第23話 プリーズ・クワイエット(2)
「パパラッチ?」ミランが口を開いた。
「の、雛だ」
「個人的には、写真ぐらいなら構わないが」
「なら今度お前の寝室のドアに“入場無料”と“撮影自由”の看板でも出しておけ。お前が言ってるのはそういうことだ」
「相場が気になる、それとどういう取引市場があるのか」
「調べてやろうか」
ケヴィンは自分の携帯を軽く掲げて、画面をタップした。シャッター音が鳴る。
撮影された写真を確認もせずケヴィンは携帯を助手席に投げた。携帯を握った瞬間に見えた全く同じ名前からの不在着信バナーについては忘れることにした。
「お前がどうなろうと俺の知ったことじゃないが、お前が単純な気まぐれが、この国の定職率を一パーセントでも下げる恐れがあることは忘れるな。明確なルールもなしにサービスでいいなんてほざくのは、お前が不老不死になってからにしろ」
「あなたは、俺の容姿が好ましいと思ってるのか?」
「俺は俺の仕事を愛してるだけだ」
「なら、あなたはどうしてISCに?」
始めてスピードメーターが上下した。整備された、平坦な道だった。大きな石を踏んだわけでもない。
間も無くテレビ局が手配したホテルに着く。食事は部屋まで運ぶサービスがある。クリーニングもランドリーもある。ミランを部屋に押し込めばケヴィンの仕事は終わる。
「ISCの愉快なパーティから俺を選んだのはお前だろ。俺の経歴書は見たんじゃないのか?」
「見たが、経歴書にあったのはISC入社後の経歴だ。体力テストの成績と健康診断の結果、性格評価、それだけだ」
「それ以外に必要なことがあるか?」
「必要はない。ただ個人的に知りたい」
「そうか。なら断る」
「仕事ではないから?」
「そうだ」
「ニケに俺を連れて行ったのは?」
車はホテルの駐車場へ入った。流石にエイレーでも名のある老舗ホテルで、駐車場に立つ警備員にも皆貫禄があった。そして肩幅に反して物腰は柔和だ。ケヴィンが差し出したカードを確認すると、その場で運転を代わると言った。
「降りろ」ケヴィンはミランに言った。「部屋に入って、風呂で体を洗ったら存分に寝ろ。明日は昼からだ。ルームサービスは全て室内の電話で出来る。俺は隣の部屋にいる」
ミランも警備員にドアを開けられて車を降りた。少ない荷物もあっという間に出迎えのスタッフに引き継がれる。
広いエントランスにはそれなりに人がいたが、誰もが自分にしか興味がなかった。目元に傷のある男が入ってきても、その手に銃器や血みどろのハンカチでも握っていない限り見向きもしない。分厚い赤茶色の絨毯の表面には埃ひとつなく、天井から細く垂れ下がるシャンデリアは併設されたカフェテリアにあるピアノを指している。
フロントマンが流暢に必要最低限の説明と確認を行った。
「何かご要望がございましたら、客室のお電話よりお呼びください。夕食は十八時以降、ご指定のお時間にお持ちいたします。今晩は外出のご予定などございますか?」
ない、とケヴィンが言いかけた時、ミランが突然口を開いた。
「この後オペラハウスへ行く予定が。夕食の提供は何時まで?」
「本日二十四時までとなっております。それ以降ですと、フルコースではなく軽食での適時ご提供となります」
「では二十二時に」
「かしこまりました」
「隣の部屋の分も私の部屋に運んでいただくことは?」
「承りました。その際、一部のメニューの盛り付けを一つのお皿で提供することのみ、ご了承ください」
「ありがとう」
「その言葉こそ私どもの喜びでございます」
フロントマンが鍵を差し出す。エレベーターは既に呼びつけてあった。荷物とも呼べない荷物を運ぼうとする気遣いを辞退し、ミランとケヴィンはエレベーターに乗った。
「俺の残業代は誰が払うんだ?」
「これはあなたの仕事の範疇だ」ミランはドアの境目を見つめていた。「だが無理にとは言わない。あなたがもうこれ以上は働きたくないと言うなら、俺が野次馬に踏み潰されるのを寝ながら待っているといい」
「この時間が職務にあたらないとなれば、俺はタダ働きだ」
