第35話 手は膝の上

 ケヴィン・カタギリの人生はおおよそ全てが順調だ。生まれた時から、二十八年間の全てに評価を求められれば、ケヴィンは迷わず全てが順調だと答えただろう。

 やり直したいかと聞かれれば、笑顔で断るだろう。

 両親は忙しい人だったが、子供たちのことを忘れず、全てにおいて兄弟を差別しなかった。

 友人は多く、親友もいる。兄がいて、家族が皆元気でいる。

 アカデミーで多くを学び、首席で卒業した——そのことを覚えているのはもうごく一部だろうが。

 卒業式展のコンサートはシルヴェストスの一大行事だ。

 今でも、夜に見る夢のレパートリーが尽きればあのステージを夢に見る。完全が暗がりに覆われた舞台袖から見る、白く輝く珊瑚礁のような舞台。

 卒業生で構成されたオーケストラがそれぞれのあるべき席に着く。

 最後に指揮者が舞台へ歩み出る。細波のように寄せられた拍手は、そこで勢いを増して津波のように押し寄せる。

 観客席を立つ姿に気づいたのはケヴィンだけだった。何千という人の二倍ある手が激しくぶつかり合う最中、席を立った兄は静かにケヴィンの元へやってきた。

 どういうことだ? とヒースはケヴィンに聞いた。何故お前はこんなところにいるんだ? とも。

 舞台袖には既に演奏を終えた卒業生や、調律師が控えていた。ヒースが入ってくるのを止めるものはいなかった。

 演奏が始まる。音に引かれてケヴィンの視線は兄から舞台へ移った。

 一斉に構えているオーケストラの中で、一人だけ椅子に深く座ったままの男がいた。手に持った弓を弦につがえることもなく、イゼットは待っていた。

 指揮者が壇上に立つのをイゼットは待っていた。他ならぬ指揮台の上から無言の催促を受けても、イゼットは厳しい目でケヴィンを見つめていた。

 いいんだ、とケヴィンは言った。その言葉は兄に向けてのものでもあり、親友へ向けてのものでもあった。終わったらゆっくり話そう。

 イゼットの表情が歪み、ようやく手にぶら下げていた弓をチェロの弦に添える。

 ヒースはもう何も言わなかった。ケヴィンが舞台袖からも降りてしまうと、ヒースは黙ってそれに続いた。誰もそれを引き止めなかった。その日の演目にケヴィンの名前は無いのだ。引き止める理由が無かった。

 観客席にいた父と母は演奏会が終わってから帰ってきた。彼らも何も言わなかった。ただ母は首を傾げて、楽しみにしていたほどでは無かったわ、と言ってケヴィンを抱き締めた。すっかり全ての演目を静聴しきって家に帰ってきた両親は平然としていたが、その日の夜まで二人が長い間起きていたことをケヴィンは知っていた。

 屋敷の一階にピアノがあった。譜面台にはまだ楽譜が乗ったままだった。手書きの譜面はもはやケヴィンにしか読めないような文字で埋め尽くされていた。ケヴィンはそれを執事たちに回収される前に片付け、海辺で燃やした。

 あの曲はまだタイトルすらつけていなかった。曲を聴いた誰かにつけてもらおうと思っていた。両親か、兄か、親友か、執事の誰か。誰でもいい。ちゃちな言葉で構わなかった。

 海辺でそれを燃やした時、燃え残った紙切れに残っていた“D.S.”の文字を、いつも夢の最後に思い出す。ダル・セーニョ。意味はセーニョまで戻れ。

 ——あの日に戻りたいかと問われれば、ケヴィンは否と答える。

 ——あの日に戻ることに価値を感じるほど、あの日から進んでいない。海を離れ、時間が過ぎた。それでもあの日の夢を見るたび、まだ自分はあの場所にいる。

 あの暗い舞台袖に今も立っている。

 今もあの暗がりの中に立っている。

 白く熱い光に目を細めて、心地よい暗闇の中に沈んでいる。

 そしていつものように——夢から目覚める。

「……のよ、なんなのよ!」

 苛立った女の声。淡いフローラの香り。

「こんなの聞いてないわ……」

 囁くような声だが、震えてはいない。言葉を発しているのは彼女自身を落ち着けるためだ。そして落ち着こうと努める人間は頭が止まっていないことを示している。よりよく物事を考えるため、より早く決断に至るため、己に冷静さを求める。魔法道具でも、全てを壊す宇宙人の後輪でもなく、自分の知識と経験に答えを探す。

