第33話 パラダイスロスト(3)
そこまで読み上げると、キルヒャーは紙をくるりと翻し、文面をケヴィンに見せた。
そしてそこには間違いなく、たった今キルヒャーが読み上げた内容が記されていた。文末には契約締結主であるクイーンズ・レコードの法務部門責任者とISC幹部の名前がある。
書面の日付は今日だった。
「ISCはこれより現地調査、及び当該派遣員への聞き取りを開始します。調査結果の提出までの期間、ケヴィン・カタギリ上級派遣員は全業務を停止し、履行中の全ての業務はシーシャ・エンドアインが継承します。この措置に関する当該派遣員からの異議、調査への不参加は認められません」
キルヒャーは書面を畳むと、それをシーシャへ渡した。シーシャへの業務継承についてもその書面に記してある。
「既に666のお二人には事情を説明させて頂いた。君に預けている秘密情報の有無、今日以降のスケジュールは確認した。君が管理している個人的な業務表もシーシャへ転送するように」
「キルヒャー——」ケヴィンは言いかけて、付け足した。「キルヒャー人事部門統括、質問を」
「なに?」
「私は一体何の情報を漏洩したと疑われているのでしょうか?」
「それはこの場では言えないな。秘密情報だからね」
「そうですか」
ケヴィンは頷いた。「それはつまり、今締結中の666の警護業務に関しての秘密情報ではない、ということですね。もしそうなら、666の前で言えないはずはない」
「小賢しいことを聞くんだね。その通りだよ」
キルヒャーはうっすらと微笑んでさえいた。キルヒャーは色のついた口紅を塗らない。だが濡れた唇がひどく蠱惑的だった。
ケヴィンが参加したクイーンズ・レコードとの契約は二つだ。今も期間中の666の警護と、それより前に完遂されたイゼット・ウィンターの警護。
契約の有効期間は原則として契約期間と一致する。既に終了したイゼットとの契約について今更権利を発揮することは普通ない。
だがその例外の一つが秘密保持だ。これは特別の取り決めがない場合、契約終了から三年間は知り得た秘密を秘匿する義務を負う。
故に契約終了後でも三年以内であれば、違反に意義を申し立てることができる。
「——聞きたいことがあるのですが、いいですか?」
ふいにミランが口を開いた。
キルヒャーが振り返り、丁重に「どうぞ」と促す。
「既に説明を受け、調査の正当性は理解しました。ISCの迅速な対応について、契約中の身としては信頼性を感じる。だが過去の契約違反に関する調査のために、今まさに契約中の俺たちから派遣員を取り上げると言うのは少々遺憾だ」
敬語を使っていたのは前半だけだった。だがそのことを誰も指摘しない。ミランの主張それ自体は正統だった。666からすれば、同じ会社が結んだ契約とはいえ自分達とは関係のない別契約の調査のために、自分達が受けているサービスが突然変わるのだ。
「個人的な所感で申し訳ないが、俺はカタギリ派遣員に信頼を置いている。彼を今担当から下されるのは不安だ。特に間も無くドミトリはドラマの撮影があるし、年末には大規模なライブもある。メディアへの露出がさらに増えるこの時期に慣れている担当が変わるのは困る」
「お考えはご尤もです」キルヒャーは優しく肯定した。
「とはいえ、ISCの調査の必要性も理解できる。俺たちも毎日、一日中彼を拘束しているわけじゃない。調査と担当を並行させることは可能では?」
キルヒャーは目をかすかに細め、ミランを見た。
「我が社の派遣員とその業務態度に高い評価を頂き、人事統括として大変嬉しく思います」
そう言って低頭する。シーシャもほぼ同時に、そして同じ角度で低頭した。まるで二人は一本の糸で繋がれているようだった。
「本来であればお客様の不安を取り除くべく尽力するのが誠意と承知しております。しかし我々が第一に守るべきはお客様です。ISCは警備サービスを高いクオリティで提供します。そしてそれは、たった一人の天才が叶えているものではありません。個人とチームが緻密に連携し、お客様をお守りしています」