「その時は俺が払う」
エレベーターが開いた。まっすぐに伸びる廊下には等間隔に硝子細工に覆われた照明が吊り上げられている。子供の絵本の挿絵になりそうな美しく穏やかな廊下。両側の壁に交互に並んだドアとドアの間隔は広い。それはこの階の部屋の広さを暗に示している。
「エイレー嫌いが治りそうなんだ。将来の円滑な活動の為になる、だから付き合ってくれ」
そう言い残し、ミランは部屋へ入っていった。ケヴィンは聞こえるように低く息を吐き、それに続いた。いずれにせよ客室内の検査は必要だ。
彩度の低い色合いの部屋だった。広い客室はもともと二人用なのか、仕切りのない広い部屋の右手にダブルサイズのベッドが二つ並び、左手にはテーブルセットと壁に嵌め込まれたモニタがある。浴室は奥にそれらしいスモークガラスの小部屋が見えた。
ケヴィンが部屋の中を見て回る間、ミランは手早く荷物を片付け、少ない着替えをクロゼットにかけた。撮影のため手配された淡く質素なシャツとズボンを脱ぎ、さっさと着替えていく。あまり好みの服装ではなかったようだ。
「あなたは着替えないのか」
部屋には小さいながらベランダがあった。数分目を離したうちに空は藍色に染まり、建物は全て黒々として輪郭ごと溶け合っている。
着替えたミランは全体的に黒い服装だった。柔らかそうなハイネックにズボンはどちらも黒で、上着は立ち襟のついた厚手のジャケットに変わっている。右手には黒いキャップがあった。
「仕事だろ?」
「スーツの男が横にいたら目立つ」
ケヴィンは売り付けられた顰蹙(ひんしゅく)を腕組みで伝えたが、ミランは「早く」と急かしただけだった。
「ほら」
ネクタイを外す。ジャケットと同じ黒いそれを外してベッドへ落とす。そしてシャツのボタンを二つ目まで外した。「これで満足か?」
「大変良い」
「ボス、人の性癖に口を出すのは俺の主義じゃないが言わせてくれ、悪趣味だ」
「趣味の良し悪しは自分が気にいるかどうかだ、他人の評価に意味はない」
正論だった。ケヴィンは閉口した。
ホテルに鍵を預けて外に出ると、忘れかけていた花の香りが、昼間より薄いとはいえ漂ってきた。ホテルの前にも豪勢な花壇がある。
キャップを被るまでもなく外は暗く、街灯を頼ったとして、ミランに気づくものはなかなかいなかった。二度見しようとするものはいたが、二度見返す前に通り過ぎていた。
「エイレーは俺の出身だ」
不意にミランが言った。住宅地を過ぎて、そばに広い公園があった。無人の遊具が寂しげに点在している。誰かがボールを砂場に忘れていた。
「両親はセントラルで仕事をしていて、俺はほとんど祖父母と遊んでいた。小学校に入るタイミングで俺もセントラルに移った。月に何度か祖父母に会いに通っていたが、祖父母が亡くなった後はここに来る理由もなかった」
「お前はセントラル出身だと書いてる雑誌もあるが」
「どちらに愛着があるかと言われれば、セントラルで過ごした時間の方が長い。エイレーにいたのは五歳までだ。思い出もない」
ケヴィンは公園にある看板に禁煙の文字がないことを確認して煙草を取り出した。仕事中は特に気にならなかったが、一度気にし始めると花の香りがどこにいても付き纏ってくる。
「ニケ火山を実際に目にしたのも今日が初めてだ」
「見なくても死にはしない」
「あなたが詳しいのは意外だった。聞いたことはないが、この国の出身じゃないだろう」
「よくわかったな」
「言葉の抑揚でわかる。地名の発音が公国の人間と違う」
「俺とイゼットは同級生だ」
ケヴィンはわざとその名前を出した。ケヴィンはただの一般人だが、イゼット・ウィンターは違う。彼の出身や母校の名前はもはや公共のものだ。
そして調べようと思えばケヴィンの出身も母校も調べられる。そしてその二つは、イゼットについて調べた時と同じ答えを出す。
そしてイゼットの出身はシルヴェストスだ。シルヴェストス公立アカデミー第九十二期生として卒業した。イゼットがそうであるように、ケヴィンもまた。
「シルヴェストスにも似たような塔が山ほどある」
