第34話 血溜まりの中の沈黙
「彼らは君の肝臓をいくらで買ってくれるかな」
よく晴れたセントラルの街道を車が走っている。後部座席に座ったキルヒャーは流れていく景色を見つめながら呟いた。信号に捕まって停止したランドクルーザーの真横には花屋があった。銀色のバケツに詰め込まれ軒先に並ぶ数々の花束。
「俺がしくじったことは確定なのか?」
ケヴィンはハンドルを握った方の手に当たる太陽の暖かさを感じた。その熱で手をほぐすように指先を動かす。
「仮に君が潔白だったとして、申し立てをされた時点で私の仕事を増やしたのだからマイナスは発生しているんだよ」
「法務部にでも任せりゃ良かっただろ」
「法務部の皆は法律業務の専門家だよ。彼らにとってこの件は役不足だ」
キルヒャーは“役不足“の意味を間違えはしないだろう。ISCの法務部門、同じ上級派遣員のアルペンサは派遣員として外部へ出ていない限りそこに所属している。
確かに彼がこの場にいれば、調査は必要なかっただろう。申し立てを受けたその待合室で、あるいはその電子メール一通に対する返信の一通で終わる。それで終わらない事案は全て幹部会行きだ。ISCの上層部全員の決議を戴くことになる。
「端から君が秘密情報を漏洩したなんて誰も思っていないよ」
前方の車両からブレーキランプが消える。ケヴィンもブレーキペダルから足を離した。
「君がその程度の管理も出来ないなら、君をその職位まで昇進させた私たちに問題がある」
「結局、相手は俺が何をしたって喚いてるんだ?」
「君が去年二月まで締結していたクイーンズとの契約についての違反だよ」
キルヒャーは父親の車に乗せられて学校へゆく少女のように退屈そうだ。ずっと外を見ている。「職務上知り得た秘密情報を第三者へ漏洩してはならない。これは特別の定めのない限り契約終了後三年間有効とする——君が漏洩したと指摘されているのは、イゼット・ウィンターの警護中に知り得た彼の家族に関する情報だ」
「家族?」
「タゴン氏の私生活に関する醜聞を君が外部へ漏らした、とクイーンズは申し立てている。そのせいでクイーンズは大スポンサーであるタゴン氏との関係悪化をISCが招いた、という主張だね」
「漏れた先は?」
「三流ウェブライター、問題の漏れた内容については、タゴン氏の知り合いが記事になる前に抑えたそうだよ」
「随分と手際がいいな」
「醜聞が何か、という点は聞かないの?」
「ナイトプールで乱交パーティ開催のお知らせだろ」
「その通り」
降り注ぐ清らかな太陽の光、乾いた清潔な風。それとは裏腹に、隔絶された車内に飛び交う言葉はあまりにもあんまりなものだった。だがケヴィンは元よりキルヒャーにも言い淀む一瞬は存在しない。
セントラルの大通りに立ち並ぶ街路樹はもうすっかり葉を散らしていた。
「言っておくが、あのお嬢さんのパーティ癖は一年や二年で覚えたものじゃないぞ。キルヒャー、あれは筋金入りだ」
「それは君が言えた義理なのかな?」キルヒャーは相変わらず窓の外を眺めたままだ。「それとも、似た物同士だからこそ鼻が利くのかな」
「タゴンはクイーンズ設立当初からのスポンサーだぞ。そんな親代わりの性癖を、クイーンズが今の今まで知らなかったと思うか? ましてやクイーンズの社員はそのパーティの常連だ」
「へえ」
はじめてキルヒャーが興味を示した。窓ガラスにくっつけていた額を離し、小首を傾げて運転席の横に顔を覗かせる。「やっと面白い話になってきたね。お茶でもしながらゆっくり聞きたいな」
「茶が不味くなるような話だ」
「なら君は水でも飲んでいればいいよ」
キルヒャーは「次の角を右に曲がって」と簡潔に指示した。「雑誌で紹介されていた喫茶店がこの先にあるんだ。予約を入れてあるから、一緒に食事をしましょう」
ケヴィンもそうであったように、キルヒャーも朝食を摂っていなかったらしい。今の時刻は朝食にしては遅すぎて、昼食にはまだ早い。だが遅めのブランチとしてはこれ以上になく最適な時刻だった。
