第22話 プリーズ・クワイエット(1)

 その日の行程は順調すぎるほど順調に進んだ。

「ボス、寝たのか?」

「いや」

 目に痛いオレンジ色の巨大なクッションに沈んだままのミランにケヴィンが声をかける。

 そばには空を突き刺すような尖塔が聳え立つエイレーの大聖堂がある。文化財でもあるそれは今封鎖され、大勢の野次馬の目に緊縛された姿をさらされている。

 大聖堂は建物の上に塔を載せている構造だ。そしてその聖堂と塔が接する部分には外へ張り出したバルコニーがあり、中庭のようになっている。ミランが飛び降りたのはそこからだ。

 キャストが万一落下した際の緊急網、緩衝材のクッション、そしてカメラを吊り下げる小型ゴンドラ。ドローンの発着地点でもある持ち出し用の充電スポット。

 それら赤や黄色、黒野奇抜なコードを巻きつけた大聖堂の姿をケヴィンはまじまじと見た。

「下手くそ」

「俺の演技に言ってるのか?」

「縛り方」ケヴィンは顎でそばの大聖堂を指した。「齢三百年のお嬢さんを縛るには下品なもんだ」

「あなたの価値観は独特だな」

 ミランが手を求めたので、ケヴィンはクッションに片足を乗せて腕を伸ばした。密度の異なるスポンジを何重にも重ねたクッションは凶悪な蟻地獄のようだ。踏み込んだ足がどこまでも飲み込まれ、踏み締めようと足に力を込めても、硬く平坦な面まで足の裏が届かない。

「思い切りのいい飛び降りだったな。スタッフの方が悲鳴を上げてたぞ」

「そういう指示で、そういう場面だった」

 ケヴィンは口の端を吊り上げ、掴んだミランの手を強く引いた。立ち上がったミランが体制を崩す前にもう一度その腕を掴み直し、今度は抱き上げるような上方向の力で蟻地獄を超えさせる。

「主演のあれは、もう演技じゃなかった」

 しばしば人の死の場面に現れる不可思議な男と、それを追う主人公。男は奇妙な名前と言葉を残すばかりだったが、主人公はやがて行く先々で遭遇するその男が、その男こそが主人公を追っていたという事実に気づく。その目的がこれまで何度も塗り替えられきた主人公の命日の執行と知り、一転して主人公は恐るべき死という安息からの逃走を図る。

 最後、大聖堂まで追い詰められた主人公は天使と相対し、迫り来る安息という名の死から——

「よっぽどお前の目が怖かったんだろうな」

「褒めてるのか?」

「瞳孔全開だったぞ、お前」

「そういう指導を受けた」ミランは硬い石畳に降りて、息を吐いた。「それに従ったまでだ」

「オーダーを完璧に遂行できるのは才能だ」

「それにあなたは俺といくら見つめあっても動じない」

「ああ、人の話を聞かないのも、そこまで行くと才能だ。多才で羨ましいよ」

 西日が大聖堂を赤く染め上げ、エイレーの街並みは透明な赤い光に滲んだ。どの家にもある細やかな意匠、細工、石畳の凹凸のくぼみには墨のような影が流れ込む。

 撮影用のバンが立ち並ぶ移動式スタジオへ戻ると、撮ったばかりの映像を睨みつけていた監督が立ち上がり、大きな口で笑顔を作った。一度だけ大きく手を叩き、まるで動物が威嚇するような動作でハグを求める。ミランはその動物的なコミュニケーションにすんなりと応じた。ミランはどうやらこの鷲のDNAを持つ監督を憎からず思っているらしい。

