第38話 セーニョまで戻れ

 潮騒を聞いているうち、繰り返される海鳥の鳴き声と波の音は混じり合って鼓膜に貼り付き、脳はそれを外から聞こえてくる音とは認識しなくなった。

 いくつかの手紙を手に持ってそれを読んでいる。正午過ぎでも既に太陽は内陸まで通り過ぎて、遠海まで見張るかす崖の上には灰のような濁った光の残滓が漂っているだけだ。それでも白い紙に書かれた黒いインクの筋を追うには十分である。

 煙草の灰が手紙の上に落ちた。すぐに潮風に吹かれて灰は滑り落ちたが、紙はかすかに煤けていた。

 子供の頃からよく座っているコンクリート片が崖の天辺にあった(まだ此処が私有地になる前に転落防止の為の灯台を建てようとした名残らしい)。そしてケヴィンはこの日もそれに腰を下ろして海と手紙を眺めていた。

 一月の潮風は羽織った上着も、その下に着たシャツの繊維の間すらすり抜けて肌を撫でていく。

 年が明けて、内陸の都市部はあとひと月はゆうにお祭り騒ぎだろう。巨大な人工海には今日も新年を祝う飾りが漂い、夜には新年の記念すべき十日目を祝う大砲が打ち上がる。

 草の根を踏み締める音がした。振り返るまでもなく、ケヴィンは広げていた手紙を畳んだ。

「いかがでしたか?」

 と、バッカスは前振りもなくそう呼びかけた。「アカデミーの老害が、まだ痴呆に成り下がっていなければ良いのですが」

「里帰りの記念に講師として雇ってやってもいい、と言っている。どう思う?」

「愚問ですな」

 ケヴィンが振り向くと、すぐそばに燕尾服を身に纏った老執事が立っていた。右手に黒い杖をついて、ケヴィンから手紙を受け取る——ケヴィンが咥えている煙草に微かに眉を浮かべながら。

「アカデミーは教師不足なのか? 国家公務員はいつでも人気だろ」

「国家ぐるみの大企業と化しておりますから、常に客寄せの餌が欲しいのでしょう」

「目に傷のある男が教壇に立って、映画化でもしてくれるなら考えてみるか」

「今は動画配信の時代ですよ、坊ちゃん。そもそもアカデミーの広報担当に、私の孫ほども機材を扱える者がいるとは思えませんが」

「ああ、そうそう」

 ケヴィンは煙草を指に挟んで老執事を睨んだ。「ヒースから聞いたが、執事希望らしいな。住み込みでしごくにはまだ早いだろ」

「ええ、今のまま鍛えてやってもただ小枝のように折れるだけでしょう」

「そういう意味じゃない……ブートキャンプじゃなく、普通の大学へ行かせろと言ってる。アカデミーが嫌なら外国へ行くのもいい。子供の頃からお前がしごくから、あんな堅物に育ったんだ。子供の頃は可愛い奴だったのに」

「ええ、ええ」バッカスは白けた目で手紙を読み終えると、片手でそれを八つ折りにして、手のひらで包んだ。「そうでしょうとも。お忙しい坊ちゃんの足元に纏わりついて、将来仕える方の膝でピアノをせがむ不始末の数々。それで執事になるなどと、恥の上書きとしか思えませんな」

「家庭の教育方針を批評できる立場じゃないが、たまには褒めてやれ」

「褒めるべきは褒めております。それ以上に叱るべきが多いだけのこと」

 押しても引いてもびくともしない岩壁がそそり立っている。ケヴィンはバッカスが潮風を遮るように立っていることに気がついていた。

 ゆく年の終わりが世界終末であるかのように世界が賑わい、狂乱するなか、ヒースと共に六年ぶりに帰省したケヴィンを出迎えたのはバッカスだった。父と母は仕事の都合でおらず、だというのにまるで当主の父が帰ってきたように、屋敷の玄関には執事とメイドが整列していた。

 それが歓迎であり、六年間の憂さ晴らしを兼ねていることをケヴィンは察していた。家族と同じだけの付き合いのあるこの老執事は聡明で、そして常に的確な仕事をする。相手によって出す手を変え、常に最大の打撃を相手に与える。

