第26話 波の行く先(1)
ケヴィンは戻らねばならなかった。あの居心地の悪い強烈な水圧の中へ。
いずれにせよ公演の中休憩もあって、目に傷をつけた人相の悪い男が二階の通路を彷徨いていることは出来なかった。
特別観覧室へ戻ると、イゼットとミランの位置は全く変わっていなかった。当然だ、まだ五分と経っていないのだから。
にも関わらず、ミランの細くすがめた目だけが恐るべき苛立ちを瞼では抑えきれず、雪のように散らしている。体感だが、室温は五度以上下がっていた。
「冗談だろ?」ケヴィンはテーブルに残していたボイスレコーダーを拾い上げた。「イゼット、お前裁判にかけられたいのか?」
「なんで?」
イゼットは親友が突然何を言い出すのかと不思議そうだ。それが演技ではなく本心のそれなのだからケヴィンはそれ以上冗談を言えなかった。
「お前、うちのボスをどれだけ挑発した?」
「君がその録音機を残していったんじゃないか。なんなら今ここで再生してごらん」
「気にしなくていい、カタギリ」
ミランが椅子に座ったまま言った。腕を組み、足を組んでいる姿は一枚のフォトグラフのようだ。このオペラホールのいい宣伝ポスターになるだろう。
「興味深い話を色々と聞かせてもらった。あなたたちの故郷の話と、あなたたちの学生時代の話」
「本当に自慢話しかできないのか、イゼット」
「いや僕も初めは仕事の話とかをしてみたんだが、結局アーキテクト君が興味を示してくれる内容となると、君絡みの話なんだ」
「お前もお前だ、ボス」
ミランは黙って紅茶を飲んだ。もう冷めているだろう。ケヴィンは聞こえるように溜息を吐き捨て、ポットを手に取って中身を注ぎ足した。カップと異なる素材なのか、ポットから注がれた紅茶はまだ湯気を立てている。素晴らしい保温性能だった。
そしてケヴィンはミランの隣の椅子に座った。イゼットが軽く眉を上げる。ケヴィンも同じことをした。首を傾げながら。
背後の開けた窓からは観客たちのざわめきと足音が続く。中休憩は十五分だ。手洗いや足のマッサージ、前半部への感想会。やることはつきない。明るさを取り戻したホールの光が差し込み、この部屋の半分ほどまでを照らしている。
「年末のライブは当然666も出るんだろ?」
イゼットがミランへ言った。「もう曲は決めたのかい?」
「候補は絞ってある。後は他の共演者と演奏順序の兼ね合いで決める」
「楽しみだね。今年は野外の特設会場でやるのかな? 去年は大雪で各地中継になってしまったからね。あれはあれで勿論良かったけれど」
「何処がステージだろうと、俺のやることは変わらない」
「ほら、こんな調子なんだよ」
イゼットがケヴィンへ視線をやり、肩を動かした。ケヴィンは横のミランを一瞥したが、ミランは沈黙している。まるで問われたことにだけ答える機械のように、目を伏せて黙り込んだまま。
「今年は雪もそう多くない。今のところはセントラル北部のスタジアム内にセットを組むことになっている」
これは既にクイーンズレコード初め各局メディアからも出回っている情報だ。セントラス北部にある国内最大規模のスタジアムはサッカーやバスケットのコートを保有するスタジアムだが、多目的ホールとしての一面もある。年末になると全ての運動器具は収納され、屋根を開放して大勢のアーティストが歌う舞台になる。
「君にとっても大仕事になりそうだね」イゼットが言った。
「最後の大仕事だな」
ケヴィンがそう言った時、ミランが目を開けた。その動きをケヴィンは視界の端に認めていたが、わざわざ視線をそちらに向けようとは思わなかった。
ケヴィンとクイーンズレコード、実質的には666との契約期間は去年の春の音楽祭後に始まり、今年の年末ライブまでになっている。国内の名のあるアーティストも年末ライブ以降は大概オフを取り、春の音楽祭が新年初めての大仕事になる。
666についていたのは二年足らずだが、それ以前にもクイーンズ所属中のイゼットにも一年以上ついていたのだ、一つの企業と一人の警備員が契約するのは、そろそろ限度があるだろう。もしかすると来年春の音楽祭にも召集されるかもしれないが、それはISCからの派遣チームの一員としてだ。
「契約更新も無さそうだしな。クイーンズもISCと癒着してるんじゃないかって言われる前に、この辺りで引き上げる算段だろう」
ケヴィンはケーキスタンドにあるマカロンを見た。上品な色合いから推測するに右からベリー、ピスタチオ、チョコレート。
「来年以降の仕事はもう決まっているの」
「いいや。だがまあ、しばらくは本社勤めになるだろうな。俺個人として営業もかけてない、経歴書の写真を撮り直したら指名も減りそうだ」
「じゃあ、ここで僕が指名したら?」
ケーキスタンドのマカロンへ伸ばした手が止まる。