キルヒャーは朗々と語った。柔らかい口調だが、誰が口を挟む隙すらない綿密な網のように言葉を重ね、編み上げていく。
「こちらのシーシャ・エンドアインは先ほどもご紹介させて頂きましたように、ケヴィン・カタギリと同等の職位にあります。担当件数と業務実績は両者いずれも我が社のトップクラスに入り、優劣はありません。エンドアインは必ずお二人をお守りします。あらゆる外敵、不審者、強盗、非公式なメディア、一般人全てを想定しています」
キルヒャーは話し始めてようやくこの時、一度目の瞬きをした。瞬きをしても視線は変わらず、ミランただ一人を見ている。
「もしその上で不足であると仰るのであれば——それはカタギリ派遣員が個人的に行っていた、職務外の行為であり、本来ISCの提供業務範囲外となります。それを理由にしたご要望には、大変申し訳ありませんが我々として対応致しかねます。どうかご容赦ください」
キルヒャーはミランを見ていた。ミランもキルヒャーを見ていた。
二人は数秒、まるで恋人同士のように瞬きもせず見つめあっていた。しかし二人の間に流れている空気は、まさかそういった温度を感じさせるものではない。寧ろその真逆だった。
まるで他の三人には聞こえない無音の言葉を交わしたように、ややあってからミランは「そうですか」と言った。呆気ないほどに淡白な声だった。
「理解しました。子供のようなことを言いました。そちらの派遣員を侮る意図が無かったとはいえ、申し訳ない」
「どうかお気遣いなく。アーキテクト様のご懸念は当然のものです、本来起きるべきではない事態を起こした責任は、少なくとも今はISCのものです」それからキルヒャーはドミトリを見た。「カデシュ様は何か気掛かりな点などございませんか」
「私は特に……」
言いかけて、ドミトリはポンと手を打った。それは一瞬前まで漂っていた氷河期の空気を打ち払うような呑気な仕草だった。
「ああ、えっと」ドミトリは言いづらそうに顔に手を当てた。「個人的なことで申し訳ないんですが、調査に抜けられる前にカタギリさんと話したいことがあるんですけど」
「秘密情報ですか?」
「うーん、それがその、アーティストとしてではなくて、とても個人的なことで、ちょっとお恥ずかしい話がありまして」
キルヒャーはドミトリの顔を見つめたが、わかりました、と目を伏せた。「では私とエンドアインは此処で五分待ちます。五分後、カタギリ派遣員は私の方で引き取らせていただきます」
「ミランも一緒にいいですか? 一応彼にも関わりがあるので」
「ええ」
ミランが眉を上げるが、ドミトリはいいから、と言ってその手を引いた。ケヴィンは二人よりもキルヒャーへ視線を送るが、彼女は特段の興味もなさそうに建物前の通りを眺めている。
三人が部屋へ入り、ドアが閉じる。スタジオ内の部屋は防音性だ。それは地下スタジオ以外のこの部屋にしてもそうだった。
「どういうことだ?」ドアが閉じるが早いか言うが早いか、ミランが言った。「秘密違反? そんなことがあるか?」
「俺に言うな。俺が一番驚いてるんだ」
睨み合うミランとケヴィンをよそに、ドミトリは「あはは」とのんびりと笑った。
「ドラマみたいですね。これから撮影なのに、台本より面白いですよこれ」
ドミトリはまさか個人的な恥ずかしい話を切り出す様子など微塵も見せない。元よりそんなものがあるとはミランもケヴィンも思っていなかったが、一人別世界のようにマイペースな様子に思わず身体中の骨が抜かれていくようだった。
「パパ、俺がこれから怖い上司にシバかれるってのに、面白がるな」
「うーん、でも正直驚いてはいるんですよ。だって契約違反ってことは、さっきの書面もそうですが、少なからずクイーンズが企業として申立てをしたんですから」
これまでもトラブルはあったが、どれも個人間のものではあった。
だが少なくとも今は違う。ISCとクイーンズ・レコードの契約に基づき、クイーンズはISCへ違反申し立てをした。
ケヴィンは頬に突き刺さる視線の方を向いた。案の定、その大元はミランだ。
