういった反応にも慣れているのか、彼はさらに言葉を続ける。

「君、こう思ったことはないかい。もし一日がもう二時間……いや、一時間でも長かったらなァ、って」

「……まぁ、あります」 

「その夢、叶うよ」

 もしかしてこの人、頭がおかしいんじゃないかしら。

 僕はそう思ってその場を立ち去ろうとしたが、しかし彼は僕を引き止める。

「待って待って、本当なんだから」

「そんなの信じるわけがないでしょう、帰ります」

「頼むよ、もうちょっと。もうちょっとだけ」

 そんな風に頼む彼があまりにも哀れに見えて、結局僕はその場に留まってしまう。

 まぁ、話を聞くくらいなら……。それまで何度もそうやって痛い目を見たはずなのに、その内なる声に逆らうことができないでいる自分にため息をついた。

「僕はね、そういう人たちのために夜を売ってるのさ」

「夜を……」

 売る?

 普通に生活していればまずお目にかからないであろう言葉の組み合わせに、これまた僕は首を傾げる。しかし同時に、純粋な興味も湧いた。

 夜って、売れるものなの?

「……それって、いくらなんですか」

「よくぞ聞いてくだすった。一時間で三百円から」

「なんだかカラオケみたいですね」

「まとまった時間がほしいなら、パック料金もあるよ。四時間で千円」

「ますますカラオケみたいですね」

「なんならフリータイムで最大十二時間、こいつは二千円」

「ていうかもうカラオケですよね?」

「まぁ料金のシステムは似てるかもね。さて、どうする?」

 さて、どうしようかな。僕は少し考えた。


 ◆


 結論から先に言うと、僕は「夜」を買った。

 十二時間で二千円。とりあえず一番長いやつを。

 ここに至って、僕はまだ半信半疑だった。いや、実際のところ七割ほど嘘だと思っていた。残りの三割は諦めだ。

 買って一日ほどすると、なんだか馬鹿らしく思えてきたので、とりあえずカップ麺を買ってきて、普通に使って自分を慰めることにした。

 砂の落ちる様は悔しいが美しかった。青い砂に混ざったガラスらしき細かい粒が、光を反射させてとても綺麗なんだ。

 しかし悲しいかな、僕の内面は果たしてそれに二千円の価値があるのかと常に問いかけてくるものだから、最終的には言い表しようのない敗北感と服の染みのような悲しみだけが残る結果となってしまった。

 すっかり消沈した僕は、砂時計をなるべく視界に入らない場所へと追いやって、出来上がったラーメンを啜った。なんとなく、いつもより味が薄いような、そんな気がした。

 そうして砂時計の事を忘れて一月ほどが経過したある日、僕はその存在を再び思い出すことになる。夜中にふと起こった気まぐれから部屋の掃除をしているときに、誤って砂時計を落として割ってしまったのだ。

 そして不思議なことが起こった。割れて床に散らばった砂がなにやらシュウシュウと音を立てている。奇妙に思ってよく見てみると、どうも砂が蒸発しているらしい。

 これはいったい、どういうわけだ?

 まるで当然のように消えていく砂を前に、僕はただひたすらその様子を眺めていた。そのうち砂は完全に蒸発してしまって、後には容器の破片だけが残された。

 その時ふと、あの男の言葉が思い出された。


 「使用方法は簡単、壁に投げつけるなり金槌で粉々にするなり、砂時計を壊せばいい。そうすれば「夜」は君のもとにやってくるよ」


 これはもしや、僕は今「夜」を呼んだという事になるのか?

