第27話 波の行く先(2)
ものの数分でスタッフは客室のテーブルに完璧な配置で夕食を飾り立てた。前菜の食用花をあしらった生ハムのサラダに、南瓜のスープ。魚料理はカルパッチョ、桃のソルベは室温と食べられるまでの時間を考えてか霜を的破らせたまま。旬野菜と牛のソテー、デザートはホイップを絞ったフォンダンショコラ、みずみずしいオレンジ添え。
二十二時という時間を考慮すべきかどうかシェフは悩んだだろう。だがホテルに戻ってきた時のミランやケヴィンの顔を見て、量を減らすべきではないと判断したらしい。それは正確な判断だった。
酒類は断っていたので炭酸水が出されたが、うっすらと柑橘系の香りがした。レモンかグレープフルーツだろう。
「前にこの近くにあるISCの支所から異動してきた派遣員からエイレーの土産を貰ったことがある」ケヴィンはグラスの水を飲んだ。「ガラス瓶に加工された花弁が詰まっていて、インテリアだと思って玄関に置いていたら蟻の巣になったもんだ」
ミランが笑った。食用花はエイレーの土産として有名だ。砂糖漬や茶花として加工されたそれは、一見すれば美しいインテリアにも見える。
「エイレーに生まれれば、幼稚園児でも自分の花壇を持つようになる」
「お前も育てたのか? 毎日水やりをして観察日記をつけた?」
「水をやりすぎて枯らした。庭で大泣きして、祖父母が何時間もかけて慰めてくれた」
「お前らしいな」
「花を枯らしたところが?」
「いや。花を枯らして大泣きするところが」
ミランがサラダを咀嚼しながら妙な顔をした。ケヴィンはフォークを握った手を小さく振った。
「ボスは感情豊かだからな、俺の周りにはあまりいないタイプだ」
「あまり言われたことはない」
「ドミトリには言われるだろ?」
ミランが視線を明後日の方へ向けた。言われた回数を数えているのかもしれない。ミランが冷酷に見えるのは表面的なものだ。不活性状態の火山と同じく、表面はひどく冷えて乾いているが、その下には赤々とした灼熱の溶岩が流れている。
問題は、わざわざ火山の火口を覗き込んだりする物好きは少なく、またこの理性的な火山は自らを冷やす手段を持っている。
逆にそんな物好きにとってすれば、ミランはとても感情豊かな男だ。花を枯らして大泣きしたと聞いて、それがただ子供時代の一時的な性格とは思わない。それは間違いなくミラン・アーキテクトの根幹を成す性格だ。
「大概俺に感情豊かだという人に限って、俺よりも感情豊かだ。そして俺よりずっとそれを隠すのが上手い」
「ああ、俺はユーモアがあって愉快な男だ」
「あなたがいくら最悪の冗談を言っても人が離れていかないのは、あなたのそばにいる限り、その最悪の冗談がただの冗談に過ぎないと信じられるからだ」
ケヴィンはサラダをあっという間に食べ終えた。そして残していた食用花をそれだけフォークにとって口に入れる。生ハムとドレッシングが与える塩味と、ほのかな甘さを感じた。
「あなたがいる限り、空から宇宙人は侵略してこないし、サメがアスファルトの上を泳ぐこともない。強盗がこの部屋に押し入っても、あなたがB級映画のように解決する。そう思える」
「……なあ、それを是非書面にして、クイーンズの総務責任者あたりと連名でISCに送りつけてくれないか? その些細な一手間で一人の会社員のボーナスが豊かになる」
「あなたは多分、あなたが思っているよりずっと分かり易く優しい人間だ」
ミランは食事の手を止めなかった。前菜を食べ終えたのはケヴィンの方が先だったが、今ではもうミランはスープを空にしているのに対し、ケヴィンはようやくスプーンを握ったばかりだった。
「俺を口説いてるのか?」
「思ったことを言ってるだけだ」
「純粋な好奇心で聞きたいことがあるんだが、いいか」
「どうぞ」
「俺を抱きたいのか? それとも俺に抱かれたい?」
カルパッチョにも花があしらわれている。皿の中央から一つの大きな薔薇を模してなされた盛り付けは、しかし今ミランが握ったフォークでズタズタになっていた。
「——なんであなたはすぐそういう話をする」
