第24話 嵐の夜(1)

 ケーニッヒ交響楽団の公演はまさに今始まるところだった。丁度エントランスは客が全員ホールに収容されており、スタッフしかいない。

 だがエイレーの心臓に仕えるような気品あるスタッフでさえ、イゼット・ウィンターとミラン・アーキテクトが並んでいる歩いている様には流石に驚愕を完全に隠しきれなかった。

 ホールは二階層の客席を持ち、それぞれステージから放射状に高さをつけて広がる座席の最大収容人数は三千を超える。

 このままホールの座席に突貫でもすればさぞ大騒動になっただろうが、イゼットはエントランスの階段を先導して上り、そして階段目の前にある一般席のドアの前を右へ過ぎた。そのまま角を曲がり、突き当たりにあった重厚な木製のドアに——そのドアの貫禄とは全く不釣り合いだ——カードキーをかざす。

 解錠音がかすかに鳴る。イゼットがドアを押し開け、ケヴィンとミランに向かってにこやかに入室を促した。

「VIP席だな」

「恐れ入るよ、本当に」

 部屋は下手なLDKのマンションの一室より広い。入ってまず前方にある豪奢な手すりと柵が目につく。部屋というより巨大なバルコニーと呼ぶべきかもしれない。白と黒のダイス状に敷き詰められた床と赤みがかった飴色のニスで塗られた壁、天井、調度品の全て。

 部屋の中央にはテーブルにティーセットがあり、鳥籠を模したような金色のケーキスタンド、同じ金で縁取りをしたティーカップとポットがある。それとは別に前方の柵のそばにも広々とした長椅子に安楽椅子も備えてある。

 遠く外国の豪華な屋敷のリビングとバルコニーを、そこだけ切り取って嵌め込んだような具合の別世界だった。

 ステージ正面に位置する二階層の一般的よりステージに近く、右側面斜め上からの眺望が与える臨場感は大きい。

 同じような部屋は左右対称にステージ左側にもあり、そちらには家族連れらしい年齢もバラバラな男女がくつろいでいた。照明を落とされたホールでこの距離では、目を凝らしても顔まではわからない。子供が柵のそばに立っているのと、祖父だろう背の低い男がそばで子供の手を握っていることぐらいしか。

 一般席とは距離と高さで隔離され、そしてステージに最も近い個室だ。

「こんな大きな部屋を僕一人で使うのも気後れしていたんだ」イゼットは上着を壁際のラックへ吊るし、室内のテーブルにもたれた。「それで外をぶらぶらしていたら、丁度よく君たちがいたものだから」

 ホール内に涼やかな女性の声が響き、公演中の注意事項を読み上げる。かすかに残っていた観客たちのざわめきが薄れていく。

「外をぶらぶら、ね」

「おや」イゼットは手に取ったティーポットで声の主を指した。「なにか物言いたげだね、そちらの警備員さんは」

 ケヴィンは鼻を鳴らした。そして視線を動かす。

 ミランはステージが見える柵の方に立っていた。それでもカーテンのそばに隠れるようにしているあたり、何かで頭が一杯になっている様子ではない。

 そもそもこの部屋に足を踏み入れることになったのは、イゼットの誘いにミランが応じたからだ。その時点でケヴィンに拒否権はない。今のケヴィンはミランが行く先についていくだけだ。首輪をつけられた犬のように飼い主について歩き、不審者には歯を剥いて吠える。

「ボス、紅茶は」

 ケヴィンが声をかけると、ミランは振り向いた。顔つきはいつも通りだ。「貰おう」声もその通りだった。

「だ、そうだ」

「僕が淹れるのかい?」

「お前が俺のボスを招待した。もてなすのはお前の仕事だ」

「君のボス、すごく嫌そうな顔をしているように見えるけれど」

 ケヴィンはミランを見た。そして再びイゼットを見る。

「いつも通りだ」

 イゼットが肩をすくめ、テーブルにもたれたまま自分の分と、それから二人の紅茶を用意した。

 一階の客席のあちこちでチカチカと白い光が点滅する。携帯画面だろう。マナーモードになっているかを確認し、そして仕舞い込む動作が連なって、まるで暗号を送っているように見えた。

