第16話 素晴らしい休日(1)
オータム区には至る所に屋外プールがある。地熱を利用した公共の温水プールだ。
セントラルに行けば華やかで最新鋭のジャグジーがついたジムやプールがあるし、フロスト区へ行けば温泉がある。
オータム区はセントラルのように自然を切り開いて整地することをよしとせず、かといってフロスト区のように区外向けの人を誘い込むこに活発ではない。人の流動性はおそらく国内で最も少ない。
姉妹区のエイレー区は南部に位置し、同じような区政だが、どうしても花々に囲まれた妹に比べれば姉は寡黙で、山肌から降りてくる乾ききった風は花を枯らしてしまう。
それでもこの区の無口な住民たちは団結心があり、従って彼らの税金は彼らの健康と娯楽に投入される。屋外プールはその最たる例だ。この土地はどこも乾き過ぎている。だから水場を誰もが歓迎する。
陽が傾き出した午後に、ケヴィンは公共プールの一つにいた。理想的な休日の過ごし方だと言える。先週の土曜日は元恋人とデートをして、四日仕事をし、再びの休日。
昼近くまで眠って、そしてプールで泳ぐ。
セントラルでの入院生活中、久しぶりに泳いだ感覚は爽快だった。そしてこの日も、直線状のレーンが五つ用意された縦二十五メートルをひたすらに繰り返した。
温水のため、息継ぎや水をかく動作で水上にあらわになった肌にこそ冷たさを感じる。
何往復か流し、プールサイドに上がる。今まで泳いでいたプールを中心として、周囲にはより小規模でさまざまな形と深さのプールがある。大体が泳げるような深さはなく、誰もが臍のあたりまで浸かってくつろいでいる。
先客のいない四角形のプールがあった。足を踏み入れると膝までも水深がない。手前から奥へ向かって、床が一段下がっている。浅い方へ座って足を伸ばすと、このプールでの正しい寛ぎ方がそれだ。
濡れた前髪からぬるい水滴が滴り落ちるのもそのままに、ケヴィンはそのまま仰向けに寝転がり、静かに首元まで水へ浸かった。プールサイドの縁は直角だが、そう寝苦しい姿勢ではない。
胸元や首筋に、ときどき波が打ち付ける。目を閉じて、その感触だけを浴びる。
しばらくそうして微睡んでいると、クスクスと笑う声がした。若い声だ。それは中々止まなかった。
ケヴィンが目を開けた。すると、東の方から紫色が混じり出した淡い橙の空が見えた。
ケヴィンは目を動かした。すると自分が枕にしているプールサイドのすぐそばに、小さな鳥がいた。人に慣れているのか、ケヴィンと目があっても逃げようとしない。どころかチョロチョロと毛玉が転がるように跳ねて、近づいてくる。
それを見た別のプールにいる女性が、姉か妹か、隣で同じように水に浸かるよく似た顔の女性と囁き合う。クスクスと声がした。
ケヴィンは水に沈めていた上半身を起こした。水滴が散り、初めて小鳥がたじろぐような様子を見せる。
白い鳥だった。黒いのは目と足と嘴だけだ。本当に小さく、片手でもすっぽりと隠れてしまうだろう。
小鳥は差し出された節くれだった指を木の枝だと信じたのか、ほとんど躊躇いなくケヴィンの人差し指へ乗った。
「なんだったかな……」
この鳥を前にも見たことがある。実家のそばにある森で。その後すぐに名前を調べたはずだった。しかしもう何年も前のことだ。
ただ覚えていることもある。この鳥は冬に南へ渡ることはない。この時期にこの場所にいる以上、この鳥はこの土地で冬を越すのだろう。
「こんなところにいて、飽きないのか?」
小鳥は全身で転がるように頭を振った。首を傾げたのかもしれない。ケヴィンが目を細くすると、また前髪から水滴が垂れた。
ゆっくりとプールから上がると、ケヴィンは近くに立てられていた赤い旗付きのポールに向かって指を軽く振った。小鳥はその勢いのまま飛び立った。
「お友達?」
一連の戯れを見ていたのだろう、姉妹たちがケヴィンに笑顔で尋ねた。彼女たちはケヴィンの顔の傷を見ても驚かなかった。ケヴィンもまた、「古い知り合いでね」と笑顔で答えた。
