第25話 嵐の夜(2)

 聞こえてくる豪勢なオーケストラがまるでテレビ放送のように現実味を失いつつある。折角の臨場感もこの部屋に漂う空気の密度を前に、入り込むことも叶わないでいる。

 イゼットの表情から初めて笑顔が消えた。深く考え込むように頬杖をつき、深く澄んだ緑色の目はテーブルの上の一点を見つめていた。

「君たちもおおよそ知っているだろうが、僕とタゴン氏の結婚は、僕と彼女だけの意志で決まったことじゃない。もっと大勢の人の意見の結果だ」

「大勢の人というのは、クイーンズレコードか」

 ミランの声はまるで裁判官のようだ。あるいは大聖堂にある古い鐘だ。硬質で冷えていて、そして重い。

「そうだね、しかしクイーンズはあくまでの大勢の一人でしかない」イゼットがケヴィンを一瞥した。そして初めて、イゼットは微笑むことに失敗した。「そして勘違いしないで欲しいのは、その意志の中に僕もいたということだ。僕も望んで彼女と結婚した、そして彼女もそうだ。週刊誌が書きたてるような悲劇なんて、本当は起きてない」

 ケヴィンはもう一度目を伏せた。イゼットがまたあの目をこちらへ向けてもいいように。イゼットがまた、微笑むことに失敗しないように。

「僕とタゴン氏は世間の夫婦のように結婚して、そして何処にでもいる夫婦のように意見を違えて、そしてよくあるように離婚した。それだけのことだ」

「それが本当に一般的でよくあることなら、あなたは今も大勢の前で演奏をしているはずだ」

「そこはほら、タゴン氏はクイーンズのスポンサーで、資産家だからね。よくある話じゃ済まないのさ」

 イゼットの苦笑に対し、しかしミランは不可解そうに言った。

「何故誤魔化す? 俺が——タゴン氏と会ったことがないとでも思っているのか?」

 

 ケヴィンは目を開けた。ゆっくりと。

 ミランは瞬きもせずイゼットを見ていた。子供が奇妙な生物を見るような目だ。好奇心よりも純粋な、突き詰めれば偉大な科学者とも同じ目だ。

「俺が彼女から——アリエル・タゴンから招待状を受け取ったことがないとでも思っているのか?」

 イゼットは黙っていた。頬杖をついたまま、

 ケヴィンも黙っていた。ソファに深く座ったまま。

 ミランは返答を待っていた。瞬きもせず。

 やはり一番に動いたのは、三人の中でも最も老いとは無縁のミランだった。

「カタギリ、この部屋の中は安全か?」

「安全じゃなきゃお前を入れてない」

「そうか」

 この部屋と豪奢な屋敷のリビングとの違いは、コンセントの有無だ。電気のスイッチは接触式のパネルがあるが、あまりに薄い。電気を通すべきものが天井の照明だけなので、通電回路の位置は少ない。

 無人の二階通路にいた時、もう一室の特別観覧席の中にいた家族連れの声は外に一切漏れていなかった。柵によじ登るほどやんちゃな子供が中にいたにも関わらず。壁材には遮音性ものが使われている。

「届いていないふりをしていたが、俺はあなたの奥方から招待状を受け取ったことがある」

 ミランは単調に話した。「あの頃の俺は到底あなたがた夫婦に比べれば小さな存在だった。だからタゴン氏の噂も、あなたの噂も信じていなかったし、それが本当だと分かったからといって、馬鹿正直にマネージャに言うことも無かった。ドミトリにすら言えなかった」

 イゼットは黙って聞いていた。表情は前髪と部屋の暗さで(これまではろくに気にならなかった暗さが不意に彼にまとわりついていた)よくわからない。ホールの光源は階下のステージだ。だがその燦然たる輝きも、ミランの背後からかすかに漂ってくるだけだ。

「そもそも、深夜に自宅に来いとはどういう了見だ? あの頃タゴン氏はあなたと結婚する前だったが、彼女が独身だったとしても俺は行く気にはなれなかった。あまりに恐ろしかったからだ。何故俺に声がかかったのかも分からなかった——その後、タゴン氏と式を挙げたあなたの姿を見るまでは」

 ミランは自分の右頬を機械的につねった。

「俺の顔が彼女の好みだったんだろう」

「……はあ」

 イゼットが久しぶりに声を発した。思いがけず軽いため息だった。

 それは驚くほど軽薄なため息だった。

「全く、彼女は本当に自由な人だな」

 まるで子供が間抜けな悪戯を仕掛けているのを聞いたような声だった。そのあまりの軽々しさにミランは眉を寄せるほどには。

「でも、君が名誉欲しさに招待に応じてくれなくて良かったよ。彼女は友人が本当に多いからね。その中に君の友人がいたら……残念だが、君の交友関係から清廉潔白な友人が一人消えることになった」

