第37話 風は予告なく吹く

 ラウンジには電車の通貨を案内するモニタの横に、薄型テレビがアームで吊り下げられ、ニュース番組が流れていた。これから一週間の気象情報、政治、道路状況、文化について。

「随分と薄着だな」

 ヒースはそう言い、肩に羽織っていた上着をケヴィンの背にかけた。「そして会うたび会うたび、お前は顔色が悪い」

 ラウンジにいる多くの人は携帯や文庫本を手にしており、それに夢中だった。これからどこかへ行く人と、これからここへ来る人を待つ人、それぞれに目的を持ち、他人に興味を持っていない。

 五つ一列に並び、背中合わせにした十席ごとのグループごとにベンチはラウンジに整列している。ケヴィンとヒースの座っているグループには他に誰も座っていない。誰もがテレビや案内板の見える方に集まっている。

「お前の上司はどうした? 俺は彼女と仕事の話をするために此処に来たんだが」

「俺が代理だ。荷物の引き渡しに来た」

「お前が?」

 ヒースは体を半分ケヴィンの方へ向け、背もたれに肘を乗せた。「お前のところの人事が言うには、お前は業務停止期間中のはずだ」

「元々、今回は俺の頼みでキルヒャーに動いてもらった」

 ケヴィンはベンチの足元に置いていたクーラーボックスを持ち上げ、そしてヒースの前に置き直した。

 そして手に巻き付けていたベルトを離そうとする。だが手がかじかんで上手く解くことができなかった。

 ヒースはその様子を頬杖をついたまま眺めていた。決して手伝おうとせず、声をかけることもせず、もたつく手の動きをじっと見ていた。

 焦ったくなるほどの時間をかけて、ようやくケヴィンの手は完全にボックスのベルト部分から抜け出した。ケヴィンは怠くなったその手をパーカーのポケットへ押し込んだ。煙草の箱に指先が当たるが、感覚は鈍い。

「これは?」

「担保だ」

「担保」ヒースは繰り返した。犯人の自白を繰り返すように。「一体何の?」

「俺がお前に依頼する仕事の、対価。その担保だ」

「弟からのお願いに対価を求める兄はいないと思うが……」

「これは弟としての依頼じゃない。だからお前も、兄として俺を断ることは出来ない」

 ヒースはケヴィンの顔をしばらく見ていた。ゆうに五秒は経ってから、サングラス越しの目がようやく一度瞬きをする。

 ヒースがクーラーボックスへ片腕を伸ばし、そして器用に片手で蓋を開けた。

 その奥には冷却剤が敷き詰められ、内部にはさらにもう一つ箱があった。

 ヒースは多重構造になっていた二つ目の箱も開けた。

 箱はもう一つあった。だが三層目の箱は、それを開けなくとも内部が見えるように透明な強化プラスチックで出来ている。

 ヒースはその三番目の箱の中身を見た。

 見て、微かに首を傾げて別の角度からも見た。

 表情の変化はなかった。呼吸もおだやかで、瞬きは眠りにつく寸前のようにゆっくりとしていた。

「九百万になる」ケヴィンは兄の方を見ずに言った。「届け先はもう聞いている通りだ。指定の医療機関へ届けた後、そっちの取引口座に譲渡対価の一部が運送費として振り込まれる」

 ラウンジのテレビからくぐもった歓声と拍手が聞こえてきた。見ると、簡素なニューススタジオからすでに場面は切り替わり、中継映像になっている。

『今年は例年通り多目的ホールを開放しての年末ライブが——私たちの一年の幕を盛大に下ろしてくれるでしょう——』

 現地を飛ぶヘリコプター内でマイクを握るキャスターは、見下ろす底なし沼のような暗闇の中、白く強烈なライトで照らされた巨大な野外スタジオを指し、興奮した様子で喋っている。

 ラウンジにいる人々の視線はテレビに釘付けだ。今テレビ画面には年末のライブに出演するアーティストたちの顔ぶれが映し出されている。

 だからこそ、ラウンジのベンチでシャツを捲っている男がいても、誰も驚かなかった。

 その男の臍のすぐ隣に赤黒い縫合痕があっても、誰もそんなものに見向きもしなかった。

 その男の隣に座っているヒースを除いて。

「それと、もう一つ運んで欲しいものがある」

 ケヴィンは捲っていたシャツを戻した。「この国にイゼット・ウィンターという名前の男がいる。その男をシルヴェストスまで運んでくれ。そちらはそちらで完了が確認され次第、金を払う」