キルヒャーが指定した店はとても小さな喫茶店だった。とても雑誌で紹介を受けるとは思えないような古いファンタジー小説にありそうな民家が、まるで空から降ってきたビルに押しつぶされかけているようになっている。
隣に砂利を敷いたスペースがあり、白い粉でPの文字が書かれていた。そこに車を停め、今にも音を立ててプレスされそうな一階部分のドアを押し開く。古びた木製の枠に磨りガラスが嵌め込まれたドアは、内側に錆びたベルをつけていた。
「こんにちは」
キルヒャーがそう言って先に入る。
店は縦に長く、低めのカウンターとデザインや形が不揃いのテーブルが窓際に三つあるばかりだった。客は誰もおらず、カウンターの中で髪を引っ詰めた妙齢の女性が本を読んでいた。
客がいないにも関わらず、カウンターには二人分のホットサンドとガトーショコラ、空のグラスが置かれていた。
女性はキルヒャーの顔を見ると、本を畳み、ステンレスのやかんを音を立ててそこへ置いた。そしてそれきり、無言でカウンター奥のドアに消えた。
「このお店、水はセルフなんだ」
キルヒャーは上着を脱ぐと、カウンターの椅子の背もたれにかけて、自分はその椅子へ座った。慣れた手つきでやかんを手に取り、カップの一つに注ぐ。香りからして紅茶のようだ。
ケヴィンは隣の席に着いた。目の前にはホットサンドとケーキがある。どちらも木製の皿にペーパーを敷いて、焼きたての余熱を漂わせている。
キルヒャーはケヴィンに「使う?」とやかんを揺らした。ケヴィンは受け取り、自分のカップにも同じように注いだ。
「クイーンズの言い分としては、俺がイゼットを警護している最中に知ったアリエル・タゴン主催の家族パーティのことを外へ漏らした、タゴン家は危うく愉快なパーティの予定がおじゃんになりかけてお怒りだ、どうしてくれる、ってところか?」
「かいつまんで言えば、そうだね」
「俺が漏らした相手の三流記者の名前は?」
「名前を知ったところで意味はないよ。記者と言って、所属している会社なんて無い。情報や写真を売り込んでいる側の人間だった」
キルヒャーは会話の合間の時間を正確に把握し、その時間内に収まるひと口を定め、食事をしていた。ケヴィンはまだ紅茶の入ったカップを手に持って、口を濡らしてもいない。
「で、その誇り高きジャーナリストに俺がいつ情報提供したって?」
「君が轢き逃げ事故に遭った日」
ケヴィンが紅茶を飲んだ。よく蒸らされた紅茶の濃い香りを感じる。
「記者はフロスト区で活動をしていたようでね、あの日、君とウィンター氏がいるところを見つけて追った。そして君とウィンター氏が二人で食事をし、酒を飲んだ君が周囲にも聞こえる程度の声でタゴン家の良からぬ噂について話すのを聞いた」
「クイーンズは俺が記憶喪失だってことを知っていて、そう言っているわけか」
「勿論」
ケヴィンが考えていることを、キルヒャーもまた、あるいは既に考えていたらしい。彼女は短く答え、喉を潤す。
その記者の証言をケヴィンは肯定も否定も出来ない。あるいは、今ここでそんなはずはないと主張すれば、クイーンズはケヴィンが事故直後に病院で行った理学検査の結果を取り出すだろう。その数値はケヴィンの記憶喪失を証明しており、そして今日まで記憶は戻っていない。
仮に、今この瞬間ケヴィンが記憶を取り戻したとて、自分に都合の良い記憶を取り戻した病人の証言を真に受ける者はいないだろう。
「まあ、だから我々としては君の無実を信じてはいてもその照明が難しい。だから別の道から解決を図ろうと思っている」
「俺が漏らした情報は既に秘密じゃなかった、という証拠を掴む?」
「それが一番手っ取り早いだろうね」
「——いや、それは待ってくれ」
キルヒャーが二口目の紅茶を飲もうとした手を止めた。既に彼女のホットサンドは半分以上なくなっている。
「その手段に出るからには、クイーンズには俺が当時のことを覚えていない、よって記者の証言の信憑性をISCとしては認められない、と主張することになる」
「そうだよ。記者の証言は記者が言っているだけで、証拠のレコーダーもあったが、他の客の声もあって不鮮明な部分も多い。ISCとして、やったかどうかもわからない過失については謝罪できない」