 やがて大聖堂に巻き付けていたセットの全てが区の文化教育課職員の厳しい監視のもと撤収され、今日の撮影は終了した。

 ——一つ気がかりなことといえば、去りゆく撮影バンの一台に積まれていた真新しい段ボールに印刷されたロゴだが。

「カタギリ」

「ん?」

「撮影班が今夜食事でもどうかと言ってる」

「職務外だ」ケヴィンは列を成してエイレーの中心部、大聖堂前の円形になった道路を走ってゆくバンの群れを眺めた。「送迎はしてやるが、食事中は別のテーブルで待機する」

「時間はあるのか」

 ミランが妙なことを言う。ケヴィンはミランの方を向いたが、その時既にミランは監督や撮影スタッフでも責任者の多いグループの方へ歩き出していた。

 二、三何か話す。すると監督がまずミランにまた激突するようなハグをして、そして撮影の最後にミランと大聖堂で相対する役を担った主演の男が握手を交わす。

 一日目の撮影が終わっただけだというのに、まるで今生の別れのような雰囲気だ。

 コートを翻して戻ってきたミランに、ケヴィンはランドクルーザーのエンジンをかけて尋ねた。

「店はどこだって?」

「ご厚意だけと伝えた」

「ペット同伴可の店じゃなかったのか」

「今度はあなたもエキストラで出したいそうだ」

「報酬次第だな」

 撮影隊が全て撤収する前にそれに紛れる必要があった。こんなエイレーのど真ん中にミラン・アーキテクトを取り残してば、整理員の誘導に従順だった区民たちの餌になる。

 ましてや大聖堂を門にしてそばに建築されているオペラハウスまでの道には色とりどりのカーテンと広告が出ている。ケーニッヒ交響楽団の薔薇のシンボルを掲げたそれはまるで中世の騎士団の紋章の如く細やかで、そして雄々しい。

 伝説の騎士の目と鼻の先で、どれだけ小さくとも騒動など起こしたくはない。

 車へ乗り込み、テレビ局の関係車両の列の間に合流して走り出す。メディアに、パパラッチらしきバイクや車も何台かある。

「このままホテルに戻るか?」

「ああ……」

 ミランが携帯を取り出したかと思うと、画面を見て眉を寄せた。

「どうした」ルームミラー越しにその表情を見て、ケヴィンは言った。言った時には視線はもう前方へ戻っている。前のバンとの車間距離は十分だ。

「ドミトリがまたやった」

「ドミトリ?」

「電子レンジを壊した」

「どうやって」

「冷凍のケーキを食べようとしてアルミホイルが巻かれたまま解凍した。緊急停止装置付きのレンジを買わせて正解だった」

「ママ、もうあいつに電化製品は与えない方がいいんじゃないか」

 ミランが携帯に向けていた目をそのままルームミラーに向ける。完璧な反射角度で視線はケヴィンの眉間に突き刺さった。

「業務用の塩化ビニルラップとタッパーを買わせる。食品の保存はこの二つでさせれば……」ミランは携帯を持つ手を膝に落とした。「冷凍デリのサブスクリプションを契約させた方が早いな」

 ママ。ケヴィンは聞こえないように口の動きだけで繰り返した。ミランは恐ろしいまでの速さで携帯の画面に指を滑らせ、そして最後に画面をタップすると、コートに仕舞う。それから窓際に肘をついて、撮影終了時よりも深いため息をついた。今頃ドミトリの携帯にはミランが厳選した食事宅配サービスのリンクが送り付けられていることだろう。

 

 車が進む。セントラルへ一度引き上げる前の撮影者を離れ、区道へ左折する。

「もう五年だったか、お前たちは」

「ん——」

 ミランは首を回した。「ああ、来年で六年になる」そして自分の言葉にかすかに笑う。「そうだな、もう六年か」

「ものも言えない赤ん坊が学校に入るぐらいだな」

「あっという間だ。大概どんな時間も過ぎてみればそうだが、ドミトリが俺に声をかけてきた日が昨日でも驚かない」

 666の発端がドミトリ・カデシュであることは少なからず彼らに興味のある人間にとっては常識だ。有志で運営されていた音楽創作サイトで、趣味で作った曲をボーカリストたちに提供していたミランをドミトリが誘い、二人で組むようになった。ミランが自分でマイクを握るようになったのは、それからだ。

「なんで君の方が上手いのに歌わないの?」

 お互いの曲をマッシュアップさせる試みで連絡を取り合っていた時、当時二十歳だったドミトリは子供がものを尋ねるような口ぶりで言った。柔らかい物腰で、しかし容赦と遠慮のない質問だった。

「君が歌うといい。君が一番上手いんだから」

 皮肉か自嘲とも取れる言葉をドミトリは全く本心で言っていた。ミランがマイクを握った当初の理由は責任感だったが、今は寧ろ詐欺にあった被害者の気分でいる。

 自分のすぐ後ろにもう一人の“一番上手い“ボーカリストがいつでも控えている。バックコーラスやハーモニーでその声を聞くたび、首を掴んで前に引き摺り出したくなる。

 ミランが観客に緊張しないのは、自分の目の前に並ぶ同じ人間の目よりも、すぐ後ろにいつもいる肉食獣の歯の方がよほど恐ろしいからだ。それに比べれば何もかもが優しい。

「曲を作っている。666としてじゃなく、個人的にいつかドミトリにソロで歌わせてやるための曲だ」

「いい関係だ」

「うん」ミランはあっさり肯定した。「だからあなたとドミトリには別れてほしくなかった」

 ケヴィンは眉を浮かべた。軽く踏み続けているアクセルはそのまま。スピードメーターは時速五十キロと一致し、僅かなずれもない。

「お前たちはもしかして毎日食ったものもトイレに行った回数も教えあってるのか?」

「食事は時々聞く。別に驚くことじゃない、ドミトリはトラブルを避けただけだ」

 666としての活動が多い以上、こうして単独で動く機会はそう多くない。警備として同伴するケヴィン含め、オフを除外すれば三人での行動が原則だ。その三人のうち二人の関係を完全に悟らせないのは難しいことと言える。