「九百万で足りるのか?」ヒースが言った。「お前の上司への手間賃と、荷物二つの運送費。しかも両方厳重な取り扱いを要するものだ」

「応じてくれるなら、俺はシルヴェストスに帰る」

 クーラーボックスの蓋に乗せられたままのヒースの手がかすかに震えた。それをケヴィンは見逃さなかった。

「今回のトラブルの件で、俺はしばらく謹慎を受けることになる。その後もしばらくは内勤だろう。シルヴェストスへ戻れば、その付近の事務所へ放り込まれるはずだ」

 ヒースがクーラーボックスを閉じた。かすかに背もたれから浮かせていた背を戻す。

 しばらく誰もが無言でいた。

「ケヴィン、聞かせてくれ」

「なんだ」

「お前はこれからも、知り合いに何かあるたびこうして自分の臓器を売って助けるのか?」

 ケヴィンは少し考えるような素振りをして、それから首を振った。硬い髪の毛先がこめかみを叩く。

「そうしたいのは山々だが、生憎二つある臓器は腎臓だけだからな。これが最初で最後だ」

「最初で最後、ねえ……」

 ヒースはクーラーボックスを片手で持ち上げた。ベルトを無視して直接ボックスを掴み上げる。

「ズィズィ」

「——あっ? あ、はい」

 ヒースが呼んだ。その声に、それまで成り行きを見守っていた黒い髪の青年が驚きを隠せない様子で肩を強張らせる。ヒースは手に持っていたクーラーボックスを差し出した。

「イゼット・ウィンターの居場所は分かるな? これを持って出迎えに行ってやれ。何を聞かれても説明はしなくていい」

「はい、場所はわかります。ただ」ズィズィはケヴィンの方へ一瞬顔を向けたようだ。「えっと……もし、もしですね、それでお相手の方が行かないとか、誰か、ご一緒している他の人が、連れて行ってはいけないとか、そういうことを仰った場合はどうしますか? あの、もしもの話です、もしも、そういうようなことになったら、という話で」

 両目を覆う前髪の間に、一瞬だけズィズィの金色の目がよぎった。

「その場合は、部外者は無視して目的の方だけお連れする、という方針でいいんでしょうか?」

「その時はお前だけ戻ってこい。ただでさえ喋る荷物は面倒だ、コストパフォーマンスをそれ以上悪くするようなら捨てておけ」

「あ……はい、では、そのようにします」

 ズィズィはヒースからクーラーボックスを両手で受け取ると、まるで貴重な骨董品のように恭しく持った。そしてヒースとケヴィンにそれぞれ小さく頭を下げると、小走りで一階へ降りていった。

 どう見ても就職活動中の学生にしか見えない薄い背中が見えなくなってから、ケヴィンは「よく続いてるな」と言った。

「ズィズィか? あれは特別優秀な男だ、奴の同期はまだ本社の中を一人で迷子にならずに歩けないからな」

「それにしても弟の臓器をポンと預けるとは思わなかった」

「嫉妬してるのか?」ヒースは笑いもせずに言った。「俺はお前と違って、物事の優先順位をとっくに決めている。俺が臓器を売り飛ばすとすれば、それは俺の愛する家族に、それ以外の手段では免れ得ない危機が迫った時だけだ」

 言外に弟を説教する兄の意図に気づけないほどケヴィンは愚鈍ではない。とはいえ、もう過ぎたことだ。今更どれだけ謝っても宥めても、冷却剤と無菌室の中で眠っている腎臓がケヴィンの中へ戻るわけではない。

 

 失ったものはもう戻らない。取り戻したとしても、それは失った当時から必ず変質している。取り戻したつもりになれるのは、失ってできた自分の中の穴の形もまた変わってしまったからだ。

「弟、お前の人生はお前のものだ。たった一度きりのそれをどう生きるかはお前が決めることだ」

 ヒースはサングラスのブリッジを押し上げた。ずれてもいないそれを。

「だが、お前にとってたった一度のそれが、他の人間にとってもそうであることは忘れるな。何も全人類の人生について心を砕けと言っているんじゃない。だがお前の生き方で、たった一度の人生における一つの季節を、悲しみや怒りで埋め尽くしてしまう人間がいることを忘れるな。少なくともお前の家族は皆そうだ」