 そんな後輩に先達がすべきことは差し出がましい助言のみだ。

「落ち着け」

「だから……

 彼女が振り返る。その仕草によって髪が靡いた。ついさっきまで結えていたのか、ウェーブがついている。

 プールサイドで見た時と左右対称のウェーブがそのブルネットについている。

 ティア・サンテゴは目覚めたケヴィンを驚愕の瞳で見た。

「起きたのね」ティアはサッと身を翻し、ヒールを鳴らして枕元へ寄った。そして身を起こそうとするケヴィンの胸に手を当てた。「動かないで。安静に……」

「今、何月何日だ?」

「まだ年は明けてないわ。十二月の第一週、日曜日よ」

 その日付はケヴィンが最後に見たカレンダーの日付から二日後だ。すこぶる経過が良い。全てにおいて。

 ひどく殺風景な病室だった。セントラルの大病院とは比べ物にならない。壁はクリーム色で平和に塗られているが、四隅が若干剥げている。床の淡い緑と白のタイルはいかにも安っぽい。

 ただそれに反して、ケヴィンが寝ているベッドはセントラルの大病院で使用されているベッドと全く同じだった。救急治療室で使用されているキャスター付きのベッド。そばに備え付けの心電図や点滴を吊るすラックも新品同然の輝きを持っている。

 ティアは黒いタートルネックのニットにグレーのスラックス、そして黒いヒールを履いていた。細いチェーンのネックレル以外にアクセサリはつけていないが、彼女のはっきりした顔立ちを引き立てる化粧がなされている。

「ナース服より似合うな」

 ケヴィンがそう言うと、険しい顔で機材を見ていたティアはハッとしたように顔を上げた。そしてケヴィンの顔を見て、ようやく微笑む。口の左端だけを上げてニヒルに笑った。

「ありがとう。あなたは……やっぱり入院着が死ぬほど似合わないわね」

「なんでこういう服は馬鹿の一つ覚えみたいにパステルカラーしかないんだ?」

「そのコスチュームに懲りて、病院にお泊まりするようなお馬鹿さんが一人でも減るようによ」

「賢いな」

「口が回るわね。あなた、車に轢かれても碌に怪我しないし、今もテストが終わった学生みたいに元気だわ」

「君が本当にISCに入社したら、その時はきっと俺が恋しくなる」

 ティアは大きく肩を上げ、それから勢いよく落とした。「ねえ、あのキルヒャー……いえ、ミハイレ人事統括みたいな人ばかりなのかしら、ISCって」

「君をISCに紹介するのは、キルヒャーがもっと昇進した後にするべきだったな」

「ええ。でもその一点を除けば、あなたに感謝してるの」

 ティアはラックに吊り下がっていた点滴の密封袋をラックから外し、自動厚弁を装着してからケヴィンに持たせた。「これでいいわ。さあ、着替えて。あなたを目的地まで送り届けなきゃ、私のこれまでの転職活動の苦労がパアになる」

 機材が乗せられていた台の下に据え置きのボックスに衣服が入っていた。いかにも今日、医療量販店で買ってきたばかりと言わんばかりの無地の服だ。黒のパーカーにズボン、白いシャツ。季節を思えば薄手だが、文句を言える立場のものはいない。

 ケヴィンは身体中についていた電極を剥がし、点滴元のパウチを口に咥えて着替えた。ティアは慣れているのか、ケヴィンが全裸になってもすぐそばで機材の操作をしている。次々に画面のウィンドウが閉じていき、最後に彼女は外付けの端末とコードで繋ぐと、タッチペンでいくつかの作業を行なった。