「どうぞ」

 紅茶を注がれたカップがソーサーに乗り、そしてイゼットの手に乗せられてミランの前に差し出される。

 イゼットは笑顔だった。いつもとなんら変わらない慈愛に満ちた顔だ。

 ミランもいつも通りの顔をしていた。これまで何度か見せた感情の波が一切無い。ケヴィンのコテージでテーブルを蹴り飛ばした張本人とは思えないほどに。

「どうも」

 と、ミランがソーサーごとカップを受け取る。

 ケヴィンはその妙なひと場面を一人掛けのソファに座って眺めていた。もしこれが映画なら、この二人はこれから麻薬の取引か、自らが過去に犯した時効寸前の犯罪について語り出しただろう。

 しかしミランは受け取ったカップを睨みつけたままだし、イゼットも我関せずと言った風にテーブルへ戻り、自分用のカップを口につけている。

 B級映画なら、今すぐにでもホールの天井を突き破って宇宙人が降臨してくるはずだったが、その様子は無い。

 ケヴィンはさらに五秒待ったが、宇宙人は来なかった。

 そのため、ケヴィンは席を立った。

「——失礼しました、ボス」

 そう言ってミランの手にあるソーサーに乗っているカップを手に取る。そして注がれた紅茶を一口飲んだ。

 口をつけたカップをそのままソーサーに戻す。意味ありげに目を閉じて、頷く。「毒は入っていないようだ、安心して飲んでください」

 ミランは顔つきこそ変化がなかったが、目がいつもより大きく開いていた。

「僕のも確認するかい」既に紅茶に口をつけていたイゼットが朗らかに言った。

「お前は俺のボスじゃない」

「僕と契約してた頃、君にそんなサービスをしてもらった覚えがないな」

「歳を取るってことはそういうことだ」

 ケヴィンは再びソファに戻った。

「イゼット、言っておくが」テーブルから少し離れた壁に面して置かれたそれは、部屋の全てを見渡すことができる。目に入らないのはステージだけだ。「俺の目の届くところで俺の顧客をいじめるな。いじめるなら俺の目の届かない場所でやれ」

「それを言うなら、君こそ僕をいじめないでくれないか? 僕は君のご主人じゃないが、ご主人を招待したホストだ。君の礼儀知らずな行動は、他でもない君のご主人の無礼として扱うほかない」

 言葉面とは裏腹にイゼットは優しく微笑んだままだ。「ふふ、」溢した笑い声も心の底からのものだった。

「こうして君と喧嘩できるなんて、アーキテクト君には感謝しないといけないな」

「感謝されることはしていない」ミランが口を開いた。カップに口をつけて紅茶を飲む。「それと、先ほどまでのカタギリの無礼は俺の無礼で構わない。彼がしなければ同じことを俺がしていた。俺があなたを咎めたら、あなたは気にも留めなかっただろう」

「君に逆らったら後が怖そうだもの」

 イゼットが首を回した。「ああ、始まるね」

 その声を合図にしたかのように、細い川が流れてゆくようなフルートが響いた。ケヴィンには見えなかったが、この時観客やミラン、イゼットには幾重ものライトを浴びて黄金に輝くステージと、そこに立ち並ぶ楽団員たちが見えていた。指揮者が指揮棒を手にし、ただ一人立ち上がったフルート奏者がかすかなステップに身を任せ、指揮者と視線で踊るようにテンポを合わせて銀色の冷えた無機物へ息を吹き込み、あたためていく。

 フルートの独奏は短かったが、それが止んだほんの数秒を観客は逃さなかった。

 雨のような拍手が鳴り、その拍手を足がけに次の曲が始まる。

 

 ケヴィンは腕時計を確認した。十九時一分。ホテルの夕食時刻までは、帰り道を考慮しても二時間以上ある。つまり下手をすれば、二時間以上、三時間近く、不発弾が二発転がったこの部屋で過ごさねばならない。

 そんなことを考えていると、ケヴィンが座っているソファの左側の肘置きにイゼットが腰掛けた。

「食べる?」

 そう言って右手に下げているのはケーキスタンドだ。そこにはマカロンやクッキー、切り分けられたフルーツタルトなどがある。

「何を考えてる、お前」

「僕かい?」イゼットはケーキスタンドを振り子のように軽く揺らした。ドミノ倒しのようにクッキーが倒れただけだ。「今は、このタルトは君が好きそうだな、ということかな」