シャワーを浴びてロッカールームへ行くと、畳んだ服の上に置いた携帯画面に通知バナーが浮かんでいた。
『鶏を切ってくれないか?』
メッセージ受信。送信元はイゼット・ウィンター。
ケヴィンは思わず顔を顰めたが、立て続けにもう一件メッセージが届く。先ほどのメッセージもつい二分前だ。
『骨つき。首と皮と内臓以外が揃っていて持て余してるんだ』
『腹に適当なハーブ刺してグリルに突っ込め』
『美味しそうだ。君のコテージにいるからハーブだけ買ってきてくれ』
それきり、ケヴィンが返したメッセージに返信はされなかった。既読表記だけは即座につくため、読んでいて無視しているのだろう。
元より帰りがけ夕食を調達するつもりだった。だがそれは、プロの料理人が作った料理を買い求めるつもりで、心地よい疲労感にみなぎる体へさらに苦痛を強いてまでグリルチキンに挑戦するものではない。
だがケヴィンは結局適当なハーブと大粒の塩胡椒をいくつか買ってコテージへ戻った。全ての行動と考えうる結果のうち、それが最も穏当で手間が少なかったからだ。
イゼットはコテージの玄関前に張り出したデッキに座り、ぼうっと葦の原を眺めていた。すぐそばにクーラーボックスが置いてある。
目と鼻の先をわざわざ横切った黒いランドクルーザーから降りてきたケヴィンの表情を見て、イゼットの第一声は実に爽やかな「やあ」だった。
実際、夕陽を浴びて枯れ葉が転がる庭先で黄昏れるイゼットが絵画のようだった。ただ一つ、その美男子が首無しの鶏肉を抱えてアポイントもなく押しかけてきていなければ。
「君のことだから大概此処にいると思っていたんだけどね」イゼットはクーラーボックスを持って立ち上がった。「髪が濡れてるね、泳いできたのかい?」
「ああ」
「もう冬だっていうのに健康的だ」
「その健康で文化的な休日を最後の最後でぶち壊してくれてありがとう」
「どういたしまして」
幸いにと言うべきか、不幸にもと言うべきか、コテージには小さいながらグリルがあった。
イゼットが持参した鶏肉はクリスマスのコマーシャルでよく見るようなそれだった。メッセージではひどく扱いづらいと言わんばかりだったが、実際には処理は全て終わっていて、骨も太い数本を除き、全て肉から切り離されていた。
キッチンのシンクで手を洗い、買ってきたばかりのハーブ類を適当な大きさに千切る。イゼットは勝手知ったるとばかりにテレビの電源をつけた。
「これは買ったのか?」
「まさか。貰ったんだよ、何度か演奏させてもらっているレストランでね」
「演奏させてもらって、鶏肉も貰えるのか。儲けてるな」
「うん? 嫉妬してるのか、ケヴィン」
「無駄口を叩く暇があるなら庭の草むしりでもしてろ。今夜床で寝たくなけりゃな」
「草を抜いても仕方ないだろ、この寂れた風景がいいんじゃないか」
「道楽者の言葉だな」
「皿洗いは僕がやるよ。それでいいだろ?」
ケヴィンは舌打ちをした。それはイゼットに対してではなく、シンク下の収納に仕舞われた皿の数に対してだ。コップが二つと、皿は三枚しかない。どれだけ無駄に皿を使ってもイゼットは五分で洗い終えるだろう。自分の心労とは到底釣り合わない。
割り開かれた薄桃色の筋肉質な鶏むねにハーブを適当に詰め込んでいく。食糧店の店員に勧められるままカゴに入れた米も同じように葉にくるんで押し込む。焼いている途中で肉とハーブから味と水分が染み込み、熱が通る。
もうそれ以上触る必要はない。
もう肉に触らなくていい。
あとは表面に油を塗り、スパイスを振りかけて、余ったハーブで周りを囲む。邪教の供物のようになった鶏肉をグリルへ入れると、火力のスロットを回す。初めて使ったが、黒いスモークガラスの奥でグリル室は鮮やかなオレンジ色の光に染まる。
「どこに行くの?」
リビングを出たケヴィンの背中にイゼットの声がかかった。電気のついていない廊下はもう薄暗い。日が出ている時間が短くなると、夕暮れの時刻は極端にはやく過ぎてしまう。
