第20話 風は籠に入らない(1)

 イゼットが音を立ててケヴィンの背中に口付けた。映画のワンシーンのような仕草だが、圧倒的にキャストを間違えている。それなのにイゼットは執拗なまでに皮膚を押し上げる骨や筋組織一つ一つにキスをする。

「は、ッ」

「ああ、気持ちいいね?」

 傲慢な質問だ。ケヴィンは乱れた呼吸の合間で笑った。だからこの男は最高だ。罪悪感を感じない。ぬめりを指で押し込んでぐずぐずになった穴に、違和感を覚えていられるだけの律儀さはなかった。

「ハ、おい、童貞」

「ん?」

「憧れの言葉責めはできたか?」ケヴィンは首を傾けた。すぐそばにイゼットの顔がある。「さっさと突っ込め」

「……君って、よくそれで友達が尽きないよな」

「それに、おったててる変態は、誰だよ」

「はいはい、僕だね」

 は、と。あ、という声がケヴィンの口から漏れた。息だけするつもりだったが、声と空気を分けて整理することができなかった。

 どれだけ表面を鍛えても、引き絞りきつく肉を縛っても、内側だけはどうにもならない。内側のけして頑なになれない柔らかい部分は押し入ってくる他人を拒めない。分け入ってくる他人のことなど想定していないから、馬鹿のようにただただ流されて、先端と、一番太く膨らんだ竿を飲み込んでしまうと、あとは惰性で奥まで入る。

 腰から下、腿の裏側まで密着する。

 イゼットの手がケヴィンの顎を掴み、ぐいと持ち上げた。鏡越しに見つめ合う。イゼットは笑顔で、ケヴィンは他人を見下すような顔だった。ただ、鏡はまだら状にあちこちが白く結露で曇っていた。

「よかった。童貞に突っ込まれただけで気持ちよくなってくれて」

「よく、喋るな……」ケヴィンはイゼットの指を噛んでやった。「緊張してるのか?」

 イゼットはケヴィンの顎を掴んだまま頬に口を寄せた。唇は頸動脈に沿って下っていく。同時にゆるく腰が動かされ、洗面器の縁にケヴィンの腹がぶつかる。陶器の冷たさに思わず肌がこわばった。

「は——ぁ、ッあ、ア」

 ゆるやかに始まった動きがだんだんと速くなる。無駄に絞り出しただけ押し込んだ潤滑剤が出し入れのたび少しずつ掻き出されて、まるで分泌液のように足にまで垂れる。前立腺を擦り、押し上げるような動きは音を立てて二人から自制心を削り落としていった。

「ケヴィン」

 イゼットの声を左耳のすぐそばでケヴィンは聞いたが、答えられるほど暇ではなかった。洗面台を握りしめ、頭を鏡に押し当てて目を閉じる。自分の下半身の感覚がない。自分が二本足で立って歩く生物だということを忘れていた。

 もっと背骨を砕くように強くガンガンに突いて欲しいと思った。それが一番気持ちいい。生温い温度ではもう感じられない。体温の方が高いからだ。スローセックスは性に合わない。それを知っているはずなのにイゼットはいつもこうだ。

「もっと」

 イゼットは常に求めさせたがる。笑顔が素敵なクソ野郎。ケヴィンは心の中で罵った。

「も、っと、腰ふれ、童貞」

「ふふ」イゼットが耳元で笑う。「癖になるね、その呼び方」

 ハッ、とケヴィンの口からも笑いが漏れた。あからさまに乱暴になった律動に一瞬えずきそうになる。だがそれを押し込めると、あとはただ分厚くなった快感のスイッチをガツガツと叩かれるだけだ。つまらない古いゲームのように、ただただ腰を振って快楽に痙攣する。