「それが本心なら、お前が考えるのは俺の好みじゃなく俺のボスの好みだろ」

「見ればわかるだろ? 僕は彼に嫌われてるんだ、多分世界で一番」

「ならなんで誘った?」

「言ったはずだよ、外に出たら偶然にも君たちがいた。それだけだ」

「シルヴェストスに生まれた子供が真っ先に思い知ることは、自分がまだ四足歩行の動物だってことじゃない。この世に全くの偶然で起きる出来事は片手で数えるほども無い、だ。それともお前はその学びも忘れるほど歳を食ったのか?」

「なら今夜の出逢いはそのうちの一回なんだろう」イゼットはケーキスタンドから取ったタルトをケヴィンの左手に乗せた。「それに君には言ったじゃないか、楽団から招待チケットをもらっているって。寝起きだったからよく覚えていない?」

 椅子を引く音がした。ミランがステージを間近に見るバルコニーから室内へ戻り、テーブルについた音だった。楽団の演奏の真っ最中に、彼は興味を失ったようだった。

「お気に召さなかったかな?」イゼットが声をかけた。

「いいや。端から演奏を聴きに来たわけじゃない」

「なら何を聞きに来たんだい」

「あなたの自慢話でないことだけは確かだな」

「ああ、本当に僕は歳をとったんだね」イゼットは息をついた。「自慢話が増えるのは間違いなく年寄りの性だ——ケヴィン、君も気をつけた方がいい」

「俺はまだ二十八だ」

「奇遇だね、僕も二十八だよ」

 イゼットが肘置きから降りてテーブルへケーキスタンドを戻した。ミランの目の前へ。

「これも自慢になるのかな?」

「それがあなたにとって一番の自慢話なら、お付き合いしよう」ミランは冷徹に返した。「数少ない自慢をわざわざ取り上げるのは矜持に反する。それが侘しい老人相手なら、尚更だ」

 イゼットは上着を脱いで寛いだ格好で椅子についた。ミランは部屋に入ってまだ上着も脱いでいない。実際には脱ぐタイミングはいつでもあった。それとなくケヴィンが手を差し出しても、ミランはそれを無視した。

 薄暗い室内にあって仄かに発光してさえ見える美しいイゼットの金髪に、透けそうな色素の薄いミランの髪はこの時銀色がかって見えた。

 何もかも両極端な二人が座るテーブルを真横から眺めている分には呑気でいい。ケヴィンは手のひらに残されたタルトを口に入れた。小さく可愛らしいそれだが、重ねられた葡萄の酸味と甘さがすっきりとしたクリームとの調和は複雑な味わいだ。洋酒の風味がそれに拍車をかける。

「こうして君と話をするのは初めてだね」

 イゼットがミランを見て言った。まるで我が子を見るような目で。「僕がまだクイーンズに所属していた頃は何かと顔を見合わせることはあったけれど、ゆっくり話す時間はなかった」

「当時は俺たちも今以上に駆け出しでしたから。今年の春の音楽祭にも、あなたは出席されなかった。昨年の音楽祭と同じパフォーマンスを期待していたファンは多かったのに」

「タゴン氏との離婚が正式に成立したばかりだったからね、クイーンズが僕をまともに取り立てようとすることはもう無いだろう」

「当時は俺たちの仕事も増えました。勿論悪い意味で」

「それについては申し訳ないと思っている、同じ組織にいた先輩としてね」

「挙句、俺たちと契約中の警備員をプライベートの問題に巻き込んだ」

 ケヴィンが眉を動かした。目を閉じて、ケーキの余韻とヒーリングミュージックを味わいながら時が過ぎるのを待っていたかったが、そうもいかないようだ。

 目を開けば、ミランもイゼットも目を閉じる前と全く変わっていない。室内の雰囲気も最悪のままだ。最悪の底はまだ更新されていない。

「クイーンズとISCは警備員を奴隷にする契約でも結んだのかい?」

 イゼットが首を傾げてケヴィンを見るが、ケヴィンは黙殺した。その様子にイゼットは小さく笑みを零し、ミランへ向き直る。

「君が何をどこまで知っているかはさておき、ケヴィンに起きた事故はあくまでプライベートなことだ。そうでなければISCが介入しているし、何より君たちに説明があったはずだ」

 彼からね。イゼットが親指でケヴィンを指す。「それが無かった以上、それは君たちには関係がないことなんだ」

「長々と話すわりに、あなたが原因だという点は否定しないんだな」

「事実だからね」

 ミランの目が僅かに細くなった。目尻に向かって上下の瞼が造る角度は刃物のように鋭さを増す。

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