 だが完璧に騙せとあれば、それは決して不可能ではない。ましてやドミトリの協力があれば確実に成功する。

 そもそもドミトリとケヴィンの恋人関係は、ドミトリが始めた。自分で始めておいて、それをミランにもわかるように振る舞ったとすれば、もはや嫌がらせの領域になる。だがそれはあり得ないことだ。

 

「トラブルというのは?」

「……なんと言うのかな」

 始めてミランが言い淀んだ。二人は示し合わせたように一度ルームミラーごしにお互いを見た。「ドミトリは本当にあなたを気に入っていた。それは事実だ。だがそれ以上に、彼は手段を選ばないところがある」

 前方で信号が赤になる。交差点は夕暮れを背に帰路に着くもの、あるいはこれから出かけてゆくめかし込んだ格好の人々が綺麗にすれ違っている。スクランブルの歩車分離式信号は待ち時間が長い。

「だから、つまり」

 ミランはさらに言葉を探したらしいが、結局口を閉ざした。わざわざ手を使って口を覆ってまで。「いや、俺が口を出すことじゃなかった。憶測を言った後で悪いが、ドミトリのことだ、知りたければ本人に聞いてくれ」

「なら一ついいか」

「何?」

「お前は手段を選ぶか?」

 車はまだ動かない。二人乗りの小型バイクが無理矢理信号待ちをしている車の脇をすり抜けていく。短くクラクションを鳴らす車もいた。

 そのバイクが後部座席の窓の横を過ぎようとした瞬間、ケヴィンはシートベルトを外して助手席へ身を乗り出した。そしてそのままドアを勢いよく開ける。

「失礼!」

 驚いて二人乗りのうち後ろの男が携帯を落としたが、今更止まるわけにもいかない。バイクはそのままよろよろとさらに狭い歩道と車道の間を進んでいった。

「何してる?」

 ミランが不審そうに言ったが、ケヴィンは答えずにギアをパーキングに入れると、車を降りた。

 助手席側の車体の下に携帯が落ちている。画面いっぱいにアスファルトを拡大し、細やかなヒビに入り込んだ砂利までくっきりと写っている。ポートレートモード。フラッシュなし。自動調整。倍率はゼロ。

 ケヴィンが携帯を拾い上げると、バイクから降りて来たのであろう先ほどの二人乗りの一人がやってきた。フルフェイスのヘルメットをしているがレンズを上げている目元で分かる。非常に若い男だ。運転手は交差点の最前線にバイクを停めているが、背中に動揺が滲んで見える。

「道路交通法違反だ」

 ケヴィンはそう言いながら携帯を差し出した。そして男の手が携帯に触れる前にそれを遠ざける。「名前は?」

「えっ?」

「名前」

「なんで教えなきゃいけない?」

「俺には言いたくないか? 言っておくがエイレーの警察は俺より仕事熱心だぞ、仕事自体が少ないからな。ちゃちな違反にだって面倒な手続きのフルコースを出してくれる」

 そこだけ露出した目に嫌悪感が浮かんだ。「ギミー」吐き捨てるように男が言い、ケヴィンの手から携帯を奪い返した。

「ギミー」

 ケヴィンは繰り返した。空になった手を振る。「バイクの運転手は彼女か? スタイルがいいな」

「死ね!」

「お前よりは先に死ぬさ。だから長生きしてくれよギミー、携帯のGPSは切ってたか? SNSは実名でやっていないか? ミラン・アーキテクトの写真移りを気にする前に、どうして画面が待ち受けに戻っているか考えたか?」

 男は携帯を見た。待ち受け画面に映る長い髪の女性とのツーショット。閉じられたカメラ機能。

「メーテラに伝えてくれ。いいバイクだ、だがそろそろマフラーの煤を落とすべきだ」

 ケヴィンは男の肩を叩いて運転席に戻った。信号が青に変わったのを視界の端に捉えたからだ。最前線のバイクは運転手がこちらを見たが、そばの自動車に押されるようにそのまま直進した。

 ケヴィンは手早くシートベルトをつけ、ギアをドライブに戻して発進した。左折で列を離れる時、やや待たせた後続車に一度手で詫びる。後続の中型トラックは短く一度ハザードライトを点滅させた。

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