第2話 夜

 ここで、匿名掲示板の書き込みが終わっていた。


 あまりの気持ち悪い内容にスマホを閉じると、私は吐き気を覚えてベッドから這い上がった。傍にはすうすうと静かに寝息を立てている夫と、娘がいる。体中嫌な汗がでていた。内臓の至るところから老廃物が染み出した、そんなねばっこい汗。下着やパジャマをじっとりと濡らして身震いする。


 十二月。


 真冬の寝室は驚くほど寒い。いくら部屋を閉め切っても風はわずかな隙間を掻い潜って、外の冷気を運んでくる。ガタガタと窓を揺らして、絶え間なく、この部屋目掛けて冷気がすっと入り込む。先程からのむかつきが収まらず、肩をさすりながらリビングに向かう。深夜のリビングは気配に満ちていた。この家には、夫と娘しかいないのに。


 でも、誰かが、何かが、暗がりのなかに潜んでいるような気がした。


 コップ一杯の冷水を飲む。冷たい水が喉から胃をめぐり十二指腸へと。隅々まで浸透していく。先程のむかつきは消えたが、同時に体が芯から冷えてきた。

 思い出したことがある。


 それは、半年前のことだ。

 私は彼女から、こんな相談を受けていた。


「もう、国に帰りたい」


 彼女は遠く離れた祖国から、一緒に日本に働きにきた親友だ。


 五年前、私たちは貧しさから逃げ出すように、国をでて、海を渡った。

 ブローカーに案内されるままに飛行機から下りて、都市部を経由して、故郷に似た田畑の風景が流れていき、この地に辿り着いた。

 お互い技能実習生として、遠く離れた農村で働き出したのだ。


 一言でいえば、ここは何も変わらなかった。


 ここの住人たちは不便だ不便だとぼやいていたけど、元から貧しい農村地帯出身の私たちにとって、ここにさほど不便さは感じなかった。むしろ、車を少し走らせれば病院やスーパー、綺麗な福祉施設も充実していて、快適そのものだった。風も、土の匂いも、遠く海を隔てた故郷と繋がっているような気がして、不思議と落ち着いた。


 私たちは彼らが用意した寮に住み、色んな話をした。

 両親のこと、兄弟のこと、そして男のこと。

 日本で優しい男を見つけて、故郷と違い、何もかもが整備されたこの国で幸せを掴もう。そういっていつも二人で夢を描いた。


 ほどなくして、親友はここで知り合った男と結婚することになった。男は、私たちより20歳も年上の農家。陰気で人見知りの激しいタイプ。この村で唯一営業している飲み屋で知り合ったのだが、小さな農村は全員がほぼ顔馴染みのようなもので、勤め先の社長から強く推薦されて、出会ってからすぐに結婚した。最初は、いくらなんでも年が離れすぎてるんじゃないかと心配になったが、それは杞憂に終わった。


 とても大事にしてくれて優しい。

 連絡をするたびにそう言っていた。


 それから半年後、この村で私も今の夫と知り合い、妊娠すると、そのまま結婚をした。夫は缶詰工場に勤めていた。朝から晩まで、果実を加工して、詰めて、出荷して。育児の必要性から、私も勤めていた果樹園を辞めて主婦に専念することになった。娘も生まれ、家事、育児に忙しい毎日をおくる。