 思わず外を見る。しかし、もともと外は真夜中真っ盛りだ。本当に夜がやってきたのか僕には判別がつかない。

 なので、確かめることにした。

 恐る恐る外へと足を踏み出す。特に変わった様子はない。街はいつもと同じように、夜の闇の中でひっそりとしている。

 とりあえず、サイクリングと洒落込むか。

 僕は自転車に跨がり、見慣れた道を走り始めた。困ったときはいつだってサイクリングだ。一時間走り、二時間走り、じわじわと時速八キロほどで僕は生活圏から離脱していく。

 まだ十時間あるから、どこまでも行けるな。気がつくと、あの男の話を本気にしている自分がいた。なんだか気分が良くなって、ペダルを踏む足にも力が入る。

 それからさらに三時間ほど時間が経ち、僕はあの男の話が本当だったことを思い知る。時刻は五時。普段なら東の空に薄紅色の光が滲みはじめる頃だ。けれど、空はいまだに深い深い藍色で満たされていて、太陽は昇るどころかその顔を見せる気配すら無い。街はまだ水底のように真っ暗だ。

「おいおい……冗談だろ」

 呟いた言葉が闇にほどけていく。表情が綻んでいるのが自分でも感じられた。

 あぁ、本当に良い気分だ。こうしていると、不愉快な湿気も、迷惑な風も、そういったものすら愛おしく思えてくる。

 幸福な気分のまま自転車を走らせていると、どこからともなく潮の匂いが漂ってきた。それはまるでこの小旅行の終わりをそれとなく伝えてくるかのようで、少しの物悲しさと、ここまでやってきたのだというささやかな達成感を僕の中に生起させた。

 匂いを頼りにさらに走り続けると、ブロックのおもちゃが組み上がっていくように、だんだんと僕の中で海が形作られていく。

 打ち寄せる波の音。涼やかな風の感触。口の中も、心なしかしょっぱくなっていくような気がする。

 ついに防波堤が見えた。僕はそこで自転車を降りて、砂浜へと向かっていく。足音に砂のじゃりじゃりいう音が混ざる。靴の溝の間に、砂が詰まっていく感覚が足の裏をくすぐって、こそばゆい。

 防波堤を越えた瞬間、海風が僕を吹き飛ばす勢いで横を駆けていった。思わずよろけてしまったけれど、しっかりと踏ん張って歩みを進めていく。

 一歩ずつ。一歩ずつ。

 足下のコンクリートは砂になり、そして足音は湿り気を帯びていく。

 ざく。ざく。ざく。じゃく。じゃり。じゃぶ。


 ざぶん。


 がむしゃらに進んでいくと、いつしか僕の足首は完全に水没していた。指と指の間に、冷たく、しかし同時に生温かい海水が入り込んで、くすぐったい。

 僕はそれでも前に進んだ。体がどんどん水に沈んでいく。きっと遠くから見たら入水自殺にしか見えないだろう。

 けれども僕は全く退くことなど考えなかった。寝不足の頭のせいか、それとも「夜」がそうさせるのか、とにかく僕は前に進まなければならなかった。

 とうとう足が水底から離れた。するとまず最初に上下がわからなくなって、僕はあっという間に空間に対する感覚を失調したのだった。自分の体がどこにあってどこを向いているのかまったく見当がつかない。暗い水はまるで宇宙を満たす暗黒物質のようで、得体の知れない冷たさが僕の皮膚を刺している。

 ええいままよ、と僕は息を吸い込んで、とりあえず足のある方へ向かって飛び込む真似をした。

 どぶん、と耳元で音がして、僕は自分が完全に水没したことを悟る。

 服を着ているはずだけど、体の挙動は軽い。まるで空でも飛ぶかのようにすいすいと水をかき分けていく。不思議なことに息も苦しくならない。というより、呼吸ができている。

 これは夢か幻か、はたまた黄泉の国にでも迷い込んだか?

(少なくとも、現実ではなさそうだな)

 ならばいっそ、好き勝手にやってやろうじゃないか。

 僕は妄想を膨らませた。

 たとえばこの辺に、光るクラゲでもいればいい。

 そう念じるや否や、なんということだろう。本当に寸分違わぬ位置にイメージ通りの光るクラゲが現れたではないか。

 こいつはいい!