ケヴィンはベリーを取ろうとして止まった手を、横へずらした。チョコレート色のそれを手に取る。
生地表面に金箔が散らされたそれをケヴィンは間近に眺めた。
「俺からも一つ自慢をさせてもらうが、イゼット、俺の時給はISCでも高い方だ」
「分かってるよ」
「生憎だが、一般人のハウスキーパー募集に飛びつくほど、ISCの業績は悪くないんだ」
「契約するのは僕じゃない」
そこまでイゼットが言った時、再び辺りは暗闇と静寂を取り戻した。
イゼットが席を立った。そしてテーブルの天板を指先でなぞりながら、反時計回りにテーブルの周りを歩き、ケヴィンの横を通り過ぎる。
イゼットがバルコニーの方へ出た時、遠くに狼煙のような光が立ち上る。ステージに再び光が降り注ぐ。整列した楽団員と指揮者が優雅に一礼する。
拍手が鳴り響く。それはもはや雨ではなく一粒一粒が重く鋭い霰のようだ。
「ただのハウスキーパーに興味が無いと君は言うけれど、もし君が守るその家が、歴史的で伝統ある城だったら、それでもISCは興味ないなんて言うのかな」
イゼットがバルコニーの柵にもたれ、ケヴィンに微笑みかけた。
それを待っていたかのように、後半の演奏が始まった。
「悲しいことに、世界にはチェリストが足りていないらしいんだ」
「——ケーニッヒに入るのか」
「まだ決めていない」イゼットはまるで風が吹いたように平然としている。「正直気乗りはしない。だが、楽団は是非にと言ってくれている」
ヘーゼルの瞳が室内を一巡する。その視線の動きが、何故イゼットがこの部屋にいるかをケヴィンに教えた。これはケーニッヒ交響楽団からイゼットへの愛の告白だ。
そして今まさに奏でられている音楽こそ、美貌のチェリストへの求愛の歌でもある。
「俺の仕事はともかく」ケヴィンはくれぐれも前置いてから続けた。「お前に断る理由は無いだろう。お前だって、フロストのバーはいつでもお前の為にドアを開けてくれるが、ケーニッヒは違う。いつまでもお前一人に一途じゃいられない」
「そうだね、でも君ほどせっかちではないようだ」
イゼットに贈られた年間チケット——少なくとも今年中はケーニッヒはイゼットに一途でいる。
ケヴィンは舌打ちをした。すぐ横で沈黙を貫いているミランがひどく不気味だが、ミランに意見を求めるような場面ではない。
「スカウトを受けてるのはケーニッヒだけか?」
「ふふ」イゼットは口元に軽く握った手を当てた。「勘がいいね」
「シルヴェストスか?」
「そう。離婚のことが耳に入ったのか、里帰りする気はないかって」
クイーンズ・レコードはスポンサーの令嬢を弄んだ男を引き戻すことは出来ない。クイーンズを除くと、この国にケーニッヒ交響楽団と肩を並べられるレベルの団体は他にない。
だとすれば候補は必然的に国外になる。その中でイゼットと関係があるという条件に合致するのは、彼の故郷シルヴェストスだけだ。
「聖歌隊の管弦楽団長が去年亡くなって、今は頼りになる年長者三人が輪番で団長をしているようなんだが、若い人に出来るだけ長く務めてほしいということで正式な団長が不在のままなんだそうだ。それで僕に声がかかった」
「年長者?」ケヴィンはわざとらしく哀れっぽい顔をした。「どいつも精々四十代だろ、どうせあの聖歌隊長の横に並びたくないとかそういう見栄だ。寝る前のスキンパックでも寄付してやろうか?」
「相変わらず君は嫌いだねえ」
「時給の高い方にしろ。俺からはそれだけだ」
「じゃあ僕からも」
イゼットがケヴィンの座っている椅子の背もたれに手をついた。
「僕と一緒にシルヴェストスに帰ろう。それだけだ」
それからのことをケヴィンはよく覚えていない。ただホテルに戻った時、ドアマンが不思議そうにケヴィンの手元を見つめてきた時に初めて、ケヴィンは自分がまだマカロンを手に持ったままでいたことを思い出した。
そして案の定、ミランはホテルに戻ってからもひどく不機嫌だった。
まだオペラホール内ではこらえていた部分もあったのだろう、特にイゼットの前では。それが此処へ来て体裁を保つ必要が薄れると、まるで卵の殻を突き破り太古の恐竜が牙を剥くように、ミランの全身が不機嫌を訴えた。
——ケヴィンが交通事故後、初めてイゼットの元を訪ねた日の夜、ミランがプライベートジムで深夜までサンドバッグを殴り続けていたようだと、同じジムを利用しているドミトリから聞かされたことがあったが。
「ほら、カルシウム」
ホテルの部屋にも備え付けのティーセットがあった。観覧席に備え付けのものより質素だが、好感の持てる清潔さと気品を讃えた質素なものだった。ミルクには少なからずカルシウムが含まれてあるだろう。なくても構わない。
