第28話 波の行く先(3)
——なんであなたがそんなに拘るのかが理解できない。
拘り。こだわり。
ケヴィンはセックスに拘っている。セックスは楽しいからだ。双方合意で、お互いに了承し、お互いに共通の目的を持って取り組めば、それはいつも最高に楽しい。
どれだけ高尚な人間も、最中には何も考えていない。真っ白な頭の中には、真っ白な快楽があるだけだ。その白いペンキで自分の頭の中を塗りつぶすのが最高に楽しい。
言葉も態度も必要ない。呻いて、喘いで、息を吸って、吐いて、震えて、跳ねて、時には叫んで。
腹の探り合いはない。互いに腹の中を晒しているからだ。これ以上に楽しくて厳密なことがあるなら、是非教えてほしい。
理解できない、とミランは言った。だがそれこそが答えだ。ミランは理解している。理解していることを認めたくないだけだ。彼は理解と共感を同一視している。だから共感できないことに対して、理解できないと表現する。理解して、ただ共感できないだけのことに、理解できないと自分を誤魔化す。どこかで、理解できるはずだと考えている。
ケヴィンとミランは価値観や趣味を超えた次元で、思想が違う。もはやそういうものだ。そういうものだ、としか言えない。これ以上にも以下にもならない。議論しても無駄だ。そういうものなのだ。
陸に生きる生物は海に生きる生物と一緒にはいられない。片方を海に沈めて、急に鰓呼吸ができるはずがない。溺れて死ぬだけだ。逆にしても、陸地で息ができずに干からびるだけだ。
——お前こそなんでそんなに拘ってるんだ?
ケヴィンはテーブルに投げ出していた手を額に当てた。ミランがしていたように。この言葉を言うべきだった、と考えながら。お前こそ何をそんなに拘ってるんだ? と。
お前は俺に何を望んでいるんだ?
俺が処女だったら喜ぶのか?
俺がプラトニックな関係を尊敬して、セックスを憎めば満足するのか?
——俺は何をこんなに悩んでいるんだ?
冗談が一つも重い浮かばないうちにいくつもの恨み言ばかりが思いついた。これらをミランにぶつけてどうなるのかといえば、それこそどうにもならない。これはケヴィンの理屈で、それはミランの理屈と正反対だ。
悪い冗談のようだ。
豪勢な食事は手をつけられず、広いベッドは使われず、大きなモニタは黒く冷えて、素晴らしい夜景は見向きもされない。
これは最悪の冗談だ。
恋人になると約束をして、約束が叶ったと思えばその人は記憶を失っている。顔に傷を負い、車に轢かれ、その元凶と思しき親友と会うのを止めない。優しい人と信じるその人間は下世話でセックスにしか関心がない。
——あなたのそばにいる限り、その最悪の冗談がただの冗談に過ぎないと信じられるからだ。
ミランはそう言った。だが、当のミランはケヴィンのそばにいると言うのに、最悪の冗談が全て現実のものになっている。
笑える話だった。まるで映画の台詞のようなことを言って、現実は真逆のことが起きている——否、もう既に起きてきた。
順序が逆だ。
ミランはもう既に最悪の冗談に見舞われている。それも一度や二度ではない。
その上であの男は映画の台詞のようなことを吐いたのだ。
信じていると告げてから裏切られたのではない。
あの男は、裏切られた後で、信じていると言った。
椅子が音を立てた。紙が必要だった。それはすぐに見つかった。ベッドサイドの時計と一体化した小さなチェストに、電話と共に添えてあった。
ケヴィンはペンを手に取り、謝罪と感謝の言葉を書いた。そして一切手をつけていない夕食のメニューを箇条書きにした。
メモは、一番初めに思いついた金額の二倍のチップと共にテーブルへ置いた。
部屋の鍵を持った。室内の電気を消して、部屋を出る。
上着の中で携帯が振動していたが、音が鳴らない発信元は一人だけだ。無視していい。
隣の部屋のドアは施錠されていなかったが、構わず開けた。自分が内側から鍵をかければ済む。
ミランは奥の浴室にいた。シャワーを浴びている。湯気が僅かに浴室のガラス戸から漏れている。部屋の造りは隣も同じだ。スモークガラスにその姿がぼやけて見える。そばにはガウンもタオルも用意されていない。ただ脱がれた衣服が浴室の入り口の籠に放り込まれている。