「大事な話だろ? 後々揉めるのは面倒だ。それともプラトニックコースをご所望か?」
ミランはひどく億劫そうに、少し長く伸ばしている髪の毛先を耳にかけた。しかも一度はしくじって、二度目できちんと食事に邪魔にならないように仕留めた。
ケヴィンはスープもそこそこに魚料理に手を伸ばした。今度は先に花弁から片付ける。魚よりさっさと肉に辿り着きたいと思っていた。だがそのためには、桃のソルベも味わう必要がある。礼儀ある専門家たちが信じる順序をわざわざ無視することはできない。
「セックスが全てだとは言わないが、少なくとも俺は人生における楽しみの一つにそれを数えてる。プラトニックな関係をご所望なら、俺は相性が悪い」
ミランは頭痛を覚えているようだった。髪をどかした手で額を押さえている。凶悪な殺人犯にしてやられた失意の名探偵のようだ。ケヴィンは一つずつ魚の切り身を丁寧に味わった。
「お前の言う通り、俺は優しい男だ。だが優しい男の全員が禁欲的で精神を肉体の上位に位置付けているわけじゃない。健全な精神は健全な肉体あってのものだ。俺が思うに——」
心地よく冷えた最後の切り身をケヴィンは飲み込んだ。
「——俺は優しいが、お前が信じているほどじゃない」
最後の切り身は不意に鉄の味を感じさせた。
そんなはずはない。このカルパッチョは素晴らしいものだった。にも関わらず、ケヴィンは鉄の味を感じた。
それはケヴィンが過去に何度か味わったものだった。苦く、喉に張りついて、ざらつく鉄の味。
鼻血を出してそれが喉に流れ込んだ時。口の中を切った時。同じ味を感じる。
この味をよく知っている。何度も味わってきた味だ。
底なし沼から浮き上がる泡のように脳裏に何枚かの絵が浮かび、当時の温度と匂いと頭痛と味が、泡が弾けると同時に一瞬蘇る。
アカデミーの卒業式を観客の一人として見た時。シルヴェストスを出る前日の夜、港そばの古いモーテルで眠る前に水を飲んだ時。
激昂した兄に殴られた時。
いるはずのない見送りの場に老執事の姿を見つけた時。
高アルカリの薬剤に溶けていく肉を眺めていた時。
あのシンデレラ城に招かれ、二階のドアを開けた時。
その向こうに。
「抱きたい」
その声はケヴィンを心底驚かせた。回想を突き破り、圧倒的な現実感を纏った質量が、決して大きくない声に重さを与えた。
「悪い」ケヴィンは素直に謝罪した。「なんだって?」
「抱くか抱かれるかなら、抱きたい、と言った」
「俺を? お前が?」
ミランはまだ頭痛を堪えているようだ。額に手を当てたままだし、顔色は若干悪い(オペラハウスでさえ顔色だけは変えなかったというのに)。
「無理するな。悪かった、すぐ想像をやめろ。吐きそうになってるぞ」
「吐きはしない。大丈夫だ」
ケヴィンは席を立ってミランの方へ向かった。屑入れが丁度すぐそばの嵌め込み型モニタの下に置かれていた。エチケット袋扱いするには気が引けるシックなデザインだが、蓋を外せば透明なビニル袋が内側にある。
「大丈夫」ミランは繰り返した。額を抑えたまま。「問題ない、食事を続けて」
「芸術家の想像力が仇になったな。いいから吐け、お前の胃液のプールで泳げただけ魚も本望だ」
「そうじゃない」
ミランのいる椅子のそばに蓋を外した屑入れを置く。
ケヴィンはそこで額を抑え椅子に座ったままのミランを見下ろす形になった。
「そうじゃなく……」
ミランが息を吐いた。たった一息のそれが震えていた。
「そうじゃない……」
ミランが額に当てていた手を離した。その手は空気を握り、離して、そしてもう一度握る。何もない虚空を、何もないとわかっていて何かを探すように握った。
その手が目的をものを掴んだのは、優にそれから十秒後のことだった。
ケヴィンの右手首を掴んだミランの左手は熱かった。
ミランは頭痛を堪えているようだ。赤くなった額は見ているだけで痛々しい。彼の体を構成する色素がどれも薄いせいで、わずかに血流が良くなっただけで痛々しく見える。
鳥の羽にも似た特徴的な癖のついた毛先が、何本かミランの顔に張り付いていた。