ともかく今はミランから湧き出る冷気を堰き止めるために、微温湯でもなんでもかけ続けなければホテルが氷漬けになるのも時間の問題だ。
ケヴィンが手早く用意したミルクティーを、ミランは一瞥しただけだった。「置いておいてくれ」そう言って窓際のソファで瞑想に戻る。
夕食がこの部屋に届くまでもう少し時間がある。もし夕食のメニューにスープがあるなら沸騰寸前まで加熱して持ってきて欲しいものだとケヴィンは思った。
ケヴィンはミランの対面にもう一つあるソファに座った。二人の間にテーブルはない。ミランの横に小さなサイドテーブルがあるだけだ。すぐそばの窓はカーテンを開けていて、エイレーの夜景が見えた。道路に沿ってぽつぽつと灯る街灯とその中心に聳える大聖堂。まるで一つの大きな薪へ当たりにゆこうとする行列のようだ。
ミランは黙っていた。辛うじて上着は脱いだが、それ以降はソファに座り、腕を組んで瞑想している。おそらくは感情をコントロールしているのだろう。
ケヴィンはスーツの上着を脱いでいた。部屋の中は適温だ。体感温度はともかく。
「ボス」
と、ケヴィンが呼んだ。「あまり気にするな。お前が今悩んでいることは、本来お前が頭を使う問題じゃない」
ややあって、ミランが目を開けた。ケヴィンの予想していたより、その目は凪いでいた。
「俺は俺の問題にしか手を出さない」
「そうか?」
「だから、どうやってもあなたの問題に俺が介入できないのが歯痒い」
「ふん」ケヴィンは笑った。口で笑った。「贔屓にして頂き大変光栄だ」
「年が明けたら、シルヴェストスに戻るのか?」
イゼットと共に、とはミランは言わなかった。
「どうだろうな。誰がどんなつもりだろうと、今の俺は会社員だ。上が行けと言えばそこへ行く。そこがこの国でも、シルヴェストスでも、未開の土地でもだ」
「あなたはISCの仕事に誇りを持っているんだな」
「ISC自体にこだわりがあるのとは少し違う。俺は俺にできる仕事を完遂したい。ISCに就職したのは、仕事をする上での待遇が一番良かった。それだけだ」
「それは、ステージで指揮棒を振るよりも?」
ケヴィンは驚かなかった。「イゼットか?」寧ろ笑いすらしてソファに深くもたれた。足を組んでくつろぐ。
「元々あなたがクラシックに造詣があることは察していた」
「大昔の話だ。人気バンドの専属ガードをしてる今の方がずっと良い」
「別に音楽が何より高尚だと言うつもりはない。ただ、あなたの歌が聴いていて心地いい。だからその背景に興味を持つのは、俺にとっては自然なことだ」
「歌ってない」
「なんであなたはこの話題になるといつも嘘をつくんだ?」
「歌ってないからだ」
「嘘をついても分かる」ミランはまるで子供を相手にするように言葉を重ねた。「歌詞とメロディがなくても歌になる。あなたが歌ってるのはそういう類のものだ」
「もしかして俺を何かのセミナーに勧誘してるのか? 悩みがあるなら相談しろ、消費者相談センターに繋いでやる」
「ニケでは」ミランが言った。「はっきり歌っていた。あの時は意識して歌っていたはずだ」
ケヴィンは口を開き。
けれども何を言うこともなく口を閉じた。
「あの歌はとても良かった」
と、ミランは言った。目は窓の外に向けられていたが、夜の暗がりに鏡と化した窓硝子はミランの視線を跳ね返し、その先にはケヴィンがいた。
「あなたと初めて会ったときのことをを思い出した」
「いつ?」
「去年春の音楽祭」
「まだ専属じゃないだろ」
「でもあなたはあの場所にいた。騒がしい会場で、俺は緊張していた。単独ライブもそれなりの場数を踏んでいたが、あの規模で、しかも他に大勢のアーティストのいるイベントは初めてだった」
緊張という言葉をミランが使うと、まるで宇宙人の言葉をむりやり引用しているようだ。緊張という事象とは無縁そうな男だし、ミランの言葉は常に淡白で混じり気がない。だから強烈な印象を残す。
「野外の喫煙所なら、会場から距離もあるし今どき好き好んで使う人がいないだろうと思ったが、あなたが煙草を吸っていた。一人で」
「名だたるアーティストが今も演奏していて、観客は煽られて、誰もが興奮しているのにあなたは退屈そうだった。半分寝ているような顔で煙草を吸っていた」
「あの時のあなたは煙草の歌を歌っていた」
部屋のドアがノックされた。夕食を運んできたと言う。ミランが席を立った。
「あの歌もよかった」
ミランがドアを開けてから、ドアの向こうにいるのがホテルのスタッフではなく銃や刃物を持った人間だったらどうするのかとケヴィンは思ったが、幸いにして室内へ入ってきたのは正真正銘のホテルスタッフで、彼らは入室の際の一礼を欠かさなかった。
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