 ケヴィンは黙っていた。ラウンジの空気は二人の兄弟を除けば、全く賑やかで愉快だった。テレビに流れる多種多様な音楽と華々しいアーティストたちの顔に誰もが夢中だった。

 音楽が切り替わり、激しくも不穏なロックが聞こえてくる。ラッパー風の声がアーティスト名を叫ぶ。

「俺たちはお前の判断を信じている。お前が自分の宝を盗まれても許せるほどの友人を持ったことを誇りにすら思う。だがな、俺たちはいつまで我慢しなきゃならないんだ? いつまでお前の誇りを我が物顔で振り回すガキを、俺はいつまで眺めていなきゃならないんだ?」

 ヒースの声は静かだった。抑揚はほとんどなく、書いてあることを順番に読み上げているようだった。何年間も書き留めて、一度も読み上げられなかったことを。

「俺はいつまで、お前の血まみれのマスターベーションをお行儀よく眺めていなきゃならないんだ?」

「……ヒース」

 明け透けな言葉を選んでも、やはり二人の会話に反応するものはいなかった。もしかすると耳に入ったものはいたのかも知れないが、だとしても目立って言葉の発言者を探そうとするそぶりは見られなかった。

「お前がウィンターの小僧を気に入っていて、あいつに一生慰められていたいなら好きにすればいい。ウィンターは確かに六年前も一人でお前の味方だった。だが、お前は本当に慰められているか?」

 ヒースの目がサングラスのレンズからずれ、ありのままの色でケヴィンを見た。

「お前が記憶を失ったのは、あの小僧といることで溜まったストレスのせいじゃないのか?」

 その言葉に、ケヴィンは既視感を覚えた。似たような話を少し前に聞いたことがあると。

 ——医者に聞いたんだけれどね、記憶喪失には原因が二つあるそうだよ。

 イゼットの声で言葉が反芻される。

 脳に損傷を受けて物理的に記憶を失ったり思い出すプロセスが実行できなくなるものと、脳自身がその記憶を思い出さないように故意に頭の奥に仕舞い込むもの。

 イゼットの両手がケヴィンの手をひっくり返した。

 ——脳が自分で行う記憶喪失にはトリガーがあって、その人が受け止め切れるストレスを超えた時に、引き金が引かれるんだって。

 笑い声がした。あの時は、コテージのリビングのテレビがつけっぱなしだった。誰もいないリビングは電気がついていて、二人いる寝室には電気がついていなかった。

 今聞こえている笑い声が誰のものかはわからない。

 もう日が暮れた。寝室の中は澱んだ紫色の暗がりがとぐろを巻いている——否、今ケヴィンがいるのは駅のラウンジだ。ラウンジはこうこうと天井の蛍光灯に照らされ、外の暗がりとは無縁だ。

「あの事故が最後の引き金になったんだね」

 耳元にイゼットの声を感じた。鼓膜の内側から響いていた。

「でもあの事故はただのきっかけに過ぎない」

「お前の記憶を奪った原因は、本当は六年前から始まっていたんじゃないのか?」

 異なる声が混じり合った。

「音楽を奪われたお前の前で、あの男は一体どれだけの音楽を見せびらかした?」

「お前を連れ回して、何度お前に、お前が失った喝采の音を聞かせた?」

「お前から友情を勝ち取って、お前以外の人間からは賞賛を勝ち取っておきながら、お前が過去に奪われた喝采をお前の目の前で捨てて見せた」

「お前はそれを見てどう思った?」

「お前と同じように才能があって、お前と違って才能が認められているのに、子供のような気まぐれでその類まれな幸運を捨てる男を見て、お前は本当に安らいだのか?」

「お前はそれで慰められたのか? 自分より幸運な男が男に興奮する様子を見て、安心したのか?」

「お前はそうやって慰められたかったのか?」

「それとも最初から、真逆のものを求めていたのか?」

 ケヴィンはヒースを見た。

 ヒースの口はもう閉じていた。先ほどまでの言葉がヒースの口から放たれたのか、それともケヴィンの頭の中で、兄の声で読み上げられただけの幻聴なのか、断言できなかった。

 指先の感覚がなかった。ポケットに差し入れたままの指先に当たっているはずの煙草の包装紙の質感が感じられない。

 耳の奥まで水が入ったように、全てがくぐもってよく聞こえない。鼓膜の内側で鳴る音はよく聞こえるのに、外からの音があまりに遠く、薄れている。

 ヒースがわずかに怪訝そうな顔をした。

 もしかするとケヴィンは、自分自身でも自覚しないうちに何かを言ったのかもしれない。それが訳のわからない言葉だったのかもしれない。

 ただ、視界だけは明瞭だった。

 ぼんやりと泳いだ視線の先に人々の頭があり、それらが向いた先に大きなテレビモニタがあった。

 そこに映っている顔を見たとき、ケヴィンはその顔が自分を見下ろした時のことを思い出した。エイレー区のホテルで。暖色のベッドライトに照らされて。広いベッドの上で。

 あれは散々なセックスだった。今までの他の全ての行為がどのような意味であっても、あの夜の行為だけは、慰めもその真逆も、何もなかった。何もないのに、散々なそれをした。