 家督継承前とはいえ、長男が同じテーブルにいる夕食の席で、甲斐甲斐しいまでにケヴィンの真横に張り付いていたのもひどい圧力だった。それでも外見上は厳かに控えているだけではあり、ヒースは食事中ずっと愉快そうにしていた。

 ケヴィンは一体いつ、バッカスがその手に携えたワインボトルを振りかぶって自分の頭に振り下ろすのではないかと考えていたほどだった。

「怒っておりませんよ」

 帰省した日からもう何度目かの問いかけに、この日もバッカスは澄まして答えた。

「我々の職務は屋敷を守ること。ご当主とその家族皆様が帰る家を守り、いつ何時も完璧な状態を保つこと。皆様は好きな時に屋敷を離れ、そしていつ戻って来られるも自由です」

「その言葉を額面通りに受け取れば、お前が俺をストーカーするのはお前の仕事ではないということになるんじゃないか? ストーキングはお前の趣味か?」

「ヒース様より、くれぐれもとご下命を受けておりますので」

 ヒースは年末年始を大いに楽しみ、そして数日前に仕事へ出ていった。一週間ほどで戻ってくるが、ようやく両親と兄の圧迫面接から解放されたと思いきや、入れ替わりの面接官が離れない。

 ここ数日、ようやく溜飲が下がり始めたのか、一人でぶらついても遠巻きに執事やメイドたちが動向を注視するまでに収まった。後は、久しぶりに戻ってきた不良息子に感じる物珍しさも薄れてゆくだろうと思っていたが、ケヴィンの予測は甘かったらしい。

「ヒースには一人で楽しめる趣味が必要だと思わないか? バイオリンを一時期やっていただろ、鷹狩りも」

「あの方にとってそれらは習得すべき教養で、趣味とはゆかなかったようで」

「あの可愛がってる部下とはどうなんだ?」

「ズィズィ・カシク様ですか。特に経歴に怪しい点などございませんので放置しておりますが、必要であれば手をお回ししましょうか」

「……いや、やめておこう。俺までヒースの真似事を始めたら、家は終わりだ」

 バッカスが首を傾げた。目を細くして、視線が微かに泳ぐ。

 ケヴィンは黙っていた。バッカスの右耳の裏についている無線機から微かに人の声がする。

「追い返せ」

 と、バッカスは短く言った。潮風にも揺るがない岩石のような声で。「公国の人間に用はない。我々に無いのだから、向こうの用など関係ない」

 承知いたしました、と軽やかな回答が無線機からあった。メイドのものだろう。

「今度はどこの誰が来たんだ? セントラル駅で撮った動画の肖像権と収益の配分についての話なら、聞いておくべきだと思うが」

「つまらぬ話で、庭の花に唾をかけられてはご当主に叱られてしまいます」

 ケヴィンが首を振ると、バッカスは顰蹙そうな顔をしたが、口を割った。

「妙なことを言う男が門前に。坊ちゃんに詩集を届けに来たと申しております」

「——詩集?」

「ええ」

「妙な目つきで白い髪の男か?」

「そのようで」

「引き留めてくれ」

「承知しました」

 二人の会話は既に庭番にも聞こえていたのか、バッカスは特に復唱しなかった。

「それから……」

 ケヴィンは座っているコンクリート片から腰を浮かしかけて、しかし座り直した。

「それから、その妙な男を此処に連れてきてくれ」

 バッカスは薄く唇を開き、そして閉じた。再び口を開いた後、彼が言ったのは「承知しました」と、それだけだった。

 それから数分としないうちに、黒いメイド服に白いヘッドドレスを備えたメイドが背後に男を連れて断崖の頂上へやってきた。両手をエプロンの裾に重ねて粛々と歩いているが、メイドの目は自分についてくる男のつま先を確認するたび、ひどく冷ややかだった。

「お連れいたしました」

「ああ、ありがとう」

 メイドが低頭する。だが、その場から立ち去ろうとはしない。バッカスもその場に優美なまでに佇んでいる。

「二人にしてくれるか?」

 ケヴィンがそう言ってようやく、メイドが下げていた頭を上げた。そして視線で執事長へ指示を仰ぐ。

 その執事長は数秒返事をしなかった。ケヴィンの顔を見据え、そして十分な非難を訴えた後で、命令の撤回がないことを悟ると「では、そのように」と小さく会釈した。「お客様、どうぞごゆっくり……」

