第17話 素晴らしい休日(2)

 「医者に聞いたんだけれどね、記憶喪失には原因が二つあるそうだよ。脳に損傷を受けて物理的に記憶を失ったり思い出すプロセスが実行できなくなるものと、脳自身がその記憶を思い出さないように故意に頭の奥に仕舞い込むもの」

 イゼットの両手がケヴィンの手をひっくり返した。

「君は交通事故にあったが、体に大きな怪我はなかった。脳にも損傷はなかった。でも君は記憶喪失になった。ここ一年ほどの、中途半端な期間の記憶だけが思い出せない」

 指と指の隙間を、自分ではない人間の指が埋める。

「脳が自分で行う記憶喪失にはトリガーがあって、その人が受け止め切れるストレスを超えた時に、引き金が引かれるんだって」

 笑い声がした。リビングのテレビがつけっぱなしだ。誰もいないリビングは電気がついていて、二人いる寝室には電気がついていない。

 もう日が暮れた。寝室の中は澱んだ紫色の暗がりがとぐろを巻いている。

 グリルの中で肉が焼かれていく。まだ焼き上がってはいない。肉から汁が滴り、鉄板に触れて泡立つ。

「あの事故が最後の引き金になったんだね、でもあの事故はただのきっかけに過ぎない」

 君はとっくに。

 イゼットの口が言葉を言い切る前に、それは黄金色の髪の向こうへ掻き消えた。

 ベッドが激しく軋んだ。床も軋んだ。板張りの床に、おそらくベッドの脚痕がついたことだろう。だがそのことに気を払ったものはいなかった。

「俺は誰を殺した?」

 ケヴィンは自分が冷静を保っていると信じていた。手の震えは止まっている。イゼットが離さなかった右手はそのままに、左腕一本で肩を突き飛ばし、押さえ込むのは容易だ。

「知っていることを全て話せ。イゼット、お前の為だ」

「……お前の為、とは大きく出たね」

 イゼットもまた平静のままだった。暗い色のシーツと毛布が絡まった上に長い髪が花びらのように広がっている。いくつかは二人の腕に絡みついていた。解けないのは、二人の肌の温度と湿度のせいだ。

 アハハ、と作ったような笑い声がした。テレビだ。夕方の子供向けの短いドラマか何かだろう。間違いなく二人以外には誰もいない。

「君が僕に何をしても、それは僕の為にはならないよ」

「なら俺の為に話せ。友達だろ?」

「それが君の望みならそうするさ」イゼットは苦しそうに眉を寄せた。肩に感じる圧力がそうさせたのだろう。「だが忘れるなよケヴィン、君が今知ろうとしていることは、君自身が受け止められずに君自身で忘れたことだ」

「言え」

「僕は——」

 イゼットが何か言おうとしたが、ケヴィンが黙らせた。繋いだ手を握る。容赦なく。けれども一瞬だけ。傷つけたいわけではないのだ。脅迫もしたくはない。だが、そういう手段があることは明かさねばならない。

「イゼット、質問の答え以外は聞きたくない」

 アハハ、とまたわざとらしい笑い声がした。今度は中々止まなかった。

 けれどもいずれ笑い声は聞こえなくなった。イゼットの喘ぐような息遣いが代わりに聞こえた。

「君は」

 イゼットはもう鼻がぶつかる距離のケヴィンから目を逸らさなかった。その美しいヘーゼルの瞳が語っていた。

 もう分かっているんだろうと訴えていた。

「僕の——妻を殺そうとした」

 

 妻。

 イゼット・ウィンターの妻。

 純白のドレスを纏った歌姫。

 巨大な惑星のように美しいステージに立ち歌う人魚姫。

 あの悪趣味なシンデレラ城の城主。

 あの女。

 あの。

 あの。

 あの。

 あの人間。

 あの動物。

 あの哺乳類。

 あのいきもの。

「ケヴィン、しっかりしろ」

 あのいきもの。

 四足歩行のいきもの。

 毛の長いいきもの。

 目が二つあるいきもの。

 あのけもの。

「しっかりしろ!」

 衝撃がケヴィンの後頭部を柔らかく襲った。ぞっとして、そしてはっとする。

 いつの間にか位置が変わっていた。ケヴィンは自分がベッドに仰向けに寝ていることを理解した。病院で目を覚ました時のように、一つ一つを理解した。

 視界のほとんどにイゼットがいた。秀麗な眉を歪め、ケヴィンの左右の肩を両腕で押さえつけている。長い髪が天蓋のように流れ、カーテンのように光を遮っていた。二人の顔は完全な暗がりの中にあったが、お互いの表情ははっきりと見えた。

「……イゼット」

「なんだい」

 ケヴィンは目だけ動かした。鈍く眼球の奥が痛んだ。しかし瞬きすれば癒された。瞼と、そして長い髪がもたらす影がひどく心地よく染みる。

「思い出せない……」

 その声を聞いた時、イゼットの表情がひび割れた。イゼットは目を見開き、そしてほとんど何も見えないほどに目を細くした。唇を噛み締めて、それ以上どんな感情も顔にあらわれないように必死に抑え込んでいるようだった。

「俺が、お前の家を壊したのか?」

「違う」

「俺はあの女を殺したか?」

「殺しちゃいないさ、彼女は元気だよ」

「俺は誰かを痛めつけたか?」

「かもしれないね」イゼットは極めて慎重に笑った。「でも君が一番ボロボロだ」

「イゼット」

「なに?」

「俺はお前を不幸にしたか?」

 それだけは確かめなければならなかった。イゼットが例えば今までの全てを、迫真の演技によってついた嘘だったとしても構わなかったが、この事実だけは確かめなければならなかった。他でもないイゼットにしか答えられないし、確かめようのないことでもあった。