ケヴィンは細い廊下を挟んで目の前の扉から寝室へ入った。キッチンと床続きのリビングよりは当然手狭だが、ダブルのベッドを中央に置いても両脇のクロゼットを開けるのに苦労はない。それだけの広さはある。
当初から備え付けのクッションが三つと、毛布やブランケットは適当に分配すれば十分だろう。その上で発生する問題は、ケヴィンが解決すべき問題ではない。
開けたままの寝室のドアからリビングの光が差し込んでいる。寝室の電気はつけていない。
ケヴィンは自分の背後にイゼットが立っていることに気づいていた。
「広いね」
イゼットが言った。全く平坦な声だった。「君と僕が寝ても大丈夫そうだ」
「悪いが、これは家主用だ」
「そんな付き合いたてのカップルじゃないんだから」
「起き抜けにお前の髪に首を絞められるのはもうごめんだ」
「強情だな」
ケヴィンが畳もうとしていた毛布の端にイゼットが腰掛けた。思いがけない重さにケヴィンの手から柔らかい布がすり抜ける。
「それとも、身を固めたのかな?」
「何の話だ」
イゼットはベッドに腕をついて肩をすくめた。そのまま寝てしまいそうな気怠い視線をケヴィンへ向ける。右側の頬だけが廊下から漏れる光で粉をはたいたように輝いている。
「アーキテクト君の押しに負けたのか、カデシュ君とよりを戻したのか。僕としては後者と睨んでいるんだけど、どうかな」
「お前、チェロを辞めて今度は探偵になるのか?」
「勘だよ」
「当てにならない」
「水を買ってこなかっただろ」
と、イゼットが言った。自分の顔の輪郭に手を添えて、まるで顕微鏡の倍率を操作するように指先が頬を撫で、止まる。目はケヴィンを見据えている。「コップを二つ出して、洗わなかった。最近二つとも使って洗ったことがあるから。水ももう補充してある。でも塩胡椒は置いてない。人を招いたけどコーヒーを出して帰っていった。オフの日も外食が多い。それから——SNSでカデシュ君行きつけのケーキ屋が話題になってる、その写真に君が映り込んでいた」
「悪かったよ。お前は探偵になれ。ISCを辞めたら事務はやってやる、一日四時間、週五日。土日祝日は休み」
「なら、今すぐ仕事を辞めてくれ」
「ホリデーシーズンも休みだ、残業はなし。ボーナスは最低年に一回、三ヶ月分」
「いいよ」イゼットは慶応に微笑んだ。「さあ、ISCの人事に連絡をして」
「随分気前がいいな。俺に借りでもあるのか?」
ケヴィンは鼻で笑ったが、イゼットはそれに笑顔を返さなかった。
イゼットはケヴィンに隣へ座るよう言った。中途半端に畳まれたままの毛布もそのままに、ケヴィンもベッドに座る。ベッドが軋んだ。マットレスは上等だが、骨組みは明らかに年代物だ。勿論悪い意味で。
「手を貸して」
イゼットは言った。言っておきながら、言った時にはもうイゼットの手がケヴィンの手を捕まえていた。
「震えているね」
なんという事もなく、呆気なくイゼットは正鵠を射抜いた。一見してもわからないほど小さく、不規則に痙攣するケヴィンの手を自分の手に乗せて、蓋をするようにもう一方の手で挟む。「それに冷えてる」
ケヴィンはすぐに、目の前の男が、ただ一人の心の底からの友人とも呼べる男が、自分の致命的な記憶に関わっていることを確信した。
今までもそれらしい予感はいくつもあったのだ。だがそれは予感に過ぎず、その予感はどれもここまで最悪の確信に至るものではなかった。
あれだけ見事な鶏肉を、レストランが料理もせずに贔屓の演奏家に送るだろうか。
料理人が、料理もせずに、手も加えずに、それをプレゼントするだろうか。
もしそれがイゼットからの要望で、あんなに生々しいままで譲られたなら、そうまでして譲られた肉を、イゼットが扱いに困るのは筋が通らない。
イゼットはただ、ケヴィンの手が震えるかどうかを試すためだけに首無し肉を持ってきた。
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