第15話 ミスター・アンパーフェクト(2)
それはドミトリがケヴィンとまだ恋人だった頃の話だ。二人が恋人だった最後の日のことでもあった。
ケヴィンの両目には数ヶ月前から濃くなるばかりの隈があり、左目の傷はまだ生々しい湿り気を残していた。
オータム区の区境、ろくな店もない下道沿いにあるコテージをドミトリは訪れていた。前日は仕事の都合でケヴィンと会っていたが、その日は仕事がなかったために自分で足を運んだ。
まだ日が昇り切らない時間にバイクを走らせてコテージの横につけた時、年中長く伸びている葦が揺れる向こうに、ぽつんと立っている男がいた。
ドミトリは声もかけずに近づいた。バイクの音で来訪は気づいているはずだった。それなのに向こうは振り向きもしないのなら、声をかけても無駄だろうと思った。
近づくにつれて、ドミトリは朝凪を超えて葦の群れのさらに向こうから吹いてくる風に異臭を感じ取った。
そしてドミトリはケヴィンが、俯くようにして立っていることに、彼の足元に何かが置かれていることに気づいた。
それは鍋のようだった。寸胴鍋らしくだいぶ大きいが、既に廃棄されたものを拾ってきたのか、ひどく汚れていた。
「ケヴィン」
ドミトリはほとんど真横に立って呼びかけたが、ケヴィンは何も言わなかった。ケヴィンは黒い半袖のシャツにジーンズ姿で、手に腕時計を持っていた。
「何をしてるんですか?」
「実験」
料理、と言ったらどうしようかと思っていたので、ドミトリは内心ほっとした。料理に好き嫌いはないが、しかし、覗き込んだ鍋の中にあるものを口に入れたいとは思えなかった。
「……どこからこれを?」
「道路」
ドミトリは自分が通ってきた下道を振り返った。この辺りは未開発の自然もそのままだ。道路には一定間隔で“動物注意“の警告標識があった。
鍋の中に入っている、毛がまだ少し生えたままのピンク色の物体——狸か、あるいは狐?——は、そこから拾ってきたのだろう。おそらく既に不幸な轢き逃げにあったものを。
そこまで考えたところで、ふっと空気の緩みをドミトリは感じた。
見れば、ケヴィンがドミトリを横目で見て笑っていた。目元の傷と隈の所為で、まるで皮肉げな笑みになっていたが、それが本心からの頬笑みであるとドミトリは察した。
「嘘だよ」ケヴィンは掠れた声で言った。「肉屋で買ってきた」
「驚かせないでくださいよ、動物愛護団体に電話するところでした」
「毛を剥ぎ取られる前の肉を取り扱ってる店があるんだ。猟銃団体と提携している。これは加工前の肉だ」
「今夜は」ドミトリは流石に鼻を手で抑えた。「これでシチューを?」
鍋の中の肉はもうほとんど尖った角は落ちて、今も小さな泡を立てながら火もついていない鍋の中でひとりでに浮き沈みしている。鍋の中の液体は透明だがまさか水ではないだろう。肉はおろか骨までが溶けているあたり、強アルカリ性の薬剤だろうとドミトリは思ったが、尋ねなかった。
「三時間経ったが、全然溶けないな」
ケヴィンは手に持った腕時計と鍋を見比べて呟いた。「こんなものか……」
ドミトリは何も言わなかった。何かを尋ねて、その答えがどんなものであったとしても、ドミトリがすることは変わらなかったからだ。何故こんなことをしているのか、何をしようとしているのか、色々と興味のあることはあった。
その質問に対して、例えば最悪の回答がなされたとき、ドミトリの気持ちに関わらず、ドミトリには義務が発生する恐れがあった。——そしてその義務は、ドミトリにとってひどくつまらないことだった。
だからドミトリは聞かなかった。雨季が過ぎて、日中の気温は高いが、早朝はまだ風が冷たいほどであるのに、三時間もただここに立ち尽くしていたケヴィンの手を握っただけだった。
「ドミトリ」
ケヴィンが口を開いた。視線は鍋の中に向いていた。「別れてくれ」
ドミトリは驚かなかった。「理由を聞いてもいいですか?」
そもそもこのひと月ほど、それから前も、自分と目の前の男が恋人らしいことをしたつもりはなかった。恋人らしいことはそれなりにしたが、そのどれもが恋人でなくとも出来ることだった。
だからこそ、ケヴィンが真っ当に自分と別れようとしていることが不気味だった。
「予定ができた。忙しくなる、しばらくは勝手に会いに来るな」
「予定?」
「人を殺すかもしれない」
ケヴィンは気ままな口調で言った。「ああ……」顔を上げ、首を鳴らした。「折角来たんだから、セックスでもしていくか?」
あたりには異臭が漂っていた。肉が溶ける時にたつ泡の音、薬剤の臭い、土と、植物が放つ青臭さ。
ドミトリは自分があの時どんな顔をしていたか分からない。鏡を見なくとも完璧に自覚できる自分の表情が、あの時だけは全く分からない。
だからドミトリは後悔していた。
あの日。
恋人最後のあの日。
あの時。
「——あの時抱いておけばよかったなー、と思うんですよ」
黙って回想に耳を澄ませていたケヴィンは目を開けた。椅子にだらしなく座ったまま横目でドミを見る。胡乱と。
「そういうオチか?」
「だって、結局一度も抱かせてくれなかったじゃないですか」
「じゃないですか、と言われてもな」ケヴィンはため息をついてベンチに座り直した。「お前を抱いた覚えもない」
「それはそうですよ、俺だって抱かれてませんし」
「よかったな。尻は大事にしろ、金の次に」