「反吐が出る」

「彼女に? それとも僕に?」

「以前は彼女に、今はあなたに」

「それは君の好きな人が、彼女に招待されてしまったから——僕がそれを止めなかったからかな?」

 今度はイゼットがミランを問い質していた。ミランは不快さを隠しもせず、形の良い眉を歪めている——アリエル・タゴンが愛してやまない、色素の薄くカーブの少ない眉を。

 そして眉を顰めたのはケヴィンも同時だった。ケヴィンはアリエルのことを知っている。イゼットのそばに控えていたとき、それこそ彼と彼女の蜜月とも呼ぶべき結婚前のあの事務的な期間は特に。

 ならば当然アリエルの趣味も知っているが、自分がその餌食になった覚えはない。

「俺はあの女に食われたのか?」

 ミランが鋭い視線をケヴィンに向けたが、ケヴィンはイゼットの方を見ていた。右頬に走る過ぎた冷たさにも似た痛みは無視できる。

「あの女なり取り巻きの変態集団に尻を掘られたんなら、車に轢かれたぐらいじゃ忘れられないぐらい刺激的な夜を過ごしたと思うんだがな。それともあのお嬢さん、そっちは下手なのか?」

「カタギリ——」

「お前も興味あるだろ? ボス、俺がいいって言ってるんだ、今は好奇心に従え」

 ケヴィンが聞けば、ミランはさらに表情を険しくした。彼を中心に見えない冷気がこんこんと湧き出し、足元を覆っていく。分厚く毛足の長い絨毯を踏んでいるはずの革靴の爪先の感覚が鈍くなるような気がした。

「君はそれより最悪な目にあったんだよ、ケヴィン。自業自得な部分もあるとはいえ——」イゼットが頬杖をつき直す。「君以外には聞かせたくない話なんだけどな」

「そいつは興味深いな。話すのが勿体無いなら、本にでもしたらどうだ」

「勘弁してくれ、君の家に事が知れたら本当に殺される」

「不良息子の性感帯が知られたところで誰も怒りゃしない。それに俺のボスは、俺がまた車に轢かれるんじゃないかって不安で夜も眠れないそうだ」

 ケヴィンはミランへ向けて恭しく手のひらを差し出した。とはいえ恭しさを示すには、足を組んでソファに座ったままでは難点が多過ぎたが。

「イゼット、結局ボスが聞きたいのは、ボスが飼ってる番犬にちょっかいを出す輩がまだいるのかということだけだ。隣町のお嬢さんが夜な夜な年齢制限付きの芸術祭を開催していたところで、ボスの家にチラシを持ち込んだり、ボスの知り合いを使ってアートをしなけりゃ文句はない」

 ケヴィンはミランを指していた手をひらひらと振った。それから、なんということもない、世界平和の話をしているのだとても主張するようにもう一方の手も広げる。見据える二人がそれぞれに微妙な顔をしているのが不思議でたまらないというように。

「どうせ俺を轢いたのもあの女の取り巻きだろ。二度もする度胸はないはずだ」

 ケヴィンの顔に傷をつけたランドルー・スコットがその一人だ。アリエル・タゴンに心酔し、女神の強烈な人間らしさにあてられた敬虔な信徒。その信徒からすればイゼットは女神を支え、女神の抱擁を受けた第一人者だ。

 そしてケヴィンは、そんな神話に唾を吐きかけた異端者なのだろう。心当たりはある。例えばイゼットとケヴィンが一緒にいたところを——例えばミランが目撃したような“たいへん親しげな”様子だとか——目の当たりにして、崇拝の対象でもある第一人者を誑かす悪を討たんと立ち上がる。

 現にランドルーはあれだけ感情豊かで、豊かなあまり感情の制御が不完全な男だ。

 そしてランドルーの勇敢な戦いが失敗して、より凶悪な面になった異端者を勇気ある二人目の信徒が高級車を駆り、果敢にも轢き殺そうとした。

 アリエルがそれを指示したとは考えにくい。いずれ証言で名前が出るだろう。神の御名の下での正義なら、信者はそれを誇らずにはいられないはずだ。だが、ランドルーはケヴィンを見て懺悔し、泣き出し、轢き逃げ犯に至っては見つかってすらいない。

