第21話 風は籠に入らない(2)

 郊外のスタジオには集合時間の十五分前に到着した。丁度、区外から集合してきたキャストらを連れてきたバスも同じタイミングでやってくる。

 野次馬を遠ざけるための整理員が派手な色のウインドブレーカーを着て、既に集まりつつある見物客に下がるよう指示している。

 いくつか立てられたテントと撮影者の縦列駐車で作られた仮設スタジオ。その奥にメインキャストと思しき集団がスタジオの特に奥まった方で話している。

「幼稚園の遠足みたいだな」

 整理員に誘導された位置へ停車すると、車のすぐ横に撮影スタッフらしき男女が三人も立っている。その表情が明らかに浮ついていた。

 助手席の窓が閉まってからケヴィンはついでのように言った。「お菓子持ったか?」

「持った」

「いかついガードマンの威嚇はいるか?」

「そうだな、貰おうか」

「了解」

 車を降りる瞬間、ミランが顎で合図した。その仕草は外にいたスタッフの目にも入ったらしい。ミランと、続けざまに車から降りてきたスーツ姿の男に明らかに動揺する。

「どうも」

 明らかに人気バンドのボーカルへ握手を求めるためにうろついていたスタッフの手をケヴィンが横から握った。「ミラン・アーキテクトの警護についているISC派遣員です。私はクイーンズ・レコードとの契約履行の関係上、秘密保持義務を遵守し、撮影中スタジオを自由に行動する権利を持っています」

「あ……」スタッフはたじろいだが、どうにか目に傷を持つ男との握手をこなした。「ええ、どうも。ええと、歓迎します」

「スケジュールを確認させていただきたいのですが。ロケ地の移動についてはアーキテクトはこちらの車で送迎します」

 ケヴィンが視線を大きく動かす。そしてある方向を見据え、傷がある左目がピクリと動く。「責任者の方は幸い談笑中のご様子ですね。先に警備に必要な情報を確認させていただければ」

 ミランは車から降りてすぐ短い挨拶を告げたきり、一貫してガードマンに任せて沈黙していた。それは誌面やメディアに見る通りのミラン・アーキテクトの物思いに耽ったような風貌そのものだったが。

 

 

 ぎこちない足取りのスタッフが奥の待機場所へ案内する。三人のうち二人は用もなく離れていった。本当に用がなかったのだろう、握手以外には。

「——ボス、何か面白いものでも?」

 言いながら、ケヴィンはミランの横へ並ぶ。そして顔の半分——ミランの側にある口元で歯を剥いて見せる。「人の仕事ぶりを見て笑うとはどういう了見だ?」

「笑ってはいない」

「お前がやれと言ったんだろ」

「陰湿だなと思っただけだ」

「巧妙」

「巧妙だなと思った」

「滑舌に問題なし。スカした面も絶好調だな、ボス」

 先導するスタッフはひどく足速で、もはや案内と呼べるほどの距離を超えている。

 二人が通った場所から人の声が消えていく。その沈黙の波はやがてロケ現場になる通りで談笑していたメンバーにまで届いた。だがミランとケヴィンがしていることは、なんら犯罪でもなんでもない。ただ歩いているだけだ。

 それなのにまるでこの世のものではないものを目の当たりにしたように周囲が静まり返る。

 人間に擬態した天使に目をつけられるのを恐れでもするかのように誰もが声を落とす。

「ミラン・アーキテクト!」

 突然、よく通る声が遠くから響いた。

 はじめ、興奮した見物人かと思われたその人はまさしくこのドラマの監督だった。脚本を書いた張本人でさえある。ヒョロリと縦に長い体格でなぜかシャツを二枚も重ねて着た上に分厚いパーカーを着ている。くっきりした鷲鼻と相まって、今にも丸まった背中から羽が生え出しそうだった。