 お互い子供も生まれてから忙しくなった。ほとんど連絡も取れなくなり月日が流れた。

 そんなある日、親友から連絡がきた。


「監視されている」

「誰に」

「深くはいえない。ばれたらひどい目にあうから」

「もしかして、旦那さん……?」

 親友はこの問いには答えなかった。

 明日会えない? と提案しても、会えない、ひどい顔だし、同郷のあなたと会うのをとても嫌がるから。

 そう言った。


 ここにきて、私は胸騒ぎを覚えた。もしかして、ずっと親友はひどい目に遭っていたのでは。それを口封じされていたのでは。


 私は、深夜にも関わらず親友が住む家へと車を走らせた。


 夜道は驚くほど暗い。ヘッドライトの明かりを外れたら、1メートルも視界が効かない。

 車を走らせること1時間。彼女の住処へと辿り着いた。

 思い返せば、ここにきたことはなかった。親友が結婚してからは、落ち合う場所はいつも公民館か、私の家だった。

 目の前に佇む平屋はひっそりと静まり返っている。深夜だからか明かりがないのも当然だが、それ以上に、生活の匂いというか人の気配が一切しなかった。

 私は覚悟を決めて、ドアを叩いた。


 どんどんどんどん――


 周囲の森に、ドアを叩く乾いた音だけが響き渡る。

 暫くすると、ぎいっとドアが半分だけ開いた。

 親友と結婚したあの男だった。

 先程まで寝ていたのか、ぼんやりした男を覚醒させるように詰問した。


「チイフアンは今、どこにいるの?」


 私の親友、そして男の妻である彼女の名前を叫ぶと、男は困惑した。


「チイフアンに何したの?」


 男は視線を逸らさず、何もしていないと答え、咳き込みながら一言こういった。

 あいつはいなくなった。

 元々この村が気に入らなかったらしい。以前から都会に憧れていた。お金をもって子供も連れて忽然と消えた、らしい。

 あれからチイフアンとは連絡がとれない。

 今、どこで何をしているのか。私に何にも言わずに。忽然と。


 月日は流れた。


 私は暇を見つけては娘を抱いて山の頂にたち、下界を眺める。


 ここは私の第二の故郷だ。この地に幸せを求めて、親友、チイフアンと夢を描いた。今は娘を抱いて朝の光を浴びて、夜の闇に包まれる。

 そうやって、何も起きない毎日が過ぎていく。

 ただ、状況はあまり芳しくない。

 知らず知らずうちに、私を取り巻く環境は悪化しているように思える。


 最近、夫は職を変えた。


 不景気に澱む風は、この小さな村にも浸食してきた。盛んだった果樹園も閉園が相次ぎ、どこの国の神でもない存在を崇める宗教が、弱者の味方を装いいつの間にか入り込んでいた。夫の働いていた缶詰工場も閉鎖されて、一気に生活は窮乏していった。そして、やむにやまれず下界の寂れた歓楽街のボーイをすることになった。


 最初から心配だった。


 経営者もいかがわしい人みたいだし、仕事内容も女性たちの管理面、客引きや、ただの清掃業務だけではない。この村に女を斡旋してくるブローカーたちに内緒で、様々な黒いイベントの立案をしていた。いくら稼ぎがいいからって、人をモノとして商売の道具に使うことに、直接働いていない私が後ろめたさを感じていた。


「今日もごはんが旨いな」

 その笑顔を見るのが、段々辛くなる。

 最近、私はよく眠れない。

 夜な夜な、スマホで匿名掲示板ばかり眺めている。ここで他人の憂さ晴らしを読むことで、不思議と自分の抱えていたストレスも発散できた。


 今頃、この村を抜け出したチイフアンはどこで何をしているのだろうか。都会で幸せを掴んでいるのだろうか。


 彼女の幸せを願うと同時に、ここで一つの疑問が浮かぶ。

 この村を逃げ出す計画があったなら、なぜ、自分にも内緒にしていたのか。

 そして、最後に連絡がついたときに、私への救いを求める内容はなんだったのか。

 本当に彼女は、ただ単にこの村を出て行っただけなのか。

 あれから、チイフアンの旦那だった男も失踪した。後で色んな人に聞くと、元々精神を病んでいたようだ。最後に見かけたときは、狂ったように何かを叫び、見えないものに怯えていた。


 もうすぐこの村で毎年開催される綱引き大会が行われる。

 男はこの大会の常連だった。

 不思議なことに不景気になればなるほど、皆はそれに情熱を燃やすようになった。

 自らの生を足掻くように。

 命を炎にかえるように。


 この閉鎖された地で私は生きていく。

 ただ、いざとなった時は――


 私は、寝室に戻り、夫のに声をかける。


「あなた、私に隠し事はないわよね?」


 夫はすうすう寝ている。

 今、彼はどんな夢をみているんだろう。

 返事はなかった。



 了


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摩訶不思議 小林勤務 @kobayashikinmu

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