「抱いたことも抱かれたこともないので恐縮なんですが、×××を××××されるのがすごくいいって本当ですか?」
「なんでそれを俺に聞いた?」
「経験があるご様子だったので」
沈黙。
フー、とケヴィンが先ほどより大きなため息をついた。離れていても聞こえるような大きなそれに、ドミトリの髪の毛先が揺れる。
ベンチに並んで腰掛け、顔を見合わせている二人はこの日初めて実に恋人らしい様子だった。片方が笑顔で、もう一方がひどく白けた顔であったとしても。
「ドミトリ」
「はい?」
ケヴィンが指でさらに近づくことを求めた。
ドミトリが肩をすくめ、ケヴィンの方へ顔を横づけるようにさらに身を寄せる。
ケヴィンは鼻先がぶつかりそうな距離に近づいたドミトリの右耳を見た。イヤリングもピアスもつけていない耳に、柔らかくウェーブする黒髪をかけてやる。
遮るもののなくなった形のよい耳殻へ、ケヴィンは口を開いた——そして閉じた。
ケヴィンの歯が耳の軟骨の感触を感じたように、ドミトリの耳も他人の歯の硬さを感じたのだろう。
反射で身じろいだドミトリの体をケヴィンはごく自然に腕に抱いた。声を上げないことを感心する気持ちが半分、声を上げないことに競争心のようなものが半分。
まだ冷めやらないテイクアウトのコーヒーを飲んだばかりの舌を捻じ込んではじめて、ドミトリの肩がケヴィンの肩にぶつかった。腰に巻きつけた腕の力を強くする。ドミトリは随分鍛えているようだ。しかし当然。ケヴィンほどではない。思わずクッと喉が笑う。
口を離し、耳にかけていた髪を戻してから、ケヴィンは「どうだった?」と聞いた。
「……どう、というのは?」
「俺なりの謝罪の気持ちだったんだが」
「人の耳を弄るのが?」
「加減してやっただろ。本気でやっても良かったんだが」ケヴィンは周囲を見渡した。簡素な庭があるだけだ。すぐそばの建物の窓から板張りの通路が見えた。「ああ、資料館の中にトイレがあったか?」
「自分がこんなに他人に腹を立てられるんだと驚いていますね、今、とても」
「それは良かった。人生何歳になっても新しい発見があるものだ」
「あなたの考えていることが」
ドミトリがかすかに顔を上げたが、すぐに項垂れた。額を手で押さえる。首だけでは支えきれないようだ。「本当に分からない、あなたが考えていることが」
「仕方ない奴だな、教えてやるから耳を貸せ」
ケヴィンが顔を覗き込むように屈み込むと、ドミトリの見たこともないような冷めた目と出会った。いつもは優しげな黒い幕で覆われている剥き出しの焦点はケヴィンの顔に定められている。
そのままドミトリがケヴィンの顎を掴み、軽く引き寄せた。
「ほら」ドミトリが言った。「俺たちはこんなに上手くやっていけたのに、あなたは何を考えているんですか?」
池の方で立て続けに水が跳ねる音がした。一瞬ケヴィンは誰かが来たのかと疑ったが、やはり周囲は無人だった。
「仕事も金もあって、俺とくだらないクソ映画見てるだけじゃ退屈ですか? そんなに実験したけりゃ俺の部屋で豚でも鶏でも煮込んでればいいじゃないですか」
「クソ映画って言うな」
「薬剤臭くなった部屋で俺を抱きたいならどうぞ。その代わり同じだけ俺にも抱かせてくれれば結構ですので」
「いい男だな、お前」
「そのいい男をあなたは振ったんですよ」
「逆だ。お前がいい男だから振った。俺は健気で控えめで不器用な男だ、わかるだろ。お前が下衆だったら今頃シンナー風味のシチューでもてなしてやった、だがシャイな俺に出来るのはお前にケーキを奢らせて耳の穴に舌を突っ込むだけだ」
ドミトリは力なく首を振った。前髪を手で掻き上げる姿は、どれだけ稚拙なカメラで撮影しても雑誌のページを飾ることができただろう。
「俺はお前を気に入っていた。今の俺がお前を気に入っている以上に」
ケヴィンに言えるのはそれだけだった。ドミトリの質問に対する答えとして、確実に言えることはそれだけだ。それ以外のことは全て憶測に過ぎず、言ったところでドミトリ自身が信じない。お為ごかしも社交辞令も不要だ。並べ替えられる言葉で何を言っても、音でしかない声で何を伝えても、それは子供の夢物語と大きく変わらない。
ただ確実なことは、ケヴィンはドミトリを遠ざけた。そしてケヴィンの顔についた傷も隈も、ドミトリの顔にはついていない。
彼の顔にあるのは、完璧な直線に位置する黒子だけだ。それをケヴィンは気に入っていたのだろう。
ドミトリほど完璧ではなかったが、ケヴィンもまた気に入ったものに囲まれていたいと思う。気に入ったものが誰より自分を気持ちよくさせるために、自分が気に入ったものがより良い状態で、より長く自分を囲んでくれるように。必要なら遠ざけて傷がつかないようにもするだろう。
買った本にカバーをかけるように、絵画を額縁に入れるように、過去を思い出に変えるように、誰もが同じようにすることだ。それはなにも珍しいことではない。
少しでも気に入ったものがあるなら、誰だってそれを大事にするために力を尽くすだろう。
ケヴィンは分かり易く伝えたつもりだったが、ドミトリは言われた言葉にただ困ったように笑うだけだった。
理解できない、とは言わなかったため、単に理解したくなかったのだろう。
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