第36話 口を閉じて静粛に
透き通る亜麻色の髪は見る角度によって色の濃さが絶妙に異なる。故に彼女を目にした人は思わずその長い髪に触れて、叶うならそれをひとすじ手に取り、間近に見つめたくなる。
白い肌に髪色より輝く瞳。小さな唇は開く寸前の蕾のように淡く色づいて、厚い。
タゴン家では普段着の類だろう。鮮やかな赤にライトブルーを差し色にしたドレスあるいはワンピースは幾重にも華奢な布を重ね、全てを品よくまとめ上げている。
「どちらへ向かわれるところだったのでしょうか?」
「セントラル駅だ。裏側につけてくれ。遅れると職を失う」
「まあ、怖い」
運転手は無言だったが、道順として駅へ向かっていることは判断できた。フロントガラス以外の全ての窓はスモークミラー加工されている。内側からは外の様子が見えるが、外からはいくら覗き込んでも黒く塗られた鏡でしかない。
「いい車だな」
ケヴィンはリクライニングに身を預けて言った。後部座席に四つあるリクライニングは椅子というよりもソファのようだ。柔らかく、弾力があり、そしてピンと張り詰めた生地がおとなしい獣のように心地よい。
「丁度俺を轢いた車もこれと同じらしい。犯人が謝りに来たらコインで傷でもつけてやろうと思っていたんだが、想像以上で気が引けるな」
「あなたを轢いたのは私ではありませんよ」
アリエルの声はどれも歌詞のようだ。ケヴィンの右側から響く声と、ケヴィンの投げ出した右手に重ねられた白い指先は淡雪のように肌に溶けて染み込んでいく。
「あなたを轢いたのは、私の友人です」
子供のひそひそ話のようにアリエルはケヴィンの耳元に唇を寄せて囁いた。
ケヴィンは前を見ていた。運転席が見える。窓と同じスモークガラスの衝立が今は降りているが、その顔は座席からも見える。身なりの良い使用人といった、精悍な顔立ちの若い男だ。
「でも、どうか許してあげてください。長い間私の運転手を務めていて、本当に真面目て素晴らしい人でした。お父様にうんと叱られて、家ですっかり塞ぎ込んでいるのです。これ以上叱られるのは可哀想です」
「謝罪の一つくらいはあってもいいんじゃないか?」
「あなたに会わせたら、きっと私の元に帰って来なくなってしまうでしょう」
アリエルがしなだれかかる様にケヴィンの方へ傾けていた体をさらに寄せる。車内は十分に空調が効いていた。外の寒風が嘘のように、温度のことなど考えに至らない様な室温に保たれている。アリエルが肩を露出しながら寒がる様子を見せないのもそのためだ。
「でも——忘れてしまったのでしょうね、あなた。私とあなたがした、たくさんのこと。あんなに楽しく過ごしましたのに」
「俺の人生は楽しいことばかりだからな」
「羨ましいこと。ええ、本当に羨ましい」
ケヴィンの右手の指と指の間にひやりとした質感が滑り込んだ。
「こうしていると、あの人が、イゼットさんがあなたを初めて私の家に連れて来たときのことを思い出しますね」
その時のことはケヴィンも覚えていた。シンデレラ城が建つ前のことだ。タゴン家の広い庭、ほんの噴水がわりのプールを超えて、両手開きの大きな扉を開けた先に佇んでいたアリエル。
ケヴィンとアリエルが顔を合わせたのは、実はイゼットとアリエルの結婚が決まった随分後だった。イゼットはツアーでの公演が多く、公国の外にいることが多かった。必然的にそれに随伴するケヴィンも外に出る。
イゼットが席を立ったほんの数分。
庭に面したテラス席でプールを眺めていたケヴィンの横へやってきたアリエルは、何を言うこともなくケヴィンの手を握った。そしてイゼットが戻ってきても離さなかった。
「あのイゼットさんが連れ回すような人だから、どんなにかわいらしい人かと思ったら、とんだ怪物でしたね、あなたは」
「可愛いだろ俺は。傷だらけで、か弱い」
「私の集めたおかしを次から次へと食い散らかして……いつの間にか、私の部屋にはぐにゃぐにゃに溶けた飴しか残っていなくて」
アリエルの手がさらに深くケヴィンの手と絡み合う。彼女の指の腹で手のひらの柔らかい部分を押し込まれると、その指先の冷たさは骨にまで響く。
「だから仕方なくイゼットさんと楽しんでいたのに、あなた、邪魔をして」
「夫婦の営みに口を出すほど野暮じゃない」
ケヴィンはアリエルの手を払った。そしてその手で目の前にあるテーブルからグラスを取る。「俺とあいつは友人で、友人は夫婦より優先されるべきじゃない。だが友人には友人を助ける義務がある、相手が誰であろうと」
