第14話 ミスター・アンパーフェクト(1)

 冷めきったコーヒーを飲み干して、新しくテイクアウト用のコーヒーを買って店を出た。

 今冬の特別フレーバーらしいが、ケヴィンには先ほど店内で飲み干した生ぬるいコーヒーと違いが分からなかった。

 テイクアウト用のカップの側面にはシュガースティックと粉末クリームがセロハンテープで貼り付けてある。

 土曜日の眩しい昼下がり、突然街中にあらわれた人気バンドのギタリストに小規模などよめきが起こった。駅正面の大通りは若い男女が行き交っているのだから無理もない。

 真っ先に近づいてきたのは男女三人組だった。男が一人と、女が二人。全員同い年の学生だろうと思われた。存分に近づいてから「嘘?」と呟く。その一連の驚愕が彼らにとっての免罪符らしい。

 それからは次々に免罪符を顔に貼り付けた人々がドミトリを囲んだ。

「握手してください」

「先週の放送見ました、本当にかっこよかったです」

「年末のカウントダウンライブ応募しました、絶対に行きます」

「サインを!」

 雨のように降りかかる言葉の一つ一つにドミトリは笑顔で応じた。握手を求めた女性の手をそっと握り、放送を見たと舌を絡ませながら訴える学生にはあまり夜更かししないよう伝え、年末を指折り数えるバンドマンらしき集団には驚くべきことに、彼らが根白にしているライブハウスに言ったことがあると驚かせ、差し出されたサインペンが油性であることを二回も確認してから、白いTシャツの胸元に数学記号のような字体でサインを書く。

「それでは。皆さんもどうか今日を楽しんでください」

 サインペンの蓋を閉じる。まるで今日ここでファンとの交流会が開催されることをずっと前から計画していて、それは先着五名のサインを持って終了することが決まっていたように、ドミトリはそこで一切の対応を切り上げた。

 一歩下がった位置からゲリラ会場を眺めていたケヴィンはそこでようやく動き、この素晴らしい土曜日を笑顔の素敵なギタリストと共にしようと願った男女の間に割り込んだ。

 彼らは親の敵を見るような目をケヴィンに向けた。が、しかし、ケヴィンの左目に走る傷とこれから葬儀場へ出向くようなスーツ姿を見るなり、曖昧な笑顔で引き下がった。

「行きましょうか」

 たった一人、高い防波堤の内側でのんきに波打ち際を歩くドミトリが言う。ケヴィンは大人しく従った。

 通りを駅から離れる方向へ進むと、やがて並木道のある交差点に出た。飲食店がまばらになり、図書館や役所などの公共施設が目立つようになる。人通りもまばらで、足取りは誰も急ぐ様子がない。

「いい天気ですね」ドミトリが木漏れ日に目を細くした。「こんな明るい時間に外を歩くのは久しぶりです」

「是非今後とも控えてもらえると助かるんだがな」

「こういう場合の随伴も契約の内では」

「俺はあくまで番犬であって、尻尾を振って飼い主を楽しませるのは仕事じゃない。そういうサービスをお求めなら、そういう犬種を選べ」

「そういう方々もいるんですか?」

「人類が滅亡するとなったら、うちの社員を十人ぐらい冷凍保管しておけば少なくともヒトの多様性は確保できるだろうよ」

 ISCは社長の下に総務や人事、経理、外交部といった各部門の責任者とその社員がおり、社員の半数以上がデスクワークで占められている。実際の現場に派遣される警備員は全体の四割だ。その中でチームを組まず単独派遣されるか、チームリーダーとして現場指揮をとるような上級派遣員はケヴィンを含めISCに十四名いる。

 そしてその十四人のうち、“上級“の職名に相応しいのは、常にチームリーダーを務めるような派遣員だけだ。

 逆に、いつもいつも単独任務を任されるのは、単独での職務遂行が可能であるという信頼と同時に「下手にチームを任せると損害が出る」という烙印を押された変人どもだ。二度の解雇歴があるフォックス・レイガイをはじめ、シーシャ、リード、アルペンサ……