「ほんの一ヶ月で随分手慣れたな」

「講師が良かったのよ。通信教育だし、随分ぼったくられたけど」

「それ以上の見返りをすぐに手に入れる。君は筋がいい」

「あなたからの招待状、もう一枚くらい書いて貰えば良かったわね」

 ケヴィンは声を出さずに笑った。着替えを終えると、既に上着を着込んでいたティアが先立って部屋を出る。

 部屋の外も同じタイルの床とペンキの塗り替えが必要な壁が続いた。他の部屋には当然のように別の入院患者がいて、白い制服を着た看護師たちが様子を見ている。とはいえどちらも数は少なく、小規模な診療所のようだ。

 待合室のような広い部屋が奥に見えたが、ティアはその手間の非常口のドアへケヴィンを促した。診療所の裏に車を用意していると彼女は言った。うんざりした顔で。

「バックオフィス志望だっていうのに、入社試験が要人移送ってなんなのよ?」

「社用車を使う機会はあるだろうからな。傷をつけなければ上等だ」

「突然呼び出されて、そこに寝ているあなたを見た時の私の気持ちが分かる?」

「さあな。だが一つだけわかることはある。ここで俺が分かるよと言った時、君はさらに機嫌を損ねる」

「あなたって本当にお喋りだわ!」

 外は青空に反してひどく冷たい風が吹いていた。気にも留めなかった腹部の引き攣るような嫌な痛みがぶり返す。

 黒いバンの助手席に乗ろうとしたケヴィンを、ティアは押しのける様にして後部座席へ詰め込んだ。そして自分は運転席に乗り、シートベルトを装着する。ルームミラーの角度を直し、座席の位置を調整する。

 

 車の窓から見える景色は、そこがイーゼイ区であることをケヴィンに教えた。遠くには隣国との国境地帯を見下ろすために聳え立つ城塞がある。かつては真実城塞だったそれは、この国が王国から公国へ名前を変えた時から文化財となった。かつての王国首都にふさわしく、イーゼイにある家々は揃って堅牢な煉瓦造りの伝統的なものが半分以上を占めている。

 道ゆく人々は買い物や散歩を楽しんでいた。中央線もない石畳の車道を、バンが法定速度上限いっぱいで進む。

「俺の可愛い息子は?」

「なんのこと?」

 ケヴィンは首を回し、座席のさらに後方にあるトランク部分を確認したが、そこにはISCの一般的な備品があるだけだ。多重圧縮されたステンシールド、炭素系圧縮剤が使用された警棒。ビームライト、警告用の噴煙。防寒着、スパイクストリップ。ガムテープ。

 そこにケヴィンの探しているようなものは無かった。

「あの女……」

 チッ、とケヴィンが舌打ちする。ハンドルを握っていたティアが前方を見据えたまま「なんなの?」と言った。「これ以上私に変な試験を受けさせないで」

「キルヒャーは俺を何処に連れて来いって?」

 車は高速道路の入り口へ向かっている。まず間違いなくセントラル区内に目的地があることは確実だ。だが詳細までは聞いていない。詳細を聞くよりもキルヒャーがフリーランスの医師を見つけ、手配する方が余程早かった。

 高速道路の料金所を通過する。路肩に立てられた電子看板に道路状況の警告が流れている。それによると、午後には雪が降るかも知れないということだ。

 空はまだ晴れている。だが東側の空には灰色の影をぶら下げた雲が浮いていた。車はそれから逃げるように西へ進む。

「点滴は好きな時に抜いていいわ。パッチが紙袋の中に包まれているから、注射口に当てておいて。眩暈がするようなら言って——車は停められないけれど」

「もう抜いていた場合は?」

「パッチだけ貼っておいて。それから水分補給を」

 後部座席に無造作に置かれていた紙袋の中には、言われた通りのものがあった。それだけ二重に袋に入れられた医療用品。生理食塩水。そして愛飲している銘柄のタバコとライター、携帯——これらはケヴィンの私物だ。

 ケヴィンはもはや点滴の針がどこに刺さっていたか覚えていなかったが、それらしい場所に貼った。そしてペットボトルの中の水を飲む。一口飲んで一度蓋をしたが、思い出したように喉が渇いていたことに気づいて、結局半分近く飲んだ。