「まるで私があの人を虐めたような言い方をしますね」
「実際そうだろ?」
グラスの中身はラムのようだった。氷も浮かべられていないそれはケヴィンの腹の傷に滲みた。皮膚を縫われている感覚は一度気になるとひどく不愉快だ。
紐。糸。綱。縄。
それはケヴィンの脳裏に不愉快さを垂らし、苛立ちを波立てた。イゼットの皮膚に残っていた痕跡。
あれだけ背丈のある男を、アリエルが一人で縛れるわけがない。痕が残るほど強く縛り付けるのも、痕が出来るほど動く相手を押さえつけるのも、あの白い指先では無理だ。現に、柔らかく熱のない指にはその痕跡がない。
「お前が覚悟を決めてあいつを押し倒したなら、俺に文句はない。寧ろ応援だってしてやった。だがそうじゃなかった、だから俺が怒った。大体そんなところだろ」
「……あなたたちは、本当に不思議です。友人だと仰るのに憚りもなくセックスをするし、裸で抱き合うんですもの。世間的にそれは友情で説明できるのでしょうか?」
ケヴィンはグラスを小さく揺らし、アリエルの方へ顔を向けた。亜麻色の髪と亜麻色の瞳と見つめ合う。
「つまりこう聞きたいのか? “あなたはイゼットが怖くないのか?”」
アリエルは黙っていた。息を潜めて、ただ何も言わなかった。
彼女は子供が蟻の巣穴を覗き込むような恐ろしい瞳でケヴィンを見ていた。
「怖くない。あいつの前で服を脱ぐのも、あいつをベッドに連れ込むのも俺は怖くはない。あいつを縛り付けるためだけに他人の手を借りる必要はないし、そうまでしてあいつを引きずり落とさないとまともにピロートーク出来ないほど無口じゃない」
アリエルとイゼットの結婚は彼女たちだけの意思で決めたものではない。
二人の結婚が決まった時、イゼットはツアー公演中だった。アリエルは別の舞台に出ていた。二人が将来の夫婦として顔を合わせたのは、それから二ヶ月後のことだった。その場にケヴィンもいた。
「同情はする。イゼットは典型的だ。そこにいるだけで人の目を惹く。俺だったらいくら金を積まれてもあいつを縛るなんてごめんだ。縛り終わる前に失神するだろうしな」
ほとんど当てにならないが、国によって国民の性格が決まると思い込んでいる説は多い。それこど血液型や生まれ月の星座によって、ただそれだけでその人の精神鑑定ができると、実際多くの人が信じている。薄っぺらく色とりどりの文献が世には溢れている。
シルヴェストスにも国柄というものはある。この公国が区によって持つような、歴史に基づいた通説はある。
シルヴェストスの人間は一説において、深海魚のようなものだ。
高い水圧と暗がりの中では誰もがよく知る形を保っている。鰭があり、水の中を泳ぎ、目にも見えない微生物を静かに咀嚼している。光の届く場所にいる魚と出会うこともなく、声も出さず、同族にだけ聞こえる波の動きで相手を知る。
だが、まれに網にかかり、それらは水面まで引き上げられる。
高い水圧と海底の暗がりで保たれていたそれらは、そこで形を失う。圧力から解放され、それらは一気に膨らみ、肥大化する。
イゼットはその諸説の体現者の一人と言える。
気まぐれな釣り人が深い海の底から姿を見せたその魚を、つい引き上げてしまった。水の底で小さく華奢な鱗を翻していた魚が、珍しくも綺麗な、それだけの小魚だと信じていた。
家にある小さな水槽でそれを飼おうと思って。
人魚姫の配下に相応しいだろう。そんなささやかな好奇心で。
「得体の知れない人だと思いました」
と、アリエルは言った。もう一度ケヴィンの手を握って。
ケヴィンの手はまだグラスを握っていた。
飴色の水面は嵐の前の海のように揺れていた。
「初めてあの人と会った時から、夫婦になり、家に二人きりになると……とても恐ろしい気分になります。静かな家の中で、あの人が喋ると、その声をかき消すために私も何か話さなくてはと怖くなるんです」
「お父様が家を建ててくれましたが、私はいつも友人を連れて行きました。まるで他人の家を訪ねるように。そうしてあの人が何か話し出す前に、皆で遊びましょうと言いました。私の好きな遊びで。あの人がルールを知らない遊びで。その遊びに夢中になっているうちは、他のことは何も考えずにいられます」
ケヴィンはグラスをテーブルの窪みへ戻し、そしてアリエルの手を握り返した。