 だるくなるほど腰を振って、いつの間にか達していた。

 バグったように奥まで突っ込んだ状態で止まっている。ただ乱れた呼吸だけが部屋を湿らせていた。服を着ていないのに二人は汗をかいていた。

「は——」

 鏡に額を押し付け、ケヴィンは上半身を支えた。下半身はささえがまだあるからいい。

 曇った鏡ごしに唾液で濡れた下唇を見た。

 イゼットが身じろぎする。その些細な動きで太腿の裏に熱い液体が流れた。

「イゼット……」

「ん?」倦怠感の滲む声だった。子供には聞かせられない相槌。「いけなかった?」

「まだ、抜くな」

 ケヴィンの肩にイゼットが顎を乗せる。片腕を前に伸ばし、鏡を乱暴に拭った。

「童貞を煽るようなこと言わないでくれよ」

「黙れ、ソーセージ」

「煽るなったら。僕も久しぶりで張り切ってるんだから」

「は」ケヴィンが首を振った。「もう、いい。抜け」

 仰せのままに、とイゼットは恭しく最後に背中へ口付けてから体を離した。床の上にあったシェービングジェルの容器が蹴飛ばされて転がる。

 ケヴィンがそれを拾った。中身はまだある。

「てめえの番だ。尻出せ」

「え? 本気で?」

「本気だ」

 ケヴィンはイゼットを担ぎ上げると、舌打ちした。「ボイラー動かし損じゃねえか」そして入れたばかりのスイッチを殴るように消す。外から聞こえていたモーター音が止む。

 寝室へ戻り、ぐしゃぐしゃになったままのベッドの上にイゼットを放り落とす。そばのスツールにはパン屑を乗せただけの皿が残っていた。もう一度ケヴィンは舌打ちした。不衛生だ。だが掃除するなら汚れることを全て終えた後の方がいい。

 

 イゼットはベッドに後ろ手をついて待っていた。抵抗しないだけ反省の感情はあるらしいが、ベルトも留め具も外れたズボンにだらしなく裾が乱れたシャツでも妙に様になっているのが癇に障る。所々濡れているその服はどちらもケヴィンの数少ない私服だった。

「脱ぐ?」イゼットはシャツの襟を指で摘んでみせた。「それとも脱がせたいのかな」

「そのままでいい」

「君ってそういう趣味だったっけ? 僕としてはありがたいが」

「服は弁償しろ。その代わりに……」

 ケヴィンはその時になって気づいた。

 乱れたイゼットの服、それはケヴィンの服だが、ジェルに濡れて皺になったシャツの裾と外れた留め具の奥に、そこから覗く皮膚のうえに。

「気が変わった」

 と、ケヴィンは言った。「イゼット、脱げ」

 イゼットは気乗りしないようだった。しかしそれはイゼット本人の感情というよりも、ケヴィンを気を遣っての態度だった。

「イゼット」

 ベッドが軋んだ。大袈裟な音だった。ケヴィンが右腕をついて、膝を乗り上げただけにしては大きすぎる音だった。

「この傷は誰がつけた?」

 イゼットはただ仰向けに寝ているだけだった。だからケヴィンがシャツのボタンを全て外した。

 日に当たらない部分の皮膚は男でも女でも白いものだ。だからこそ、イゼットの腰や臍の周り、足の付け根へ斜めに走る、そこだけ色の違う皮膚の色は隠せるものではない。

 それをケヴィンは傷と呼んだが、血の気配はない。昨日今日の傷でもなければ、ケヴィンの左目にあるものとも種類が違う。イゼットのそれは、鋭利なもので皮膚を破り肉を切ったものではなく、何かと擦れて皮膚が擦り切れたような痕だった。再生した皮膚と、元の皮膚の境目に古い皮膚が巻き込まれ、そこだけ色素が暗く沈着して縁取りをなしている。

 それは明らかに、縄や紐で体を強く縛った際につく摩擦痕だった。

 ただ縛られただけなら痣になるだけだ。

 これは擦り傷だ。皮膚が擦り切れてできた傷の痕だ。

 これは。

 縛られ、足掻いた時に皮膚に残る傷だ。

「ああ……」

 ケヴィンは細く息をついた。その息はイゼットの髪を揺らした。

 痕は至るところにあった。腰、太ももに、足首——これはもうほとんど消えかけていたが——そして二の腕、肘。

 どれもこれも、辛うじて傷と呼べる程度に薄くなっていた。あと数ヶ月もすれば、全て完全に消えるだろう。ゆっくりと、完全に消えただろう。

 既に消えてしまった夥しいまでの痕跡と同じように。

 だから、ケヴィンは幸いに思った。この痕跡が消えてしまう前に気づくことができてよかったと思った。自分の誉められたものではない爛れた性格と生活を褒め称えたいほどだった。

