第32話 パラダイスロスト(2)

 「お前、何をしに来た?」

「同じ質問だな。弟、同じ答えを聞きたいのか? 俺としては兄と弟の絆を説くのはやぶさかじゃないが」

「——お前がイゼットのことを聖歌隊の奴らに吹き込んだのか?」

 ——そう。離婚のことが耳に入ったのか、里帰りする気はないかって。

 シルヴェストスはイゼットの故郷だ。だが考えてみれば、国外へ出たイゼットのその後をいつまでも追いかけてはいないだろう。仮に話題を聞きつけたとして、ならば離婚直後から時間の経った今というのは妙な話だ。管弦楽団の前団長は、イゼットがアリエルと離婚した時期にはとうに亡くなっている。

 代理団長で回している体裁の悪さに悩んでいる管弦楽団へ、誰かが噂話でも吹き込まない限りは。

「ウィンターの小僧はお前の事故を俺に隠した。はっきり言ってその時点で俺は奴が嫌いだが、お前にとって大事な友人だということは理解している」

 ヒースははっきりと肯定も否定もしなかった。ただ笑っている。

「お前が何を言っているのかは分からないが。ああ、そうそう、聖歌隊で思い出した。聖歌隊の管弦楽団がウィンター君をスカウトしたいそうだ。つい先日、楽団の幹部とばったり会う機会があって、その時に聞いたんだった」

「ヒース……」

「いいんじゃないか? 彼にとっても、第二の門出に相応しい」

「ヒース!」

 テーブルは小さなものだ。その奥行きは、ケヴィンが腕を伸ばせば容易く横断できる。

 襟ぐりを掴み上げられても、ヒースは笑顔のままだった。咳き込むその表情にはまだ余裕がある。

 ケヴィンは兄を腕一本で掴み上げ、額で額を殴りつけるような距離で冷徹な青い目を睨んだ。

「いつからお前は他人の人生を左右できるほど偉くなったんだ?」

「残念ながらまだ主任級だ」

「イゼットのことはイゼットが決める。口を出すな、手もだ」

「なんの話をしているのかてんで分からないな、弟」ゴホッ、とヒースは再び咳をした。「お前には俺が悪の魔王にでも見えるのか? 俺は兄だ。弟思いの兄だよ」

「俺のことを思うなら俺に構うな。俺に、もう二度と家族を貶めさせるな」

 ケヴィンはヒースの胸ぐらから手を離した。シャツの襟が、掴み上げられていた箇所だけ無惨にも皺になっている。

「お前に貶められたことなんて一度もない、ケヴィン」

「帰ってくれ」ケヴィンはテーブルにあったカップを二つ取り上げた。どちらもまだ半分は中身が残っていたし、温かかった。「元気な顔が見られて良かった」

 シンクの排水溝にコーヒーが流れていく。銀色のシンクを黒い液体が汚し、いくつか細かい飛沫が側面につく。水で流さなければ乾いてこびりつくだろう。

「帰ってくれ」

 冷えたシンクの縁を握り、ケヴィンは言った。

 しばらくリビングには沈黙だけがあった。ヒースは掴み上げらた際に立ち上がったまま、再びソファに座ろうとしなかった。ただシンクに項垂れている弟を見ていた。

「分かった」

 と、ヒースは言った。静かに。「今日のところは、俺もお前の元気な顔が見られたからよしとしよう」

 テーブルに置いていたラップトップ、ソファの足元に寝かせていた鞄。背もたれにかけていた上着。そうしたものをヒースは余りに手際よく回収した。

 だがその足は出口ではなくキッチンへ向かった。

「だが一つだけ兄の忠告を聞いてくれ。弟、お前はかつて自分が嵐に襲われ、今やもうそれは過ぎ去ったと考えているのかもしれないが……」

 ヒースは口元をケヴィンの耳に近づけた。

「それは違う。お前は今もまだ嵐の目に立っている。お前はもうずっと前から嵐の中心にいるんだ。お前が本当に静かで穏やかな生活を望むなら、お前は嵐の中から出なければならない」