「ケヴィン」

 ——それは正真正銘、ヒースの口から発されたヒースの声だった。

「弟、そのまま俺の顔を見てろ」ヒースは何の感情も覗かせずに言った。「お前のストーカーがいる」

 本当に一瞬、ヒースの視線がケヴィンの顔から逸れる。ラウンジの外を見た。

「俺のストーカーはお前だろ」

「俺はどれだけお前が心配でもトイレの中までついて行ったことはない」

 ヒースはかすかに俯き、サングラスの中心を押し上げた。「人気者の弟を持つと兄は大変だ」

 ラウンジの中でも数人席を立ったものがいた。駅のホームからやってきたのか、大きなリュックを背負った女性二人組と、席を立ったばかりの男女がそれぞれ包容を交わす。新たにラウンジへ来て、電子案内板を眺めて席につくものもある。

 駅裏手にある駐車場側の壁はガラスになっていた。ケヴィンは夜空を透かしながら、鏡の特性をも併せ持ったその窓ガラスに映り込む多くの顔を見た。バックパッカー、ツアー客と思しき団体、地元の区民だろうラフな格好のもの、待ち合わせ時刻まで時間のない様子の女性。

 その中に二人、見覚えのある顔があった。二人とも、今日は実に地味なダウンジャケットを着込んでいる。大柄な男の方はマスクをしていた。

 今はラウンジに人が多いためか、雑然とした人混みの厚さだけ距離がある。だがこの人々も、間も無く移動するだろう。このラウンジに長く留まる理由はない。ベンチは家のソファより固く、これから向かうホテルのような食事はサーブされない。

 此処に人々が留まる理由はない。

「……ケヴィン?」

 ヒースは不思議そうに言った。取り出しかけた携帯をもつ手に、ケヴィンの手が乗っている。

「マナーモードにしておいてくれ」

 そう言ってケヴィンはベンチから立ち上がった。

 再会を喜び、待たせたことを詫びる、これからの予定について話し合う人々の間をすり抜けるように歩く。引き止める声はなかった。

 人混みの向こうで素っ気なく振る舞ってばかりの見知った顔の友人たちもにわかに動き出し、近づいてくる。

 だがケヴィンとその友人たちが再会の握手を交わすより先に、ケヴィンは目的の場所へ辿り着いた。

 そこには一台のピアノがあった。個人寄贈されたものらしく、聞いたこともない名前がピアノの足元に置かれたネームプレートに記されている。

 それはスタンドピアノだった。グランドピアノのように大きな屋根を持っているわけでもなく、随分な年季ものだった。だが駅員が丁寧に磨いているのか、何人もゆきすがりの演奏家たちが触れているにもかかわらず、白と黒の鍵盤には埃も被っていない。

