水中浮遊
月見 夕
屋根まで飛んで
一昨日は画鋲の雨が降っていた。昨日は花瓶の水があの子の制服を濡らした。今日は何だろう。
僕は窓の外をぼんやりと眺めながら、そんなことを思った。何もできない焦りとか彼女に対する憐れみとかそんなのはもうなくて、心は揺り動かなくて静かだった。
教室は水没したみたいに息苦しい。魚になれない僕はただ、この椅子に座っていることしかできない時間が早く終われと切に願って外の風景に目を遣るしかなかった。
「さーて今日も
「おい、顔上げろよブス」
斜め後ろで、いつもの声がした。もう彼女も震えていないみたいだった。
「ほら、お前のきたねー顔洗ってやるよ」
言うより早く、ばしゃりと液体がかけられる音がした。と同時に下品な笑いが教室を席巻する。海に落ちた人間に鮫の群れが
彼らが去って、少し遅れて僕の足元に何か流れてきた。虹色の泡を浮かせた水溜まり。澄み切った臭いは、多分洗剤だった。
彼女の席は他の席と同じように整然と並んでいるように見えて、しかし少しずつ離されている。皆巻き込まれたくないのだ。当事者になりたくないのだ。
それはこの広い教室という名の大海原にひっそりと浮かぶ離れ小島のようだった。
しばらく斜め後ろの机からぽたりぽたりと雫が垂れる音がして、孤島の主がゆっくりと立ち上がる気配がした。多分、トイレに顔を洗いに行ったんだと思う。
忘れ物をして教室に取りに戻ったのは、もう日が暮れる頃だった。あんなに早く帰りたかった教室に戻らねばならない自分の不手際を呪い、足早に教室を目指した。
だからあの子の後ろ姿を見つけたのは偶然だった。
教室の入口で僕は、息を殺した。声も掛けなかった。
気付いていないのか、彼女は開け放たれた窓の外を見つめながら、何か鼻歌を歌っていた。微かな音量で紡がれるメロディを、僕は何だったか思い出せなかった。
ふと何を思ったのか、彼女は自分の席に残る石鹸水に給食のストローの端をつけ、もう一端を口に運んだ。柔らかそうな唇が細い管を咥えて、そっと一息。繊細な虹の玉がふわりと宙に浮かび、斜陽を受けて黄金色に煌めいた。
危うげな軌道で窓の外へ躍り出たそれは、風に乗って少しずつ空へと昇っていき、やがて弾けた。彼女はいくつもいくつも虹の玉を作った。丸いあぶくが放り出され、舞い、そして散っていくのを、飽きずに眺めていた。
あの子がどんな顔をしていたのか、僕には分からなかった。
翌朝、担任は暗い顔をしてホームルームを始めた。
クラスの生徒が飛び降りて死んだからだった。昨夜見回りの警備員が、植え込みに倒れたあの子を見つけたらしい。屋上には靴が揃えてあったそうだ。
重たい水中で、誰も笑わなかった。あれだけうるさかった鮫の群れは、目を泳がせて静かにしていた。
僕は窓の外を見ていた。何も言わなかった。昨日の夕方彼女を見たことも、ひとりでしゃぼん玉を吹いていたことも。きっとあれが最期の姿だったのだろう。けれどこの教室で、それを明かしてしまうのは違う気がした。
汚したくなかったんだと思う。あの子の最後のしゃぼん玉を。
人ひとりいなくなろうと、時は流れるし授業は終わるし放課後は来た。
誰もいなくなった教室には、昨日を思い出すオレンジ色の夕陽が僕を見咎めるように差し込む。あの子の孤島には、昨日と違って一輪の花が添えられていた。
廊下の蛇口に下がっていた石鹸を溶かした液体に、ストローを浸す。白濁した液体は、胸が詰まるような清潔な臭いがした。
彼女がそうしていたように、そっと息を吹き込む。心の端っこを吸い取って、脆い泡玉は宙に浮いた。手向けられた花に向かって吹いた玉は、風のない教室に音もなく浮かび、夕陽に照らされ、揺らいで、弾けた。
いくつもいくつも虹の玉を吹いていたあの子の唇を、その華奢な後ろ姿を思い出しながら、そこでようやく僕は分かった。
ああそうか。
あの時彼女が歌っていたのは、
水中浮遊 月見 夕 @tsukimi0518
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