「あなたをこれからセントラルの駅に届けるわ。それで私のテストは終わり」

「駅前の道路は混雑してるぞ、車線移動に注意しろ。ターミナルを何周もする羽目にある」

「正面口からは行かない。国際空港行きのモノレール口につける」

 国際空港行きのモノレール乗り場は駅の裏側だ。構造上は駅と一体化しているが、多くの人が利用する地下鉄やセントラル内、各区へ広がる路線へのホームとは離れているため、駅構内の売り場やショップに用がないものは裏側から入れば混雑を避けられる。

 何より駅裏側は正面と異なり、空港との行き来が多いためか旅行会社のバスやタクシー会社のための広い駐車場がある。

「あなた……今度は何に巻き込まれているの?」

 ティアがルームミラーごしにケヴィンを見た。「中央病院にいた頃より顔色が悪くなっているんじゃない?」

「俺にもよく分からない」

 ケヴィンはようやく座席に体を完全に預けた。曲がり角も何もない高速道路では車が揺れることもない。眠ってしまいそうだった。

「俺は面倒ごとは嫌いだ。だからいつもその場その場で、後腐れの無いように物事を決めてきた。なのに何故かいつもトラブルが起きる」

「分かる気がするわ」

 ほぼ即答でティアがそう言い、言ってから彼女は「気分を悪くした?」と聞いた。

 ゴー、と風を切る車の走行音がノイズのように耳に馴染む。ケヴィンは、いいや、と言った。それはひどく気の抜けた声だった。

「あなたって冗談ばかり言うから、見ているとむしゃくしゃするのよ。今日だけで私がこうなんだから、あなたの恋人なんかは大変でしょうね」

「今は堅物な男がモテるのか?」

「いつだってそうよ、カタギリさん。あなたなら分かるでしょ」

 ケヴィンが首を傾げると、ティアは大きく息を吸った。そして弾丸のように吐き出す。少し緊張がほぐれてきたようだ。

「病院にいると色んな人を相手にするの。病気になって、まるで他人の罪を着せられたような気でいる人や、運動不足と酒の飲み過ぎが神の御意志であるかのように訴える人なんかね。珍しくないわ。私たちもそんな勘違いにいちいち目くじら立てるほど暇じゃないの」

「でもね、偶にいるのよ。何が起きても平気な顔をしている人が。まるで私を自分の娘か孫かだと勘違いしているのか、病室に監視カメラがついていて、患者が弱音を吐くたびそれを見ている誰かに笑われるんじゃないかって思っているのか知らないけれど、彼らはいつも黙って、口を開けば楽しい嘘の作り話しかしないわ」

「むしゃくしゃするのよ、そういう人を見ていると。そういう人のために、私は……」

 そこまで言うと、ティアはもう一度短く息をついた。

「——それによくよく時給を数えたら低いんだもの。他人のことを考える前に自分の身の振り方を考えなきゃ。あなたも転職したら?」

「君は知らないかもしれないが、俺は割と給料がいいんだ」

「私がそう言えるくらいになるのは何年先かしら」

「チームプレーが出来る時点で重宝されるはずだ。上に行くほどワンマンプレーのやつばかりだからな、俺みたいに」

「私はチームでいいわ。あんな寂しい病室で目覚めたくないもの」

「信用できないかもしれないが、福利厚生に関してはそれなりにしっかりしているから安心しろ」

「ええ、期待してる」

 会話の最中でも、ティアがケヴィンの滑舌や反応を観察していることをケヴィンは感じていた。意識してそうしているのか職業病か、どちらでも構わない。まさか自分が誰かをスカウトすることになるとは思わなかったが、紹介状を書いたことは間違いではなかった。

 その運転席から漂う空気が微かに変化したのは、高速道路を降りて間もない頃だった。

 ケヴィンは半分微睡んでいた。それでも戸惑いの気配を感じて顔を上げた。

「どうした」

「気のせいかもしれないけれど、同じ車がずっと後ろにいるの。高速道路ではいなかった」

「どの車?」

「間に一台入って後ろにある車。黒の……ごめんなさい、車種には詳しくないんだけど」

「運転を続けて」

 ケヴィンはルームミラーに視線を当てる角度を調整した。バンの真後ろは老人が運転する軽自動車だ。助手席にボーダーコリーがいる。

 半円状にくり抜かれたその軽自動車のフロントガラスとバックガラスを透かしてさらにその奥を見る。

 黒い車が走っていた。ただの黒と呼ぶのも少々躊躇われるような、純黒の車体。滑らかなボディラインは前方がなだやかに盛り上がり、後方へかけて窄まり、小さな山を描いている。