 ケヴィンがそのピアノの前にある椅子へ腰掛けた時、誰もそれに興味を示さなかった。よくあることだからだ。

 ケヴィンがそのピアノの鍵盤に指を置いた時、誰かがその光景に息を呑むことはなかった。何も珍しい光景ではないからだ。たった一人を除いて。

 友人たちは大股で近寄りつつあった。

 ケヴィンが鍵盤の一つを押し込んだ時、鳴った音に数人が振り返った。そしてただ、演奏に心得のある男がピアノに触っただけだとわかると、途端に興味を失った。

 ケヴィンが一節、二節ほど前奏を弾いた時、やはり誰もほんの一瞬以上の関心を向けなかった。

「——、—————」

 ラウンジにいた一人の女性が、手鏡を鞄に仕舞う途中で顔を上げた。

 音の元を探して、視線を向けた。

「——————、————」

 半年ぶりに再会した親子の父親が顔を向けた。娘と息子との抱擁を終えて、手持ち無沙汰だった。

 そして次に、まだ抱き合っている途中の母親と息子、そして娘が同じ方を見た。

「————Open ocean, raging waves(大海原、荒れ狂う波)——」

 数人が、ピアノの音に混じる声を聴いた。

 まさかと思い、その数人がピアノの方へと近づいた。

「————dreaming, deep,deep in the abyss(夢を見ている、深い、とても深い奥底で)」

 バックパッカーが、ちょうど自分と同じ年齢と思しき、同じ性別の人間がその音を鳴らしていることに驚いた。

 そして彼は思わず手に持った携帯を掲げた。前に立っている人の頭より高く。

「——Find the relief,calmer tides——安息を求めて、穏やかな潮に抱かれ——音のない海底に横たわる——」

 すでにラウンジを出た男が一人、足を止める。

 それに引かれ、もう二人、足を止める。

「————血のあたたかさを忘れさせて——熱に焼かれた肌を凍らせて——」

 休憩を終えた駅員が職員室へ向かっていた。

 彼は交代相手の駅員が二階のラウンジを見上げて立っている姿を見つけた。

「——水面を雨が打つ——陸の嵐の音が聞こえる——あなたの心臓の音を思い出す——」

「——水底で砂を集めたら——小石を重ねて——海を満たして——」

「——あなたの血が海に流れこむ——」

 か細い声だった。声は高音の箇所で掠れ、伴奏はスタンドピアノ一つだけだった。

 そこへ、祖父に手を引かれて歩いていた少女が駄々を捏ねた。

 彼女の祖父は、趣味で弾いているバイオリンを携えていた。

「——ただの記憶に過ぎないの——恍惚と夢は岩礁に砕けて——」

「——あなたと数えた渡り鳥が——朝日の中に溶けていく——」

 聡明な一人の女性が、聞き慣れなその歌の中にある繰り返しの節に気づいた。

 彼女はひらめきのままに立ち上がり、そして背後まで迫っていた友人はついにそれ以上前に進むことができなかった。

「——仄暗い海底から————」

「飛び立って——この海流を振り切って——」

「——全て捨てて——打ち寄せる波より前に辿り着くの——」

 鈍い痛みが緊張と興奮にメスを入れる。

 ケヴィンはようやく、自分の足がピアノのペダルを強く踏みすぎていることに気がついた。

 足の力を抜く。指を動かす。意識して。

「——あなたの血潮の中へ」

 曲の終わりを誰もが理解できなかった。誰もこの歌を知らないのだから、当然であった。

 それでもケヴィンが椅子から腰を上げると、誰もが曲の終わりを悟った。輪を作って取り囲んでいた群衆が手を打った。その中には制服姿の駅員もいた。

 激しい雨がラウンジに降り注いだ。透明で、熱狂した豪雨だった。

 頭がぼんやりとしていた。術後にもなかった熱が煙を上げて、頭蓋骨に充満していた。

 支えを求めてピアノに軽く手を置くと、鍵盤はぬるくなっていた。それでもまだ鍵盤の方が指先よりはずっと冷たいようだ。

 群衆はそれをお辞儀と思ったようだったが、ケヴィンはただ疲れて首を曲げただけだ。

 友人の姿は消えていた。もはやこの渦の中へ飛び込んで、ゆきずりの偉大な音楽家の演奏と喝采を妨げるのは不可能だった。

 ——そして、輪から離れた所で、マナーモードにしていた携帯が震えた。

「……俺だ」

 ヒースは言った。ごく短く。電話の相手はズィズィだった。

「主任、えっと、無事に積荷は回収しました」電話口の青年は遠慮がちに続けた。「あの、そちらは何かありましたか? 随分と騒がしいようですが……」

「いや、トラブルは何もない」

「あっ、それは、失礼しました。では、ええと、間も無くそちらへ戻ります。合流して空港へ——」

「いや」

 と、ヒースは言葉を遮った。「いや、いい。そっちはそっちで直接空港へ向かえ。俺たちは別に行く」

「え、あの、トラブルは無いと……」

「トラブルじゃないから安心しろ」

 ヒースは心配性の部下に微笑んだ。まだ拍手は止まない。「ただ——もう少しだけ、此処にいたいだけだ」

 拍手は電話を切っても続いていた。ヒースは携帯を仕舞い、そして深く椅子へ沈み込んだ。

 サングラスを外し、目を伏せる。

 やがて拍手は波が引くように静まり、そして未練がましく雨垂れのように二、三回鳴ってから、止んだ。

 痺れるような余韻を残して。

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