 ならばこれは女神の膝下で人間が勝手に躍り狂った結果だ。

「傑作だな、やっぱり本にするべきだ」

「カタギリ」

 咎めるようなミランの声に首を振る。「イゼット、お前はあの女とはもう無関係なんだな?」

「無関係とは言い難いかな、僕は一生恨まれるべき男だからね」

「なら質問を変える。あのカルト集団は今でもお前に会いに来るか?」

 それは二重の意味での質問だった。表面的にはミランが懸念の解消のため、そしてもう一つはケヴィンの心配の問題。

 ケヴィンに起きた事故はいずれも既にイゼットとアリエルの離婚は成立した後の話だ。彼らの離婚があってなおも、ランドルー・スコットは彼らの復縁を望んだ。その信仰で研いだ矛先がケヴィンに向けられたなら、少なくとも彼らにとってイゼットとアリエルの離婚の原因はケヴィンだ。

 ランドルーは二度もケヴィンを襲う気力はもう無いだろう。そして——こちらはまだ信者の犯行と確証はないが——轢き逃げ犯も同じだ。彼らは迷いながら、衝動の果てに盲目になったに過ぎない。

 目下の問題は——まだ目が開いていない者がいるかどうかだ。女神の夫を唆した悪魔に挑む、三人目の勇者が現れるかどうか。

「何度かそれらしい子は会いに来るけどね、世間話をして終わりかな。今思えば、轢き逃げに関しては、あの日僕と君が食事をしていた姿を見た彼女の友人が犯人かもしれない」

「犯人はまだ捕まっていない」

 ミランが静かに言った。「事件からもうすぐひと月だ。ただの一般人がこうも上手く警察の捜査から逃げられるものか?」

「タゴン氏が一般人を匿っているとか、そういうことはないだろう。そんなことになれば、迷惑をかけるより自首を選ぶだろうからね。昔ケヴィンに彼女を寝取られた恨みが顔を見て爆発したとか、そういう具合の動機で」

「お前は息を吸うように俺の名誉を毀損するな」

「今回だって、見ようによれば君は僕をアリエルから奪ったようなものだ。あながち嘘じゃないさ」

「お前の冗談はいつも心底つまらん」

 ケヴィンは席を立った。「ボス、外の空気を吸ってきてもいいか」

 ミランはケヴィンの顔を見つめたが、やがて「どうぞ」と短く言った。イゼットはミランと密室に二人きりになることにさほど抵抗もないのか、引き止めもせず新しく紅茶を自分のカップに注いでいる。

「俺がいないからっていじめるなよ」

 去り際、ケヴィンはテーブルにボイスレコーダーを置いた。初めてイゼットが嫌そうな顔をした。

 部屋を出ると、やはり空気の密度が違った。まるで深海から一気に浮上したように、心臓がかすかに痛む。大量の空気が思いがけず肺になだれ込み、咳き込んだ。

 オーケストラの音がくぐもって廊下にも伝わっている。音として、振動として。

 角を曲がり、一階エントランスを見下ろす位置まで出ると、受付のそばに立てかけられた看板の文字が入り口のガラスに反射していた。

 当日券販売中——まだ当日券を売っているようだ。

 ケヴィンは時刻を確認した。二十時。既に演奏が始まって一時間だ。当日キャンセルをあてにして入る客は流石にもういないだろう。

 ケーニッヒ交響楽団といえばこの国で最高峰の楽団のはずだ。その公園の席が埋まらないとは、胸がざわつくような心地になる。ましてや今の時期は多くの企業は上半期の経理も閉じて、クリスマスで他の施設と競合することもない。エイレーならば立地も悪くない。セントラルから足を伸ばすにも容易だ。この区にホテルを取ればさぞ良い休暇になるだろう。

 イゼットに年間のVIP席リザーブを贈るのは羽振りが良いものとばかり思っていたが、寧ろ逆なのかも知れない。

 とはいえ、楽団のシンボルを描いた垂れ幕の裏面には数々の協賛や支援者の名前が連なっている。企業や団体、区、個人まで。クイーンズレコードの名前は最上段に大きく記されていた。しかもロゴ付きで。

 音がうねりを帯びて背後から伝わってくる。

 無人の通路でこそ、ケヴィンはオーケストラの音をじっくりと聞くことができた。聞きたかったというわけではない。寧ろ落ち着かない気分になる。くぐもっているからこそ、意識せずとも顔を顰めずに聞き流していられる。

 深い溜息が漏れた。何の溜息かはケヴィン自身も分からなかった。

 スーツの中で携帯が震えた。嫌な予感を抱えつつ画面を光らせる。

 だが、表示された最新の通知にはミランの文字があった。

『空気が不味い。戻って』

 同じバナー内に全文収まるほど短いメッセージだった。ケヴィンは思わず同じ画面にある現在時刻を見直した。

 まだケヴィンが部屋を出て五分も経っていなかった。

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