「お前に何がわかる」

 ケヴィンが言った。視線の動きだけで全く同じ色の瞳が視線を交わした。

「分かるさ」ヒースは言った。「俺は嵐を外から見ているんだ。中にいるお前よりよく見えるのは当然だろ?」

 お前は俺に助けを求めることになる。ヒースは予言者のように確信を持って続けた。そして俺は喜んでお前に手を貸す。お前を嵐の外へ連れ出すために。

「弟、お前は絶対にシルヴェストスに帰ってくる」

 ヒースは軽くケヴィンの頭を抱き寄せると、すぐに体を離した。そしてそれ以上はなんら未練を見せることなく、軽い足取りでコテージを出ていった。

 外で車のエンジン音が鳴った。空気を震わせ、赤いテールライトが闇に線を引いて去っていく。

 ケヴィンは一人になってもまだキッチンに立っていた。カップを洗わなければならない、と想った。洗い物をして、それから夕食もまだ摂っていない。明日も仕事がある。昼前にはセントラルのスタジオへ行き、ミランとドミトリに会うだろう。

 下手に悪い顔色で出向けば、勘のいい二人はそれぞれに何がしか感じるだろう。特にミランは見当違いな勘違いすらしかねない。

 ヒースは気障な男だ。気取った言い回しに意味などない。ケヴィンはそう自分に言い聞かせた。家族思いであることは正真正銘その通りだが、度が過ぎた独占欲を今はたまたま弟で解消している。

 嵐はもう過ぎた後だ。全ての嵐がそうだ。過ぎた嵐に小石を投げても何にもならない。

 ケヴィンは取っ手がまだついている方のカップに水道水を汲んだ。そしてそのまま一息に飲み干した。薄くコーヒー味が滲んだ苦い水だが、却ってそれがカルキの匂いを誤魔化した。

 イゼットに連絡をすべきか迷った。だが止めた。電話をして何になるだろう。兄と会ったのか、兄に何か言われたか。それを問い正すのはケヴィンの自己満足だ。

 時刻は既に日付を跨いでいる。今夜ケヴィンがよく眠るためだけに、親友の眠りを妨げたくはない。

 シャワーを浴びてベッドへ戻る時、ヒースが脱がせたのであろうスーツの上着がサイドチェストに掛けられていた。

 ネクタイは——無い。ケヴィンは自分のネクタイを巻きつけた男のことをようやく思い出した。あのまま放心していたとすれば、交通警備隊が処置したはずだ。

 ケヴィンは数枚の小銭を持ってコテージを出た。すぐそばの道路を数百メートル歩いた先に公衆電話がある。

 ボックスに入ると、番号を押して耳に当てる。

 交通警備局の宿直担当だろう、やけに快活な若い男がすぐに電話をとった。

「もしもし?」ケヴィンは出来るだけありのままの草臥れた声を使った。「あの……実は、オータム区の友人宅へ向かう途中にパーキングへ寄ったんですが、その時にトイレで不良に絡まれて……その時にカードケースを落としたようなんです、探しに戻ったら、不良たちは警備隊に連行されたと聞いて……」

 電話先の警備隊によると、不良たちはトイレで普段から車上荒らしや物盗りをしていたらしいが、あの日は絡んだ相手にやり返されてしまい、もたついているところを警備隊に連行されたという。その日は直接の被害届がなかったことで警察署へ既に引き渡しがあり、詳しい調査は最寄りの警察署が行うという。

 電話相手はその後、すぐに盛大な音を立てて物を探し始めたようだ。いくつか押収したものがあるらしく、ケースの特徴などを聞いてくる。落とし物の届出をするかどうかも。

「ああ、ええと……カードケースというのが、会社で使っている名刺入れなんです。丁度新しく刷る前だったので、ほとんど空なんですが……関係者専用の入館証もそれに入れていて。クイーンズレコードのロゴが印刷されているものなんですが……」