「だから、なんでそういう話を、」
それは言うつもりのなかった独り言だったようだ。実際それが自分の口から漏れた時、ミランはいよいよ眉間に深く皺を刻んで口を噤んだ。下唇を噛む白い歯がかすかに見えた。
「……それであなたが俺を信じられるなら、」
ミランが言った。平素より低い声だった。まるで誰かを脅しつけるような声だった。
「あなたが信じない俺の言葉を、それで証明できるなら、俺は方法としてそれをする」
ミランがケヴィンを見上げた。手首を掴んだまま。そう強い力ではなかったが。
「俺があなたを抱いて、俺があなたに勃起して、興奮して、セックスができたら、あなたは俺が今まで言ってきたこと全部が俺の本心で、本当のことだと信じてくれるのか?」
それならいい、それなら喜んでする、とミランは言った。
「俺はセックスができるかどうかなんてどうでもいい。プラトニックな関係が尊いとも思わない。どうでもいいんだそんなことは。俺とあなたの問題に、他人の価値観と趣味は関係ない。俺だってポルノを見るし、性処理ぐらい何年も前からずっとしてる。
あなたが俺に抱かれたくないなら一生抱かなくていい、俺を抱きたいなら善処する。でも俺からすればそんなことはどうでもいいことだ、なんであなたがそんなに拘るのかが理解できない。
でも他でもないあなたが、セックスがそんなに大事だと言うなら、俺は喜んであなたを抱く。セックスが証明方法だと言うなら、俺はそれをする」
最後はほとんど弾劾するような口ぶりだった。怒鳴っているわけでも狂乱しているわけでもなく、ただ淡々と理屈を並べている口調は高尚な弁論のようなのに、言っていることは完全に年齢制限ものだった。
だがケヴィンは当然年齢制限を受けるような少年少女ではなかった。禁欲を誓った殉教者でもない。
なのに何故か、ケヴィンはひどく驚いていた。これまでの人生で一番とも疑わしいほど驚いていた。
「……悪かった」
ミランがまた息を吐いた。震えてはいなかったが、震えてしまう前に吐ききったようだった。深呼吸を必要としたのはその所為だろう。
椅子も引かずにミランは立ち上がった。
「残りはあなたが食べてくれ、余らせるようなら、チップは多めに。後で同じ額を俺があなたに返す。俺は隣の部屋で休む。あなたの荷物はほとんど無かったはずだ。明日の朝ドアの前に置いておく」
そう言いながら既にミランはベッドに置いていた鞄とそのそばに広げていた数少ない私物を仕舞い、そして部屋を出ていった。
ケヴィンは呼び止める間も無く一人残された。だが、仮にミランがどれだけ時間をかけて荷物をまとめていたとして、その背中に呼びかけたかどうかは疑わしいものだった。
静まり返った、否ずっと静かだったはずだが、耳鳴りがするほど静かな部屋に、ケヴィンは立っていた。
部屋を見回す。当然だが、誰もいなかった。そばのテーブルには二人分の夕食があった。桃のソルベが食べ頃だった。ガトーショコラが目を惹いた。
ケヴィンは席に戻った。椅子に座り、そしてフォークかナイフか、スプーンか、何かを手に取ろうとした。次に食べるべきものはなんだったか。それによって自然と必要なものは決まる。
だが、ケヴィンの手が掴んだのはテーブルの天板だった。掴んですらいなかった。ただ天板に触れただけだ。冷たくひえた天板に手の甲が当たっている。手首に伝わる冷たさが特別染みる。
喉が渇いていれば水を飲むべきだ。空腹を感じていれば食事を続けるべきだ。誰も見ていないのだから、食後のデザートを食べても構わない。
広いベッドが二つあるのだ。風呂に入る前に寝転がってもいい。シャワーを浴びた後には、別の方を使ってもいい。
広いモニタがあった。番組が楽しめるだろう。今の時刻なら、何かしら深夜のコアなドラマが始まる頃だろう。
しかしケヴィンはどれもしなかった。ただ椅子に座り、テーブルに右手を投げ出し、ただただそうしていた。
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