 事故から目覚めた後、ケヴィンは記憶喪失を自覚した時に後任が誰になるかと考えたものだったが、今となってはシーシャ以外に碌な人員がいなかった。真っ当な上級員は自分のチームを持っているためすぐに身動きが取れない。これなら本部の警備課から真面目な社員を複数引き抜いた方がよほどいい。

「前にも言ったと思いますが、カタギリさんを指名したのはミランなんですよ」

 ドミトリが言った。「去年春の音楽祭の後、666の活動も単独で貰えるようになっていましたから、クイーンズレコードが手配するという話になったんです。それなりに長い付き合いになるからと、ISCから提示された派遣員の方々のカタログを私たちも見ました」

 当時のことを思い出したのか、ドミトリが小さく声を出して笑った。まあ、個性的な方々でしたね。何重ものオブラートに包まれた呟きは味がしない。ケヴィンは何も言わなかった。

「まあ、ミランが指名しなくてもクイーンズ側でもカタギリさんを選ぶつもりだったんでしょうけどね。クイーンズでの実績があったわけですから」

「まさかお前も、ママみたいに俺の付き合いに口出しする気か?」

「私は、別にカタギリさんとウィンターさんがどういう関係でも気にしませんよ。ああ、ミランとも、勿論ね」

「心が広いな、流石に俺と付き合えるだけある」

「褒めてます?」

「いや、馬鹿にしてる」

 並木道を抜けると、古い文化資料館が現れる。この国に議会制度が導入され、初代議長となった人物の私邸だったものを、遺族と自治体の協議で資料館に改築したものだ。広い庭は常時開放され、ほどほどに手入れされた池つきの庭は市民の散歩コースになっている。

 すぐそな、道路を挟めばなだらかな芝生に遊具つきの公園もあるため、こちらの資料館の庭はあくまで閑散としていた。人々は誰もがゆきすぎて、いくつかあるベンチはどれも無人だった。

 開かれた煉瓦造りの門をくぐり、池の前にあるベンチに座った。建物の影がすぐ背もたれまで迫っている。

「驚いていませんね、動揺もしていない」

 不意にドミトリが言った。ケヴィンは池を眺めていた。水底の泥に埋もれた微生物をこそぎ落としている魚を見ていた。

「何に驚けって?」

「結構な大ニュースを伝えたつもりなんですけどね。本当に記憶喪失なんですか?」

「医者はそう言ってるし、理学検査の結果もそう言ってる」

 ケヴィンは懐から煙草を取り出そうとしたが、その途中で庭の奥に建てられた看板を見つけた。ペットの糞便を持ち帰ること、敷地内で発火性のものを使わないこと、騒がないこと、酒を飲まないこと、そして煙草を吸わないこと。

「私の言うことを信じていない? それとも思い当たる節があるんでしょうか」

「お前は嘘をつかないだろ」ケヴィンは取り出しかけた煙草を内ポケットへ押し込んだ。「嘘をつかなきゃいけないほど追い詰められたことが、お前の人生であるか?」

「幸い今のところは」

「お前とよく似た目の人間を知ってる。人生の優先順位が決まってるやつは驚いたり狼狽えたりしない。欲張らないからだ。いらないものはすぐに捨てるし、赤の他人に同情しない。子供が泣いていたら、何時間でも涙を拭いてやるが、泣き止んだ後で平気で尋ねるんだ、ところでなんであの子は泣いてたの? って」