ケヴィンは夜空にあっても黒く屹立する大聖堂の尖塔を見つめた。「エイレーはまだましだ。シルヴェストスは何処にいても潮の匂いしかしない」
「シルヴェストスに行く観光客はその匂いを吸いたくて行くんじゃないか」
「シルヴェストスに来て、大勢の人が海と呼んでいるのは馬鹿でかいプールだ。だから底に潜ると科学局のサインがされてる。まあ、それはいい。俺たちが納めた税金はそれ以上の金を国外から毟り取ってるんだからな」
「あなたが納税納税うるさいのはそのせいか」
「かもな」
公園を突っ切ってそのまま進む。公園を取り巻く小規模な森林の中には小道があり、丁寧にも道端にはベンチがいくつもあった。昼間は木漏れ日に打たれてさぞ心地よいことだろう。
「俺はこの国を気に入ってる」ケヴィンは煙草の煙を細く吹いた。「この国でなら煙草の味がよく分かる」
ミランは無言で笑った。キャップのつばの奥にその口元が見える。歩行者を不安にさせまいと輝く街灯に照らされて、ミランの髪の白さが際立った。昼間に天使を装っていた時より今の方がよほどそれらしい。天使はスポーツキャップを被らないはずだ、などというのはそれこそ人間の偏見だろう。
「いつかシルヴェストスに行ってみたい」
「あの国の人工海にセントラルみたいなウォータースライダーは無いぞ」
「本物の方の海を見たい。あなたが好きな方の海を」
ケヴィンは不意に身震いした。幸いミランには気づかれなかったらしい。スーツの上に上着は着ているし、エイレーは比較的温暖な気候だ。それでも寒気がした。
故郷に二つある海を思い出す。片方には家族連れ立って行った。もう片方には、いつも一人か、多くても二人だ。二人目は大概ケヴィンを呼びに来ただけで、そこに居残ることは滅多にない。陰鬱な北の海を訪れるのは自殺志願者か、まだ病院に入っていないだけの患者だと誰もが信じているし、それは事実でもある。
花の都に生まれ、栄華極める都会で育ったミランがあの寂れた岩礁を眺めて何を思うのか。
想像するのは愉快だったが、人ががっかりする様をわざわざ眺めるほど捻くれてはいない。
どんどんと空に聳える大聖堂がその大きさを増していく。
昼間あった人だかりは掻き消え、大聖堂前の広間は閑散としていた。遠く、陸地へ乗り上げた鯨のように口を開けて輝いているのがオペラハウスだ。
「本当は、あなたの出身地は知っていた」
大聖堂の下を過ぎる時、ミランが言った。もう必要ないと判断したのだろう、帽子を脱ぎながら。「前々からクラシックに詳しいようだったし、クイーンズのスタッフが話しているのを聞いたことがある。ウィンター——氏とあなたが同郷で、同級生らしいと」
「別に隠すほどのことでもないからな。なんだ、どうして音楽の道に進まなかったのかって聞きたいのか?」
「聞いていいのか?」
「聞いてみろよ」
ミランが口を薄く開ける。
しかしその口から言葉が発されることはなかった。
光に誘われる虫のようにオペラハウスへ向かっていた二人はほぼ同時に気づいた。暖色光を鱗粉のように夜の空気へ振りまく巨大な半円状の入り口。そこへ至るための扇状に広がった階段。蔦が絡みついたデザインの手すり。
ガラス張りのエントランスホール。高い天井を支える華奢な柱。ケーニッヒ交響楽団のシンボルを描いた垂れ幕。神殿のような中央の螺旋階段。ホールと外界を隔絶する重厚な両手開きの扉。
その全てに辿り着く前に、目に入るものがある。
オペラハウスの入り口、階段の最上段。そこに逆光を背負った人影がある。
「やあ」
乾いた喉に水が染み込むような声がこの時も空気に染みわたった。
かすかな夜風に長い髪がなびく。コートのポケットに両手を突っ込んでいるのにひどく優雅な佇まいで。
「良い夜だね、エイレーの夜は好きだな。フロストより少し寂しいのが難点だけど」
そう言ってイゼット・ウィンターは二人へ——距離があってもはっきりと分かる——微笑みかけた。
「お二人さん、これから時間はあるかな?」
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