「それを聞いてクイーンズがはいそうですか、と引き下がると思うか?」
「……彼らが何かカウンターを用意しているって言いたいのかな? 新しい証人を連れてくるつもりなら、最初から全員そろえるだろう。後出しで証人を増やしても、それは寧ろクイーンズの立場を怪しくするだけだと思うけど」
「元よりこの申し立て自体随分とおざなりじゃないか。キルヒャー、お前もそう思っているっからこそとっとと片をつけようとしている」
キルヒャーがカップを置いた。ソーサーがないため、カップはカウンターを打つ。長年使われているのだろう、ニスさえ擦り切れて元の木材に染み込んだカウンターは微かな弾力をまとっている。
「クイーンズの目的に心当たりがありそうだね」
真っ直ぐな目に貫かれ、ケヴィンはそこで言葉を止めた。舌先まで出かけたそれを喉に押し返す。
行ったところでどうなる、という思いがケヴィンの中にあった。キルヒャーの考えとやろうとしていることは最も正しい選択だ。ISCが企業として目指すべき終着点へ向かう道の中で最も道のりとかかる時間が短いものを彼女は選ぼうとしている。
ISCの一員としてのみ考えれば、文句を言う必要はない。寧ろ自分の無実を信じ、契約相手に対してもなお疑いの時点では正式な謝罪を行わない時点で、ISC内部への信頼とはいえケヴィンに対して好意的な判断をしている。
だが。
「食べないの?」
キルヒャーがたった今思いついたと言うような口ぶりで言った。そんなはずもないのに。
ケヴィンは自分の皿をキルヒャーの方へ押した。
「食べながら聞いてくれ」
「これは君の奢りかな?」
「当然だ」
機械的な微笑みをキルヒャーが浮かべる。ケヴィンはわざわざそのことを確認しなかった。
「クイーンズが違反を申し立てることで確実に起きることは、ISCによる調査だ。そしてキルヒャー、お前が俺に当日のことを聞くが、当然俺は覚えていないと言う。そうなればISCとしては当時俺が本当にタゴン氏のフェチについてバラしたかどうかは確認できない、だから過失を認められないと答えるほかない」
ここまではキルヒャーが既に考え、計画していることだ。この前提のため彼女は別の切り口から終着点へ向かおうとする。
それ自体は間違いではない。そうしていい。ISCとしてはそうすべきだ。
「だが、クイーンズはどう出る? 自分達から申し出た内容が『本人の記憶に無い』と返されて、ISCが別の切り口で完全に切り崩すまで、あいつらが居眠りをして待っていると思うか?」
キルヒャーは黙ってホットサンドを咀嚼している。焼き目のついたパンと水々しいレタスの噛み砕かれる音。視線も何も向けられていないが、もし要求すれば彼女は一字一句違わず、レコーダーのようにケヴィンの言動を繰り返しただろう。
「ISCがそうとしか返せないのは分かりきっているはずだ。ならその分かりきった返答を貰うためにクイーンズが今回の申し立てをしたとすれば——」
記者の証言を裏取るには、まず当事者のケヴィンが調査を受けるのは当然だろう。
だが、当事者はもう一人いる。
「我々がウィンター氏へ接触することは禁止されている」キルヒャーが先に言った。「当然だけれどね、当時の契約に基づけば、ウィンター氏はクイーンズ側の人間なのだから」
「そうだな」
ケヴィンは左のこめかみに手を当てた。「そうだ。この契約を蒸し返せば、クイーンズはイゼットをもう一度取り戻すことになる。事実確認、調査協力、なんでもいい。その間は、イゼットをクイーンズの人間扱いできる」
「クイーンズはウィンター氏を復帰させたいのかな。そんなはずはないと思うけど」
クイーンズにとってイゼット・ウィンターは大手スポンサーの愛娘であるアリエル・タゴンを弄んで捨てた男だ。そういうことになっている。その男の名前を、クイーンズ・レコードの下にもう一度飾ることは不可能だ。
だが、この茶番のような違反申立てにより、クイーンズはイゼットに接近しつつある。
クイーンズはイゼットに近づいても、彼をもう一度迎え入れることは不可能だ。
——クイーンズ以外なら?