アリエルは窓の外を向いていた。外には何か塵のようなものが舞っていた。雪か、みぞれか。
街は灰色にくすみ始めていた。
「まだ、わたくしが舞台に立ち始めて間もない頃、私は聖女の生まれ変わりとして舞台に立っていました。人魚姫として。世間を知らないお嬢様だからこそその声が出せるのだと誰もが信じていました」
クス、とアリエルがはじめて本心の笑顔を見せた。「私が全寮制のスクールにいたからといって、どうして観客も、お父様も私が世間知らずだと信じることができたのでしょうね?」
アリエルはしばらく、自分の言ったことにクスクスと笑っていた。その笑い声は媚薬のように空気に溶け出し、車窓の隅に小さな結露をつけた。
「舞台に出始めて、一年経った頃、面白い噂を聞いたんです。当時まだ私と同い年ぐらいの、女性たちの歌手グループがいました。彼女たちは私のオペラを称賛してくれましたが、私には彼女たちの自由さが羨ましかった」
アリエルは車の窓へ息を吐きかけた。白い結露が広がった。
「私と同じような身勝手な視線を浴びながら、彼女たちはとても溌剌としていて、奔放で——清純であれという身勝手な期待に完璧に答えていた。彼女たちは、そしてとても優しかった。世間知らずのお嬢様に、とても刺激的な話をしてくれました」
白い指先は線を一つ引いた。そして垂直に交わるようにもう一本引いた。何かを描こうという意志を感じない気だるげな動きだった。
「彼女たちは信頼できる人と素晴らしい約束をして、そしてその固い約束のもとで、秘密の遊びに耽っていた。彼女たちがコーラを飲みながら話してくれたその話が、たとえ作り話だったとしても、あの時の私には衝撃で、そして羨ましかった。
——私もそんな人が欲しかった。私が観客を楽しませて、身勝手な期待に応える分、その見返りを求めるのは当然でしょう」
傷一つない窓に大きく描かれたバツ印を指差して、アリエルは笑顔を浮かべていた。
「だから私も、気の合いそうなお友達を集めようと思ったんです。それに、他人が他人に好きなようにされている姿を見るのが好きなんです。私にぴったりのストレスの発散でしょう?」
「ああ、性癖は自由だ」
「あなたは一番素敵でしたわ。あなたが他人を好きにしている姿が一番見応えがありましたもの」
繋いでいる二人の手は体温が溶け合い、内側に微かな湿気が発生していた。
「それに、あなたなんだか、とても慣れていました」
いつしかアリエルとケヴィンはもはや接吻しかねない距離で見つめ合っていた。
「たくさんの人を滅茶苦茶にして、それなのに、あのイゼットでさえ手懐けて。本当に尊敬しているんですよ、私、あなたのこと。あなたの真似をしてみても、私ではどうも駄目でした。勝手に皆、私のためと言って勝手をしてしまうのです」
ケヴィンは視界の端で、運転手のハンドルを握る手が微かに震えたのを見た。
「あなたなのではないですか?」
アリエルはケヴィンの顔を見つめている。頬を染めて。
敬愛する教師に手解きを求める学生のように。
「いつからか、ずっと思っていました。あなたではないのかと。私をこの遊びに目覚めさせてくれた、彼女たちが話してくれた、あの噂話の人は——あなたではないですか?」
「なんの話をしているのかさっぱり分からん」
ケヴィンは一瞥と共に言った。
アリエルの瞳をこれほどまでに間近で見たことはない。彼女から香り立つように体温が空気を伝わってくる。
アリエルの唇が震えた。
戦慄いた、と言った方が的確かも知れない。
「どうしてですか?」
と、やはりアリエルは純粋な学生のように尋ねた。「あなたは楽しくないのですか? 最中のあなたはあんなに激しいのに、あなたはどうして他人事のように振る舞うのですか? あれだけ楽しいことを、どうしてあなたは思い出さないのですか?」
「言っただろ、俺の人生には楽しみが多いんだ」
「あのパーティよりも楽しいことがありますか?」
「刺激的なパーティはいくつかある夜の過ごし方の一つだ。俺は一晩中セックスしているのと同じぐらい、黙ってコーヒーを飲みながら本を読んで過ごす夜を気に入っている」
「それは、何もかもがつまらないと仰っているのと同じことです」
アリエルの声が一段低くなった。「私はあの夜の過ごし方がとても好き。一人で広い舞台に放り落とされて、冷たい空気を吸い込んで歌っているときはいつも凍えそうなほど寒い。でも皆で快楽に耽っているあの時間だけは、冬でも寒さを感じずにいられる」