「ひどい話ですね」ドミトリは眉をひそめた。「俺の話をするために、わざわざ別の人を引き合いに出すなんて」

 ケヴィンは鼻で笑った。「そういうところだよ」

 水が弾く音がした。池のほうで魚が跳ねたらしいが、見逃したようだ。

「私の話を信じるなら、あなたは人を殺したことになるんですが……」

「お前は俺の話を信じるのか? 単にお前がしつこくて大袈裟なホラを吹いた可能性もあるだろ」

「それこそ嘘ならあなたはもっと平気な顔でつくでしょ」

「納得した」

 ケヴィンは背もたれに深くもたれた。首をそらし、顎を真上に伸ばす。晴れた空の色は薄い。今年の初雪は何時ごろになるだろうか。

「俺は誰を殺したんだろうな?」

「念のために言っておくと、あなたが轢き逃げに遭った前後で犯人未逮捕の殺人事件は起きていませんよ」ドミトリは人差し指で空気を混ぜた。「勿論、カタギリさんが完全犯罪をやり遂げた可能性もありますけどね」

「気が利くな。調べたのか?」

「そりゃ、カタギリさんが殺したいと思う相手なんて気になるじゃないですか。それに私が振られた原因でもありますしね」

「お前は人生楽しそうだな」

「楽しいですよ、いつだって」ドミトリはまるで二度目の人生を生きているように、静かな自信に裏打ちされた穏やかで言った。「人生の楽しみは自分で作り出すものですから。楽しいことにはなんでも首を突っ込んで、つまらないことはすぐに忘れることです」

 ケヴィンは初めて、記憶にない過去の自分と、今の自分が間違いなく一人の同じ人間だと確信できた。ドミトリ・カデシュを受け入れた自分の判断は、まさにケヴィン・カタギリが下した判断だ。この男は非常に魅力的で、そして非情なほどの胆力を持っている。

「俺が今まで何人と付き合ってきたか、俺はお前に話したか?」

「大勢ご友人がいるって話なら、飽きるくらい聞かされましたよ」

「さては頭がイカれてるな、お前」

「ギター弾いて公共料金払ってる人間に、まともな頭なんてありませんよ」

「いいじゃねえか。払えてるんだから」

「あなたは真面目な会社勤めだし、年に二回もボーナスがあるのに、どうしてそんなに頭がイカれてしまったんですか?」

 ケヴィンの閉じた瞼の上を風が撫でていった。前髪が流れて額が露わになったのを感じたが、直さなかった。ISCのボーナスは夏と冬の二回ある。隠すようなことではないが、わざわざ誰かに話すことでもない。それをドミトリは知っている。

「俺が人を殺したと思うか?」

 そう尋ねるケヴィンの声は平坦だった。むしろ子供にものを尋ねるような優しささえ感じることが出来た。わずかではあったが、ドミトリの声と抑揚が似ていた。

 ケヴィンは目を閉じていたため、この時ドミトリがどんな顔をしていたかを知る由もなかった。二人のいるベンチのそばを通りがかる人もなかった。誰もがもっと日当たりのいい場所で、茶化しあったり、笑ったり、遅いブランチをとっていた。

「わかりません」

 と、ドミトリは言った。彼らしくなく、隙間風のような冷たさを感じる声だった。

「現実的に考えれば、あなたが誰かを殺すようなことはないでしょう。完全犯罪は素人にはまず無理です。犯罪の発覚を送らせるなり、時効まで逃げ切る算段だとしても容易じゃない。何を目的にしても、殺人という方法を選ぶのは、その後たった一秒でも生きるつもりがある人間がとるべき手段ではない」

 乾いた音がした。誰かがベンチの背もたれを叩いたようだ。

「……ただ、あなたが誰かを殺したかどうかではなく、あなたが誰かを殺すことを考えていたかどうかという話なら、私は確信を持ってイエスと答えます」

 

 このときドミトリ・カデシュは思い出していた。

 丁度、資料館に遮られて彼の顔の顎の辺りまで影になった。目の前でベンチに深く座り、首をそらして目を閉じたケヴィン・カタギリは黙ったままだ。

 乾いた風と首筋に感じる冷たさが、ドミトリに一つの光景を思い出させていた。

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