ケヴィンの脳裏に思い出されたのは、エイレーの夜と荘厳なオペラハウスだった。イゼットに渡された特別観覧席。
公演が始まってなおも貼り出されていた“当日券販売中“の文字。
そしてエントランスに飾られていたケーニッヒ交響楽団のシンボルを描いた垂れ幕。
その裏、数々の支援企業、団体の頂上に記載されていた名前——クイーンズ・レコード。
クイーンズ・レコード。ケーニッヒ交響楽団。イゼット・ウィンター。
「……イゼットを楽団に売り飛ばす気か?」
イゼットが楽団のスカウトを受けたのは昨日今日の話ではない。楽団は悠長なほどイゼットに猶予を与えている。長い歴史と伝統と誇り故に選ばれる自信があるのか、それとも、選ばれるに違いないという根拠が他にもあるのか。
ケヴィンが携帯を取り出し、画面を操作した。
ケーニッヒ交響楽団、楽団員——その全員の名前と経歴が記載されているはずもなく。
「キルヒャー」
「うん?」
「当時の契約が蒸し返された今、ISCにとってイゼットは客か?」
「いいや。彼は既に過去の客で、君の経歴の一つでしかない」
キルヒャーは淡々と続けた。「君の考えていることはなんとなく分かるけれど、ISCが今、ウィンター氏の為に何かをする理由は無い。そしてそれは、君にも言えることだ、カタギリ上級派遣員。君の友情には心が温まるよ、だが」
そこまで言って、キルヒャーは顔色ひとつ変えずに続けた。
「君が君の友人の為に何かをしようとしたとして、ISCがそれに協力する理由は無い」
「なら、お前はどうだ」
「私?」
キルヒャーはやはり顔色を変えない。彼女がどれだけ驚いた顔をしてみせたとして、彼女にどれだけ突拍子のない言葉をかけてみたとして、時々彼女は全ての状況を、とうの昔にすっかり想定してこの場に臨んでいるような振る舞いを見せる。
だからこそケヴィンもまた、今この場で考えたことを更に捏ねくり回すことはしなかった。
「最近は支所の視察ばかりで退屈じゃないか、キルヒャー」
「報告連絡相談は速やかに、かつ明確に。双方に誤解が無いようにね」
「俺と楽しいことをしないか?」
キルヒャーは何も言わなかった。その口元はかすかな下向きのカーブを描いているが、それだけだ。
「ケーニッヒ楽団の構成員、演奏家だけじゃない、運営スタッフまで全員の経歴を洗ってくれ。その中にクイーンズレコードの所属歴がある人間がどれぐらいいるか。その逆もだ」
「訳のわからない君の友情ドラマを対価に、私の仕事を増やすつもり? 個人撮影のおざなりなドラマに興行収入があるとは思えないな」
詩を諳んじるようなキルヒャーの声に、ケヴィンは首を振った。横へ。
そしてケヴィンはフォークを持ち、ガトーショコラを半分に割った。
割れたショコラの中から、表面よりさらにまだ熱を保ったチョコソースが流れ出した。
「キルヒャー、これはもっと簡単な足し算と引き算の問題だ」
まるで血のように。
「俺の肝臓がいくらで売れるか、興味はないか?」
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