 警備局が歓声をあげた。届いていますよ! と我が事のように喜んでいる。犯人に聞いたところ、自分のものではないと言ったため、数日は警備局での預かりとなったらしい。

 そこまで聞くと、ケヴィンは受話器を置いた。突然切れた電話に相手がどう思ったか。それを考えると良心も痛むが、公衆電話からの通話であれば小銭切れと思ってくれるだろう。

 電話ボックスを出る。そばの道路を走る車はない。遠くから聞こえる走行音もなく、静かな夜だった。

 空を見上げると、黒々と巨大な穴の底に白い穴がきらめいていた。

 風もない夜だ。雲もなく、星がよく見える。冬になり、雪が夜でも降るようになったらこれほど綺麗に星も見えなくなるだろう。

 ケヴィンは前へ向き直り、コテージへ戻った。予言など意味はない、と自分に言い聞かせながら。トラブルが起きれば処理するだけだ。日々発生するタスクのように。

 だが、この夜のケヴィンの祈りが実を結ぶことはない。ケヴィンは奇しくも数年ぶりに顔を見合わせた兄に預言者の才能があることを認めるほかなかった。

 

 翌朝、思えばもとより人相が悪くなった顔に顔色も何もないことに気づいてからコテージをでたケヴィンを出迎える人がいた。

 それは勿論ミランであり、ドミトリだった。

 だが彼ら二人だけではなかった。スタジオの入り口でドアを開けたドミトリは彼らしくなく無表情でケヴィンを迎えた。そして何かを言おうとした。おそらくとても小さな声で、何かを。

「ああ、来たね」

 凛としたアルトが鳴った。地下スタジオへの階段とは逆の、かつてドミトリが寝ていた部屋のドアから現れたのはキルヒャーだった。重苦しいロングコートに飾り気のないパンツスーツ。

 ケヴィンの背後から明るい午前の光が差し込む。眩く透き通った太陽の光が、キルヒャーの足元で突然躊躇うように途切れている。

 キルヒャーの背後からミランが現れ、そして最後にシーシャが出てくる。

 主にシーシャの所為ではあるが、スタジオ一階のフロアに漂う空気が吸いづらくなった。

「キルヒャー、どうした」

 ケヴィンは純粋な疑問を口にした。「年末ライブに派遣するチームでも決まったか?」

 ミランが微妙な顔をしている。気遣わしげな目をケヴィンに向けている。

 ドミトリは正面玄関を閉じると、ケヴィンの横で立ち止まった。

「久しぶりだね、ケヴィン」

 と、キルヒャーは嬉しさも何も感じられない声で言った。「と言っても、事故にあった君を見舞ったのが大体一ヶ月前だから、さほどでもないかな」

「今日はまだ轢かれてないぞ」

「うん、それは大変喜ばしいことだね。さっきまでそちらの部屋で、君の仕事ぶりを今666のお二人から伺っていたの、とてもきめ細やかなサービスだと褒めて頂いた」

 ケヴィンがミランへ視線をやる。ミランもケヴィンを見たが、その顔色は優れない。

「……朝から悪いニュースがありそうだな」

「そうなるね」

「こういう時は大概、悪いニュースと良いニュースがあるもんだが、俺にはそのバリューセットはないのか?」

「残念ながら、悪いニュースだけだよ」

 明朗な口調でそう言いながら、キルヒャーはコートのポケットから白い封筒を取り出した。ISCの印がなされた社用封筒だ。

 その中からキルヒャーが三つ折りにされた紙を取り出した。シーシャが手を差し出し、空の封筒を受け取る。

「ケヴィン・カタギリ上級派遣員」

 と、キルヒャーが読んだ。キルヒャーが呼んだ。ケヴィンのことを。

「クイーンズ・レコードとISCが締結した業務委託契約第二十四条の秘密保持義務について、担当派遣員ケヴィン・カタギリがこれに違反している旨、クイーンズ・レコードより申し立てがありました。これよりISCはクイーンズ・レコードからの指摘に対し、第二十四条第三項および第四十七条の誠実義務に則り、速やかな状況調査を開始します」

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