 執事長とメイドがそこだけ草を刈られた道を下りきるまでに、随分長い時間がかかったように感じられた。

 そして二人の後ろ姿が霞むほどに離れてようやく、ミランは口を開いた。

「……俺は何か失礼をしてしまったんだろうか」

「ハ!」ケヴィンは堪らず噴き出した。「ハハ——お前——あの、バッカスの顔——」

「カタギリ、俺は何か無礼をしたのか?」

「ハハ……あ? なんだって?」

 ケヴィンはまだ緩やかな笑いに肩を揺らしていた。「無礼? いや、それはこちらの方だ。悪かったな、今、うちは空前の反公国民ブームなんだ。気にしないでくれ」

「国柄で人を判別するような人達には見えなかったが」

「誰でも流行りに乗っかりたい時はある。まあ、俺の所為だから、大目に見てくれ」

「そうか」ミランは視線を戻した。「そういうことなら、理解した」

 ミランはどこか顔つきが変わったようにケヴィンには見えた。かといって、何処が変わったのかと聞かれても答えられない。余程腕のいい整形外科医に執刀されたのだろう。元々その顔にほとんどなかった極めて少ない贅肉とかそういうものを、塵一つ分も残さずに削ぎ落としたような、そんな顔つきをしていた。

「久しぶり」

 と、そう言ってしまってからケヴィンは視線を泳がせた。「そう言うほどでもないか? 俺がやらかしてから、ひと月と少しだ。年末のライブ映像も見せてもらった。他人事のような言い方で悪いが、素晴らしいパフォーマンスだった」

「ああ」

「ドラマも見た。丁度配信サイトで初回視聴無料キャンペーン中だったからな」

「ああ」

「詩集を届けに来たんだって?」

「……ああ」

 最後の「ああ」はそれまでとは違い、何か思いついたような言い方だった。

 ケヴィンが首を曲げると、ミランは着ていたダウンジャケットのポケットから薄い冊子のようなものを取り出した。

 しかしそれは、詩集と呼ぶにはあまりに薄っぺらいものだった。

 ケヴィンはその詩集であるはずの紙の束に書かれている文字を読んだ。

 “シルヴェストスへようこそ”。

 ミランがどこか居た堪れなさそうに眉を寄せた。

「……どう見ても話すら聞いてくれなさそうな様子だったんだ」

 ケヴィンは二つ折りにされた観光案内所発行のパンフレットを見ていた。外国人用のそれは、シルヴェストス国民にはほとんど無用のものだ。随分と気品あるデザインがなされたそれは、国内地図や観光情報をまとめた内側を隠せば、外側は落ち着いた紺色に塗られている。

 折り畳めば、ブックカバーや装丁に見えないこともない。

「門のところにいた女性に声をかけた。名前と出身を伝えた時点で、確認するとは言われたが……帰れと言いたくて仕方なさそうな顔だった。もしあなたが留守だったとしても、確実にあなたまで届く伝言になるとすれば何を伝えるべきか考えたら、以前あなたに詩集を出せと言われたことを思い出した」

 ケヴィンがおもむろに手を差し出す。

 ミランは不思議そうにも、しかしその手に折り畳まれたパンフレットを乗せた。

 リーフレットは生ぬるく、表面はあちこち歪んでいた。ミランがどの部分をどのように、どれほどの力で握っていたのかがはっきりとわかった。

「……俺の家の場所はこれに載ってたのか?」

「いや、それはタクシーの運転手に聞いた」ミランは少々不服そうに視線を明後日へ向けた。「聞いたと言っても、直接尋ねたわけじゃない。ただよく海を見に行くとあなたが言っていたから、必然的に海岸沿いだろうとは思った。それで、海沿いに何か観光にいい場所はないかと聞いたら、大きい屋敷の私有地になっている場所があると運転手が零していた。それで、その近くまで行ってくれと伝えた」

「暇なのか?」

「今の時期は」

 ミランは淡々と肯定した。「毎年この時期はオフだ。年末までが忙しい。それに後数ヶ月もすれば、春の音楽祭がある」

「パパはどうした?」

「ドミトリは、」

 初めてミランが言い澱んだ。「今度は冷蔵庫でも爆発させたのか?」「いや、幸いそういうことはない」

 ミランはいつかのように、なんと言ったらいいのか、と独りごちた。

「前に話したと思うが、ドミトリに歌わせる曲を作っていることが彼に露見した。それで、俺は前に出ないと言った。俺も俺で絶対に引きずり出すと言った。そこで少しばかり議論になった。実際、彼も彼で新しい曲を思いついたらしく、俺より先に完成させて次のシングルはその曲で埋めると言って聞かない。それで今は一時的に疎遠になっている」