車が微かに減速したことをケヴィンは感じた。運転手が何度かハンドルを握り直していること。
既に車は目的地に入っているのだろう。だがアリエルは座席に身を預け、ケヴィンの手を握ったままだ。夢を見るように目を閉じる。
「もう一度あなたと楽しみたいのです。あなたと私で、もう一度楽しいことをしましょう。今度は前よりもっと楽しくなります」
「俺にカルト教団の祭司長でもやれって?」
「少なくとも、そうすればイゼットは再び脚光を浴びるでしょう。この国でも、あなたの国でも」
ケヴィンの眉が痙攣する。その瞬間、まるでその反応がスイッチを入れたようにアリエルが瞼を押し上げた。「私はもうどうでもよいのです。私自身、また舞台に立つ気はありませんから。このまま哀れな人魚姫として悲しみ暮れていようと思います。でも、あの男は自分の力で手に入るべきものが手の中にないことを、いつまでも我慢できないでしょう。あれは欲深い男ですから、手に入る宝石のうち、もっとも強く輝く石でなければ満足しませんよ」
「……人魚姫が聞いて呆れるな」
「私の自由な足を切り落としてそう呼び始めたのは」アリエルは首を振った。「私のことを決めるのは、いつだって私以外の人です」
そう言ってアリエルは微笑んだ。白い足を投げ出し、まるで本当にそれらしく儚げに、繋いだ手以外の全ての力が抜けている。
車がついに止まった。フロントガラスの向こうに山のように聳えるセントラル駅舎と、その手前、開けた駐車場に並んで乗客を待つ大型バスの群れが見える。
駐車場のアスファルトに突き立った外灯は既に白く発光していた。空は灰色にくすみ、それ以外のものが段々と黒く影の中に沈んでいく。
「この場にいるのが、私だけとは思わないことです」
ドアノブに手をかけたケヴィンにアリエルが言った。「そしてこの場にいる人間で、一番あなたに優しいのは私です。お父様とクイーンズはあなたを使ってイゼットを呼び戻し、ケーニッヒに恩と共に売る。イゼットは商品ですから丁重に扱うでしょうけれど、あなたを丁重に扱う理由は彼らにはありません。あなたがもう一度車に轢かれて死んだとして、きっと今度も警察は何故かこの車を見つけられない」
ここに残りなさい、とアリエルは冷たく言い放った。「今頃イゼットも同じことを、もっと悪い条件で聞かされているはずです。同じ結末を迎えるなら、よりよく、楽しい条件を飲むほうが利口でしょう」
ケヴィンは初めて見るアリエルの表情と声音に目を開き、そして左目の傷を歪めた。
「始めからそう振る舞っていれば、イゼットとお前は上手くやっていけただろうな」
ドアを押し開ける。
あたたかく心地よい車内に、大きな刃が振り下ろされるように冷たい風が吹き込んだ。アリエルは肩を震わせ、そして沈黙と静観を保っていた運転手さえ思わず振り向いた。
蝋のように溶け合っていたケヴィンとアリエルの手は乱暴に引き剥がれた。ケヴィンはドアが開くと同時に外へ踏み出していた。
鈍色の乾いた空気に、塵のような小さな白いかけらが紛れている。たった数秒で、車内から見ていたより空が急に暗さを増したように見えた。
「あ……」
アリエルが最後に零した声はそれだけだった。その後に何か続いたのかも知れない。だがその時、既にドアは閉じられていた。
駐車場はあまりに広すぎて、一般車の駐車率は半分もない。正面側と異なり、駅舎裏側に用があるのは送迎だけだ。彼らは決して長居しない。
そしてそれはこの車も例外ではない。目的地に着いたのなら、車を降りるべきだ。
飛行機のジェット音が聞こえたが、機体それ自体は見えない。とうにゆきすぎて、遅れた音だけが空を飛んでいる。
ケヴィンが近づくごとに、駅舎がその内側から放つ光が強まった。夜の訪れを察知して、昼間は消していた駅舎内の照明が点灯し、あるいはその光を強くする。
ケヴィンは振り返らずに歩いた。
「五分」
そして駅舎裏口のそばに立っていたキルヒャーは事もなげに言ってコートの左袖を軽く捲った。黒い革ベルトの腕時計がされている。
「四時三十五分。ちょうど五分遅れだね。秒数はおまけしましょう」
「俺の後輩は?」
駐車場にバンはあったことには気づいているが、ティアの姿は見ていない。
「テストが終わったので帰したよ。駅からだと帰るのも便利だろうからね」
「そうか。じゃ、俺の息子は?」