 監督は興奮した様子で目の前までバタバタと駆け寄ってくると、祈るように自分の両手を強く握りしめた。

「ああ! ピッタリだ! やっぱり私の目に狂いはなかった! その歩き方も目つきも! 最高だ!」

「ご無沙汰しています、監督」ミランは既に監督と面識があるとはいえ、驚く素振りもなく会釈した。「本日もご指導ご鞭撻のほど、どうぞよろしくお願いします」

「ああ! ああ! こいつは完璧だ! この感じ! この意思疎通がずれている雰囲気が最高だ! ガブリエルはこうでなくっちゃな!」

 ケヴィンはミランを見たが、ミランも同じような目で監督を見ているだけだった。それ以上会話をするつもりはないらしい。ケヴィンは今までこのドラマの打ち合わせがほぼリモートで行われていた理由を目の前にしてようやく納得した。この監督はできる限り四角いワイプの檻で厳重に囲っておくべきだ。

「撮影を始めよう! 天使との邂逅シーンから撮るぞ! エキストラは三十二番と十八番を二周目に回してそれ以外は衣服と配置を変えて行う! 五番と二十四番は手前に配置してぼかせ! 七番のギブスは——なんだったか——業者から届いたか?」

「まだでは?」

 スタッフが突然慌ただしく走り出す中、狂ったようにあちこちへ腕を振り回して指示を出していた監督が雷に打たれたように停止した。

 まるで不気味な人形劇のように監督がぐるりと振り帰った。目まで猛禽類のような金色だ。ケヴィンはいっそ面白くなっていた。

「君は誰だ!?」

「ISCより派遣されたアーキテクト氏の警護員です。七番の札をつけた方なら、まだバスの中に残っていらっしゃいました」

「そうか! 君の身長はどうも二メートル近くあるな! よし君も出たまえ!」

「光栄です。それでは警備計画の確認がありますので失礼します」

「そうかそれは残念だ! 他に確認事項はないな——よし、始めよう!」

 撮影場所へ吸い込まれていく人の波に逆らってケヴィンは歩いた。当初案内役だったスタッフはようやく、案内すべき人間を置き去りに気づいたらしく青い顔でドアを開けた一台のバンのそばに立っている。

 スタッフから資料を一式受け取り、その場で目を通す。その間にキャストやエキストラがぞろぞろと閉鎖した通りに配置を完了していく。

 場面としては、主人公が交通事故の現場で野次馬の中にミランを見つける、というシンプルなものだ。その後も不幸な事故現場で何度もミランを見かける、シーンの撮影が続く。

 基本的にミランは立っているだけだ。台詞を言う場面の撮影は午後になるだろう。そしてミランは一切を完璧にこなすだろう。

 天使は寡黙であり、秀麗であり、不穏であり、冷酷であり、完璧だ。そして人間と同じ言葉を操りながら——しかし致命的にずれている。

 その監督のイメージに合致するのが、ミラン・アーキテクトだったというわけだ。

 ケヴィンは思わず小さく笑みをこぼした。既に周囲にスタッフはいない。顔に傷のある男が突然微笑むことで誰かを怯えさせる心配はない。

 カメラが回っている間、監督が静かになることだけが幸いだった。うららかな日差しが差しこみ、撮影のために閉鎖されたエイレー区の一角はのどかだ。

 ただ一箇所、天使が紛れている場所を除いて。

 死体役——血糊の海に沈んだ青白い顔の男性エキストラ——のそばにミランが立っている。

 ミランはただ黙って、死体を見ている。

 その目は子供が潰れた虫を眺めているようであった。純粋無垢で、興味津々。

 死体という物体を通り過ぎたもっとその奥を見ているような目だ。

 ドミトリの目には多くの場合焦点がないが、ミランの目には常に焦点がある。故に黙っていても、平行線で眺められても、まるで虫眼鏡ごしに凝視されているような迫力を感じる。

 ケヴィンは思い出した。

 病室で目覚めた自分を見たミランの目を。

 あの目と今のミランの目は、全く同じ人物の目であるべきだ。真剣で、何かを見分けようとしている。

 やっていることは変わらないはずだ。やろうとしていることも、するべきことも。ミランは今この時、目の前に転がっている死体の内側を見て、それが誰なのかを調べている。どんな人物で、何をなしたのか。善人か悪人か。

 嘘偽りなく、目覚めた人間は真実を述べているか。

 ミランが音もなくその場に膝をつく。破損した車、流れる血を前にどよめく野次馬の中で、その動きの単調さが際立つ。

 この男は? 