 横から見ると、走る犬のようだ。

「停めてくれ」

「えっ?」

「俺はここまでだ」

「待ってよ、何を言ってるの?」

 ケヴィンは運転席の方へ身を乗り出した。道路状況は平常だ。セントラルの中心部からはまだ距離がある。駅の外側を迂回して裏口につける、そのルートに入ったばかり。まだ横道はいくらでもある。

「この先で適当に横に折れて、停めてくれ。俺はそこで降りる」

 ハンドルを握る手の間を擦り抜けて腕を伸ばし、ウィンカーを上げる。ティアが短く悲鳴のような声を上げたが、車は外から見る限りでは礼儀正しく右折レーンへ移った。

 右折先には商工会議所の建物があったが、日曜日は休業しているのか、駐車場に停まっている車も、その前を歩いている人もいなかった。ガラス張りになった正面側にはスクロール式のカーテンが降りている。

 ティアが何度も質問の切れ端を投げかけたが、ケヴィンは無視して車を降りた。紙袋から煙草とライター、携帯だけ持ち出してポケットに突っ込む。

「キルヒャーには五分遅れると伝えてくれ」

「ちょっと!」

「これもテストの一つだ。先に行って場を繋いでおいてくれ、初任給が上がる」

 そう言って後部座席のドアを閉じて離れようとしたケヴィンの腕を、ティアが開けた窓から伸ばした腕で掴んだ。

「あなたを無事に送り届けなきゃいけないのよ」

 無事に、という部分は彼女のアドリブだろう。無意識に強調されたその部分には、やはり彼女の思想が強くあらわれていた。

「無事に追いつく」とケヴィンは言った。背後の商工会議所の駐車場へ黒い車が滑らかに入っていく。「尾行なんてするな。お互いもう相手の車は覚えた。それに五分なんてすぐだ。キルヒャーに俺の愚痴でも言わせておけばいい」

 濃いブラウンの瞳がケヴィンを睨みつけた。検視官のような目つきだ。

「五分過ぎたら、その時点であの車のナンバーを警察に言いつける——私の上司を拉致した車だと」

 ティアは外していたシートベルトを付け直すと、突き飛ばすようにケヴィンの腕から手を離した。「五分よ。遅れないで」そう言って車を発進させた。

 ケヴィンがバンが道路を行き、先ほどの本筋へ戻る方向へ左折して行くのを見送った。

 そして振り返ると、すでにペルシアンはケヴィンの真後ろにつけていた。ケヴィンが腰をかがめれば、犬の鼻のように長く、濡れたように艶めくボンネットへ腰掛けることができた。

 運転手が少しでもアクセルを踏めば、再びその車はケヴィンを撥ね飛ばしただろう。

 しかしその車は静かに後部座席のドアを片方開けた。

 空が曇り始めていた。まもなく雨か、今年初の雪が降るのかもしれない。

 いずれにせよ足を動かさなければならない。ケヴィンは踵を返し、その車へ乗った。

「どうも」

 スエード生地の白いリクライニングに手をかけ、滑り込むように乗る。ドアは自動的に閉まった。

「どうも、お嬢さん」

 車が極めて静かに動き出す。運転手はスーツ姿の男だ。顔は若く、短く刈り上げた金髪に悪い印象を抱くものはいないだろう。

 ケヴィンが後部座席に座った時、何気なく内側へ投げ出したその手にひんやりとした細い指が絡みついた。

 後部座席は小さなリビングのように四つの座席が向き合っている。中央にある据え置きのテーブルには窪みが四つあり、その一つに飴色の液体で満たされたグラスが二つあった。

「お久しぶりです」

 と、アリエル・タゴンが女神のように微笑んだ。

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