「俺があの女を殺そうとするわけだ」

 イゼットは何も言わなかった。眉をわずかに寄せ、曖昧に微笑んでいる。子供を見る親のような目を向ける。

「しくじったのが悔やまれるな」

 腿の付け根から腰へ斜めにはしる傷跡は点々としていた。治りの速さの違いで、傷跡は下手な転線のようになっている。そこを指でなぞると、イゼットがさらに眉を寄せ、顎を引いた。

「痛むか?」

「さあ」イゼットは肩を浮かべた。「もう、随分と前のことだからね」

 服を脱がせきると、傷ひとつない秀麗な顔と、首から下のあちこちに染みのように滲んだ痕跡はあからさまだった。これだけ痕跡があるのに、イゼットの顔には傷ひとつない。

 傷跡は服を着ればどれも綺麗に隠れる位置だ。まるで日陰に蝕む黴のように、それらは狡猾にも、滅多に人目につかない場所にばかり巣食っている。

 ケヴィンは傷の一つ一つに口で触れた。熱くなった指や頭や目では冷静に感じ取れないものが、唇でなら感じ取れた。凍えるほど冷えた口の中で歯が震えていた。ただそれをケヴィンは鳴らさないことに成功していた。キスをせがまれないように次々に口付けた。イゼットは気まぐれだ。気が向いてせがまれ、舌を入れられればすぐに歯の震えが露見する。

 全ての傷跡を巡り終えた時、ケヴィンの歯の震えは収まっていた。イゼットは口元に手の甲を当てて、呆れたような目で、湿った息を吐いた。

「君がお坊ちゃんだっていうこと、こういう時に思い出すよ……」

「童貞にはわからないだろうな」

 ため息で返される。ケヴィンはイゼットに覆いかぶさり、口元を塞いでいるイゼットの手もそのままに、指の付け根に口をつけた。そのまま犬が飼い主にじゃれつくように鼻先で指先を掻い潜り、口へ辿り着く。

 歯を立てずに唇で唇を食む。次第に奥から這い出してきた舌を軽く吸うと、イゼットの手がケヴィンの首に回された。そして痛んだ髪を引く。ケヴィンは構わなかった。気にかけるほど上等な髪ではないのだ。

「ふ、ン」

 舌を絡めながら体重をかける。逃れられないように押さえつけながら、再び兆し出したものを手のひらで撫でる。自分でも引け目を感じるほど優しく捏ねてやると、イゼットが明らかに苦しそうに目を瞑った。

「ケヴィ——」

 文句を言おうとした口へさらに舌を押し込む。声を出すためにうねった舌に舌を絡めて唾液を啜ると、イゼットが腰を反らして何度か震えた。ケヴィンはイゼットの代わりに二人分の唾液を飲んだ。角度を変えて、口の中の柔らかい肉を舌で撫でる。果肉を潰すように舌を噛んでやると、果汁の代わりに唾液が染み出してくる。

「黙って、息だけしてろ」

 イゼットの目がケヴィンの目を探していた。濡れた目の表面に浮いた涙の膜が、他でもない彼自身の視界を歪めているらしかった。

「抱かせろ、よくしてやる」

「かっこいいね、僕を慰めてくれるのかな?」

「俺のためだ。溜まってる」

「その割には、前戯が、」イゼットが息を呑んだ。指が入ったからだ。「しつこい、んだけどな」

「早漏。これが普通だ」

「さっきまであんなに喘いでたのに……」

「録音して後で聴き比べといくか」

 イゼットが笑った。じゃあ後でもう一回抱かせてもらわないと。下世話な話題でも平気で笑う。そのことにケヴィンは安心した。今はただ友人を楽しませるだけだ。それがいいレストランでの食事か、セックスかの違いかなだけで、ケヴィンとイゼットは真実親友だった。

 イゼットの腕についた擦り傷の跡が目に入り、ケヴィンは舌打ちした。同時にイゼットが上げった嬌声でそれはイゼットには聞こえなかったようだ。

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