籠に服が畳んで入れられていたら、若干腹を立てたかもしれない。ケヴィンはそんなことを思いながら歩いた。
浴室の壁をノックする。もうお互いに姿は見えているだろう。
ミランはシャワーを出したまま、しばらくケヴィンを壁越しに見ていたようだ。
シャワーが止まり、ミランが浴室を出た。全身から水滴が垂れ、均整の取れた体の輪郭を流れていく。
きっかり真正面から立って向き合う機会がこれまでなかったが、存外二人の身長差はなかった。ミランも180センチ近くはあるのだろう。
「……もう食べたのか」
と、ミランが言った。ケヴィンは答えずに顔を近づけた。
ミランはわずかに瞼を動かしたが、それは前髪から絶え間なく垂れ落ちる水滴のせいだった。現に、近づいてきた顔にミランは動じる様子はなかった。
ケヴィンは、かつてミランが自分の口に下を入れたことがあると言っていたことを思い出した。そしてそれが嘘ではなかったことを、この時自分の口の中へ慣れたように入ってくる他人の舌の動きで確信した。
顔に似合わず、と言うべきか、本来の性格通りと言うべきか、ミランのそれは随分長い口づけだった。
「……食べてない?」
「ふっ」
怪訝そうに呟いたミランに、ケヴィンは顔に手を当てられたまま笑った。「第一声がそれか?」
「ソルベぐらい食べてから来るかと思った」
「なんだ、俺が来るとは思ってたのか」
「いや。実は全く思っていなかった」
「その割には感動が薄いな」
ミランは何も言わず、文字通り目と鼻の先にあるケヴィンの顔を見つめた。ミランの目は髪と似て色素が薄いが、その分瞳孔が際立っている。そして眼球の奥に輪を描くそれの縁に、よく見ると薄い桃色か紫色の滲みが見えた。これで生まれながらの造形であると言うのが信じ難い色使いだった。
「俺を慰めに来たのか?」
「言っただろ、俺はお前が信じてるほど優しくはない」
「じゃあ何をしに来たんだ」
「セックス」
ミランが目元を歪めたので、ケヴィンは額を軽くミランの額にぶつけた。浴室から漏れ出る湯気と、ミランの体から湧き立つ湿気でシャツが濡れる。サボンの匂いを感じた。街中の花の匂いよりも息がしやすい匂いだった。
「抱きたいって言っておいて逃げるなよ」
「……こういう流れでするのはあんまり本意じゃないんだが」
「一等地、夜景の見えるホテル、広くて清潔なベッド、明日は遅く起きていい。舞台としてはこれ以上があるか?」
「それ以外は全て最悪だ」
「俺も最悪か? ああ、そうだろうな」
ミランがすぐに口を開いたが、反射神経はケヴィンが優れていた。
「俺もお前が理解できない。お前がなんで俺に惚れたか、全く理解できない」
離れたばかりの口を動かしてケヴィンが言った。「言葉じゃ伝わりにくいんだ。特に俺みたいな人間にはな」
「だから抱けと?」
「抱きたいってお前が言ったんだ。抱くか抱かれるかって聞いたのに、お前は抱きたい、と言った。一人でカマトトぶるな」ケヴィンは目を細くして顔をもう一度近づける。「その上で俺はこの部屋に来た」
まるで殴り合うような強さで近づけていた顔を話す。ケヴィンの前髪は乱れていた。左目にかかっていた前髪がずれている。目元の傷がよく見えただろう。目元の隈などは元より隠しきれない。
それでも明らかに、そこには双方の同意があった。お互いの様子を見れば言葉より明らかで、あからさまな証拠があった。
「俺からのオーダーは一つだけだ、激しくしてくれ」
ミランはケヴィンの顔を、一体何がそんなに面白いのか、数秒見つめていた。それから
「善処する」
とだけ言った。
翌日、ミランが隣の部屋へ荷物を取りに向かったのは、出発予定の一時間前、午前十一時のことだった。
室内のテーブルは綺麗に片付けられ、昨夜天板を埋め尽くした食器とチップは姿を消していた。ただ書き残しのメモは二つ折りにされ、そこに館内三階にあるカフェテリアを自由に利用できる使い切りチケットが二枚挟み込まれていた。
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