「おい、ボス。まさかお前あんなデカい口叩いておいて、俺が本当にやらかしたなんて思ってないだろうな」
「顔色が悪い」
「冤罪かけられて頬染めてほしいのか?」
ミランは息をついた。腕を組む。その仕草は自分自身を落ち着かせるようだった。
「……あなたがそんなことをするとは思っていない。今だって調査の段階で、何も確実なことは決まっていないんだ」
「ああ、ありがとうボス、持つべきは冷静な頭だ。間違ってもキルヒャーとやり合おうとするな、さっきの数秒で俺の寿命が一日縮んだぞ」
「だが、ドミトリの言う通りでもある。クイーンズがあなたを俺たちから引き剥がす。それが良い意味であるはずがない」
ケヴィンは口を開き、出かけた冗談を押し込んだ。真面目に考え込んでいるミランの眉間の皺を見て、それからドミトリに視線を移す。
ドミトリはケヴィンの視線に気づくと、尋ねるように首を傾げたが、表情は明るくはなかった。
ドミトリは閉じたドアを背にして立っている。施錠したドアノブを抑えたまま。
「一ついいか」ケヴィンが口を開いた。「シーシャは顔がいかついが、案外ユーモアがある奴だ。実力も間違いない。俺には十三人の愉快な同僚がいるが、文句なしで仕事を任せられるとすればあいつだけだ。だが辛党な点だけ気をつけろ、あいつに食料調達させる時、辛いものは絶対に頼むな」
ミランが顔を上げた。厳しい顔をしている。かけられる言葉の終着点を早々に悟ったのだろう。それでもケヴィンは続けた。
顧客が稼いだ五分間の貴重な時間だ。最後まで仕事をしなければならない。
「すぐに戻ってくるとは言えないが、よく出来たドラマみたいなことは起きない。ISCはそこまで馬鹿じゃない。つまらなく解決して終わるはずだ。だからお前たちは自分達のやるべきことに集中しろ、俺も俺で仕事をする。することは何も変わらない」
もうすぐ五分経つ。体感時間にはそれなりの自信があった。
「不甲斐ない仕事をしたことについては、本当に申し訳ない。最後まで全うしたかった」
ドアがノックされた。ドミトリがゆっくりとドアの鍵を開け、離れる。
「お時間です」
と、キルヒャーは優しい声音で告げた。そしてケヴィンを見る。「カタギリ派遣員、私と来なさい」
ミランとドミトリに向けていたものとは真逆の、本来の彼女の声がケヴィンを呼ぶ。ケヴィンは肩をすくめてから従った。
ドアを開けているシーシャの横をすり抜ける時、短く詫びた。シーシャは黙っていたが、深く被った帽子の奥の目が分かりやすく呆れていた。シーシャは目が雄弁だった。だからいつも帽子をかぶっている。
「キルヒャー人事統括」
——これ以上寿命を縮めてくれるな、とケヴィンは思った。キルヒャーと同質の淡々とした声が、今まさにスタジオを後にしようとしたキルヒャーとケヴィンにかかる。
地下スタジオへの階段の前で、ミランは去りゆく二人を見ていた。どちらへも視線を当てることなく、二人の隙間に焦点を当てていた。
「今後の調査について口を出せる立場でないことは承知の上で、もし調査において彼の……」
ミランの視線が一瞬ぶれる。ほんの一瞬で、あまりにかすかなそれは震えに似ていた。
「カタギリの振る舞いや言動に疑わしく、しかし証拠のない謂れがあった場合には、どうか彼は誠実であると信じて頂きたい」
キルヒャーはケヴィンを一瞬見たが、「それは個人的なお気持ちですか?」とミランに聞き返した。
「個人的な所感です」ミランはたじろぎもせず肯定した。「一年以上彼を見てきた人間の所感として」
「ああ、ついでに私も同意見で構いません」
ドミトリが手を小さく振る。にこやかに、まるでファンにするように笑顔で。
キルヒャーは二人をまるで、新しい法則を見つけた科学者のような目で見ていたが、やがてニッと口元だけで笑った。
「分かりました。貴重な参考意見として、確かに頂戴いたします」
ドアを開けていたケヴィンが手を離す。ゆっくりと蝶番に引かれドアが内側へと動く。
そして今度こそスタジオの扉が閉じた。
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