 僕はすっかりご機嫌になって、指揮者のように腕を振って妄想を次々に舞い踊らせた。

 ネオン管の珊瑚、七色に光る小魚の群、クジャク色のペンギン、踊るシロクマ、ガラスのクジラ。生まれては消え、消えては生まれ。その様は真っ黒なカンバスに光る絵の具で落書きをするかのようだ。

 そうしてしばらく遊んでいると、足下の方でなにかがきらきらと光を反射させ始めたのを発見した。

 なんだろう?

 どこか懐かしさを感じるきらめきに向かって、僕はさらに深く潜っていく。

 指先が触れる。それはどうも砂のようだった。果てしなく闇に近い青の砂。その中に混ざり込んだ銀色の粒が光を反射して輝いているのだ。

 どこかで見覚えがある。記憶を辿ってみると、すぐに答えに行き当たった。

「これは……」

 砂時計だ。

 あの砂時計の、砂だ。

 地面から掬い取ってみる。

 指の間からこぼれ落ちていく砂は、細い光の糸が地面に垂れていくかのよう。それは間違いなく、僕がカップラーメンの湯気越しに見たあの砂時計と全く同じ輝きを放っている。

「それじゃあ、ここが……」

 ここが「夜」。

 ここが、その最深部。

 驚きのような、感動のような、種々の感情が僕の中に流れ込んでくる。それらは混ざり合った後に、眠気となって脳に手足にとふりかかってきたのだった。

 意識がどんどん、それこそ砂のように崩れていく。

 すべての感覚が失せていき、弱々しい名残惜しさだけが残される。

 もしかして、あの叩き売りの男もここへ来たのではないだろうか。おそらく、きっと、そうに違いない。

 その確信を抱きしめた次の瞬間、僕の視界は失われ、真の闇が訪れた。


 眼を覚ますと、いつもの朝と何も変わらない景色があった。

 カーテンの隙間から差し込む朝日、灰色の壁、白い天井。

 ベッドに仰向けになりながら、直前までのことを思い出していた。

 僕がさっきまでいた「夜」のことを。

 まさか、夢だったのか?

 そんな疑念が当たり前のように浮かび上がる。しかし、指先にある感触に気づいたとき、やはりあれは紛れもなく僕の現実だったんだと確信し、安堵した。

 履きっぱなしだったズボン。そのポケットに詰め込まれた、一握の砂。

 それは限りなく闇に近い深い青で、その中には銀色の粒が混ざり込んでいる。

 僕はその砂を握りしめながら、自分がこれから何をするべきかを考え始めていた。

「とりあえず……なにか敷くものから、かな」

 幸い今日は休日で、近所にはホームセンターもある。


 ◆


 さらにその翌日。僕は最寄りの駅前にやって来ていた。

 荷物は、丸めたゴザと商売道具。僕はさっそく適当な場所にゴザを広げて、誰かが声をかけてくるのを待った。

 中年のサラリーマン。親子連れ。学生の集団。

 人々が、露骨に怪しむ視線を投げかけてくる。

 突き刺さるたくさんの眼差しに、うっ、となりそうになりながらも、僕は待つ。

 たぶん一人くらいはいるはずなのだ。往来にゴザを敷いて座り込むいかにも怪しい叩き売りに、声をかけるような人間が。

 まずどんな言葉をかけてやろうか。僕はそんなことを考えながら、往来を眺め続けた。


「ちょっと」


 正午を過ぎ、うつらうつらとしていた時にそれはやってきた。

 顔を上げると、僕と同じくらいの歳に見える青年が一人、警戒と好奇心を混ぜたような面持ちでこちらを見下ろしている。

 僕は満を辞して、もったいぶった動きでポケットから商売道具を取り出した。

 それは手作りの小さな砂時計だった。

 そしてその中の砂は、限りなく闇に近い深い青で――。

 

 おわり。

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