「お前たちを見てると、本当に人間は言葉で戦って、言葉で争いを解決できるってことを思い出すな」

「だから俺も急ピッチで仕上げなきゃならない、そう言う意味では暇じゃない」

「そうか。空港まで送ってやろうか?」

 ケヴィンの予想に反し、ミランは反論したり、そういった意思の目を向けなかった。

「あなたが駅のピアノで歌っている動画を見た」

 ドミトリが見つけたのだとミランは言った。まだドミトリに密かな構想が露見する前のことだ。年末のライブのほぼ直前、SNS上にあるバックパッカーがその動画を掲載した。「これはなんて曲だ?」と問いかけたバックパッカーの質問に、インターネット上の有識者が食いつき、しかし誰もわからず、恒例の憶測や感想が、結果的にその投稿をドミトリの目に止まる場所まで偶然押し上げた。

 ドミトリの目に入った時、元の投稿はケーニッヒ交響楽団員によって個人的に引用されたところだった。“仕事でシルヴェストス人と話し、その人が作った曲を聴いたことがあるが、その雰囲気と似ている。あの国の音は、全ての国がそうであるように、独特だ。“とその楽団員は投稿していた。

「あの曲を聞いてから、気がつくとあなたの歌が頭の中に響いてくる」

「新しい曲を書こうと譜面を見ていると、あなたの歌を書き起こしている」

「頭の中でずっと続いている。繰り返し繰り返し、ずっと渦を巻いて流れている」

 ミランの目がケヴィンの目を見た。

「止まないんだ。ずっと」

 海の方から絶えず風が吹いていた。その潮風はミランの髪を揺らして、何度もその顔をたたかせた。それでもミランは髪を手で退かすこともしなかった。

「これを止めないと、俺は何も出来ない。曲がずっと終わらない」

「……お前の頭を思い切り殴ればいいのか?」

「今度は賭けもしない、カタギリ。なんの条件もつけずに、気持ち一つで答えてほしい」

「気持ちだけで答えられる質問なんてあるか?」

「ある」

 ミランはぎこちなく笑顔を作った。パンフレットを握ったままのケヴィンの手に手を重ねる。ケヴィンよりは半回り小さいが、それでも十分に広い手だった。指先だけ微かに硬くなっている。

 そしていつもそうであるように、ケヴィンに触るミランの手は熱を持っていた。

「いろんな事があった。ありすぎたくらいだ。だからもう最後にしよう。ここで答えを決めてくれ」

「答え?」

「俺があなたと出会う前に戻るべきか、それとも別の道へ進むべきか。あなたと一緒に」

 ケヴィンは自分が口に煙草を咥えていたことを思い出した。燃え尽きた先端が灰になって風に掠め取られた。

 それはミランが買って寄越した最後の一箱だった。

「なあ、ボス」

「……俺はもうあなたのボスではないが」

「そういえばそうだったな」

 ケヴィンは煙草を口から外した。「ミラン」

 今までこの名前を呼んだことがあっただろうか、と頭の片隅でそんなことを考えた。

「お前がもし詩集を出したら、今の告白の言葉も載せるのか?」

「載せることはない」

「それはよかった」

「それなりに色んな言葉を扱ってきたが、今までで一番飾り気のない言葉だった」

「俺は気に入った」

「なら、その言葉はあなたのものだ」

 ミランが目を閉じた。まるで宇宙に思いを馳せるように深く目を閉ざし、眉を顰める。

「——断られるつもりだったんだが」

「やり直すか?」

「いや、」

 確固とした声のすぐ後に、深いため息があった。無色透明の息を吐くと、ミランの顔がにわかに血色ばんだ。分厚い空気で隠れていた血潮が肌の表面へと透けて見える。

「……やっぱりやり直したい」

 ミランが続け様に至極見事な告白をしようとした。だがやはりこの時も、反射神経はケヴィンの方が上だった。

 小洒落たその言葉は、いつか詩集の最後のページを飾ることになる。

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