 この男は本当に“そう“か?

 この男をどうする?

 この男をどうすべきだ?

 この男をどうすればいい?

 この男を。

 カット、と誰かが言った。死体役がむくりと起き上がる。

 場面が変わる。また誰かが血にまみれて転がる。目を剥いて苦渋の顔をしているもの。既に目を伏せて青白く凝っているもの。今まさに赤い泡を吐いて息を引き取るもの。

 ミランは顔色一つ変えずそれらをただ眺めている。

 ミランが瞬きをした。

 カット、とまた誰かが言った。あまりに無感動な声だ。

 主演キャストの一人が突然ミランの前に躍り出て、釘を刺されたように立ち止まる。

 ミランが顔を上げた。足元には赤黒い沼を自分の口でつくった被害者が仰向けに寝ている。

 被害者の瞼をミランが閉じてやる。

 台詞があった。ケヴィンのいる場所までは聞こえない。それはどうでもいい。

 ミランの目が主演の男に向けられる——少しずれているようだ。

 カット。誰が言っているのかようやくわかった。あの監督だった。別人のように冷徹な声を出すものだ。

「移動するぞ!」

 堰を切ったようにキャストらが移動する。動物の群れのように無作為に左右へ捌けていく。

 ミランは人と衝突することを避けてか、まだ同じ場所にいた。

 ケヴィンもほとんどはじめと同じ位置にいた。平地の撮影場所だ、何処にいようとほとんど空間の情報量に差はない。だからそこに立っていた。

 ミランは明らかにケヴィンを見ていた。その目は初めて見た時と、つまりあの病室で何より真っ先に見据えてきた目だった。

 この男をどうすればいい? とその目が言っていた。

 ミランがわずかに目を細くした。それはあまりに人間くさい表情の変化だった(撮影が終わっていて幸いだった、撮影中なら叱責されただろう)。

 人外の存在はまさか人間に執着しないだろうし、まさかこれほど人間の真似事に秀でてはいないだろう。致命的にずれていなければならないのだ。

 ミランが目を閉じて歩き出した。何事もなかったかのように。

 だが最後に見せたミランの目は明らかに脅迫していた。

 あの日と同じ目。あの日と同じ質問。

 あの日からずっと同じ欲求をミランはその目に訴えている。

 ——この男を、どうすればそばに留めておける?

 脅迫でもあり、それは質問でもあった。懇願にも近い。

 だがケヴィンはそれを無視した。ケヴィン・カタギリは教師ではない。誰かに高説を垂れる弁舌もなければ、確固たる信念と信仰があるわけでもない。

 それに何よりも、答えは明らかだ。ミランの質問の答えの中に、ミランが喜ぶものはない。ミランが求めているのは、風を捕まえる籠のようなものだ。氷を太陽にさらして、溶けないようにしておけるような方法だ。そんなものを彼は大真面目に探している。

 そんなものはない、と教えたところで意味のない質問だ。往々にして夢と欲望が生み出す質問は、偉人の名言ではなく、挫折と失望によってしか答えを得ることはできない。

 だからミランはいずれ失望するはずだ。あるいはもう失望しているのに、それから目を逸らしているのかもしれない。

 致命的なずれから目を背けている。

 ケヴィンは資料を傍に畳み、ミランの方へ歩き出した。

 この若く有望な優等生に、自分ができる事はなんだろうか。そんな彼らしくもない気まぐれを考えながら胸の前で十字を切る。

 それを見たミランが不快そうに眉を寄せたのがわかる。ケヴィンは笑ってその手を振った。

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