 イゼットは虚をつかれたようだった。彼の顔から目に見えて力が抜けた。

 かたく縛っていた糸が解けたように、イゼットは久しぶりに本来の笑顔を浮かべた。

「いつだって君は僕を喜ばせてくれるよ」

 ケヴィンは目を閉じた。自分が目覚めた後に受けた検査を、できるならイゼットにも受けさせたかった。科学技術で、数値として、イゼットの言葉が間違いないという証明を求めていた。自分の記憶喪失を裏付けてくれたあの薄っぺらいカルテを求めていた。

 様々なことが走馬灯のようにケヴィンの脳内を行き過ぎた。妄想に過ぎないといえばそれまでの、そしてどれもが最低最悪のドキュメンタリー番組が立て続けに流れた。観客はそれを見て手を叩いて笑っていた。

 最後に思い出したのは、無人になったあのシンデレラ城だった。誰もいないのに部屋の明かりがついていて、イゼットが玄関の鍵を開ける。その後ろ姿だ。

 フロスト区の暗く冷たい夜。荒れ始めた庭にしぶとく咲いていた薔薇。

 イゼットの車はジープだった。だがケヴィンは知っていた。彼が結婚して間も無く、セダンを買っていたことを覚えていた。イゼット・ウィンターのきらびやかな功績はあの頃輝いていた。その隣に寄り添う花嫁は硝子細工のように自らも輝きながら、イゼットの光をさらに強くした——するはずだった。

 ケヴィンが家庭を壊したのかと聞いた時、イゼットは否定した。真に受けるなら、イゼットとアリエルの離婚の理由にケヴィンは関係ない。

 だが、ケヴィンはアリエルを殺そうとした。結果としてそうならなかっただけで、それを考えていた。やつれるほどに考えていた。

 この二つの事実が無関係で、別の宇宙での出来事だなどと言われて信じられるほど、ケヴィンは信心深くはなかった。神など信じていない。宇宙人も信じていない。

 起こりうる出来事は全てが繋がっている。互いに影響しあっている。なににも侵されずにはいられない。

 それでも、よりにもよって自分が立てた波が打ち付け、傷をつけるのが親友が暮らす美しい岩礁だなどと、到底受け入れられなかった。

「ケヴィン、僕は嘘はついていないよ」

 イゼットがケヴィンの肩から首元へ手を滑らせた。襟足の髪をかきあげ、耳の裏をくすぐる。痛みきって硬くなった髪の毛を目元から退かす。

「君はいつでも僕に幸せを与えてくれた。僕が君の友人だというだけで、君は驚くほど僕に親切だった。それは僕たちが出会った頃から今日まで変わらない」

 イゼットが左目の傷跡に口で触れた。前髪を払う指つきは拙かった。初めてイゼットがケヴィンの額に口付けるために前髪をどかした八年前よりも、今日の方がよほど覚束なかった。

「君に友人が少ないことを僕がどれだけ幸運に思っていたか、君は知らないだろうね」

「……馬鹿言え、俺もお前も、友人には困らなかっただろ」

「でもその大勢いる友人の中で誕生日を知ってるのは、僕には君だけだし、君には僕だけだ」

 キッチンの方から甲高い音が鳴った。グリルのタイマーがゼロの位置まで戻ったようだ。

 ケヴィンは身を起こそうとしたが、イゼットが退かなかった。仰向けになり、ベッドの外へ足を投げしたケヴィンの腹に半分乗り上げている。

「だからこれは僕からの友情として受け取ってくれ」イゼットが喋るたび、上唇がケヴィンのそれとぶつかった。「あの若い子たちで遊ぶのは止めておいた方がいい。彼らは永遠に僕に嫉妬するだろうし、君はどうやっても僕のところに戻ってくる」

 ケヴィンは何も言わなかった。イゼットの唇は湿っていた。何か塗っているのかもしれない。ケヴィンにもそういう時期があった。全神経を集中するときに、たった一つでも雑念が入らないように。

「あの子たちが悔しがるのは人生経験ということで構わないけれど、君が心を痛めるのは友人として見過ごせないからね」

「……その友人が腹を空かしてるのは見過ごせるのか?」

 ケヴィンの切り返しにイゼットは安堵したようだった。打てば響くという当然の出来事の流れが心地よいらしい。

「君はあれから僕を頼らないし、そうこうしてるうちにまた若い子と楽しんでいるんだから、困ったよ」

「まだ聞きたいことが山ほどあるんだが」

「聞かせてあげるよ、なんでも。でもそれは今じゃない」

 イゼットは額をケヴィンの額に押し当てた。ケヴィンは認めざるを得なかった。自分の奥歯が先ほどからカチカチと音を立てていることに。そしてイゼットがその音を聞いていることに。

「食事にしよう。その後はあたたかいものを飲んで、君の好きな映画を見て。熱いシャワーを浴びて、気が向いたら同じベッドで、気が向かないなら僕はソファで寝るから。君は目覚ましをかけずに寝るんだ」

 イゼットがゆっくりと上半身を離した。長い髪がゆっくりと上がっていく。舞台の幕開けのように。

 そしてリビングから漏れる光が久しぶりにケヴィンの顔に当たった。光が肌にさす感触があった。香辛料とハーブの匂いが寝室にまで漂っていた。

「いい休日だね」

 イゼットが手を差し出す。立ち上がるためにそれは必要不可欠なものではなかった。だが、ケヴィンはその手を取った。驚くほど熱い手だった。

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