キルヒャーは左手首に巻いた腕時計から、その左手にさがる小さなクーラーボックスへ視線を移した。垂直に持ち上げる。「これのこと?」
「いくらだった?」
「腎臓ひとつで九百ってところかな」
「腎臓?」
「肝臓よりそっちの方が高かったんだ」
ケヴィンは如何とも言い難い顔でボックスを見つめた。キルヒャーの手に提げられたそれは、デパートでアイスクリームのバラエティパックを買った時と同じぐらいの大きさだ。食べ盛りの子供が二人いる家庭では少し落胆する大きさかも知れない。
「相手を選ばなければもっと吊り上げられるのだろうけど、今回は真っ当な相手だけで探したからね」
「相場がわからないとなんとも言えないな。おい、あんまり揺らすな。泣くだろ」
「中は多重構造だから問題ないよ」
キルヒャーがこれ見よがしにボックスを手で掴み、ひっくり返す。ケヴィンはボックスを取り上げた。元の向きに戻し、脇に抱える。
「それで、引き渡し先は?」
「二階のラウンジで待っているよ」
「そうか」
「私はここまで。これ以上働くと時給が下がるからね」
駅舎裏口から出てきた一人のバックパッカーが、向かい合う二人を恋人か何かだと思ったのか、大きく迂回するようにして横をすり抜けていった。
駅舎内から溢れる明るい光がキルヒャーの顔を綺麗に半分だけ照らしていた。それはケヴィンも同じことだったろうが。
「手間をかけた、キルヒャー」
「別に構わないよ。その分だけの対価が払われるんだから、採算は取れている」
「諸々の手数料を差し引いて、人事統括の給料はそんなに安いのか? 昇進意欲が薄れるな」
キルヒャーはケヴィンの顔を見て、そして長い瞬きをした。
「そうだね、私もあまり長くこの椅子にいるつもりはないから、後任を今から育てておかないといけないね」
「シーシャがいるだろ」
「うーん、一応色々とやりたいことはあるからね。その後をシーシャに押し付けるのも気がひけるな、君がシーシャを補佐してくれると言うならいいんだけど」
ケヴィンは顔を渋くしたが、キルヒャーは黙ってその顔を見つめるだけだった。
「おい、これから謹慎に入る人間に言うことか? それは」
「ISCを辞めないでね、ケヴィン。君は私が見つけて、私が育てたんだから」
「退職は社員の権利だろ」
「恩を仇で返すなんて、友情ドラマが好きな君らしくないな」
そう言いながらも、キルヒャーはゆるやかに一歩後ろへ下がった。上着のポケットへ手を差し込み、そして引き抜いた時、車のキーを握っている。
「まあ、君が今の仕事より夢中になれるものを見つけた時には、喜んで送り出してあげる。その時だけは」
ケヴィンが小さく手を上げた。キルヒャーも離れながら、手を上げた。
短く手を振り合って、そして二人はほぼ同時に互いに背を向けた。キルヒャーは車へ向かって、ケヴィンは駅舎へ向かって。
一歩、駅舎に入る。
眩いばかりの照明が頭上から降り注ぐ。やけに眩しく感じる理由はわからなかったが、その光のせいで、ロフト構造になった駅二階のフロアにほとんどお飾りで置かれているピアノの黒い体が目を引いた。
エスカレータに乗り、二階のラウンジへ向かう。駅裏側にあるラウンジは空港のそれとよく似て、椅子がずらりと並んでいる。時にはそこで小規模なイベントが行われることもある。
青いメッシュ生地のカバーがされた一人掛けのベンチが整然と並ぶラウンジにはそれなりの人がいた。
ケヴィンがエスカレータで二階フロアへ入ってすぐに、ラウンジに余りある椅子に座りもせず立っていた男が一人、ぎくっとしたように大袈裟に震えた。
天然のパーマがついた黒髪で完全に両目を覆い隠しているその男はまだ若く、大学生のようにも見えた。だがその男はトレンチコートの下にカジュアルでもスーツを着ている。
その男がすぐそばのベンチに座っている別の男の肩を叩く。耳元に何かを囁く。
そして、ヒースがベンチから立ち上がった。
サングラスをかけているというのに、まだ距離があるというのに、ケヴィンは兄の目が自分を捉えた瞬間を肌で感じた。
ヒースが手招きをした。そして、人差し指を真下へ向ける。自分が座っていた席のすぐ隣を指す。
挨拶も何もなく、無言で指示をする。
それは間違いなく、兄がひどく怒っていることの証拠だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます